落語「宿屋の仇討ち」の舞台を歩く
   

 

 三代目桂三木助の噺、「宿屋の仇討ち(やどやのあだうち)」によると。
 

 夕刻ともなると宿場では客引きに余念がない。三十二・三にもなるお武家さんが神奈川宿は武蔵屋さんの前に立った。名前を万事世話九郎といい、前日は相州小田原の宿では回りがうるさかったので眠れず、狭い部屋でも良いから静かな部屋をと言うことで、イタチと勘違いされた伊八(イハチ)に案内されて投宿した。

 その後に来たのが魚河岸の源兵衛、清八、喜六の江戸っ子三人連れ。金沢八景でも見物するのか懐は重く足は軽いという。しじゅう三人連れだからと挨拶して入ると、宿側は残りの四十名様はどうなっているかと言えば、我々は始終この三人連れだ。
 まるで火事場に来ているような派手な大声で、先ほどのお武家さんの隣の部屋に入った。良い酒と生きの良い肴を用意し、芸者を3人ばかり用意してくれとの注文。夜っぴて騒ぎ始めたが、驚いたのは隣の侍。
 手を叩いて「イハチー、イハチ〜〜」、「何のご用でしょう」、「入る時に言ったであろう。相州小田原の宿では・・・、間狭な部屋でもいいから静かな部屋をと」、「今は満室になっていまして、替わる部屋がないので、隣を静かにしてくるので、ここでご勘弁を」。

 隣の3人組に事情を話し、静かにと頼んだが、啖呵を切られて逆襲された。しかし、侍と聞いて芸者も帰し、布団を引かせ寝物語を始めた。
 江戸に帰れば相撲が始まるな。と言うことで、仕方話になり、立ち上がって相撲を取り始めた。残った相棒がお盆を持って「ハッケヨイ、ノコッタ、ノコッタ」。ドッシンバッタン、バリバリ、メリメリメリ。
 隣の侍、手を叩いて「イハチー、イハチ〜〜」、「何のご用でしょう」、「入る時に言ったであろう。相州小田原の宿では・・・、間狭な部屋でもいいから静かな部屋をと」、「今は満室になっていまして、替わる部屋がないので、隣を静かにしてくるので・・・」。

 「今度は大丈夫。静かに寝るから」。「力の入らない話なら良いのだ。女の話なら良いが、そんな奴は居ないよな」、「冗談じゃない」、「源ちゃん出来るのかい」。
 「『人を2人殺めて、金を300両取って、この方3年分からない』と言う色事はどうでぇ〜。俺が3年前脚気で体を壊し、川越に養生に行っていた。そこが小間物屋だったので手伝っていたが、ある時石坂さんという武家の家に品物を届けた。ご新造さんが出てきて、『上がってくりゃれ』というので上がり込んだ。話をしていて気が合ったのだろう、ふとした事から割れぬ仲になった。と、思いねぇ〜」、「思えない。美人のご新造さんとじゃぁ、なお思えない」。
 「その内、石坂さんが居ない留守を見計らって出かけた。お酒をやったり取ったりしていたら、弟石坂大介が『不忠者めがー』と刀を抜いて追いかけてきた。大介は庭に降りた時足を滑らせ倒れ刀を投げ出してしまった。それを拾って『エイ、ヤ〜』と叩き殺してしまった。これを見たご新造さんが血相変えて部屋に戻り、300両差し出して『私を連れて逃げて』というが、足手纏になるのでその刀でご新造さんも斬り殺してしまった」。「それはむごいねェ」、「追っ手の付く身だ。その位しないと逃げられない。人を2人殺めて、金を300両取って、この方3年分からない。どうせやるなら、この位の事はしないとな」。
 「源さんはすごいね。色事師だね」、「♪源さんは色事師」、「♪色事師は源さん。テンテンテレスケ、テレスケテン。色事師は源さん!」。

