落語「松葉屋瀬川」の舞台を歩く

  
 

 三遊亭円生の噺、「松葉屋瀬川」によると。

 

  大店(おおだな)下総屋善兵衛の二十歳になる息子・善治郎が本ばかり読んでいて、それでは硬すぎるし身体にも良くないので、浅草の方まで番頭と無理矢理散歩に出掛けた。横山町二丁目から浅草橋まで来た。浅草見附けから茅(かや)町、瓦町(かわらまち)、閻魔様を参拝して、蔵前を通って蔵前八幡から黒船町。諏訪町、駒形堂、風雷神すなわち雷門、仲見世、伝法院の前の灯籠、五重の塔、浅草寺の額、と見て回ったが喉も渇いてきた。番頭が案内するつもりが博学の若旦那に逆に教えてもらった。無料のお茶を飲んで 一服した。
 随身門を出て馬道から田町、土手に突き当たって左に曲がり、左手に見返り柳、大門、中にはいると仲之町、そこが吉原。そこは良い所ですよ。国元から手紙で子どもを遊ばしてくれと、50〜100両は用意するからと言ってきているのでどうですかと言えば、それを押さえるのが番頭ではないかと逆に説教されてしまった。
 若旦那が用を足していると、なじみの幇間、崋山(かざん)に逢った。後日若旦那を連れ出すので、私に任せなさいと言う事で別れた。

 翌日、大店のご主人然として崋山が店に訪ねてきた。酒席で取りなす幇間より一回り大きな、旦那然とした品格の高い先生の様な風格で、幇間の様子はどこにも見えなかった。
 「読書もイイが花もイイ。 花を活ければ」と、崋山が活けたのをお手本にしなさいと言って帰っていった。何日か習い事に来宅したあと、両国の花の発表会に連れて行った。番頭は吉原かと思ったがそのまま両国から帰ってきた。その間遊び事の”あの字”すら言わなかった。5日ばかりパタッとこなかった。心配していると今日は吉原でお花の会だと訪ねて来た。「吉原だから同道してはいけない」と、「いけない」と言われると行きたいもの。逆にお願いして吉原に連れて行ってもらった。

 吉原揚屋町の家(実は幇間吾朝の家)に入ると、お花を活ける為と花魁が訪ねて来た。松葉屋の瀬川という十八になる花魁(おいらん)、後光が差す様な”い〜〜ぃ女”、花を活けて善治郎に軽く会釈してニコッとして出ていった。直ぐ使いが来て、奥の人に失礼したと言って竹村の三重の折りを差し入れてきた。お返しをしなくてはと値踏みをすると5両は出さなくてはいけない、遊ぶとすれば6両掛かる。 「では6両で遊んできますと」、 若旦那の善治郎。
 翌朝(すいません、飛ばして)、迎えに行くと、出てきた瀬川の寝起きでも綺麗な事と品格のある事、善治郎は居続けすると言う。崋山も幇間だと知られてしまったが、一緒に帰ってきた。それ以来夢中になって通い出し、6ヶ月通って800両、今の金で6400万円使って勘当されてしまった。

 善治郎、死のうと思って永代橋でぼんやりしていると、元、店の忠蔵という者に拾われた。 麻布谷町で貧乏紙くず屋をやっていたが、そこで居候する事になった。一月もすると善治郎も心変わりして真っ直ぐの男になっていた。手紙を書くから瀬川の所に持って行って欲しいと頼んだが、お金で動くのが花魁だから無理だという。熱心に頼むので吉原 ・ 揚屋町の幇間吾朝(ごちょう)に手渡して、花魁に渡してもらった。返事を待っていると、花魁は善治郎は死んだものと思っていたので、床に伏せっていた。返信も書けないぐらい興奮して、後で文はしたためるからと、5両の金を持たせてくれた。
 中一日おいて吾朝が瀬川からだと、手紙と善治郎に20両と忠蔵の女房に世話になっているからと5両を持ってきた。手紙には「貴方に会いたいから雨の降る日に会いに行く」と書いてあった。「それは”郭抜け”で不可能に近いし、見つかれば年期が増えてなお貴方とは会えなくなりますよ」、と忠告しても耳に入らなかった。

