落語「橋場の雪」の舞台を歩く 柳家三三の噺、「橋場の雪」(はしばのゆき)
人情噺「松葉屋瀬川」(雪の瀬川)が「橋場の雪」として落し噺化され、それを鼻の園遊が、現行のサゲに直し、「隅田(すだ)の夕立」、「夢の後家」の二通りに改作しました。
2.橋場(はしば)
江戸名所図会「橋場」 別荘に適した静かな地であった。
■橋場の渡し;上記浅草橋場から対岸の隅田堤に渡した、隅田川最上流の渡し。現在は渡しがあった場所の直ぐ北側に明治通りを通す、白鬚橋が架かっています。隅田堤の北側・隅田川上流には水神(隅田川神社)、木母寺が有り、過日には料亭植半があった。
■向島(むこうじま);狭義には墨田区向島(町)1~5丁目。三業組合が今でもあり花街がある。また隅田川土手は隅田公園と言われ、桜の名所として有名。また、隅田川の花火は夏の風物詩で、冬は雪見の名所。隅田公園には三囲(みめぐり)神社や、長命寺の桜餅、言問団子、最近はきび団子さん等もあります。桜の時期も素晴らしいのですが、新緑の時期もまた素晴らしい。
広義の向島、隅田川東岸には「牛島」「柳島」「寺島」などといった地が点在していた。対岸地域から見て、これらを「川向こうの島」という意味で単に「向島」と総称したとも考えられ、各説有り特定は難しい状態です。
■吾妻橋(あずまばし);浅草の東側、隅田川に架かる橋。
右図;名所江戸百景より「木母寺・植半」 広重画 クリックすると大きくなります。
■吾妻橋を渡らず、通り過ぎて;若旦那は下総屋善兵衛の息子で横山町二丁目に住んでいた(松葉屋瀬川)。遊びに行くとなったら、神田川の浅草橋を越えて隅田川沿いに浅草に出て、右に曲がれば吾妻橋ですが、頭の中は瀬川のことでいっぱい。ついつい最後の橋を渡るのを忘れ、戻るのもシャクだから、そのまま右岸を歩き続けて、最後の渡し・橋場の渡しまで来てしまった。
名所江戸百景「吾妻橋金龍山遠望」部分 広重画
3.言葉
■瀬川(せがわ);吉原・松葉屋半蔵の瀬川という十八になる花魁(おいらん)、後光が差す様な”い~~ぃ女”です。
■お湯の帰り;江戸は火事早い所だったので、自宅に内風呂を作らせなかった。その為、公衆浴場まで江戸の住民は通った。江戸では風呂屋と言わず、「湯ゥ屋」と言った。雨が降ろうが雪が降ろうが、ヤリが降ろうが・・・、ヤリは降りませんが、天気に関係無しに湯に通った。
■若旦那は船を漕いではいけません;小僧定吉。の言葉。落語「船徳」の一場面。石垣の間に蝙蝠傘を挟んだり、船を三べん回すことになるから・・・。
■夢の話をしないばっかりに;若旦那のセリフ。落語「天狗裁き」の内容で、奉行所に行ったり、天狗に縛られるのもイヤだから・・・。みぃ~んな話してしまったら・・・。
吾妻橋は東京スカイツリーが出来てから、ビュースポットとして対岸のスカイツリーに向けてカメラや携帯電話を向けています。それまでは対岸のアサヒビールの屋上広告モニュメントの珍しいデザインにカメラを向けたものですが、ここでも時代が移っています。
吾妻橋から隅田川を上っていくと、隅田川に架かる鉄道橋をくぐります。東武伊勢崎線の橋で、左側は終点浅草で、橋を渡った次の駅は東京スカイツリー駅と名を変えた、スカイツリーの接続駅です。
続いて、日本堤(山谷堀)の最下流に架かる今戸橋を渡りますが、今は、この山谷堀も埋め立てられて細長い公園に変身しています。堀が無くなったので、ここに架かっていた橋は記念の欄干を残しただけの、なんともわびしい橋(?)になってしまいました。吉原全盛の頃は、ここ今戸橋で船を下りて、土手道8丁を歩いて行ったものです。ここから隅田川対岸の三囲(みめぐり)神社までを”竹屋の渡し”が、渡していました。
現在はこの上流に人道橋として、上空から見ると”X(エックス)字”形をしている橋で、桜橋(写真上)と名が付いています。名前の通り、隅田川の公園一帯は桜の名所でも有り、ピタリの名前になっています。また、夏には隅田川の花火大会はここで行われます。若旦那は雪の季節、桜も花火もお呼びでは無かった。
若旦那は目もくれずに次の渡し、”白鬚の渡し”も眼中になくやり過ごします。この渡しは、浅草今戸が浅草橋場と町が替わる辺りの桟橋から、対岸の白鬚(しらひげ)神社の南側の入り江になった洲に着きました。
今は白鬚橋を渡り、墨田区側に行きます。渡ると左側には東白鬚公園が有り、その中を川に沿って上流に歩いて行くと左側に、隅田川神社が現れます。ここは江戸時代”水神”と呼ばれた神社で、ここの境内に名料理屋の八百松がありました。現在は八百松も撤退して、その跡地に、高速道路建設のため、現在地に100mの引っ越しを果たしています。
木母寺につくと、梅若堂は大きなガラスケースのような建物の中にあります。話を聞くと、梅若塚の梅若丸は伝説上の人物で、梅若丸は京都北白川の吉田少将惟房の遺児で、比叡山で修行中に信夫藤太という人買いによりさらわれ、奥州に向かう途中隅田川のほとりで息絶えます。その死を哀れんだ天台宗の高僧忠円が築いたのが、梅若塚だと伝わります。
そう、ここでも八百松と同じように植半は何処にも有りません。有ったとしても、瀬川花魁とは会えなかったでしょう。
地図をクリックすると大きな地図になります。 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
吾妻橋
(浅草寺の東側、隅田川に架かる)
吾妻橋
橋場(台東区橋場)
橋場(台東区橋場二丁目)
橋場の渡し跡
(白鬚橋南)
白鬚橋
木母寺(白鬚公園内)
水神(白鬚公園内、隅田川神社) 2013年7月記 |
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