落語「不孝者」の舞台を歩く
   

 

 柳家つば女の噺、「不孝者」(ふこうもの)
 

 ”どうらく”は道に楽しむと書きますが、道に落ちてはいけません。その、落ちるのが若旦那と決まっています。「貯めたがる使いたがるで家がもめ」、確かにその通りです。

 下男の清造(せいぞう)が帰ってきた。「若旦那と日本橋の山城屋さんに行ったのだが、謡いの会があるからそれを聞いたら帰るので、遅くなるので私だけ先に帰ってきた。後でお向かいに行きます」、「素謡いか、楽器が入るのか」、「太鼓が入って派手にカッポレなどやっていました」、「顔を見せなさい。顔に”お金をもらって嘘を吐いています”と書いてある。顔をこすってもダメだ。2分(ぶ。1/2両=4万円位)もらったな」、「いいや、1分だ」。
 「上がった場所は柳橋じゃないか。そうか、橋を渡った先の”住吉”か」、清造と着物を交換して頬被りをして、下男として柳橋の住吉にやって来た。

 迎えに来たと告げたが、若旦那はもう少し遊びたくて、下の空き座敷に旦那をほうり込んだ。女中が若旦那の差入れだとお銚子と肴を事務的に持ってきた。「バカ野郎。親をこんな部屋に通して。この酒だって若旦那からだと言うが、回り回って私の懐から出るんだ。あの不孝者は私を清造だと思っている、かぶり物を取るとその驚いた顔を見るのが楽しみだ」、2階の部屋では新内が始まって、「縁でこそ~~」と息子の声で良い感じになっている。、「ん、うめえじゃねえか。あれくらい唄える歳になったのか、でも芸者に習った唄はだから駄目なんだ。ちゃんと師匠と差し向かいで身に付けたもんじゃねえと・・・」と渋い顔になる。

 「八ちゃん居ますか。あ、ゴメンなさい。酔って部屋を間違えたようです」、突然芸者が部屋に入りかけてきた。「チョット待ちなさい。お前”欣弥(きんや)”ではないか」、「・・・まぁ~、旦那じゃありませんか。どうしたんですその格好は」、「大きな声で『旦那』はよしてくれ。これには訳があって・・・、ま、襖を閉めてこちらにお入り。嬉しいね、ここでお前に会えた上、お酌してもらえるとは・・・。綺麗になったね」、「やですよ。私はお婆ちゃんです」、「お前がお婆ちゃんなら、ここの芸者はみんなお婆ちゃんだ。それより青臭さが取れて、大人の魅力がいっぱいだ。ところで、今は世話をしてくれる旦那がいるのだろ」、「いえ、私は一人ですよ」、「それは芸者の決まり文句だ。いいんだよ、ここは二人っきりだから」、「怒りますよ。私を捨てたのは旦那ですよ」、「捨てませんよ。分かれたのは本当だが・・・。ま、聞いておくれ。あの当時は請け判を押してしまったせいで、店が危なく人手に渡る所だった。間に入ってくれた人が、こんなときに女を囲っていたのでは周りがほっておかない、それで手切れ金を持たせたが、本当は私が持って来たかった。それでは心がぐらついてしまうので番頭に持たせた。そのお陰で店も立ち直ったが、その心労でどっと床についてしまった。幸いに、元気を取り戻し、お前に会いたい気持ちが高ぶってきたが、逢って新しい旦那を見せつけられたら、私は苦しい。それできっぱりとお前の事はあきらめた。それ以来遊びも止めて、女っ気は何も無いんだ。ところで、どうしてお前ほどの女に旦那がいないのだ」。
 「本当は若い旦那が付いてくれたのですが、その男は2.3ヶ月後から遊び始めて、私の心をズタズタにしたのです。これではいけないと別れて、その後は恐くて旦那を持つ気にもなれなかったのですが、女ですね~、寂しい夜もあるでしょ、悲しいことや辛いことを聞いてくれる人が欲しいのは本当なのです」、「そうか、本当に一人なんだ。分かりました。こう言っちゃなんだが、お前を世話するぐらいの力はある。色気抜きで、お前の相談相手になってやろうじゃ無いか」。
 「旦那、嬉しいじゃないですか。昔を思い出しませんか」、「何か有ったかい」、「箱根から湯河原に回って、熱海で梅を見たでしょ。あの梅は忘れませんよ」、「そうだったな。あの頃はお前も側に居てくれて、力もあってドンドン仕事をしたもんだ。これからは仲良くいこうじゃないか。昔馴染みっていいもんだ」、「旦那、今度いつ逢ってくれます?」、「明日はイケナイが明後日にしよう。分かった、そこに行くよ」。
 「旦那、ホントに約束ですよ」、「それより、私が行ったら若い旦那が出てきたりして・・・。痛いな、そんなとこツネったら」。
 しなだれかかる女の化粧の匂いとビンのほつれ毛、島田が傾き、肩に掛かる旦那の手に力が入る。「お伴さ~ん、若旦那がお帰りですよ」、「チェ、親不孝者め」。 