 それからというものは天気の事ばかり聞くようになったが、相手にもしなかった。その日は朝から雨が降ってきた。夜にならなければ瀬川は訪ねてこないので、やきもきしていたが、”八つ”(深夜2時)ごろ雪の中駕籠が止まると武家仕立てで入ってきた。大小の落とし差しを取り合羽を取ると燃え立つような緋縮緬の長襦袢、頭巾を取ると洗い髪に珠のかんざしに髪を巻き付けて、ス〜ッと立っている様は綺麗〜な事! 二階の善治郎が聞きつけて下を見ると瀬川が立っているので、思わず階段を踏み外してしまった。「あ〜イタイ!」、「私もアイタかった」。
 吾朝が手はずを整えて、瀬川を抜けさせたものであった。

 その頃親父は大病で寝ていた。そこに詫びを入れたので許され、家に戻った。家から瀬川を身請けして、仲人を立てて二人は夫婦になった。傾城(けいせい・契情=太夫、遊女)瀬川の実意でした。
 

 

 後編を「雪の瀬川」と言います。円生のこの噺は人形町末広亭で行われた独演会で1時間25分にわたる長演であったが、引きつけて離さない熱演であった。

■噺は3月15日番頭と浅草浅草寺に遊びに出かけて、幇間崋山と出会う。
崋山とお花の練習などで半月達ち、4月の初め。
吉原通いが高じて、半年後10月、勘当される。
11月、くず屋の忠蔵に拾われる。
12月、手紙を持って吉原へ
年改まって1月、雪の降る深夜に瀬川が訪ねてくる。
春、勘当が許され、親元へ。そして善治郎と瀬川は夫婦に。
(噺は全て旧暦の世界、一月足すと今の暦になります。瀬川が来るのは雨が雪になる寒い時期です。)

 


 

1.崋山(かざん) 神田お玉が池に住む幇間 
 
先生風の貫禄を持った幇間で、善治郎に吉原の良さを教えた。いえ、教えすぎた幇間。神田お玉が池は(千代田区神田岩本町辺り)は靖国通りと昭和通りの交差する辺りに有った大きな池。この池に恋の悩みからお玉さんが入水自殺した。その名前を取ってお玉が池と呼ばれるようになった。その池は明暦3年(1657)振り袖火事で出た残骸で埋め立てて、池の名前が地名になった。しかし、今はこの地名もない。
 落語「
紺屋高尾」に出てくる、久蔵さんを吉原に案内する医者の竹之内蘭石先生がやはりここに住んでいた。
 話変わって、坂本龍馬が江戸に出てきて、北辰一刀流千葉貞吉の道場に入門したが、本道場(本家)にあたる、大千葉道場がここ、神田お玉が池に有った。
第26話「佃祭り」より

宇治吾朝(ごちょう) 吉原揚屋町に住む
 
善治郎を吉原遊びに仲介する幇間。綿密な計画で”郭抜け”をさせたのも彼です。
 

2.台屋=仕出し屋、
 
台屋(だいや)は遊郭の見世に料理をデリバリーする仕出し屋さんの事。飯台に入れてくるのでこう呼ばれた(円生談)。決してダイヤモンドが入っていたなんて事はありません。
  竹村の三重の折、
吉原・揚屋町にあった有名な台屋で、そこで出された仕出しの折り詰めお重が3段になっていた。最近はお重は正月のおせち料理にしか使われなくなったが(当家では)、当時はごく普通に使われ、お花見や観劇には料理を詰めて持参した。
 

3.松葉屋半蔵の花魁瀬川
 
一枚画に描かれたほどの花魁。錦絵に描かれる花魁は何人かの集合似顔画が普通ですが、それを一人で描かれるほどの人気者であった。十八になる花魁(おいらん)、後光が差す様な”い〜〜ぃ女”であった。
 

