落語「三井の大黒」の舞台を歩く
   

 

 三代目 桂三木助の噺、「三井の大黒(みついのだいこく)」によると。
 

 江戸時代には八丁堀が神田にもあった。今川橋の近所の銀町(しろかねちょう)に普請場があった。
 甚五郎は普請場まで来ると、働いている大工を見て、へたで、ぞんざいだとつい口から出てしまった。それを聞いた職人達は甚五郎をみんなで殴りつけてしまった。そこに棟梁の政五郎が来て収めたが、聞けば上方の大工だという。まだ決まった先がなければ、何かの縁だから政五郎の家に来たら良いと、勧めた。かみさんが居たら先に相談した方が良いし、結果離縁話しになるよと言う。絶対そんな口は聞かせないと橘町(たちばなちょう)の家に連れ帰る。
 おかみさんにも紹介して、聞くと生国は飛騨の高山だと言うが、腕の立つ大工の多くが居る所で、そのうちでも有名な日本一の名人甚五郎も同郷なので知っているだろう、と問うた。名前を聞かれたが、それは私だとは言い出せず、即答出来ずに忘れたと逃げた。名無しでは困るので”ぽんしゅう”とバカにされた名前をもらった。

 次の日、忙しいので朝から仕事を頼んだ。棟梁の道具箱を借りて出掛けたが、板を削れとの指示で、カンナの刃を研いて3時頃になって、初めて削り始めた。2枚の板をピタリと合わせて、剥がせるものなら剥がしてご覧と言ったが、誰も剥がせなかった。それを見届けて先に帰ってしまった。政五郎はぽんしゅうに小僧の仕事、板削りをさせたとは生意気だと怒鳴りつけた。誰だってそんな仕事はいやだから、具合が悪いと口実付けて帰ってくるのは当たり前だと、説教した。ぽんしゅうには気が向くまで2階で、寝ていて良いと言い付けた。
 そうなると、女房は愚痴りだし、離縁してほしいと言い出した。やはり、そうなったかと女房に納得してもらい、ぽんしゅうに2階から降りて来てもらった。
 お前さんも分かったと思うが、江戸では表向き100人の職人の手が掛かっていると思っても80人しか掛かっていない。反対に上方では100人の所150人掛かっている。江戸は火事早いから手が掛けられない。腕があるから上方で仕事をした方が良いと勧めた。暮れが近づき、春まで遊んでも居られないので、暮れの市(いち)用にアルバイトで、踏み台、ゴミとり、など作ったらと勧めたが乗り気にならない。それでは彫り物が出来るだろうから、恵比寿・大黒等はどうか。と言われて思い出した。
 去年、国を出る前、江戸の越後屋から恵比寿様に対になる大黒の彫り物を依頼されていた。2階に上がって、彫り物に取り組みだしたが、政五郎は数多く彫り上がるだろうと思っていた。出来上がったからと風呂に行った間に2階に上がってみるとどこにも無い。たった一つ、3寸(9cm位)近い大きさの大黒があり、その大黒がニャっと笑ったように思えた。

 その時、越後屋の番頭が来て、甚五郎様が出来上がったので、渡したいとの書面をいただいたので伺ったと挨拶した。政五郎はこの時、ぽんしゅうはあの名人甚五郎であることを悟った。風呂から帰った甚五郎に、水くさいというと、甚五郎も日本一と言われたので、名乗る事が出来なくなってしまい、申し訳ないと詫びた。大黒と引き替えに内金の30両と持参した70両、合わせて100両で引き渡し、また、酒と別にお肴代として10両受け取った。

 運慶作の恵比寿様の木彫りには「商いは濡れ手で粟の一つ神(ひと掴み)」と唄が付いていて、その唄に「護らせたまえ二つ神達」と下の句を付けた。
 三井に残る甚五郎の大黒様でございます。

 


 三木助最後の高座は1960年秋の東横落語会における「三井の大黒」であった。すでに身体は病魔に蝕まれ両足が腫れ歩行困難の状態であった。仕方なく足前に釈台を置いて投げだした足を隠し、
 
ええ、まことに不思議な形でお目どおりをいたします。我々の仲間では金馬がこのような形で演じていますが・・・・実は足が酷くむくみまして、座ることが出来ないン・・・。足を投げ出してはお客様に失礼にあたる、・・・実は出してるんですけれど。(客席爆笑)」
 と自身の病状を笑いに済ませ、1時間近く演じた「三井の大黒」は実によい出来であった。名演としてCD化されています。この最後の音から書き出しています。

