落語「蔵前駕籠」の舞台を歩く

  

  古今亭志ん朝の粋のいい噺「蔵前駕籠」(くらまえかご)によると、
 

  幕末の世情が混乱している頃の噺。「我々は由緒あって、徳川方の浪人である。軍資金に困っている。吉原で使う汚い金を、我々が清く使ってやる。」と言ながら抜き身を首筋にピタピタと押しつけられれば、身ぐるみはがされても命さえ助かれば、「ありがとうございます」と、お礼を言いながら這々の体で逃げ帰ってくる。
 毎日のように追い剥ぎが出るので、蔵前通りを使っての吉原がよいの客は暮れ六つを過ぎると客足が途絶えた。
 そこで、遊び好きで突っ張っている江戸っ子がひとり、女郎買いの決死隊が、蔵前茅町の駕籠屋「江戸勘」に駕籠を出してくれとの注文に来た。「吉原が暇なときに行ってやれば喜び、それはたいそうモテルであろうから、是が非でも駕籠で行きたい。」との事。駕籠屋は必ず追い剥ぎが出るので、”暮れ六つ”以後は出せないと言うところ、上げたり下げたりすかしたりして、何とか出してもらう事になた。

 「駕籠屋さんも支度が有るだろうが、私も支度させてくれ」と男は言いながら、褌一丁の素っ裸になり、着てきた着物はたたんで駕籠の座布団の下に敷き、その上にどっかと乗り込む。「お客さん寒くありませんか」 、「少しぐらい身体が冷えたって、向こうに行けば彼女が暖めてくれるてェ〜だ」、「ここでノロケられちゃ〜」。そして、出発。

 天王橋を過ぎる頃、「旦那、ぼちぼち出そうですゼ。最初の約束通り、出たら駕籠をほっぽり投げて、逃げちゃいますからネ。悪く思わないで下さいョ。」 、「はいョ」。
 榧寺(かやでら)の近くに来ると、数人の追い剥ぎが刀を抜き、決まり台詞を言いながら、駕籠の中を覗くと、「ん?!、既に終わったかぁ」。

 


 

 時は慶応4年、春はまだ浅き頃。所は蔵前通り厩橋橋詰め、榧寺そば。主役は遊び好きで突っ張っている江戸っ子。敵役は維新、地に落ちた侍達。そして脇役は、客を乗せるのが商売なのに、自分も悪のりする駕籠屋。江戸っ子好みの茶目っ気溢れる中に、庶民の社会風刺が脈々と流れる、実話をもとにした痛快な落語です。

右版画;「近世奇説年表」大判錦絵 明治7年(1874)月岡芳月画
 文久3年(1863)頃には、江戸の豪商の店先に押し入り、攘夷を唱えて金品を脅し取る浪士が少なくなかった。「文久日記」にも同様の事件があった事が記されている。籠屋を脅して、吉原遊客から追い剥ぎまがいのことをするのは、朝飯前だった。
2012.10.追記 クリックすると大画像になります。 


1.
御蔵前通り(今の江戸通り=国道6号線・水戸街道)
 厩橋(うまやばし。当時は未だありません)から下流に江戸時代、隅田川の右岸(西側)に幕府の米蔵が置かれていたので、その米蔵の西側を南北に走る街道をこの様に御蔵前通りと呼んだ。現代の蔵前橋(蔵前橋)通りは蔵前橋を渡る東西に伸びる道路を呼ぶが、当時とは名前は似ているが、全くの別の道であった。蔵前橋のたもとに第二次世界大戦後は国技館が建てられたが、今は下水ポンプ場になって、国技館は橋を渡った南側、JR両国駅の北側に移転しています。
 当時の御蔵前通りは南に行くと、寛永13年(1636)に架設された浅草橋があった。そこに浅草橋御門、別名浅草橋見附があり、江戸市中に入って行きます。落語「宿屋の富」や「御神酒徳利」の中の馬喰町を過ぎ、小伝馬町、室町から江戸城に至る。また、室町を左に曲がれば日本橋に出ます。

 御米蔵前の南端の所に小さな橋が架かっていて、その名を「鳥越橋」俗に「天王橋」と呼ばれていた。演者によってはここで街道先を覗いて、「追い剥ぎが出たときは駕籠をほっぽり出すので、歯をしっかり咬んでおいてくれ」と、言う場面がある。また逆に、北に進むと浅草、浅草寺(せんそうじ)を過ぎ、日本堤通りに出ればその先は吉原です。吉原に通うにはどうしてもここ、首根っこのお蔵前を通らなければならなかった。昼間はたいそうな賑わいを見せているが、日が暮れると真っ暗闇の寂しい所であった。
 