4.麻布谷町、紙くず屋の忠蔵
 
落語「井戸の茶碗」に出てくる、くず屋・清兵衛さんが住んでいた麻布茗荷谷(港区六本木一、二丁目) がここです。くず屋さんは皆ここに住んでいたのでしょうか。
 
首都高速道路4号新宿線と都心環状線が交わる、谷町インターチェンジにその名を残しています。単に谷町(丁)と呼んだ。
 

5.梅若塚 木母寺 埋和歌塚 業平の歌を埋めた
木母寺(もくぼじ、墨田区堤通2−16−1)
梅若塚(埋和歌塚)があり、”梅”の字を分けて木母寺とした。
謡曲「隅田川」の舞台となった寺で、元は「梅若寺」と呼ばれていた。
梅若伝説は亡き子(梅若丸)を思う母(花御前)の悲痛な姿を描いた悲しい物語。
梅若寺は梅若丸墓所に1本の柳と側に貞元元年(976)に建立した念仏堂(梅若堂)から始まった。慶長12年(1607)前関白の近衛信伊が参拝しこの時、木母寺と改名された。
 和歌を埋めたので梅若塚ではなく”埋和歌塚”だと語っていますが、それは噺を面白くするためのこじつけです。木母寺説)


6.三浦屋内濃紫(こむらさき)、玉梓(たまずさ)
 
浅草寺に額を贈ったと言われる太夫二人です。
吉原の太夫、  吉原の太夫と言う名称は最高級の遊女で初期の頃には大勢いたが、育て上げるまでに時間と資金が掛かったので、享保(1716〜)には4人に減り、宝暦10年(1760)には玉屋の花紫太夫を最後に太夫はいなくなった。
 太夫というのは、豪商、大名相手の花魁で見識があり美貌が良くて、教養があり、吉原ナンバーワンの花魁。 文が立って、筆が立ち、茶道、花道、碁、将棋が出来て、三味線、琴、太鼓、木琴?の楽器が出来て、踊りが舞えて、歌が唄えて、和歌、俳諧が出来た。それも人並み以上に。借金の断りもできた? (志ん生説)と言う万能選手です。 


7.
横山町から浅草寺、番頭が善治郎を案内した町並みと道順 
横山町二丁目(中央区日本橋横山町、中央)
 3丁目まであってその中ほどの町。文楽演じるところの「富久」の火事で駆けつける旦那の御店(おたな)がここにありました。

浅草橋、浅草見附け(中央区と台東区の境を流れる神田川に架かり浅草につながる奥州街道(江戸通り=水戸街道)の橋)
 寛永13年(1636)に架設された浅草橋があった。そこに浅草橋御門、別名浅草橋見附があった。この橋の東側に柳橋が架かっていた(今もあるが)。北側に柳橋花柳界があり、橋際には船宿が沢山あります。善治郎は崋山と吉原に連れて行ってもらう時、ここから船に乗って吉原の見世に上った。

茅(かや)町(台東区柳橋1丁目と浅草橋1丁目の街道沿い)
 茅葺き屋根の家が多く防火上も危険なので瓦葺きの家に直したが、おごってはいけないと言うので昔の名前を残した(円生談)

瓦町(かわらまち。台東区柳橋2丁目と浅草橋2丁目の南側街道沿い。須賀神社手前まで)
 昔ここら辺りで屋根瓦を焼いていたが、家数も増えて危険になってきたので、瓦屋は今戸(浅草寺の北)に引っ越した。その跡なので瓦町と言った。(円生談)

閻魔様(閻魔堂跡。浅草橋2丁目−28−14玩具会館)
 閻魔の頭を彫ったのは仏師清左衛門で、盆と正月にレプリカから本物にすげ替えられる。(円生談)
閻魔堂の本尊は運慶作の閻魔大王で1丈6尺(約4.8m)の大きなものであった。と伝わっていますので、円生の噺は作り話です。ここは、1月と7月の藪入りの15.16日に縁日が開かれ、表通りの天王橋(須賀橋)まで露天が並び多くの参拝者で賑わった。しかし、関東大震災で運慶の閻魔大王とお堂が焼失。杉並区に移転したが、これも大空襲で焼けたが新しい本尊は戦災から免れ天台宗華徳院(杉並区松ノ木3−32−11)に安置されています。
 閻魔堂跡は須賀神社の裏側にその跡を残しています。小さな碑が玩具会館の脇に建っています。

