落語「試し切り」の舞台を歩く

  
 

 五代目 柳家小さんの噺、「試し切り」によると。
 

  白井権八と言う名人は遊興費ほしさに辻斬りをしたという。あまりにも腕が上手いので切られた方も分からずに三丁ばかり鼻歌を歌いながら帰り、家の近所に来たので曲がろうと体をひねった瞬間に真っ二つに割れた。そのぐらい上手い人に切られると分からないと言う。

 新身(あらみ)が入るとその切れ味を試したくなるのはごく自然なこと。わらの束を切るのでは物足りないし、動物では刀が汚れてまずい。そこで、夜、覆面をして伺っていると、年寄りが近づいてくるが、老人は先が短く不憫だからと見逃す。若いのがくると先があるのだからと見逃し、女が来るともったいないと見逃し、あきらめて、橋のたもとまで来るとコモをかぶった乞食が寝ていた。こ奴なら良いだろうと腰をひねって気合いもろとも切り捨てた。刃こぼれもせず良い刀であった。

 翌日その事を同僚に自慢すると、同僚も出かけていった。今夜も同じ所に乞食が寝ていたので、同じように気合いもろとも刀を振り下ろし、ツツツと2〜3間後ずさりをすると、乞食がコモを跳ね上げて、「誰だ、毎晩来て叩くのは!」。

 


 

 この噺は「首提灯」と言う噺のマクラの部分です。この後に本題に入っていきます。剣豪の小さん師の居合いはすごいもので、乞食を切るときの振りもさすがであった。この振りで有れば、鈍刀であっても真っ二つになってたはずであった。
 しかし、叩くのと切るとでは大違い。同じ痛いでも、毎晩気持ちよく寝ているところを叩かれるのには、それは痛いのを通り越して頭に来たであろう。

 この続き「首提灯」は次回書くことにします。続けてご覧下さい。

 

1.護持院が原(千代田区神田錦町2丁目江戸城寄り)
 
毎晩試し切りをされた乞食が寝ていた所。1690(元禄の頃)年代には護持院が有ったが、火除け地として原っぱになった。一番から三番明地まで出来て、二番明地(火除け地)が”護持院が原”と俗に呼ばれた。1860(文久の頃)騎兵当番所や馬場も出来たが、当然夜は暗くて寂しい場所であった。
 小さんは橋の欄干に寝ている乞食を・・・と、言っているので、この原に接している”神田橋”か”一ツ橋”で有ったかもしれません。隣町には”乞食橋”という橋も有った。

 

 上図;「護持院が原」 江戸版画より

護持院(ごじいん);護国寺の開山住職は亮賢と言って、五代将軍綱吉の母親桂昌院(当時お玉)を見て、「尊貴なる相で、測りがたい」と言った。お玉は江戸に下って大奥に入り家光に寵愛され懐胎した。亮賢も江戸の知足院にいて桂昌院を祈祷して、「御子は男子で将軍になる」と予言した。将来の綱吉で、ことごとく当たったので亮賢への信頼と帰依は揺るぎないものになった。幕府の薬草園であった高田薬園を白山に移し、その跡に護国寺を建てて亮賢を開山とした。
 湯島の知足院の住職が病気になったので、綱吉は亮賢をその住職にすえようとしたが、亮賢は大和の長谷寺の隆光を推した。隆光は学も処世術も持ち合わせていて、亮賢亡き後は亮賢の築いた地盤に乗って、綱吉、桂昌院の信頼を勝ち得ていった。
 綱吉は男子出産の祈願を命じたが、清浄な地に東照宮(家康を祀る宮)を祀りたいと願い、神田橋外に旗本、大名の屋敷12,3軒を取り払い、上野東照宮と同じものと別当寺・知足院を建てた。元禄元年(1688)隆光は落成の検分のおり、使用材が見劣りすると言う事で、本坊の建て直しを命じた。そのため、責任者の何人も島流しになったり、左遷された。同年11月落成して、大本山になった。それから8年後に隆光は大僧正になって、知足院は護持院と名を変え、実権も手中にした。
 隆光が得意としたものに天気を占い、祈祷は雨をやませ、地震を鎮める術であった。あまりにも綱吉ベッタリだったので弊害も出て、綱吉死後江戸から早々に大和へ帰され、一周忌にも呼ばれなかった。
 享保2年(1717)正月、宏大な護持院の七伽藍は火災にあって全て焼失し、その跡地は火除けの空き地になった。後年この地を護持院が原と呼ばれ、当然再建される事はなかった。
 「江戸奇人・稀才事典」祖田孝一編 東京堂出版より要約 2011.06追記

護国寺;縁起について護国寺のホームページhttp://www.gokokuji.or.jp/NewFiles/engi.html に詳しい。
護持院焼失後護国寺に合併されたが、明治の始め護持院は廃寺になった。

■護持院ヶ原の仇討;弘化3年(1846)江戸神田護持院ヶ原で、幕臣井上伝兵衛・松山藩士熊倉伝之丞兄弟を殺害した本庄辰輔(茂平次)を、伝兵衛の剣術の弟子小松典膳と伝之丞の子伝十郎とが討ち果たした事件。