 彼の代表噺、「芝浜」、サイの振り方が絶品の「へっつい幽霊」、「ざこ八」、この「三井の大黒」、浪曲の鬼才広沢菊春と意気投合し交換した「ねずみ」等は彼の独壇場であった。
 私のライブラリーの中で、「芝浜」や「へっつい幽霊」、「ざこ八」を押さえて、この噺だけに絶品マークが付いています。
 

1.藍染め川と今川橋
 
竜閑川に架かる神田の今川橋です。今川橋が架かっていた堀川は寛文頃(1661〜)の江戸絵図に神田八丁堀とあり、その後これを神田掘と名附けている。江戸切り絵図(1859)には竜閑川となって、藍染め川とはなっていません。現在はこの川(堀)は埋め立てられて細い道になっていますが、当然川も橋もありませんが、近くに今川橋と交差点に名前が残っています。川跡は千代田区と中央区の区境になっています。

写真;絵巻「希代照覧」(きだいしょうらん)より今川橋部分、文化2年頃(1805)の江戸。江戸東京博物館にて。07年10月追加。 写真をクリックすると大きな写真になります。

銀町(しろがねちょう);普請場が有った所で、正確には本銀町と言った。竜閑川の南側一帯が本銀町で、今の中央区日本橋本石町四丁目、日本橋室町四丁目、日本橋本町四丁目一帯を言いました。
近くには神田駅西側の千代田区神田司町辺りにも銀町という地名がありますが、今川橋を渡ったと言っていますから、前記の本銀町を指しているのでしょう。

 「近世職人尽絵詞・上巻」 東京国立博物館蔵 2012.5.追加

橘町(たちばなちょう);政五郎邸があった所。今の中央区東日本橋三丁目にあたります。北隣には日本橋横山町があります。そうです、桂文楽演じるところの「富久」、横山町の旦那が住んでいる所です。この時の火事で、 政五郎の家は類焼を免れたのでしょうか。その北側は「御神酒徳利」の舞台馬喰町です。橘町の南には、「おせつ徳三郎・下」(刀屋)の舞台、徳三郎が刀を買い求めに寄った村松町があります。
 銀町、橘町間は地図上直線で1kmチョットです。


2.駿河町の越後屋さん
 
越後屋さんとは今の三井家を興した呉服屋三越の事で、ここから三井家は発展していきます。
第108話・落語「死神」で三越について語っています。そちらを覗いてください。三井本館については第117話・落語「帯久」をご覧下さい。

 三井家のコレクションは本館の三井文庫と三井記念美術館 http://www.mitsui-museum.jp/index2.html で管理、研究、展示を行っています。学芸員の方にお聞きしました。結論から言いますと、三井家には甚五郎の大黒は伝わっていません。
 ただ、極普通の15cm大の大黒さんが一体だけ残っています。最初にも言ったとおり、箱書きも色紙も由来書も無い、極普通のもので、価値があるようなものではありません。
 三井家では恵比寿大黒を信心していた事は事実で、2代目か3代目の当主が描いた「恵比寿大黒図」が掛け軸として残っています。自作の掛け軸を店に飾り、商売繁盛としたもので、これは現在も残っています。戦前多くの恵比寿大黒を集めて、展覧会をしたくらい、恵比寿大黒に信心していた事は確かなようです。

 写真;作者不詳「恵比寿・大黒」 江戸東京博物館にて。
 このように対になった大黒様が彫られたのでしょう。この作品は二体とも同一作者が彫った物でしょうが、左甚五郎が彫った物と言っても遜色のない仕上がりになっています。
写真をクリックすると大きな写真になります。
 

3.甚五郎と落語の中の旅
 
上方から江戸に来る途中駿河で金が無くなり無銭宿泊をしていたが、宿代を催促された替わりに竹の水仙を彫った。主人が昼夜水を換えていると花が咲いた。「町人には50両、大名には100両、びた一文負けてはいけない」との言いつけを守り、長州の殿様に買い上げられた。
 で、江戸に出てきた甚五郎は日本橋のたもとにあった餅屋で餅を盗もうとした男の子を救い、文無しなので叩き蟹を彫り、その蟹が動くので、それを見たさに千客万来。落語「叩き蟹」に描かれています。
 その先、今川橋では殴られて、政五郎宅にワラジを脱ぐ事になり、この噺になります。江戸ではこの他に上野寛永寺の鐘楼に龍を彫り、この龍が夜な夜な前の不忍池に魚を漁りに出掛けた。という有名な話があります。残念ながらこの鐘楼は明治の初め上野戦争で焼失してしまいました。また、子供が出来てしまうようなお道具も作っています。作ったんでしょうね、落語「四つ目屋」が有るくらいですから。
 江戸を離れて日光では眠り猫を造り、松島見物で泊まった仙台の宿では、ねずみ屋に因んで”ねずみ”を彫りました。