2.御米蔵
 幕府の御米蔵があった。今の厩橋南から蔵前橋を過ぎた所(台東区蔵前1,2丁目、柳橋2丁目の一部)まで、 鳥越神社の丘を崩して埋め立てて、長さ600m近くの櫛の歯の様に川に突き出して桟橋のようになっていました。下の地図でもお分かりのとおり、上流から1番堀、2番堀・・・8番堀まであり、そこに全国から船で江戸のここに米が運ばれて来ました。陸揚げされた米は、御蔵前通り平行して 67の蔵が建ち並んでいた米蔵に納められた。それが御米蔵で62万5千俵(三万七千五百トン)の米を備蓄してあった。
 幕府の備蓄米として貯蔵され、また一方で、当時は各大名や武士に渡される”禄”は現物支給のこの「米」であった。各大名は石高で貰う米の量は決まって居たが、貨幣経済の社会では自家消費分以外は、現物で貰ってもどうしようもなかったので、札差しと呼ばれた換金商または米問屋が御蔵前通りの反対側に354軒の店を並べていたので、そこで換金をした。1割以上の手数料を取って、商売をしていたので大変な稼ぎであったと言われています。
 買われた米は米問屋を通じて、江戸市中に出回り、江戸市民の胃袋に収まった。また、地方へも運び出された。

 話は飛びますが、4番堀と5番堀の間だの桟橋状の陸地の先端に形の良い松が植えられていた。この松が「首尾の松」で、大川(隅田川)の一つの名勝でも有った。落語の中にもここを題材にした「船徳」や「あくび指南」等の噺が幾つかあり、追々そのことも書いていきたいと思っています。

3.榧寺(かやでら。蔵前3−22−9)
 正式名称を浄土宗 池中山盈満院正覚寺と言われたが、俗称の榧寺が近年正式名になった。当時の厩橋は今より下流に架けられていて、当時の南北に走る御蔵前通りに、”T”字型に接続されていた。今は厩橋を通る東西に走る道、春日通りに榧寺は面していますが、この道が出来た為に北面を削られ、御蔵前通りに面して立っていた大門は、今は第一勧銀になってしまい、やせ細ってしまった。

 榧寺由来記より。幕府が江戸を開く前、今から約400年以前、この地に樹齢千年以上たった大きな榧の木が有った。一人の僧がこの木の下に庵を建てて、秋になると榧の実をお菓子代わりに振る舞っていた。ある日、山伏が訪ね来て、僧の好きな碁で賭をして負かし、その代償として美味しい榧の実を貰い受ける約束をして立ち去る。秋になると榧の実は一つも成らなかった。冬、その山伏が訪ね来て遠江の秋葉であると名乗り、当方では沢山の榧の実が成った事のお礼をして、そのお礼に今後火難から守ってあげようと言い残す。その山伏は秋葉権現でその後江戸では何回かの大火があったが、享保9年の冬に一度類焼しただけであった。(榧寺縁起より)

 この榧寺の直ぐ裏に「阿武松」、「元犬」の中の舞台、蔵前八幡(蔵前神社)が有ります。
 

4.宿駕籠と辻駕籠
 
宿駕籠は今のハイヤーのようで、担ぎ手は店に雇われ生きのいい若者が、仕立てのいい駕籠で送り迎えをしていた。料金も高く、祝儀も弾まなければならなかった。しかし、「江戸勘」の提灯を棒端に下げた駕籠で乗り付けると、幅が利いたので、見栄の世界では高くても宿駕籠を利用したがった。辻駕籠はタクシーのように、流していて、客の居そうな所で客待ちをしていた。落語「蜘蛛駕籠」にもあるように、街道筋の茶店などで客を引いていた。当然個人営業(二人でも)で料金が安かったので、駕籠本体の多くは宿駕籠のお下がりを使っていた。

 江戸三大駕籠屋とは噺の中に出てくる、蔵前茅町(かやちょう=浅草橋1,2丁目と柳橋1,2丁目の街道よりの所、浅草橋を渡って北側直ぐの所)の駕籠屋「江戸勘」、日本橋本町(日本橋本町4丁目)「赤岩」と新橋芝口(新橋=銀座通り首都高下から第1京浜国道の両側)「初音屋」が有名だった。この、「初音屋」については、志ん朝、金馬は芝神明(浜松町1,2丁目=JR浜松町駅西口前)にあったと言っていた。

