落語「勘定板」の舞台を歩く
   
 

 

 五代目立川談志の噺、「勘定板」(かんじょういた)によると


 

 

 

 ハバカリの無い村があった。山奥のまたその山の向こうに海岸が有って、ま、不思議な所があるものですが、その海岸に杭が打ってあって、紐の先に板がくくり付けられていた。便所に行きたいときは引き寄せてその板の上に用を足して、海にもどした。この村では上から食べて下から出すから勘定すると言って、その板を勘定板と呼んでいた。

 

 その村人が江戸見物に出てきた。宿に入ったが仲間の一人が顔色が悪い。勘定ぶちたいが、ここは江戸だから海も無いし仕方も分からない。番頭を呼んで聞いてみることにした。
 「相棒が顔色悪く、勘定が溜まっているので勘定をぶちたい」、「お発ちですか」、「いや、今朝来たばかりで10日程世話になる」、「それでは、お帰りの時まとめてくれれば、それでイイですよ」、「なに、10日もまとめるか。田舎にいたときは毎日勘定していた」、「お堅い事で」、「堅いか柔らかいかは分からない。毎日勘定ぶったらいけないか」、「毎日というと、私らが面倒になります」、「そっちが面倒でも、こっちはぶたせてもらう」、「分かりました。ではどうぞ。ここでおやんなさい」、「勘定板を持ってこい」。
 番頭だから気が利きすぎていた。勘定と言うからソロバンのことだと思った。昔のソロバンは裏に板が張ってあった。間違えるときは仕方が無いもんで・・・。

 

 「これにどうぞ」、「板が細いがこぼれないか」、「ここからはみ出る勘定を私は見たことがございません」、「勘定が出来たらどうする」、「お手を叩いていただけたら、私が取りに伺います」、「勘定場に連れて行って欲しい」、「今、帳場が混み合っていますから、ここでどうぞ。床の間の前でも、日当たりの良い廊下でも、どうぞお好きな所で」、「では、廊下でしよう」。ソロバンを裏側にしてまたごうとしたが、羽織の裾が引っかかってソロバンがゴロゴロゴロと転がり始めた。
「お〜う、見ろや。江戸は重宝だ、勘定板が車仕掛けになっとる」。


 

 


 


立川談志
(たてかわだんし)
 七代目(自称五代目)立川 談志。昭和11年(1936)1月2日生 - 平成23年(2011)11月21日没 享年75歳、落語立川流家元。本名、松岡 克由(かつよし)。戒名は、立川雲黒斎家元勝手居士(たてかわ・うんこくさい・いえもとかってこじ)と自分でつける。 東京府小石川区(現在の東京都文京区)出身。16歳で高校中退し五代目柳家小さんに入門”小よし”。18歳で二つ目”小ゑん”。27歳、後輩の円楽、志ん朝に抜かれたが真打ち昇進”立川談志”を襲名。志ん朝、柳朝、圓楽と並んで若手四天王と言った。35歳、政治家として参議院議員最下位当選、1期6年、40歳で沖縄開発庁の政務次官を36日間務め正月明け辞任。
66年開始の日本テレビ系の演芸番組「笑点」で初代司会者を務め、テレビやラジオ、映画の世界でも売れっ子になった。

47歳、真打ち制度に反対し落語協会から脱退、落語立川流を創設、家元になる。平成19年12月よみうりホールでの談志独演会、71歳で演じた「芝浜」が絶品だったと語りぐさに。最後の高座は「蜘蛛駕籠」。この噺「勘定板」は昭和52年(1977)10月東宝名人会にて41歳の時の録音。小学館「落語・昭和の名人・大トリ」に収録されたCDから。

イラスト;山藤章二画「立川談志」。 立川談志著「遺稿」表紙より

 

 

