落語「不孝者」の舞台を歩く
柳家つば女の噺、「不孝者」(ふこうもの)
■三業地;料理屋・待合・芸者屋の三業がともに営業することを許可された一定の地域。
■柳橋(町);子規の句で、
上図;「二人の芸者と仲居」天明の頃 無款(北尾重政画といわれる) ホノルル美術館蔵 ■柳橋芸者;柳橋と呼ばれた地は江戸時代、柳橋を中心にその北側と南側を指していました。南は両国広小路南側までです。船宿は合計33軒あり、そのほとんどは芸者と客の仲を取り持つ芸者宿で有った。その揚代や酒肴の料金から1割5分前後の手数料を取っていた。芸者の玉代は昼夜2分。見習い(半玉。お酌)は芸者の半額。この玉代に祝儀(花)1分が付く。彼女たちの多くは柳橋の南、同朋町に住んでいた。彼女たちは辰巳芸者と同じように羽織芸者と呼ばれ、売れっ子芸者は年間100両は稼いだ。しかし、出銭も多く30両以上の稼ぎがないとやっていけなかった。
柳橋の芸者さんは絶滅してしまいましたので、向島の芸者さんを紹介。2006年隅田公園お花見の茶屋にて。
同じく2009年同所にて。どの芸者さんが欣弥にあたるのでしょうか。どの写真、図もクリックすると大きくなります。
3.言葉
下記の新内とは大違い。遊び慣れた旦那だからこそ、その違いを一発で嗅ぎ分けました。
■「縁でこそ~~」;これは新内の代表的な曲である初世鶴賀若狭掾の作曲、「蘭蝶」の唄い出しです。
■請判(うけはん);請人が保証の証拠としておす判。連帯保証人。
■お伴さん;下男であったり、丁稚(小僧)であったりと店の旦那によって違いますが、夜であれば提灯持ち、昼であれば荷物持ち、若い奥様のご新造や娘さんであれば、荷物持ちの他に警護も担当します。
落語の噺では柳橋を渡って花柳界に入って行く道順になっていますので、京葉道路を渡す両国橋西詰めから北に入って行くと柳橋が現れます。この橋の下を流れる神田川に沿って西の浅草橋の先まで、船宿が両岸に並んでいます。その船宿の所有する船、今は遊覧のための屋形船が繋がれています。一昔前までの交通手段としての吉原通いの高速船・猪牙舟や数人で舟遊びをする屋根船は何処にもありません。また、看板は出ているのですが釣り船も見付けることは出来ません。落語「船徳」の徳さんが居候していた船宿もここです。時代なのでしょう、徳さんが自慢した腕を披露できる和船は、先程も言ったように絶滅しています。
橋を渡った右側の隅田川に接する大きな茶色のビルが、落語「干物箱」の舞台、亀清楼です。橋の左側の船宿は佃煮屋に専門店化してしまった小松屋で、1~2千円で買い物しても手の中に収まってしまうほどしか佃煮が買えません。川の両岸には屋形船がぎっしり繋がれています。
隅田川に近い所に小さな石塚稲荷神社があります。ここに見る石の門や石の玉垣に花街が賑わっていた当時を彷彿させるものを見ることが出来ます。(写真上)それは、門柱や玉垣に刻まれた屋号や芸者達の名前です。現在も盛業中の亀清楼(亀清)も見つけ出すことが出来ます。残念ながら、住吉はその中にはありません。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2012年8月記
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