蔵前(台東区蔵前1,2丁目、柳橋2丁目の一部)
 幕府の御米蔵があったので蔵前。今の厩橋南から蔵前橋を過ぎた所まで、鳥越神社の丘を崩して埋め立てて、長さ600m近くの櫛の歯の様に川に突き出して桟橋のようになっていた。上流から1番堀、2番堀・・・8番堀まであり、そこに全国から船で江戸のここに米が運ばれてきた。陸揚げされた米は、蔵前通りに平行して 67の建ち並んでいた米蔵に納められた。それが御米蔵で62万5千俵(三万七千五百トン)の米を備蓄してあった。
 幕府の備蓄米として貯蔵された。また一方で、当時は各大名や旗本、御家人に渡される”禄”は現物支給の「米」であった。各大名は石高で貰う米の量は決まって居たが、貨幣経済の社会では自家消費分以外は、現物で貰ってもどうしようもなかったので、札差しと呼ばれた換金商または米問屋が蔵前通りの反対側に 354軒の店を並べていたので、そこで換金をした。1割以上の手数料を取って、商売をしていたので大変な稼ぎであったと言われている。
第10話「蔵前駕籠」より

蔵前八幡(台東区蔵前3−14−11蔵前神社)
 落語「元犬」の舞台です。現在、蔵前神社と言い、ここでたびたび相撲興行が行われた。当時は広かったが今は狭くて人々が集まれるだけの境内が無い。
 江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎したのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と名を変えている。
 相撲とは縁が深く、天明年間には、大関谷風や関脇小野川が、寛政年間には大関雷電などの名力士もここで活躍した。天明2年(1782)2月場所7日目、安政7年(1778)以来実に63連勝中の谷風が新進の小野川に「渡し込み」で敗れた一番は江戸中を騒がせた。現在の『縦番付』は宝暦7年10月、当神社で開催された本場所から始まった。宝暦11年(1761)10月場所より従来の勧進相撲が『勧進大相撲』になり、その後の「全勝負付け」も現存している。明治時代には「花相撲」も行われた。
 勧進大相撲が宝暦7年(1757)10月に始まり文政と約70年の間に、ここで23回行われ、両国回向院、深川八幡宮、とここ石清水八幡宮が三大拠点の一つであった。 
第6話「阿武松」 、第15話「元犬」より

黒船町(台東区蔵前2丁目北側、厩橋西詰め辺り)
 黒船忠右衛門が住んでいたので、この名が残った。(円生談)

諏訪町(台東区駒形2丁目南側)
 この地にある諏訪神社(駒形1−4−15)から町名になりました。長野県諏訪神社の分社です。

駒形堂(台東区雷門1−1。駒形橋西詰め北側)
 駒形堂は天慶五年(942)創建で大変古くから有り、大川から見ると駒が駆けているように見えたので、この様な名前になった、とも言われます。 この地は浅草寺の本尊、黄金の観音様が揚がった由緒深い所ですが、花川戸河岸説もあります。北斎、広重などが浮世絵の題材にしている。堂は関東大震災で焼けたが、昭和8年、現在の堂に再建された。焼ける前はもう少し南側の駒形2−4に有った。

風雷神すなわち雷門(浅草寺の入り口)
 慶応元年(1865)焼失した門を昭和35年5月、95年ぶりに松下幸之助氏(松下電器創業者)の寄進により再建された。「風神・雷神像」、「天龍・金龍像」を奉安する。 有名な大提灯は幅3.4m高さ4m重さ670kg有る。


8.浅草寺から吉原へ 番頭が善治郎を浅草寺境内から連れ出そうと説明した道順。
随身門(二天門)
 二天門は重要文化財で浅草寺に元和4年(1618)に「東照宮」が建立された際、その「随身門」として建てられたもので、「増長天」「持国天」の二天をまつるためこの名があります。

馬道(馬道通り)二天門を出たとこの南北に走る道路。
 道の名前でもあり町名でもあります。町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。

田町(浅草5丁目北側)
  吉原の南に「吉原田んぼ」が一面にあり、その隣に「田町」が有った。その南が浅草寺である。大門から歩いて浅草寺まで約10分ぐらい。落語で「田町」といえば、此処のことです。    