 隣の侍、手を叩いて「イハチー、イハチ〜〜」、「何のご用でしょう」、「部屋の中に入れ。宿に入る時に言ったであろう。」、「相州小田原の宿では・・・、間狭な部屋でもいいから静かな部屋をと」、「黙れ黙れ。名前を万事世話九郎と言ったがそれは仮の名。川越の藩士・石坂段右衛門と申し、先年妻と弟を殺され、その仇を捜していた。今日ここで見つけることが出来た。源兵衛がここに来て討たれるか、わしがそちらに行って討つのが良いか、源兵衛に申し伝えよ」。

 「えらいことになったぞ」。
 「♪源さんは色事師」、「♪色事師は源さん」とまだ手を打ってはやし立てていた。開けると「もう寝るから勘弁してくれ」、「もう寝なくて結構です。この中に源兵衛さんはいらっしゃいますか。そうですか、貴方が2人殺したのですか」、「お前、廊下で聞いていたな」。「お隣のお侍さんは石坂段右衛門と申し、貴方は仇で切られに行くか、それともお侍さんがここに来るか、どちらになさいますか」。
 「違うんだ。これは江戸両国の小料理屋で聞いた話で、おもしろい話だから何処かでやりたいと思っていたのが、ここで『色事の出来る奴は居ないから』と言われたので、ムキになってしただけ。俺は何にもしていないんだ」。「困った人だ。そのお陰で私ら寝ることが出来ない。分かりました、隣に行って話してきます」。

 「お隣の源兵衛という人は、そんな度胸のある人間ではなく、ブルブル震えています」、「黙れ、いったん口から出した話を引っ込めるなんて、これからそちらに行って血煙を上げてつかわす」、「血煙はいけません。変な噂が立つとこの宿の信用に関わります」、「それはもっとも。それでは明日出会い仇と言うことで宿外れで成敗してくれる。それまではここに預けるが、3人共逃がしたらこの宿の者全員の血煙を覚悟せよ」。

 と言うことで、3人共縄でぐるぐる巻きに縛り上げられ、宿の者に監視されながら、涙を流し朝を迎えた。その点お武家様は豪胆で高いびきでお休みになってしまった。

 朝、お武家様は気持ちよく目覚め、宿の伊八の挨拶を受けていた。隣の唐紙を開け、グルグル巻きの3人を会わせた。「真ん中にいるのが源兵衛です」、「大変戒められているが、どんな悪いことをしたのか」、「いえ、宿では悪いことと言えば、裸で踊っただけですが、あの源兵衛が貴方の奥様と弟様を殺したという仇です」、「何かの間違いではないか。わしは未だ妻を娶ったことはない」、「いえ、思い出してくださいよ。奥様と弟様を2人殺めて、金を300両取った。その仇です」、「あはは、あれは座興じゃ」、「え!私らみんな寝ずに監視してたんですよ。何でそんなくだらない冗談を言ったんですか」。
 「あの位申しておかんとな、拙者の方が夜っぴて寝られない」。 

 


1.東海道五十三次 神奈川宿
 神奈川宿(金川宿とも記される)は、慶長 6年(1601)に成立し、江戸日本橋から品川・川崎に次ぐ3番目の宿場である。ただし、元和9年(1623)に川崎宿が成立するまでは、2番目の宿場であった。日本橋からは7里、隣の川崎宿とは2里18町隔たっている。慶長6年の宿場成立時には隣宿の品川宿までは、5里という遠距離である。これに対し、西側の隣宿である保土ヶ谷宿とは、1里9町ときわめて短い距離にあった。
 神奈川宿は東海道に沿って町並みが続き、ほぼ中心に位置する瀧の橋を境に江戸寄り(東側)が神奈川町、上方寄り(西側)が青木町となっている。神奈川町には近世前期、東海道における将軍の宿泊施設である御殿
(神奈川御殿)が 置かれていた。また、神奈川は中世以来の神奈川湊があり、東京湾内や全国各地を結ぶ水運の中継点として賑わっていた。
 近世後期の調査によれば、人口5793人、家数1341軒(内、本陣2、旅籠58、脇本陣は無し)となっており、人口・家数とも保土ヶ谷・戸塚両宿のほぼ2倍の数値を示しており、東海道でも有数の規模を誇る宿場であった。
 宿場の内、もっとも江戸寄りにある神奈川町の観福寺には浦島太郎に関する旧跡があり、浦島寺として有名であった。また、青木町の台町の茶屋街からは本牧や房総を眺望することができ、東海道有数の景勝地としてにぎわっていた。名物としては、亀甲煎餅や、宿内の寺院が販売していた黒薬がよく知られていた。