 ただ、この話は落語から拾っていますので、年代や史実に反しているかもしれません。真偽の程は読まれる方の責任、判断で。

 

4.落語の中の左甚五郎
 
落語の中の主人公として登場する左甚五郎は、「竹の水仙」、「四つ目屋」、「ねずみ」、「叩き蟹」、この「三井の大黒」等があり、落語の世界では有名人です。

 医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されているので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20〜30年間と言うことになります。
 一方、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎、伏見の人、寛永十一甲戌年四月廿八日卒 四一才」とあり、寛永11年(1634)に41才で亡くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
 また、四国には左甚五郎の子孫を名乗られる方が居り、墓も存在します。
広辞苑によると、江戸初期の建築彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」などを彫り、多くの逸話で知られるが、伝説的人物と考えられる。一説に播磨生れ、高松で没した宮大工、伊丹利勝(1594〜1651)を指す。

左甚五郎作とされている。 活躍した年代が様々であるように、出身地も、根来(和歌山県)、伏見(京都府)、明石(兵庫県)と、史料により様々です。 また、関東には来なかったとの記録が多いが、日光をはじめ上野東照宮の「昇り龍・降り龍」など、甚五郎作とされる作品は多い。写真;日光東照宮「眠り猫」

 落語に登場する左甚五郎は、一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く、「竹の水仙」は有名だが、これは、宿賃もなしに豪遊してしまう、だらしない大酒呑み甚五郎が、宿賃の代わりに彫ったものです。また、落語「ねずみ」、「三井の大黒」にも登場しこの噺のマクラで、飛騨高山の人と言っています。
 政談ものでも名奉行はみな大岡裁きと決まっているように、名彫刻は、みな名人・左甚五郎作となってしまったのでしょう。張り型までこしらえたのですから、スゴイ名人!

 

5.狩野元信(もとのぶ)と左甚五郎
 江戸の浅草寺本堂には、室町時代後期の画人、狩野元信筆と伝えられる非常に古い絵馬が奉納されている。
 古老の伝えるところによれば、当時、この近在の農民の田地が、夜な夜な何者かに食い荒らされる。そこである夜、一人の農民が物陰にひそんで見ていると、どこからともなく大きな馬が一頭現れて、悠々と作物を食い荒らしている。
 はて、誰の馬か、とそっとつけてみると、馬は浅草寺門内に消えてしまった。
 翌朝、大勢の者を誘って浅草寺に行ってみたが、もとより浅草寺に馬などいるわけがない。探し歩いているうちに、一人が絵馬を指さして、「あっ」と声を上げた。
 何と、その絵馬の脚に畠の泥が付いていたのである。
 神馬のこととて、一同、なす術を知らない。折しも当時、左甚五郎という名人の彫り物師がいた。彼は、この話を伝え聞き、
  「恐らくは、その絵馬、名人の手になるものゆえ、魂まで書き入れたものであろう。私の彫り物も常に魂まで彫り込むよう心掛けている。その心持ちで、彫り物の下絵を書くつもりでやってみよう」
と、その馬の絵に手網を描き添えた。
 以後、農民は、この馬の被害から免れたという。
『江戸砂子』より

 右絵;谷文晁(1763-1840)の絵馬「神馬」
 金箔押し地に葦毛(あしげ)の駿馬を繋馬として描いた大絵馬。上記の左甚五郎の伝説を継ぐと言われる秀作。なお、伝説の絵馬は現存しない。天保2年(1831)奉納。

 

6.鉋(かんな)削り屑
   

 切れる鉋で木を削り出すとご覧のように和紙より薄く、絹のレースより柔らかく薄く、引く事が出来ます。
 写真左:檜(ひのき)の垂木(たるき)に鉋を掛けています。プロの方が見れば分かるように、1枚刃で逆目も関係無しに掛ける事が出来ます。これは、ただただ、日本刀を研ぐような砥石で、きちんと研ぎ上げれば、厚さ10ミクロン以下の鉋屑を切り出せます。
 写真右:その引き出された鉋屑をCDケースに乗せてみました。下地が透けて見えるのが分かると思います。写真ではここまでの表現しか、出せませんが、触ると木と言うより極薄のシルク地のような手触りです。プレゼント用のリボンより薄く透明感があります。

