落語「ざる屋」の舞台を歩く
   

 

 金原亭馬生の噺、「ざる屋」(ざるや)によると。
 

 縁起担ぎはどこにもいるものです。
 ざる屋の吉兵衛さんの所に手紙を持った男がやって来た。ざるの売り子を頼んであったので、貴方がその売り子さんになる方ですね。ということで、これからざるを売りに出る事になった。大きいざるが5円、小さいざるが3円50銭、売り声は普通「ざる屋ァ〜味噌漉し」と売りますが、縁起を担いで「米が上がる、米上げざる」と売っていた。店の中で売り声をあげて、外に出たが店の前で売り声を上げる変わり者であった。

 街中に出ると声が掛かった。番頭さんからで、「家の旦那は株をやってて、上がると言う言葉が大好きだから気を付ければご祝儀が出るけど、下がる潰れると言うとポカッと頭を殴られるよ」と注意を受けて店に入っていった。
 主人暖簾があるから気を付けて」、
ざる屋「暖簾ぐらい跳ね上げてしまいます」、「うれしいね。跳ね上げるか」。
「荷物は商売ものだから上に揚げさせて貰います」、「うれしいね。揚げておくれ」。
仕事のじゃまをしているんだから」とご祝儀を渡される、「ホントですか。天にも昇るようです」、「うれしいね。では、もう一枚。貴方みたいな人にはちょくちょく遊びに来てほしいね。で、どこにお住まいか」、
「上野です」、「下谷と言わないで上野か。もう一枚あげよう。上野はどのへんだい」、「高台です」、「桜木町辺りかぃ。で、お名前は」、「上田登です」、「良い名前だ。もう一枚差し上げよう。酒の用意をしなさい。貴方は飲めるんでしょ」、「あっちに上がり、こっちに上がる、ハシゴで、だんだん上がるんです」、
財布ごとあげましょう。この財布には大分入っているがどう使います」、「さっと御茶屋に上がって、芸者、幇間を揚げて踊りを踊ります『♪上がる、上がる〜』」、
金庫ごと持って来い」。
 


1.上野(うえの、台東区上野&台東区上野公園=上野恩賜公園)
 上野恩賜公園は江戸時代初期、この地は津軽、藤堂、掘家の屋敷であったが徳川三代将軍家光は天海僧正に命じて寛永寺を建てさせた。寛永2年(1625)のことである。その後大きな変化もなく幕末を迎えるが慶応4年(1868)の彰義隊と官軍の戦争により寛永寺が焼失、一面焼け野原と化した。荒れ果てた姿のままであったが明治6年1月の太政官布告により公園地となった。
 恩賜公園のいわれは、大正13年に帝室御料地だったものを東京市へ下賜されたことにちなんでいる。その後規模・景観はもとより施設など我が国有数の都市型公園として整備された。面積62万平方メートル余り。
 上野公園生みの親はオランダ人医師のボードワン博士。病院建設予定地であった上野の山を見て、その景観のよさから公園にすべきであることを政府に進言し実現したものである。

(上野公園に建つ「下町まちしるべ」より)

 江戸幕府十五代将軍徳川慶喜(よしのぶ)は大政奉還の後、鳥羽伏見の戦いに敗れて江戸へ戻った。東征軍(官軍)や公家の間では、徳川家の処分が議論されたが、慶喜の一橋家時代の側近達は慶喜の助命を求め、慶応4年(1868)2月に同盟を結成、のちに彰義隊と称し、慶喜の水戸退隠後も徳川家霊廟の警護などを目的として上野山(東叡山寛永寺)にたてこもった。
 
慶応4年5月15日(1868年7月4日)朝、大村益次郎指揮の東征軍は上野を総攻撃、彰義隊は同夕刻敗走した。いわゆる上野戦争である。彰義隊士の遺体は上野山内に放置されたが、南千住円通寺の住職らによって当地で荼毘に付され、その後ここが彼らの墓所となった。
 平成2年、区の有形文化財に指定された。
(上野恩賜公園彰義隊墓所に建つ台東区教育委員会説明板より。写真;「彰義隊奮戦の図」説明板より)

「東都名所上野東叡山全図」 三枚続き 歌川広重画  寛永寺蔵
根本中堂の左には宮様が住まっていた本坊が有り、根本中堂以上の規模を誇っていました。

 上野戦争の時、寛永寺は焼き討ちにあい、今の噴水池の辺りに有った国宝級の寛永寺総本堂の根本中堂(上図;左)や左甚五郎が彫ったと言われる龍の柱があった鐘楼 (上図;中の下)を含む多くの豪奢な社殿が灰になってしまいました。かろうじて、旧寛永寺五重塔、上野東照宮、清水観音堂 、弁天堂が残りました。寛永寺はその後1/10以下に縮小されて、本堂は北側の一角に再建されました。