文; 横浜市歴史博物館発行「東海道と神奈川宿」より。
上;「東海道五十三次の内神奈川」 広重 台町の茶屋風景
画をクリックすると大きくなります。

旅籠・武蔵や;右図は神奈川宿のメイン部分です。下の方が江戸で上方は上になります。神奈川宿の中心は下の方にある滝の橋を挟んだところです。噺の武蔵屋は上の右側に実在しています。ここで3人は縛られ涙も涸れて朝を迎えた事でしょう。
 落語ってすごいですよね。講談と違って歴史的にも地理的にも正しい内容になっています。

「大米や」=落語「大山詣り」で宿泊した旅籠。
「にっぱや」=落語「御神酒徳利」で失せ物を探し出した旅籠。両旅籠とも神奈川町の、本陣・石井のソバにあります。

右図;「細見神奈川絵図」天保15年(1844)横浜開港資料館蔵  2013.9.追記

神奈川宿ジオラマ

 右方向川崎を経て江戸、左方向保土ヶ谷を経て上方。中央「瀧の橋」が宿駅の中心で本陣があり、直ぐ左の山が「権現山」。海岸沿いに走る道路が東海道。左端に浮世絵にもある台町の茶屋街。 東は神奈川通東公園から西は上台橋の関門跡まで、およそ4kmの宿場町であった。
横浜市歴史博物館蔵のジオラマ。


←保土ヶ谷     台町  権現山          瀧の橋(神奈川宿中心部)             川崎→
「東海道分間延絵図」(神奈川宿) 江戸時代後期 逓信博物館蔵より

     

江戸後期神奈川台関門跡(ベアト撮影)   「神奈川台石崎楼上十五景一望之図」 広重
各画をクリックすると大きくなります。


2.茶屋
 
台町の街道筋は崖上の高台ですから風光明媚なとこにありました。ここに茶屋が並んで客引きも多くあり、これが浮世絵にも残っています。茶屋は今で言う喫茶店、休憩所ですから茶菓子が出て旅の疲れをここで癒していきました。目の下の海岸線や海、船、その向こうに房総半島まで眺められ、東海道でも絶景な所として有名でしたが、休憩のための店ですから、 原則宿泊はさせませんでした。と横浜市歴史博物館の学芸員は言っていましたが、現実はいかに。

右;「五十三次名所図会 四 神奈川」 広重 台町の茶屋夜風景
画をクリックすると大きくなります。


.川越(埼玉県川越市)
「小江戸・川越」
 徳川家康は関ケ原の戦いで勝利を収め、江戸幕府を開きます。川越は江戸の北の守りであるとともに、物資の供給地として重要視され、有力な大名が配置されました。川越の城下町は松平信綱によって整えられ、その町割りは現在も形を残しています。信綱は川越街道の整備、新河岸川舟運、新田開発などの事業を行い、江戸との結びつきを深め、江戸文化を随所に取り入れます。松平斉典の時代、川越藩は17万石となり「小江戸」と呼ばれるにぎわいを見せます。
 明治になって城下町の伝統と豊かな産業を受け継ぎ、川越は埼玉県第一の商業都市として発展、穀物流通の中継地、織物の産地としてにざわいました。明治26年に町の3分の1を失う大火に見舞われると、川越商人は耐火性を備えた蔵造りに着目。持ち前の財力で江戸の様式を取り入れた土蔵造りの店を黒壁で仕上げ、今日の町並みを築き上げました。