 



1.花柳界

 芸娼妓の社会。花街。東京には赤坂、新橋(銀座)、神楽坂、浅草、芳町(人形町)、向島等があり、ここでは柳橋を指しています。

三業地料理屋・待合・芸者屋の三業がともに営業することを許可された一定の地域。
 三業組合;三業地における営業者間で組織する組合。
 待合;待合せのために席を貸すことを業とした見世。今は客が芸妓を呼んで遊興する見世。待合茶屋。揚屋。
 若旦那はここで多いに羽を伸ばしていたのでしょう。
 芸者と徹底的に遊ぶにはこの待合で、料理、宴会を楽しみながら芸者さんに接客してもらうには料理茶屋へ。

柳橋(町);子規の句で、
 「春の夜や女見返る柳橋
 「贅沢な人の涼みや柳橋
と唄われるように、隅田川に面していて両国橋西詰めから神田川が合流する、その際に架かった柳橋を渡ると、その北側には柳橋と言う町があって、その柳橋花柳界で金持ちは遊んだ。江戸っ子というと職人さん達や小商人さん達ですが、大店の旦那衆は金銭感覚が違っていて、ここは職人達がおいそれと遊べる所では無かった。
 江戸が明治に変わり、新政府に仕える元武士達が東京に大勢入ってきた。その時江戸っ子はその者達を粋さが無いと馬鹿にして軽蔑した。吉原でも同じようにその者達を軽蔑して楽しく遊ばせなかったので、彼らは柳橋や赤坂で遊ぶようになった。ために、柳橋は多いに賑わった。
 また、両国の花火では多いに賑わい、そのスポンサーとしての地位を築いていたが、隅田川の護岸が高くなり川面が見えなくなってしまった。それに輪を掛けて、高度経済成長期であったので、隅田川の水が墨汁のように真っ黒く染まり、悪臭を放って遊びどころでは無くなった。その為、客が激減して営業が成り立たなくなり花火も中止になり、街はマンションや事務所ビルに変わっていった。しかし、現在でも幾つかの料亭は続いています。私の調べでは、和風造りの「傳丸」、ビルの1階で「亀清楼」の2軒が営業していますし、夜になれば料理屋さんとして店を開くであろう和風の昔ながらの店もあります。
 しかし、芸者の元締め、見番が無くなって久しい。と言うことは、残念ながらこの柳橋には芸者が現在絶滅して一人も居ません。
 落語「一つ穴」より加筆
 柳橋について、この他に一つ穴で詳しく説明しています。

 

2.芸者
 まずは芸者と花魁の違いを。花魁は艶を売る商売ですから、服装も髪型も化粧も派手やかで男を引きつけます。芸者は原則、艶のお相手はしません。芸を売るのが商売ですから、花魁から比べると一段引き下がって外見は地味造りです。その芸も唄、楽器、踊り、酔客に楽しく遊ばせるのも芸の内です。色気を売るのも女である芸者の武器ですが、幇間と言われる男芸者は色気で勝負は出来ませんので、芸を磨くだけしか有りませんので、”ヨイショ”だけでは勤まりません。
 吉原や岡場所(四宿)では花魁や女郎が居ますので、芸だけ売る芸者のレベルが高いのが分かります。しかしそれがゴッチャになっている所では、芸者が色目を使う様になるのも致し方が無い事でしょう。この噺の欣弥姉さんではありませんが、夜ごと男を変えることはありませんが、夫婦であったり、夫婦と同じ固定の相方が居ることもあります。そんなお姉さんに声を掛けても鼻も引っかけてもらえません。それを振り向けさせるのは若さでもイケ面でもなく”お金”だけです。