1.勘定(かんじょう)
 ・ 代金を支払うこと。また、その代金。 「勘定は勘定と言ふ他人宿」誹風柳多留拾遺20。「勘定を払う」。
 ・ 金銭出納または物の数量の計算。 「毎日勘定に出合」。「金を勘定する」。
 ・ 見積り。考慮。 「勘定に入れる」。「これで万事うまくいく勘定だ」。
広辞苑にこの様に載っていますが、番頭さんが間違ったわけでもなく「便所」の意味は何処にも載っていません。

 

勘定板;そんな物はどこを探しても有りません。大人の寓話ですから、たまには軽く聞き流して楽しみましょう。

 

 園児に”ウンチ”とか”う○こ”と言うとキャッキャと喜んで、反復してその場が収拾できなくなることがあります。生理現象を本能的に分かっていて、普段大人から「そんなこと、言ってはいけませんよ」と言われている堰が破れるのでしょう。子供がそのぐらいですから、当の大人だっておかしいのは同じです。落語の中にはそのたぐいの噺はありますが、この「落語の舞台を歩く」にも「開帳の雪隠」「汲みたて」があります。

 

 

2.宿屋
 
江戸で宿泊すると言えば馬喰町と決まっていました。当然、この主人公達もここ馬喰町の宿で引き起こされた喜悲劇です。この場所を描いた落語は沢山あって、宿屋の富」、「御神酒徳利」、「江戸の夢」、「馬大家」、しびん」などがあります。

 

馬喰町(ばくろちょう、中央区日本橋馬喰町)
 この辺りは、古くから定期的に馬市(馬を売買する為の市)が立っていて、伝馬用の馬を供給していました。町名は、幕府の牛馬の売買や仲介をおこなう博労頭たちが住んでいたことによります。博労頭の富田半七、高木源兵衛等がいたため博労町としていたが、後に馬喰町に改めた。 現・馬喰町一丁目9&14には「初音の馬場」が有り、また、ここから浅草御門(今の浅草橋)にかけて郡代屋敷がありました。浮世絵を出版した書店も多く、馬喰町二丁目の西村寿堂は東錦絵を多色刷りで出しました。

 

 

 江戸名所図会より「馬喰町」。初音の馬場と火の見櫓。馬場の左奥が郡代屋敷、その奥が神田川で土手沿いを柳原、奥の火の見の右側に「浅草御門」と書き込まれています。

 幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していた。江戸の旅籠屋は馬喰町に集中しており、この旅籠屋は大部分が公事(くじ)宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。馬喰町北には郡代屋敷があり、関東近辺でのもめ事、訴訟を引き受けていたので、その案件が解決するまで長期に滞在せざるを得なかった。そのため、郡代の役所に行くものとか、観光で寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得ない程増えた。
  「国々の理屈を泊める馬喰町」
  「馬喰町人の喧嘩で蔵を建て」

 

■郡代屋敷跡;(日本橋馬喰町二丁目付近
 江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
 関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代
(注:十代とも)にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常磐橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
 伊奈忠尊(ただたか)が罪
(跡目相続のお家騒動が発端でお家断絶)を得て失脚した寛政4年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
 文化3年(1806)に焼失した後、代官の拝領地となって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。
(中央区教育委員会掲示板より)

 

 江戸っ子からこれ程伊奈家に対して人気があって、親しみをもって見られたのは、江戸の地域以外だけではなく、江戸市中でも大きな業績を残したからです。深川、本所の市街地化、永代橋の架橋、そして洲崎地区に堤防を築き干拓を行い、八幡神社がある永代町、材木町、長堀町、木場町等が完成し、町の区割りも実施した。天明7年(1787)全国的な凶作が続いていたとき、江戸で打ちこわしが起こり、その混乱を伊奈氏が納めた。その後、江戸市中の町人・商人からの行政に対する苦情処理を一手に引き受け、その案件を解決していった。
 郡代屋敷は馬喰町の北にあって柳原に接し、靖国通りをまたいで初音の馬場まで占めていました。明治初年に諸藩出張所となり、馬場の廃止とともに町屋に変わり、問屋街として発展しました。関東大震災、戦災により宿屋は絶滅した。