川越市 http://www.city.kawagoe.saitama.jp/icity/browser?ActionCode=genlist&GenreID=1000000000102


4.金沢八景

1.称 名 晩 鐘  (しょうみょうのばんしょう) 称名寺の鐘の音が洩れてくるように聞こえる夕暮れの情景
2.小 泉 夜 雨 (こずみのやう)        大川上流の南岸から、手子明神付近の雨の情景
3.洲 崎 晴 嵐 (すさきのせいらん)    洲崎の松並木が風にゆれ、音を立てている様子
4.
乙 艫 帰 帆 (おっとものきはん)    乙艫の海岸に漁を終えて帰ってくる帆かけ舟の景色
5.瀬 戸 秋 月 (せとのしゅうげつ)     瀬戸橋付近から見た仲秋の名月
6.
平 潟 落 雁  (ひらかたのらくがん)   遠く海の彼方には雁が列をなしておちていく平潟湾
7.野 島 夕 照 (のじまのせきしょう)    海をへだてて房総を望む景勝地野島の漁村の夕なぎ
8.内 川 暮 雪 (うちかわのぼせつ)    内川、瀬ケ崎方面の夕暮れの雪景色

 今から300年程前元禄7年に明の心越禅師が能見堂(今の能見台)からの風景が故郷中国の瀟湘(しょうしょう)八景にそっくりと絶賛。景色を八編の詩に詠ったのが金沢八景のはじまりといわれています。
 同じ頃歌人の京極兵庫高門が金沢八景のうたを詠み、八景の名はひろがりました。
 その昔、絵師、巨勢金岡が能見堂からの景色を写生しようとしましたがあまりの美しさに持っていた筆を投げ捨てたという伝説があるほどの景勝地であった。しかし、安藤(歌川)広重は風景画を最上級の味わいでしっかりと描きました。

  広重が描いた金沢八景の版画が、横浜市金沢区のホームページ
http://www.yokohama-kanazawakanko.com/course/hakkei/index.html にあります。
第141話「大山詣り」より孫引き


5.脚気
(かっけ)
 ビタミンB1の欠乏症。末梢神経を冒して下肢の倦怠、知覚麻痺、右心肥大、浮腫を来し、甚しい場合は心不全により死亡する。白米を主食とする地方に多発した。江戸やまい。乱脚の気、脚疾、脚病、乱脚病、あしのけとも呼ばれた。(広辞苑)

 江戸時代の江戸の街では白米が食べられることで有名でした。丁稚さんから職人さん、遊女まで田舎では食べられない白米が常食でした。その為、ビタミンB1欠乏症で脚気になる患者が多発しましたが、その原因がつかめず、地方に出れば治るという奇病の一つに数えられ恐れられていました。最近までは強化米という物もありましたし、玄米や麦を混ぜた物が健康にいいと言われましたが、最近では他の食物から摂ることが出来ますので、あまり騒がれなくなりました。一種の贅沢病だったのです。
 


  舞台の神奈川宿を歩く 

地図

   
 地図の番号と下の説明が対応しています。 赤いラインが旧東海道。青木橋は当時有りませんでしたから直線で結ばれていました。神奈川駅の南が横浜駅です。当然北が川崎、東京(江戸)です。  Yahoo!地図より

 

