■茶飯屋(ちゃめしや);葉茶の煎じ汁で炊いた飯。塩で味をつける。それを商う店。
川崎宿の手前に有った、当時万年(屋)と言う奈良茶飯しで有名な茶屋が有った。
奈良茶飯とは塩を少し加えた茶飯に炒り豆や焼き栗などを混ぜて、濃い煎茶を掛けて食べるもの。
■試し斬り;落語「試し切り」をご覧になってください。
■ムジナ;(狢・貉)アナグマの異称。混同して、タヌキをムジナと呼ぶこともある。混同してムジナ汁=狸汁。狸汁は大変旨かったようです。
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ニホンアナグマ |
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体長:オス56〜68cm、メス52〜59cm、尾長:オス12〜17cm、メス13〜18cm、体重:オス5.9〜13.8kg、メス5.2〜10.5kg |
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雑食性で、昆虫、軟体動物、カエル、ミミズ、果実などを食べます。 |
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毛色は薄茶をベースにした黒茶褐色です。中には黒味の強い個体も見られます。四肢と、のどから腹にかけては濃いこげ茶色をしています。顔面は白っぽく、目をおおうかたちでたてに模様があります。ムジナ、ササグマ、マミなど、地方によって呼び名がことなります。 |
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東京ズーネット、動物図鑑より
■お世取り(およとり);跡取り。世継ぎ。相続人。武家の世界では世襲制でしたから、男の子供が居るのが絶対条件。その為には養子をもらったり、側室に子供を産ませたりした。武家では、町娘でも男の子を産むと玉の輿に乗ることになります。
■「女ムジナ汁を食って玉の輿に乗る」;「女は氏無くて玉の輿に乗る」のもじり。女は生まれがよくなくても、容姿や運しだいで金持ちや貴人の妻になることもできる。
■太鼓持ち(たいこもち);幇間(ほうかん)。餅の一種ではありません。
■座頭(ざとう);盲人。当道座(盲人の官位をつかさどり、その職業を保護する組合)に属する剃髪の盲人の称。中世には琵琶法師の通称ともなった。近世には琵琶・箏・三味線などを弾じて、平曲などの語物(カタリモノ)を語り、歌を歌い、一方で按摩・鍼治・金融(座頭が幕府の許可を得て高利で貸し付けた)などを業とし、官位は実際上売買された。噺の中でも検校になるためにお金を持って行く、といっています。これも砂糖とは違います。
■検校(けんぎょう);当道座の四官(検校・別当・勾当・座頭)の一つで、最上位の位。15万石の大名に匹敵した権威と格式を持っていた。
■懺悔(ざんげ);罪悪を自覚し、これを告白し悔い改めること。過去に犯した罪を神仏や人々の前で告白して許しを請うこと。
■敵討ち(かたきうち);主君・近親・朋友などの仇(アダ)を討ち果すこと。江戸時代に最も多かった。仇討。復讐。
■200両;現在の価格にすると、1両=8万円として約1600万円です。それは大金です。
■手打ち;「手討」とも書く。 武士が、家臣や町人など目下のものを手ずから斬ること。
■貴方の嘘が大関;相撲の世界に置き換えて1番だと言った。当時の相撲の序列は横綱は名誉称号で、大関が最高位であった。
舞台の馬喰町を歩く
浅草橋の駅を東口で下りると、正面の大通りが”江戸通り”です。「人形買い」で来たし、浅草への出発点ですから「蔵前駕籠」や「松葉屋瀬川」等でも、何回もこの前の道路を歩いています。
また、正面の町は柳橋(町)ですから花柳界に関した噺はここが舞台になって「包丁」、「不幸者」、「一つ穴」、「干物箱」・・・、等があります。
今回はこの町には入らず、この江戸通りを南下します。
外堀としての機能を持っていた神田川に架かる浅草橋。江戸時代は浅草見附が有った所で、役人が常駐して江戸の守りに目を見張っていました。見附はここで敵の侵入を防ぐのも目的の一つですが、敵や悪人を見付けることが目的で、見附の名があります。浅草見附は水戸街道の喉首に辺り警備はキツかったと言い、浅草、吉原に抜けるメインの街道ですから人通りも多かったと言います。
この橋の下流(東側)には柳橋(町)の地名の元になった、隅田川に接する”柳橋”が見えます。その間に見える船宿には屋形船が繋がれていますが、落語の話の中では向島に花見や雪見に出掛けたり、浅草寺詣りや、その先の吉原に向かう船が出た所です。あの徳さんがお客を乗せて隅田川を三度回ったり、石垣にこうもり傘を刺したまま浅草に出発した所です。