上図;「二人の芸者と仲居」天明の頃 無款(北尾重政画といわれる) ホノルル美術館蔵
これからお仕事に出掛けるところです。仲居が持っているのが三味線の入った箱です。

柳橋芸者;柳橋と呼ばれた地は江戸時代、柳橋を中心にその北側と南側を指していました。南は両国広小路南側までです。船宿は合計33軒あり、そのほとんどは芸者と客の仲を取り持つ芸者宿で有った。その揚代や酒肴の料金から1割5分前後の手数料を取っていた。芸者の玉代は昼夜2分。見習い(半玉。お酌)は芸者の半額。この玉代に祝儀(花)1分が付く。彼女たちの多くは柳橋の南、同朋町に住んでいた。彼女たちは辰巳芸者と同じように羽織芸者と呼ばれ、売れっ子芸者は年間100両は稼いだ。しかし、出銭も多く30両以上の稼ぎがないとやっていけなかった。
 衣装は5月5日から単衣になり、川開きの5月28日からすきや、縮みを着る。川開きの日は良い芸者ほど座敷には出なかった。吉原芸者より遠慮してワンランク下げた化粧や着付けをしていた。その吉原は日ごとにさびれ、柳橋は日増しに繁昌していった。安政6年には130~40人の芸者がおり、それでも休む日もないくらいに繁昌していた。
 柳橋芸者は薄化粧で意気がさっぱりしていて媚びない。それは江戸っ子気質で、どちらかというと深川芸者の気風に近かった。 

 

 柳橋の芸者さんは絶滅してしまいましたので、向島の芸者さんを紹介。2006年隅田公園お花見の茶屋にて。

 

同じく2009年同所にて。どの芸者さんが欣弥にあたるのでしょうか。どの写真、図もクリックすると大きくなります。

 

3.言葉
■謡い(うたい);能・狂言、また、それに近い芸能の歌唱。特に、能の謡を謡曲という。
【能楽】:日本芸能の一。能と狂言との総称。平安時代以来の猿楽から鎌倉時代に歌舞劇が生れ、能と呼ばれた。それに対して猿楽本来の笑いを主とする演技は科白劇の形を整えて、狂言と呼ばれた。両者は同じ猿楽の演目として併演されてきたが、明治になって猿楽の名称が好まれなくなり、能楽の名と置きかえられた。現在、観世(カンゼ)・宝生(ホウシヨウ)・金春(コンパル)・金剛(コンゴウ)・喜多(キタ)のシテ方5流のほか、ワキ方3流(宝生・福王・高安)、狂言方2流(大蔵・和泉)、囃子方14流がある。

 下記の新内とは大違い。遊び慣れた旦那だからこそ、その違いを一発で嗅ぎ分けました。

「縁でこそ~~」これは新内の代表的な曲である初世鶴賀若狭掾の作曲、「蘭蝶」の唄い出しです。
 新内はそもそも浄瑠璃から派生した三味線音楽ですが、もっぱら吉原の花魁と客の色恋が唄のテーマになっています。新内流し(写真上)は、「地」を担当する太夫(浄瑠璃の語り手または唄い手)と、「上調子」を担当する三味線弾きが二人一組になって、主に遊郭を流して歩いた。あまりにも真に迫って哀愁を帯びていたので、吉原の中で心中騒動が頻発したというので、流しを禁止したぐらいです。
 「蘭蝶」は、声色身振師市川屋蘭蝶は、吉原榊屋の遊女此糸(このいと)になじみ、妻お宮の真心と此糸への思いの板ばさみになって苦しみ、結局此糸と心中する。通称「此糸蘭蝶」。
 
新内の中でも代表的な作品で、冒頭で妻お宮が夫の不実をなじる台詞が、
「縁でこそあれ末かけて、約束堅め身を堅め、世帯堅めて落ち着いて、ああ嬉やと思うたは、ほんに一日あらばこそ~」と唄われます。
 
落語の中の旦那が芸者・欣弥に偶然再会し「縁でこそあれ~」と重なってくるのです。

請判(うけはん);請人が保証の証拠としておす判。連帯保証人。

お伴さん;下男であったり、丁稚(小僧)であったりと店の旦那によって違いますが、夜であれば提灯持ち、昼であれば荷物持ち、若い奥様のご新造や娘さんであれば、荷物持ちの他に警護も担当します。