「浮繪東叡山御中堂之景」 北尾重政画 寛永寺蔵

 その跡地を公園として開発、東京国立博物館、国立科学博物館、国立西洋美術館、動物園、都美術館、東京文化会館などが立ち並んだ、教育文化の発信地です。 そうそう、お花見でも有名で、落語「長屋の花見」では桜を堪能し、「動物園」 、「時蕎麦」、「崇徳院」、「唖の釣り」、「猿後家」、「景清」、「三井の大黒」の舞台になった所です。
 上野公園は小高い丘になっていますから、”上野の山”と俗称されています。山を下った東側には、北国の玄関と呼ばれる上野駅があります。ここら一帯が山下と呼ばれている所です。
 現在の住所で上野といえば、北上野、台東区役所のある東上野、寄席・鈴本演芸場のある上野があります。

下谷;(したや) 今の台東区の西側、上野公園から南の御徒町の先までを下谷区と呼ばれていました。狭義には住居表示が行われた昭和になって、上野駅と北隣の鶯谷駅にかけての細長い街が”下谷”です。「下谷の山崎町」と言えば何を思い出されますか、そうです、あの有名な落語「黄金餅」の出発地点です。

桜木町;(さくらぎちょう)台東区上野桜木。上野公園の北側、言問通りをはさんだ街で、その北、谷中墓地と南側・寛永寺墓所にはさまれていますので、静かな街になっています。谷中墓地のはずれの経王寺(西日暮里3−2−6、JR日暮里駅前)の正面山門木製門扉には上野戦争で打ち合った弾丸の跡が穴として多数残っています。上野駅の北側にある両大師(上野公園内)の門前に旧寛永寺の黒門が移築されています。その門扉にも弾痕が残っています。


2.ざる屋

代勝覧 (きだい しょうらん)」より 江戸東京博物館蔵(複製)部分
 竹細工の品々、ザル、カゴ、味噌濾し等を商っていた。落語の主人公は軽くて良い商売だと言っています。

味噌漉し;(みそこし)曲物(マゲモノ)の底に竹の簀(ス)を張り、または細く削った竹で篩(フルイ)のように編んだもの。主として味噌汁を漉してカスを取り去るのに用いる。また、小さなざるに柄のついたものもあり、味噌汁に直接味噌を溶き入れるのに用いる。味噌漉し笊(ザル)。広辞苑より


3.縁起を担ぐ
 マクラで馬生が言っていました。師匠に呼ばれて「これからは『スル』と言ってはいけないよ」と言われた。お金をスル、興行をスル、等ろくな事はない。で、スルをアタルと言い直します。すり鉢はあたり鉢、すりこぎはあたり棒、スルメはアタリメ、ひげを剃るは、ひげをあたると言い直します。スリッパの事をアタリッパとは言いません。
 花柳界では『お茶』を嫌がります。これは『お茶を挽く』から来ています。で、「あがり」、「おでばな」と言い換えます。「あがりを下さいな」、「おでばなをどうぞ」等は聞いていても綺麗です。でも、「どちらまで・・・」 、「はい、おでの水まで」、”お茶の水”(右写真)を”おでの水”とは言い換えられません。
 遊郭の吉原もアシの生い茂った湿地帯でしたから、アシをヨシと読み替えて、ヨシ原→吉原となりました。

お茶を挽く;語源=庄司甚内は徳川幕府に遊郭を作るべきだと請願書を出しました。その7年後幕府から許可が出たのですが、条件が幾つか出た内の一つに、太夫3人を奉行所の式日ごとに奉仕に出す事と有りました。これによって琴や三味線の演奏をしたり、お茶を点てたりしました。選び抜かれた太夫も大変な名誉な事で、当番の前日は客を取らず翌日のお点前のために自らお茶を挽いたのです。この、客を断ってお茶を挽く事が、いつの間にか、遊女が客を取れない事を”お茶を挽く”というように変質してしまったのです。
吉原「松葉屋」女将・福田利子著『吉原はこんな所でございました』より引用。一部要約

 


  舞台の上野を歩く

 JR上野駅正面玄関の中央口に出ます。ここのコンコースは綺麗に内装されていますが、基本は建築当時と変わりませんので、鉄骨丸見えの天井が見えます。それが、歴史を感じさせ、外の明るさを取り入れほんのりとぬくもりを感じさせますが、その下では、新幹線を除けば北の始発駅ですから、いつも人混みは絶えません。