土手(山谷堀の土手、今は山谷堀公園)に突き当たって、左に曲がり左手に見返り柳、衣紋坂を入るとそこが大門(千束4−33辺りに有った門。おおもん)。
 今、山谷堀は埋め立てられて、山谷堀公園と名を変えましたが、川の位置がそっくり緑道風の公園になっています。男連中は早足でこの土手を、大門に向かって歩いたのです。

中にはいると仲之町、そこが吉原(千束4丁目と3丁目の一部)。

 善治郎と崋山は横山町二丁目から浅草橋の東側、柳橋の船宿から船で待乳山に、山谷堀の土手を歩き、見返り柳を見ながら衣紋坂を通って大門を入ると、吉原・仲之町通りに入ります。そのきらびやかさは例えようが無かったと言われています。その通りの左右には引き手茶屋がずらりと並んでいますし、その奥に見世が並んでいます。大門をくぐって最初の通りが江戸一、江戸二丁目、次の角の通りが左に曲がると角町、右に曲がると揚屋町です。その中に台屋の竹村や松葉屋半蔵の見世が有ったのでしょう。幇間・吾朝もここに住んでいました。

 



  舞台の横山町から浅草寺を歩く
 

 横山町は繊維関係の問屋さんが集まった町です。日曜日ですからどこもシャッターが閉まって淋しいぐらいの町並みですが、平日は大変な人出なのです。これから横山町を北に抜けて浅草寺まで歩きます。すると靖国通りの交差点”浅草橋”に出ます。
 その先が東西に流れる神田川、その上に架かるのが”浅草橋”。この上から右(東)を見れば「船徳」で紹介した船宿とその先に”柳橋”が見えます。渡った左側に”浅草橋見附跡”の石碑が建っています。進行方向を見ると総武線のガードとその左にJR浅草橋駅が見えます。この辺りが”茅町”人形の店が並ぶ先が”瓦町”。その先に「後生うなぎ」で紹介した”須賀神社”が左に現れます。ここの宮司さんにお聞きしたところ、”焔魔堂跡”まで案内してくれました。有り難い事です。

 その先が現在、橋は無くても”天王橋”、例の交番が有る所です。その先右側が”蔵前”幕府の御米蔵が有った所で左側には札差しや米問屋が並んでいました。今は当然ありませんが、その”浅草蔵前跡”の碑が蔵前橋の西詰めに建っています。北にと江戸通りを歩きます。まもなく厩橋に近づきますが、その手前左側の1本奥の道に”蔵前神社”が有ります。ここが蔵前八幡と言われた所で、「元犬」の舞台になった所です。北隣が「蔵前駕籠」の舞台”榧(かや)寺”です。元の道に出ると、厩橋。その辺りが”黒船町”で、その先が”諏訪町”です。ここは左側に小さな諏訪神社が有ります。

 その先に有名な”駒形のどぜう”が有ります。店の外までお客さんが並んでいますが、美味しいのでしょうか。富士登山と同じように一度は登った方がいいのかも知れませんが、2度も登る山ではありません。その先、駒形橋の橋際に”駒形堂”が出てきます。この地に浅草寺の観音像が宮戸川(隅田川)から引き上げられて、安置された所です(諸説有り)。その先道がYの字になっていますので、右の川沿いに行けば吾妻橋から浅草寺、左に行けば正面が浅草寺の入り口”雷門”が見えます。その前では時代屋さんの人力車が観光客の袖を引いています。二人乗り、案内付きで三千円だそうです。若い娘さんの車夫も居ます。当然昔風の股引丼掛けで足袋裸足です。

 長い道のりを一緒にお付き合い、ありがとうございます。では、ご一緒に軽くビールでもいきましょうか、吾妻橋を渡るとそこがアサヒビールのビアホールです。そーです、「文七元結」の細川屋敷跡です。まずは乾杯!お疲れさま。

 

地図

 

 