橋を渡ると、右側には小さな植え込みと隣に交番があります。そこに郡代屋敷跡の説明板があります。江戸の深川・本所の干拓や町造り、代官として各奉行所で処理できないものなども、ここで審理させました。江戸市中にも多く貢献していたので、江戸の人々から讃辞をもって迎えられていました。
裁判沙汰になると、地方から出てきた人々は、ここ馬喰町に長逗留する事になりました。
先程の交番前の川と並行した柳並木の道が、柳原土手道で、江戸時代は古着屋が並んでいた所です。今は川も見えないほどのビルがぎっしり建ってその様な面影は全くありません。日本橋女学館も、この土手上に建っていることになります。
江戸通りは直ぐ二股に分かれますが、右側の方に向かいます。東西に走る靖国通りと交差する所に出ます。靖国通りは右側に、都心に入っていき皇居北側を抜けて市ヶ谷・新宿に繋がります。左はここから道路の名前が変わって京葉道路となり、両国橋を渡って千葉に向かいます。この交差点・浅草橋を渡って、馬喰町一丁目に入るととたんに衣料品関係の商店、問屋が町中を占めます。中には小売りしません、とか、素人お断りの看板が下がっています。この界隈、お隣の町まで衣料品関係の店で、ここに来れば何でも揃うでしょう。
下着から上着、帽子から靴下まで、化粧品からアクセサリー、包装紙から名入り袋まで、地方発送の宅配便もあります。
旅籠の町であったのが、現在は見付けるのに骨が折れるほど宿泊施設のホテルは多くありません。しかし、ここから東京駅まで二駅で行ける交通の便利さから、十数年前から比べると多くなったと感じられます。
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馬喰町(柳原土手跡)
日本橋女学館の校舎が見えるこの道を柳原土手と言った。浅草橋際から秋葉原まで神田川に沿った南側の土手には古着屋さんが多く軒を連ねていた。着物は反物で売買されるが、仕立てられた物も含め、古着と一緒に売られた。 |
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馬喰町(郡代屋敷跡)
馬喰町は旅籠屋の町でもありますが、浅草橋南より、この靖国通りをまたいだ郡代屋敷が有り、幕府の年貢管理、訴訟を扱っていた。江戸深川の開墾にも大きく関与していた。 |
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馬喰町(馬喰町交差点)
馬喰町の中心となる、馬喰町交差点。この地一帯が衣料品の問屋街になっています。柳原土手の古着屋さんが発展したとも言われます。今、ホテルの数では衣料品店に当然負けています。 |
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御茶ノ水跡碑(御茶ノ水駅西側)
慶長(1596-1615)の頃までこの地にあった高林寺と言う禅寺の一角から名水が出ていた。時の将軍にも差し上げお茶の水の名を与えられていた。外堀(神田川)掘削の折、その名水は残念ながら消滅した。 |
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御茶ノ水駅
写真右側の御茶ノ水駅は、中央線、総武線の乗換駅で、また、学生街の駅ですから終日混雑しています。神田川に架かる聖(ひじり)橋が優雅な姿を見せているその先を、地下鉄丸ノ内線が神田川を渡るため、一瞬顔を出しています。 |
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湯島聖堂(文京区湯島一丁目4 )
上記写真の聖橋を左に割った所にある、孔子を祀る所です。明治の初め、ここを大学として使われた。 |
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都電庚申塚駅(豊島区西巣鴨二丁目)
踏切が旧中山道。左に行けば板橋宿から京都。右に行けば、最初の交差点に庚申塚と、ジジババの原宿、とげ抜き地蔵と巣鴨駅があります。 |
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庚申塚(豊島区巣鴨四丁目-35)
江戸の庚申塚が今に残る珍しい塚(お堂)。都電の駅名にもなるほどの塚です。 |
2013年6月記
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