 

柳原(やなぎはら);神田川の南土手際に続く町。東は浅草橋から、西に和泉橋の先の柳原神社までで、その先に筋違い御門(現在はも少し東(手前)に架かる万世橋)が有りました。ここには芝の日影町に並んで古着屋さんが軒を並べていました。

 

 「柳原土手に並ぶ古着屋」 江戸東京博物館蔵

 

旅籠について
 勘定、この噺でも出てきますが、通常、宿を発つときにまとめて支払います。しかし、金が無くて長逗留すると催促が来るときがあります。落語の中の主人公には意外と多い。

 

 相部屋が普通、個室が欲しいときは早く着いて茶代(チップ)を前もって出すこと。普段より多く出すと、出されるお茶も菓子も違うし、蒲団も一枚多いと言われた。

 

 食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかった。但し上記茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の一品をつけた。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置かず、旅籠の女将さんと下女たちが料理した。

 

 食事の場所は馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事をとっていたが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていた。

 

 風呂は江戸市中では火事対策のため各家で風呂を焚くことは禁じられたので、町民は皆、銭湯に行かねばならなかった。旅籠の客も同様であった。元禄頃には風呂を設けて、風呂に入れることが売りの一つだった。
 ただ、旅籠は薪代の節約と手間を惜しむため、一度沸かしたら、そのままで、追い炊きをすることはなかったので、大勢が入るとぬるい湯となり、皮膚病を移される恐れもあった。この為、七つ時(16時)頃までには宿に入らないとイイ風呂に入れなかた。
 文化文政以降になると、入浴中の客にぬるければ沸かすと声をかけるようになり、サービスが改善された。

 

 衛生面で問題なのは、のみ、しらみが出た。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。
 この点、本陣とか上級宿はこの心配が無かった。上宿を選ぶのは防犯ばかりでなく、虱のような害虫から身を守り、ゆっくり寝られると言うことでもあった。

 

 夜具と蒲団は上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。旅人は寝巻を持参する必要があった。

 

 女将(おかみ)はいつの時代も、安堵に泊まれる最大のキーポイントであった。大部分の男客に対して笑顔での接客と気配りは、何よりのサービスであり、その女将が美人で有れば尚のことで、その腕で客数が変わった。

 

 サービス、観光地では観光案内や有名店の紹介、道案内などをした。お酒のサービスもすれば、その宴に付随して芸者・幇間の斡旋や夜の姫君の紹介もした。また、定宿になれば、所持品で不要になったものやお土産の取り置き、住まいまでの配送もしたし、手紙の受け渡しもしてくれた。
 落語「宿屋の富」より

 

 

3.言葉
 ソロバン(算盤);計算器の一。横長浅底の箱に横に梁を設け、これを貫いて縦に串を渡し、串に5個ないし7個の珠を貫く。珠は梁上に1個(もしくは2個)あって1個で5を表し、梁下に5個(現在では主に4個)あって1個で1を表す。この珠を上下して加減乗除をする。中国の発明で宋末から元代に行われ、日本へは室町末期頃伝来したらしく、文禄(1592〜1596)年間の記録と実物が現存する。
文・写真;広辞苑

 これだけ大きければ、はみ出すことも無いでしょう。 えぇ、はみ出すってェ、アンタ。




 舞台の馬喰町を歩く

 

 浅草橋で電車を降りて江戸通りを南下します。この駅前は人形屋さんが多く、3月、5月は節句ビナ、暮れの羽子板で大忙しですが、今は静まりかえっています。
 江戸通りを南下すると駅が見える距離に浅草橋が見えます。その袂に小さな、本当に小さな公園があって浅草橋と浅草見付跡の説明板や石碑が建っています。小さな公園ですが都会の中のホッとさせるオアシスになっています。川は整備されて両岸は切り立ったコンクリートの護岸で、かろうじて船宿が有る昔ながらの風情は残っています。その舟も猪牙舟や屋根船ではなく、大型の屋形船がもやっています。ここから地下鉄やバス、タクシーで行けば浅草はすぐですし、健脚だったら15〜20分も有れば到着するでしょう。落語「船徳」の徳さんが操船する、冷や汗の出る涼しい(?)舟より快適ですが、先程言ったように、もう、猪牙舟は有りません。