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写真

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木母寺(もくぼじ、墨田区堤通2−16−1)
梅若塚があり、”梅”の字を分けて木母寺とした。
謡曲「隅田川」の舞台となった寺で、元は「梅若寺」と呼ばれていた。
梅若伝説は亡き子(梅若丸)を思う母(花御前)の悲痛な姿を描いた悲しい物語。
梅若寺は梅若丸墓所に1本の柳と側に貞元元年(976)に建立した念仏堂(梅若堂)から始まった。慶長12年(1607)前関白の近衛信伊が参拝しこの時、木母寺と改名された。
クリックすると、写真3点と梅若伝説、江戸名所図絵があります。

横山町二丁目(中央区日本橋横山町、中央)
 三丁目まであってその中ほどの町。衣料品問屋街の町で休みの日ですからガランとしていますが、平日が大変な人混みです。

 

浅草橋、浅草見附け(中央区と台東区の境を流れる神田川に架かり御成街道(江戸通り=水戸街道)の橋)
 寛永13年(1636)に架設された浅草橋があった。江戸城警備のため人を配したので、そこを浅草橋御門、別名浅草橋見附といった。この橋の東側に柳橋が架かっていた(今もあるが)。北側に柳橋花柳界があり、橋際には船宿が沢山あります。善治郎は吉原に連れて行ってもらう時ここから船に乗って山谷堀から吉原に上った。浅草橋上から見た柳橋、クリックした奥の緑の橋が柳橋です。

 

茅(かや)町(台東区柳橋1丁目と浅草橋1丁目の街道沿い)
 茅葺き屋根の家が多く防火上も危険なので瓦葺きの家に直したが、おごってはいけないと言うので昔の名前を残した(円生談)
 写真の奥の緑のガードがJR総武線で左側が浅草橋駅です。人形屋さんの多い町です。

 

瓦町(かわらまち。台東区柳橋2丁目と浅草橋2丁目の南側街道沿い。須賀神社手前まで)
 昔ここら辺りで屋根瓦を焼いていたが、家数も増えて危険になってきたので、瓦屋は今戸(浅草寺の北)に引っ越した。その跡なので瓦町と言った。(円生談)

   

閻魔堂跡(閻魔様。浅草橋2丁目−28−14玩具会館
 閻魔の頭を彫ったのは仏師清左衛門で、盆と正月にレプリカから本物にすげ替えられる。(円生談)、それどころか運慶作の堂々としたものです。
須賀神社の裏側にその跡を残しています。

  

蔵前(台東区蔵前1,2丁目、柳橋2丁目の一部、)
 幕府の御米蔵があったので蔵前。今の厩橋南から蔵前橋を過ぎた所まで、長さ600m近くの櫛の歯の様に川に突き出して桟橋のようになっていた。そこに全国から船でここに米が運ばれてきた。陸揚げされた米は、蔵前通りに平行していくつも建ち並んでいた米蔵に納められた。それが御米蔵であった。 札差しと呼ばれた換金商または米問屋が蔵前通りの反対側に軒を並べていた。浅草御蔵前の碑は蔵前橋西詰めに有ります。

  

蔵前八幡(台東区蔵前3−14−11蔵前神社)
 現在、蔵前神社と言い、ここでたびたび相撲興行が行われた。当時は広かったが今は狭くて人々が集まれるだけの境内が無い。落語「元犬」の舞台です。
 江戸城鬼門除けとして五代将軍綱吉が京都山城国より石(いわ)清水八幡宮を勧進奉斎したのが始まりで、昭和26年3月蔵前神社と名を変えている。

黒船町(台東区蔵前2丁目北側、厩橋西詰め辺り)
 黒船忠右衛門が住んでいたので、この名が残った。(円生談)
右奥の緑色の橋が厩橋で、ここは厩橋交差点です。

 

諏訪町(台東区駒形2丁目南側)
 この地にある諏訪神社(駒形1−4−15)から町名になりました。長野県諏訪神社の分社です。

 

駒形堂(台東区駒形橋西詰め北側)
 駒形堂は天慶五年(942)創建で大変古くから有り、大川から見ると駒が駆けているように見えたので、この様な名前になった、とも言われる。北斎、広重などが浮世絵の題材にしている。堂は関東大震災で焼けたが、昭和8年、現在地に再建された。

 

風雷神すなわち雷門(台東区浅草1−1)  
浅草寺の南の入り口。本堂より人だかりのある所(?)

                                                                                                            2003年4月記

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