 さ〜ぁ、今日は数km近く歩きますので、そのつもりで付いて来てください。
写真(絵図は除く)はクリックすると全て大きくなります。

 JRは東神奈川駅で降ります。駅前を東に降りて京浜急行・仲木戸駅をくぐり、最初の角を右に曲がります。

1.「金蔵院」(こんぞういん); 金蔵院は、京都醍醐寺三宝院の開祖勝覚僧正により平安末期に創られた古刹である。その後、徳川家康から十石の朱印地を許された。
 『金川砂子』のこの図には江戸後期の様子が描かれている。参道は街道まで延び、金蔵院・熊野神社が境内に並び立っている。本堂前には徳川家康の「御手折梅」と称された梅の古木が描かれている。かつては毎年一月に当院の住職がこの梅の一枝をたずさえて登城するのがならわしであったという。

左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

「御手折梅」は写真中央に見える梅の木がそうです。

2.「熊野神社」; 平安末期に紀伊の熊野権現を祀り「権現様」として親しまれている。もと権現山(幸ヶ谷山上)にあつたが、江戸中期に金蔵院境内に移り、神仏分離令により金蔵院から分かれた。
 『金川砂子』のこの「夜宮祭礼」図は、江戸後期の神社のにぎわいを描いている。社殿の脇の舞台では神楽が演じられ、参道の東側には囃子屋台が並べられている。
 現社殿は戦後の再建だが、境内には公孫樹の古木が残っている。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

金蔵院から分かれて道一つ隔てた所に鎮座しています。

3.「高札場」; 幕府の法度や掟などを庶民に徹底させるために設けられた施設です。宿場の施設としては重要なものでしたが、明治に入り情報伝達の手段が整うにつれて、やがて姿を消しました。
 かつて神奈川宿の高札場は、現在の神奈川警察署西側付近にありました。
 その規模は、間口5.7m、高さ3.5m、奥行1.7mと大きなものでした。

左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。 間口、奥行の大きさは、高札から引用。

 

 瀧の川の脇に立っていた高札で、キリシタン禁令、道徳的規範等、様々な事項が掲示されていました。風雨を避けるため屋根を被せ設置されました。今は復元された物が神奈川地区センターの前に建っています。

4.「成仏寺」; 鎌倉時代の創建と伝えられる浄土宗の寺である。徳川三代将軍家光の上洛に際し、宿泊所の神奈川御殿造営のため寺地が現在地に移された。
 安政6年(1859)の開港当初はアメリカ人宣教師の宿舎に使われ、ヘボンは本堂に、ブラウンは庫裡に住んだという。ヘボンはヘボン式ローマ字で知られ、日本最初の和英辞典を完成した。またブラウンは聖書や讃美歌の邦訳に尽力した。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

神奈川宿の寺院は諸外国の宿舎に使われてしまった。ここはヘボンやブラウンが常駐した。

5.「慶運寺」; 室町時代に芝増上寺第三世音誉聖観(おんよ しょうかん)によって開かれた。京の連歌師谷宗牧(たに そうぼく)は、『東国紀行』の天文14年(1544)3月3日の条に「ほどなくかな川につきたり、此所へもこづく(小机)への城主へいひつけられ、旅宿慶運寺にかまへたり」と書いている。開港当初はフランス領事館に使われた。
 また、浦島寺とも呼ばれている。浦島太郎が竜宮城より持ち帰ったという観音像など浦島伝説にちなむ遺品が伝わっている。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

   

 浦島太郎伝説相州三浦の住人浦島太夫が丹後国(現在の京都府北部)に移住した後、太郎が生まれた。太郎が20歳余りの頃、澄の江の浦から龍宮にいたり、そこで暮らすこととなった。三年の後、澄の江の浦へ帰ってみると、里人に知る人もなく、やむなく本国の相州へ下り父母を訪ねたところ、三百余年前に死去しており、武蔵国白幡の峯に葬られたことを知る。これに落胆した太郎は、神奈川の浜辺より亀に乗って龍宮へ戻り、再び帰ることはなかった。そこで人々は神体をつくり浦島大明神として祀った、という内容です。
 この浦島伝説が伝わっていた観福寿寺(廃寺)の資料は、同寺とゆかりの深い慶運寺(本寺)と、大正末期に観福寿寺が所在した地に移転してきた蓮法寺(神奈川区七島町21番地)に残されています。
 慶運寺に移された浦島観世音は、浦島太郎が龍宮から玉手箱とともに持ち帰ったとされるもので、亀の形をした台座の上に「浦島寺」と刻まれた浦島寺碑
(右から2番目写真)や浦島父子搭(右写真)とともに、浦島伝説を今日に伝えるものです。
慶運寺案内板より