 舞台の柳橋を歩く


 前回、落語「一つ穴」で歩いたときはご妾宅を探し歩いたのですが、今回は茶屋遊びの若旦那がいるであろう待合茶屋”住吉”を訪ねます。

 落語の噺では柳橋を渡って花柳界に入って行く道順になっていますので、京葉道路を渡す両国橋西詰めから北に入って行くと柳橋が現れます。この橋の下を流れる神田川に沿って西の浅草橋の先まで、船宿が両岸に並んでいます。その船宿の所有する船、今は遊覧のための屋形船が繋がれています。一昔前までの交通手段としての吉原通いの高速船・猪牙舟や数人で舟遊びをする屋根船は何処にもありません。また、看板は出ているのですが釣り船も見付けることは出来ません。落語「船徳」の徳さんが居候していた船宿もここです。時代なのでしょう、徳さんが自慢した腕を披露できる和船は、先程も言ったように絶滅しています。

 橋を渡った右側の隅田川に接する大きな茶色のビルが、落語「干物箱」の舞台、亀清楼です。橋の左側の船宿は佃煮屋に専門店化してしまった小松屋で、1~2千円で買い物しても手の中に収まってしまうほどしか佃煮が買えません。川の両岸には屋形船がぎっしり繋がれています。
 柳橋の街は飲食店でも小粋な店が幾つもありますが、芸者さんが居ないので花街とは言えなくなりました。街の中を詳しく見つめ直してみると、元お茶屋さんだったところが入口にベニアが打ち付けられて代替わりしているのでしょう。また、当時は確実にお茶屋さんだった建物が有るにはあるのですが、個人の表札がかかった住宅に変わってしまった所もあります。今でも盛り塩をして打ち水をすれば開店できるような建物も残っています。植木の緑が道にはみ出して無機的な街ではない、人間くささというか、人の営みが柳橋にはあります。

 

 隅田川に近い所に小さな石塚稲荷神社があります。ここに見る石の門や石の玉垣に花街が賑わっていた当時を彷彿させるものを見ることが出来ます。(写真上)それは、門柱や玉垣に刻まれた屋号や芸者達の名前です。現在も盛業中の亀清楼(亀清)も見つけ出すことが出来ます。残念ながら、住吉はその中にはありません。

 

地図

 
 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真



 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

柳橋 (神田川に架かる最下流の橋)
 隅田川から覗く神田川とそこに架かる柳橋。川の奥には船宿が並んでいます。また、右側の建物群が柳橋の街並みです。手前の茶色いビルが亀清楼がある建物で、現役として成業しています。



柳橋欄干の飾り
 欄干には飾りとしてカンザシがはめ込まれています。往年の花街を彷彿させる飾り物です。
 ここの欄干にもたれて川面を眺めている人達が居ます。私もつられて覗き込んだのですが何も変わったことはありません。で、よく見ると、皆さんタバコをここで吸っているんですね。

柳橋の中央通り (台東区柳橋一丁目と二丁目の境)
 柳橋を東西に走る交互通行の大通りで町名にちなんで柳並木になっています。柳橋の街中は大部分が一方通行で、走りにくいというか細い道が走っていますが、ここと柳橋上は例外です。

石塚稲荷神社 (台東区柳橋一丁目17)
 肩書きに火伏の神様と入っています。芸者さんとの火遊びでヤケドをしないためでしょうか。それよりは門柱に「柳橋料亭組合」、「柳橋藝妓組合」と彫り出されています。また玉垣には料亭の名前が入っていますし、有名所のお姉さん達の名も入っています。

医院 (台東区柳橋一丁目24)
 昭和のロマンが漂う素敵なたたずまいの歯科医院です。

料亭伝丸 (台東区柳橋一丁目6)
  現役で料亭として頑張っています。お昼のランチも提供していますから高級料亭の雰囲気を味わうのも如何でしょうか。

料亭跡 (台東区柳橋一丁目)
  現在も料亭を続けているのか、夜だけお酒を飲ませるのか、はたまた民家になってしまったのか。

料亭跡? (台東区柳橋一丁目)
 この店構えも、上記と同じで店舗として成り立っているのでしょうか。素敵な店構えなのですが。

                                                          2012年8月記

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