 先代金馬は江戸庶民は”鰻と駕籠”は高嶺の花だったので、一度は食べたり乗りたかったものの代表であった。と言っています。鰻は落語「たがや」で侍と喧嘩をする”たがやさん”が、「二本差しが怖くて街を歩けるか!気の利いた鰻なんぞは三本も四本も指していらァ〜、そんな鰻食ったことがあるめェ〜。俺も食ったことはネーが。」とタンカを切るが、その位あこがれであり高嶺の花であった。同じく「子別れ・下」の後半の部分で、熊五郎、自分の女遊びの不始末で、分かれた息子”亀ちゃん”とバッタリ再会して、明日そこの鰻屋でご馳走をしようと約束する。鰻屋で食事を共にすると言うのは、職人にしてみれば大変なことであった。また、熊五郎が、それが出来るまでに、なっていたのである。そして駕籠は、高かった。職人の手間賃が1日300文ちょっとのところ、日本橋から吉原大門まで駕籠賃が800文だったと言われている。その位贅沢であった。駕籠で吉原通いなぞ勘当物であったし、事実「勘当箱」といわれた。後々の噺で大川を行く「勘当船」と言うのもあった。
 

5.暮れ六つ
 夕方の6時頃。正午が九つ、2時間後の2時が八つ、そのまた2時間後が七つ、そして暮れ六つ。そして2時間後の8時が五つ、10時が四つ、深夜0時がまた戻って九つといった。時間計算は昼夜が同じ長さの時で、通常は日の出から日没までを等分して計った。日中の長い夏は一刻(時)も長く、反対に冬では短かった。



 
 
 舞台の蔵前を歩く。


 
晩秋の日が落ちるのは早くて、5時頃だというのにもうライトをつけた車が行き来しています。浅草橋から吉原方向に向けて、暮れ六に江戸通り(御蔵前通り)を歩き初めます。ここは浅草橋御門、別名浅草橋見附があり、橋を渡った左側にその碑が建っています。この道は片側3〜4車線もある広い道で、昔の面影は全くありません。直ぐ先のJR浅草橋駅のガードをくぐる頃はネオンやビルの明かりが灯り、人形店のウインドーの華やかさ等、駅前の賑やかさは大変なもので、人出もさすがです。
 駅を越えて間もなく、右側に交番のある交差点辺りが、元・天王橋ですが、埋め立てられて当然水路も橋も有りません。ここら辺りから、右側に御米蔵が有り、左側に札差しや米問屋が軒を連ねていたはずですが、面影無し。直角に交わる今の蔵前橋通りを右に曲がり、その先の蔵前橋たもとにある浅草御蔵跡の石碑を見ます。橋の中央まで足を延ばすと、もう日は完全に落ちて回りは暗くなっています。橋の上から見る上流の厩(うまや)橋が目の前に見えて、川面に映る明かりが情緒を盛り上げますが、写真にはツブツブの明かりが見えるだけで、残念ながらアップ出来ません。
 江戸通りに戻りその先を目指して歩き始めますが、先ほどの駅前の雑踏とは比べようの無いほど暗くなってきました。街灯は点いていますが、歩いている人の数が激減してきました。時々夕闇の中を自転車や人が歩いて来るのがお慰めです。いくら日曜日だと言っても寂しすぎます。気になるせいか、やたら自動車ばかり走りすぎて行くようです。
 その先の厩橋交差点、益々人通りが少なくなりました。まだ6時を回ったばかりだというのに、なんて言うことでしょう。都心の休日の静けさは知っていますが、それと同じくらい寂しい所です。オッと、そこは厩橋交差点、追い剥ぎが出てもおかしくはない。本当にそういう気分に成ってきました。
 左に曲がると、そこに榧寺が有り、本堂の扉がライトアップされて浮き上がっていました。入り口のバス停に1人だけバスを待つ人がいますが、田舎の街道筋にぽつんと人が居るようで不思議な感じがします。この春日通りの下には地下鉄が走る都会なのに。

 

地図

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写真

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蔵前通り(江戸通り)
浅草橋上から浅草方向を見る。前方に浅草橋駅のガードが見えます。夕闇が迫ってきているので、車もライトを点け始めた。
浅草橋見附跡
浅草橋を渡った左手に建つ碑。本来は橋の手前、江戸よりの所に、浅草橋御門があり、そこが別名浅草橋見附があった。見附とは警護所のことで、ここでいろいろ取締をした。
御米蔵跡
蔵前橋左手のたもとの所に有ります。当時はこの橋はなく、ここはちょうど南北に長い米蔵の中程の位置に当たります。
米蔵の跡にはNTT、蔵前工高校、蔵前警察、中学校、蔵前下水道局(ポンプ場)、税務署等やオフィスビル等が密集しています。
榧寺
ライトアップされた本堂の正面扉。徳川家葵の御紋が、浮き出ています。徳川家康公の師、増上寺中興、晩年榧寺を創建隠棲された普光観智国師による。
史跡として、狂歌の石川雅望、日本画の勝川春亭、久保春満、洋画の安井曾太郎、梨園の中村吉之丞、市川九蔵、浄瑠璃の初代竹本綾乃助の墓があります。

                                                        2000年秋・記

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