 右に出てガード下を抜けるとその前が上野の山で、その壁面に張り付いていた「食堂の聚楽」を含めた商店は営業を終わっています。建て直される予定になっています。左に回り込んで南側の正面(?)入り口から公園の中に足を踏み入れます。正面の緩やかな上り坂に植えられた桜並木が春には”花見の名所”として人を集めます。右側の上り階段を上ると、広場の中に西郷さんの銅像や彰義隊の墓、右には「上野の森美術館」、左前方には赤い「清水観音堂」が見えます。京都清水堂を模した観音堂は舞台から眼下の不忍池を見下ろす事が出来ます。落語「崇徳院」の舞台がここです。
 奥に進むと、右手には音楽ホールの「東京文化会館」、洋画が展示されている「国立西洋美術館」、恐竜や屋外には鯨の実物大模型がある「国立科学博物館」があります。公園の左手には上野東照宮、その参道には「旧寛永寺五重塔」(都に寄託)が有り、その先にパンダの居ない「上野動物園」、「都美術館」があります。
 公園の中央には大噴水池がありますが、ここに上野戦争で焼けた「根本中堂」がありました。
 その先、通りを渡ると「東京国立博物館」の正面に出ますが、ここが江戸時代の寛永寺本坊が有ったところで宮様が住まわれていました。その東側には「開山堂」(両大師)があり、ここの正面に当時の本坊正面黒門が移築されています。この門扉に上野戦争で被弾した弾痕が今も残っています。
 先ほどの国立博物館の裏が寛永寺墓所になっていて、ここには6名の将軍が眠っています。「四代家綱」「五代綱吉」「八代吉宗」「十代家治」「十一代家斉」「十三代家定」ですが、廟内は非公開です。しかし、その入口に当たる「勅額門(ちょくがくもん)」(国重文)は見る事が出来ます。また、この墓所にNHK−TVドラマで有名になった「篤姫」のお墓もあります。

 墓所の西側(下記地図の右上)に「東叡山寛永寺本坊」が有ります。本堂の根本中堂は上野戦争で焼失しましたので、天海僧正を育てた関係で、明治12年に埼玉県川越市・喜多院から堂を移設したものです。
 ここに、最後の将軍十五代慶喜が、上野戦争の前2ヶ月間謹慎した二間続きの部屋「葵の間」(非公開)が残っています。慶喜は江戸城の無血開城の当日(慶応4年4月11日)水戸へ旅立ちました。

 本堂西側から表に出た所が、上野桜木(町)で、穏やかで静かな街並みです。表通りは言問通りで、北に出れば「寛永寺坂」からJR鶯谷駅に出ます 。歴史的、文教的な上野の山とはギャップが大きすぎるラブホテル街(さすがの私も写真は撮っていません)を抜けて、JR鶯谷駅から車中の人となります。

地図

 

 上野恩賜公園にある案内図  右が北になります。現・寛永寺は右上、その下の余白が墓所。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

寛永寺(台東区上野桜木 1−14)根本中堂(本堂)
国宝級の根本中堂は上野戦争で焼失しましたので、霊廟の西側に再建されました。
天海僧正を育てた関係で、明治12年に埼玉県川越市・喜多院から堂を移設したものです。喜多院もいやだとは言えませんよね。

寛永寺「勅額門」(ちょくがくもん)
寛永寺霊廟の入口に建つ門(国重文)です。常憲院殿(五代綱吉公)の霊廟の前に建ちます。
「篤姫」のお墓もこの奥にあります。

寛永寺「葵の間」
十五代慶喜公が、上野戦争の前2ヶ月間謹慎した二間続きの部屋「葵の間」です。
慶応4年2/12から4/11までいました。元の場所より大正3年移築されたのですが、あえて旧材だけで再現したため、12畳半+10畳の部屋が10畳+8畳の部屋になってしまいました。

寛永寺「葵の間の雪隠」
上記二間続きの部屋に接続された雪隠です。将軍様の雪隠って広いでしょ。写真を撮ると「皆様ここが一番興味があるようですよ」とのこと。下々の雪隠と大違いなとこと、同じとこと。

科学博物館(台東区上野公園7)
日本の科学の底上げを担った博物館。本館はレンガと石組みの歴史を感じさる建物ですが、屋外のシロナガスクジラの実物大模型には皆驚かせられますし、記念写真を必ず撮る撮影スポットです。

表御門(台東区上野公園14 輪王殿(両大師)山門)
東叡山薬王寺門。旧寛永寺の本坊正面にあった表御門。幸いにも焼け残り、現在は移築され両大師山門として役を果たしています。扉を見ると大小様々な弾痕があり、向こうの景色がのぞけます。

上野戦争で空いた弾痕

下谷(中央通り)
上野の山、西郷さんの前から望む下谷地区。中央通り南を望んでいますので、御徒町(上野広小路)から末広町、秋葉原、日本橋、銀座に繋がります。見えるのは左にアブアブ、右側に上野鈴本演芸場、その先上野広小路、左に松坂 屋デパートがあります。ん、識別出来ない?
ははは 、私の写真技術が未熟だから。

上野桜木(町)
寛永寺坂の標柱の左右の町がその町。左に寛永寺、右に谷中霊園、その間にはさまれています。
この後ろは、JRが山下を走っていますので、その上を橋が渡しています。渡った所が根津で、三平が住んでいました。渡って右にラブホテルいえ違った、言いたいのはJR鶯谷駅があります。

JR上野駅構内
JR上野駅は明治16年(1883)7月営業開始です。東京の「北の玄関口」として栄えた。昭和7年(1932)4月3日今の新駅舎が落成。その駅舎が今も使われています。「いつの時代にもふるさとへの郷愁をそそる、首都圏の北の玄関口」という選定理由で、平成9年(1997)に 「関東の駅百選」に認定されました。

                                                                  2009年2月記

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