 趣味で引き出された鉋屑ですから、腕の立つ大工さんでも通常はここまでは鉋は掛けません。仕事としては必要ないからです。当然鉋の掛かった板は光にかざすと鏡面のように光っています。
 甚五郎もこれ以上の平面を出して、2枚の板を張り付けたのでしょう。
写真をクリックすると大きな写真になります。


  舞台の銀町・橘町を訪ね歩く

 今川橋の交差点に立ちます。ここは過日、落語「反対俥」を書いた時の基点になる場所でした。写真は新しく訪問して撮り直したものを使っています。今川橋交差点はJR新橋駅の南側の中央通りにあります。中央通りは都心に向かうと、右側に三井本館、その先に三越本店、日本橋を渡って、八重洲、京橋から銀座に抜ける幹線道路です。

 今川橋交差点から中央通りを南に100m程行くと左側に岩手銀行の入ったビルが現れます。そのビルの手前後退して小さな庭状の所に碑が建っています。「今川橋の あと どころ」と刻まれています。この手前の細い路地が江戸時代神田八丁堀と言われた堀川が流れていた所で、ここに今川橋が架かっていました。当然堀川は埋め立てられて道路になり、橋もありませんし、その陰もありません。この堀川の路地が千代田区と中央区の区境になっています。この川跡の南側が本銀町と呼ばれた所で、普請場があり、甚五郎が数を数えながら殴られた所です。現在は中堅どころのオフィスビルが林立し、お昼時や退社時は大勢の会社員が行列を作って歩いています。

 橘(たちばな)町は現在、中央区東日本橋三丁目と呼ばれる狭い所ですが、地下鉄「馬喰横山」、「東日本橋」の二駅を抱えています。ここに棟梁の政五郎が住んでいました。普請場から川沿いに歩いて馬喰町で右に曲がれば、15分もあれば着いてしまいます。当時としてはここから吉原まで遊びに出掛けた事を考えれば、庭先のような距離でしょう。え!遊びと仕事では距離感が違うって、はい、それもその通り、皆さん健脚です。

 北には洋服問屋街の日本橋馬喰町と接しています。落語「富久」で幇間の久蔵さんが夜分しくじった旦那のところに火事場見舞いと応援に駆けつけてきた所です。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

今川橋跡(中央区日本橋本町4−4東山ビル前)
 今川橋が架かっていた堀川は寛文頃の江戸絵図に神田八丁堀とあり、その後これを神田掘または竜閑川と名附けている。元禄四年再び堀割をなしてこの地の里主、今川氏の尽力によって架設された橋を其の名を取って今川橋と命名した。 その跡に建つ碑。

神田八丁堀埋め立て跡東側
左側茶色のビルと右側ビルとの間の細い路地が旧今川橋が架かっていた神田八丁堀が有った所です。いまは埋め立てられて、区境の路地になっています。
上記の碑は右側岩手銀行の入ったビル入口前に建っています。

神田八丁堀埋め立て跡西側
中央通りの上記反対側の埋め立て跡の路地を見ています。この写真手前の道路に今川橋が有ったのです。

今川橋交差点
今の今川橋交差点を、旧今川橋跡から望んでいます。
正面ガード左がJR神田駅、ガード上には東北新幹線が通過しています。写真背中方向が日本橋です。

銀町(しろがねちょう)
竜閑川(神田八丁堀)の南岸一帯を本銀町といい、1丁目から4丁目まであった。
この道路の両側が本銀町二丁目と呼ばれた所です。

橘町(中央区東日本橋三丁目)
地下鉄、都営新宿線「馬喰横山」、都営浅草線「東日本橋」の駅があります。街の中を清洲橋通りが縦断しています。写真はその清洲橋通りです。

上野東照宮(台東区上野公園内)
藤堂高虎は上野山内の屋敷の中に徳川家康を追慕し、家康を祭神としたお宮を造営した。現在の社殿は慶安4年(1651)三代将軍家光が大規模に造り替えたもの。社殿は都内でも代表的な江戸時代初期の権現造り、華麗荘厳を極め、金色堂とも呼ばれる。本殿、拝殿、幣殿は国の重要文化財に指定されています。
中央の垂れ幕の左右に龍の彫り物が見えます。
2006年12月追記

    

上野東照宮の「昇り龍・降り龍」(台東区上野公園内)
上野東照宮の唐門(唐破風造り四脚門)。日本には一つしかない金箔の唐門。扉には梅に亀甲の透かし彫り、門柱に左甚五郎作昇り龍(左)、降り龍(右)の高彫り。門の側面左右上部の松竹梅に錦鶏鳥の透かし彫りなど非常に精巧を極めた、国宝の門です。
2006年12月追記

                                                        2006年9月記

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