6.「滝の橋と本陣跡」; 下の図は「金川砂子」に描かれた、江戸後期の神奈川宿の風景である。現在と同じ場所にあった滝の橋を中心に、江戸側には神奈川本陣、反対側に青木本陣が置かれていた。本陣とは、大名や公家などが宿泊したり、休息するための幕府公認の宿である。
 滝の僑のすぐ脇には高札場が見える。高札場は幕府の法度や掟を庶民に徹底させるための重要な施設である。この高札場は、現在の地区センターに復原されている。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

  

 滝の川の流れに架かる滝の橋です。現在の第一京浜国道に架かっていますし、上部には首都高速道路が走っています。ここが神奈川宿の中心地だったのです。右写真は橋の上を通る第一京浜。

 滝の川を渡って、青木町に入ります。

7.「浄瀧寺」; 妙湖山と号し、日蓮宗に属す。文応元年(1260)妙湖尼は、当時の政治の中心地であった鎌倉に向かう途中に当地に立ち寄った日蓮聖人と遇った。
 法尼は聖人の人格にうたれ、法華経の話を聞いてたちまち弟子となり、自分の庵を法華経の道場とした。
 聖人が「立正安国論」著作し、鎌倉幕府に献策した年でもある。
 また、開港当時は、イギリス領事館に充てられた。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

 滝の川を挟んで慶運寺と浄瀧寺は対峙しています。

8.「権現山」; 浄瀧寺を出て京浜急行に沿って坂道を上がっていくと大きな公園に出ます。ここが幸ヶ谷公園で第一京浜に接して建つ幸ヶ谷小学校までが「権現山」と言われた所です。お台場を作るためにこの山が削られ、台地のような、情けない形になってしまいました。旧東海道はこの山の麓を東から南に巻きながら通っていました。その先は海で風光明媚な所だったのですが、今はその頂上から海面は見ることが出来ません。

  

 幸ヶ谷公園からやっと見えました。右写真の左奥に見える白い鉄塔のような物が横浜湾をまたいでいる横浜ベイブリッジです。この公園脇から坂を降ると宮前商店街にでます。この道路が旧東海道で、その中ほどに州崎大神があります。

9.「洲崎大神」; 洲崎大神は、建久2年(1191)、源頼朝が安房国(現、千葉県)一宮の安房神社の霊を移して祠ったことに始まると伝えられている。
 『江戸名所図会』の様子は、今も石鳥居や周囲の地形に偲ぶことができる。神社前から海に向かって
延びる参道が、第一京浜に突き当たるあたり。そこが、かっての船着場である。横浜が開港されると、この船着場は開港場と神奈川宿とを結ぶ渡船場となり、付近には宮ノ下河岸渡船場と呼ばれる海陸の警護に当たる陣屋も造られた。

左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

 境内は深く、突き当たりが幸ヶ谷公園です。正面から見て左隣が、普門寺。

10.「普門寺」; 洲崎山と号し、真言宗智山派に属す。山号の洲崎は洲崎大神の別当寺であったことより起こった。また、寺号の普門は洲崎大神の本地仏である観世音菩薩を安置したこと により、観世音菩薩が多くの人々に救いの門を開いているとの意味である普門とされたと伝えられている。
 江戸後期には、本堂・客殿・不動堂などの建物を持ち、開港当時はイギリス士官の宿舎に充てられた。