 

 浅草橋を渡って日本橋馬喰町に入りますが、右側の植え込みの中に、郡代屋敷の説明板が建っています。進行方向右(西)に入る道が柳原土手と言われたところで、現在は柳の並木が続いています。江戸時代は古着屋さんの街でしたが、現在は日本橋女学館の最新の校舎やビルが林立しています。郡代屋敷は柳原から、これから行く靖国通りを横切り、通りの向こう側まで有った大きな敷地を持っていました。
 浅草橋の交差点に出ました。
 ここが京葉道路の基点で、左の先に両国橋が見えます。右に靖国通りの基点で、皇居北側を通って右に靖国神社を見て、市ヶ谷から新宿まで続き、その先で青梅街道と甲州街道に分かれます。

 

 浅草橋交差点を渡ると、衣料品の問屋街に入ります。馬喰町の表通りは大手の問屋さんが”素人さんお断り”の札を下げています。左に並行して走る横山町も問屋街の中心的街です。落語「富久」の舞台で、しくじりの有った幇間久蔵さんが火事場見舞いで訪れた街です。
 街の中心、馬喰町交差点を越して鞍掛橋交差点に出ますが、ここまでが日本橋馬喰町です。
 鞍掛橋の下の川は東に下って、浜町堀と呼ばれ隅田川に合流、西に行くと堀は直角に左に曲がり、神田堀と呼ばれ、その上流は竜閑川と呼ばれ、毎回出てくる今川橋をくぐります。しかし、現在は川も堀も埋め立てられて、その上に架かる橋も有りません。

 

 チョト寄り道します。
 鞍掛橋交差点の先、日本橋小伝馬町に入りますが、小さな交差点の道路名に大門(おおもん)通りのプレートが有ります。これは人形町に有った元吉原の大門に突き当たる道路です。つい、左に曲がって行きたくなります(え、私だけ?)が、400年以上も前の話で、たとえ行ったとしても、その地があった所には大きなビルが有るだけで何も有りません。気を持たせる道路名です。江戸通りその先、小伝馬町の交差点を右に曲がります。

 

 曲がった左奥が、江戸時代牢屋敷があった所です。牢屋敷は西側の神田堀から水を引き入れ、周りを堀で囲み、なおかつ高い塀を巡らせていました。この地は現在、十思公園が整備され、その南は小学校跡が有ったのですが廃校になり、地域の文化センターの様な使い方をされています。また、小路を挟んだ東側には処刑場が有った地に大安楽寺と隣に身延別院が、処刑された受刑者の供養をするために建っています。
 十思公園には石町に有った、時の鐘が移されコンクリート造りの鐘楼の中に吊されています。また、ここで処刑された松蔭をいたみ、吉田松陰終焉の地の碑が有ります。

 

 大安楽寺の建立に際して、牢屋敷跡は、たたりを怖れて誰も住まず、”牢屋が原”と呼ばれる原っぱになっていた。明治の始めに霊を供養するために寺を創建しようとした時、青年二人が快く応えて寄進した。その二人の青年が後の明治の財界の大物として活躍する大倉喜八郎と安田善次郎でした。大倉の名は、ホテルオークラとして残り大成建設の祖です。安田善次郎は、安田財閥の祖。安田銀行(みずほ銀行)や安田生命(損保ジャパン)に名を残していた。寺の名前は、大スポンサーの二人の頭文字を、また、教典の中から取られ「大」「安」楽寺となった。開山、明治8年(1875。この年市ヶ谷に牢屋敷が移転)、と言われるが、その後二度の火災に遭い詳しい記録が残っていないので細目不明とのこと。(住職奥様談)