 

2.新身(あらみ)
 新しく鍛えた新刀。どんなものでも新しいものが手中に入ると試してみたくなるのは自然の条理。自動車だったらドライブに、カメラだったら撮影に、パソコンだったらこのホームページに接続してみたり(?)それぞれ試してみたくなります。ところが、武器はどのように試したらいいのでしょうか。ピストルだったら、銃であったら、刀や槍や弓は、本物で試す訳にはいきません。残念(?)ながら。
 居合いをしている先輩に聞いたところ、刀で物を切ってはいけないそうです。どんな刀でも、束ねた藁を切っただけで刀のそりが歪むそうです。見る人が見ると直ぐ分かるそうです。実戦でチャリンと刀を合わせただけで、確実に刃こぼれするそうです。美術刀ではあっては為らないことのようです。江戸時代の後期、武士は実戦刀ではなく装飾として刀を差していたので、切ることを目的としなかったようです。切れ味も腕も柔だったのでしょう。

 

3.胴切り
 
この噺のマクラにはもう一つの噺があります。それは、
 武士をからかって胴切りになった町人がいた。胴から上は風呂屋の番台に奉公していた。足の方は清水町の蒟蒻屋に奉公して蒟蒻を踏んでいた。風呂屋でお客がこれから清水町に行く用事があるので、そのついでに 寄ってきてあげるから、言付けが有れば伝えてあげる、と言う。それではと「頭がのぼせるので、三里に灸をすえてくれ」と頼む。足の方にいくと黙って一生懸命踏んでいた。頭に鉢巻きと思ったら褌であった。灸の話を伝えると「必ずすえますが、やることがないと言って湯茶を飲み過ぎるな」と伝えてほしいと言う。どうしてかと聞くと、 「忙しいのにション便近くていけねェ」。
 過去にはバレ噺のように、胴から下が風呂屋の上半身に「女風呂ばかり覗かないように、褌が・・・」と、言った。下半身はどう困ったのでしょうかね〜。

 ■清水町(墨田区太平町1丁目)
 第44話「中村仲蔵」で出てきた報恩寺橋が架かっていた東側の町。

 ■三里の灸
 灸穴(きゅうけつ)の名。手と足にあり、手の三里は橈骨(とうこつ)小頭の外下方、足の三里は膝頭の下で外側の少しくぼんだ所。ここに灸をすると、足を丈夫にし、万病にきくという。

 


 

  舞台の護持院が原を歩く
 

 江戸城の北側を取り巻く堀が内濠川です。その堀の上を蓋しているのが、首都高都心環状線です。機能一点張りで都市の風情には全く馴染みません。この首都高は道路原標がある日本橋の上も通過していますが、いまだ地元の反対運動があります。 川の風情は完全に失せています。
 当時の風情が残っているのは橋の名前と橋から見る皇居(江戸城)の眺めだけです。護持院が原が有った所も超都心で近代的な高層ビルが林立して、小さな公園すら有りません。残念と言うべきか、進歩を喜ぶべきか。
 護持院が原が有った千代田区神田錦町2丁目にはノーベル賞で有名になったS製作所も有りますし、北側には神田警察署や東京電機大学が有ります。どちらにしても、夜、試し切りが出るような不用心な所はどこにも見あたりません。近くのJR神田駅には サラリーマン諸氏の憩いの場となって、深夜まで赤提灯がおいでおいでしています。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

   

護持院が原(千代田区神田錦町2丁目江戸城寄り)
神田橋と一ツ橋の間の橋が錦橋です。神田橋と錦橋の間が俗称護持院が原と呼ばれた。当時は錦橋は無かった。クリックした写真は錦橋(江戸城=皇居)を背に”錦町河岸交差点”を見ています。奥の方は神田駿河台で、JRお茶の水駅に通じています。右手方向が舞台の護持院が原が有った所です。 

神田橋(内濠川に架かる御成街道(本郷通り)の橋) 
 将軍が上野寛永寺に参拝に行くための御成街道なので見附橋になっていて警備は厳重であった。門外の町はみな神田と言われたので、神田口橋とも呼ばれた。内濠川はこの下流で、江戸城築城のおり、建築資材の荷揚げ場があり、特に鎌倉から石を運んできたので、鎌倉河岸と名前が付いた。内濠川は中央区日本橋浜町(高尾が切られた三つ又)で隅田川に合流したが、今は埋め立てられて、日本橋川として永代橋の所で隅田川と合流している。上流に一ツ橋が有 ります。
今の橋は大正14年(1925)に架設された。

一ツ橋(内濠川に架かる白山通りの橋)
大きな丸太が一本架けられていたので、一ツ橋と呼ばれた。橋の江戸城寄りに松平伊豆守の屋敷が有ったので伊豆橋とも言った。その屋敷あとに八代将軍吉宗の第四子徳川宗尹が、御三卿の一人として居を構えていた。そこで、橋の名を取って一 ツ橋家と称えた。神田側から橋を渡れば目の前が江戸城です。
現在の橋は大正14年(1925)に架設された。

                                                                                                            2002年10月記

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