左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

11.「甚行寺」; 真色山と号し、浄土真宗高田派に属す。明暦2年(1656)第一世意圓上人が本山専 修寺の第十四世堯秀上人を招いて、この寺を草創したと伝えられる。
 開港当時、本堂は土蔵造であったが、改造を加えてフランス公使館に充てられたといわれている。
 大正12年の関東大震災には全ての建物を倒壊焼失し、さらに昭和20年の横浜大空襲にも再度全
焼した。その後、昭和46年に本堂・客殿を鉄筋コンクリート造で再建し、現在に至っている。

左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

12.「青木橋」;甚行寺をすぎ、宮前商店街のアーケードをくぐると、京急・神奈川駅です。ここは平行して東海道線、横須賀線などのJRが走っています。

 

写真右;赤い電車が京急で神奈川駅に停車しています。その奥の緑が権現山跡の幸ヶ谷公園です。
橋を渡るとT字状にぶつかり、国道1号線の旧東海道。右の坂を登ると、本覚寺です。

13.「本覚寺」; 臨済宗の開祖栄西によって、鎌倉時代に草創されたと伝えられる。もとは臨済宗に属していたが、戦国期の権現山の合戦で荒廃し、天文元年(1532)に陽廣和尚が再興し、曹洞宗に改めた。
 開港当時、ハリスは自ら見分け、渡船場に近く、丘陵上にあり、横浜を眼下に望み、さらには湾内を見通すことができる本覚寺をアメリカ領事館に決めたという。
 領事館時代に白ペンキを塗られた山門は、この地域に残る唯一の江戸時代に遡る建築である。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

 白ペンキを塗られた山門はこれです。今も一部にその後が残り、それを記念して大きな「全国塗装業者合同慰霊碑」が建っています。

14.「大綱金刀比羅神社と一里塚」; この神社は、社伝によると平安末期の創立で、もと飯綱社といわれ、今の境内後方の山上にあった。その後、現在の地へ移り、さらに琴平社を合祀して、大綱金刀比羅神社となった。かつて眼下に広がっていた神奈川湊に出入する船乗り達から深く崇められ、大天狗の伝説でも知られている。
 また、江戸時代には、神社前の街道両脇に一里塚が置かれていた。この塚は、日本橋より七つ目に当り、土盛の上に樹が植られた大きなものであった。
左絵図と説明は 「神奈川宿歴史の道説明板」より。

 

15.「台町の料亭滝川、田中屋」; 江戸時代から続く唯一の料亭が文久3年(1863)創業の田中屋です。田中屋の前身の旅籠「さくらや」は広重の「東海道五十三次」にも描かれた老舗です。高杉晋作やハリスも訪れたと言います。  「料亭田中屋の説明板」より
どちらの料亭も脇の坂道が階段になっていて当時の崖を思い起こさせます。階段を降りた所が当時の海です。

   料亭滝川。

   料亭田中屋。

16.「神奈川台の関門跡」; ここよりやや西寄りに神奈川台の関門があった。開港後外国人が何人も殺傷され、イギリス総領事オールコックを始めとする各国の領事たちは幕府を激しく非難した。幕府は安政8年(1859)横浜周辺の主要地点に関門や番所を設け、警備体制を強化した。この時、神奈川宿の東西にも関門が作られた。そのうちの西側の関門が、神奈川台の関門である。明治4年(1871)に他の関門・番所とともに廃止された。
「神奈川宿歴史の道説明板」より。
 

神奈川宿の終点です。崖上から旧海岸線に降りる所は今でもキツい階段道で、上ってくる人は息を切らして黙々と登ってきます。

17.「上台橋」; 新しい道を切り開いたために、旧道に橋を架けて渡しました。神奈川台の関門を過ぎると道は下り坂になってきます。七・八分下った所に有る橋で、橋の下を左に曲がると当時海の中だった横浜駅に出ます。

 

 長丁場お疲れさまでした。日が落ちてきました。ま、一息入れて電車の人になりましょう。


                                                               2008年12月記

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