 

 

地図


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写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

浅草橋駅(江戸通りと交差する総武線の駅)
 馬喰町に向かう出発地点。写真を撮っている地点は下記の浅草橋手前から振り向いて撮っています。写真奥のガード上を総武線電車が通過して行きます。この周辺は人形屋さんが多く、五月人形も終わって静かな街になっています。この道の奥は蔵前から浅草に抜ける幹線です。

浅草橋(神田川に架かり江戸通りを渡す)  
 神田川を渡って駅方向を見ています。この神田川は下流(写真右方向)に柳橋が有って、船宿がぎっしりと並んでいます。落語「船徳」の徳さんが漕ぎ出したのもここです。柳橋を出て隅田川に合流すれば、北側には浅草があり、吉原に向かう山谷堀がありました。
 浅草橋を渡った所から馬喰町の町に入っています。

柳原土手(神田川の西に向かう南土手通り)
 江戸の時代から神田川の南土手を柳原土手といい、その下に東西に走る道を柳原土手通りと言いました。ここは古着屋さんが軒を並べていた所です。土手の部分に学校やビルが建って面影はありませんが、柳の並木をつくって、その雰囲気は出たでしょうか。

浅草橋交差点(江戸通りと交差する靖国道路・京葉道路起点)
  柳原通りを越して直ぐ、大きな交差点に出ます。そこが浅草橋交差点。交差する、両国橋を渡って千葉に向かう国道が京葉道路でその基点になっています。反対方向は靖国通りで皇居の北を抜けて市ヶ谷を通り新宿に繋がる道路です。

郡代屋敷跡(中央区日本橋馬喰町二丁目2)
 靖国通りを渡って振り返り、郡代屋敷があった所を見ています。郡代屋敷の説明板は浅草橋のこちら側、交番の隣にあります。
 東京駅に至近な立地から、最近はホテルが林立して、往年の宿場町を取り戻したようです。正面の茶色のビルも、その左側のビルもホテルです。

初音の馬場跡(中央区日本橋馬喰町一丁目)
 江戸通りを入ってくると右側奥に初音の馬場がありました。写真は振り返って浅草橋交差点方向を見ていますので、左側ビルの裏側です。写真を見せてもイイのですが、どこにもある裏道です。同名の初音森神社は浅草橋の手前右側です。落語「猫忠」で写真紹介。

馬喰町(中央区日本橋馬喰町一丁目5)
  馬喰町の中心、馬喰町交差点を越えた所に有るバス停。ここから浅草橋交差点方向を見ています。江戸通りに面した馬喰町が見えるはずです。

小伝馬町交差点(中央区日本橋小伝馬町)
 江戸通り次の大きな交差点が、この交差点。浅草橋方向を見れば東京スカイツリーが見えます。下記の牢屋敷に入っていく交差点です。

十思公園と時の鐘(中央区日本橋小伝馬町5)
 
十思公園は伝馬町牢屋敷跡の一部です。この地は牢屋が並んでいたところで、牢屋敷跡は公園になっていて近所の子供や親子連れ、サラリーマンがのどかな時間を楽しんでいます。左の建物は石町に有ったときの鐘を移設した鐘楼としています。この真後ろが下記の安楽寺です。

処刑場跡(中央区日本橋小伝馬町3。安楽寺境内)
 牢屋敷のこの場所に処刑場が有って、刑場の上に延命地蔵菩薩が建立されています。そこに「江戸伝馬町牢御たく場跡」の碑が建っています。注:たく=琢の偏が王ではなく木偏です。たく場とは刑場のこと。ここで、吉田松陰など文明開化を叫んだ先駆者が処刑されていった。その執行者は山田浅右衛門であった。

                                                         
                                                                                                                             2012年6月記  

 

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