落語「時蕎麦」の舞台を歩く
人間国宝、柳家小さんの噺「時蕎麦」によると、
夜鷹蕎麦が夜、街を流している。呼び止めると、出来るものは花巻としっぽく。熱いしっぽくを頼み、見ると行灯の柄が”当たり矢”縁起がいいと誉める。話しているとすぐに蕎麦が出てくるので、「江戸子は気が短いので、早くてイイ」と。見ると割り箸。「きれい事で良いナ、その上、器が良い、臭いも良い、俺はソバッ食いだから分かる、わざわざ永坂まで食いに行くんだゼ」、「蕎麦はこう細くなくっちゃいけね〜、うどんじゃねぇーんだから、その上、腰がきいてるゼ」、「それから竹輪をこんなに厚く切っても良いのかィ。それに本物じゃネェーか、竹輪麩なんかまがいもんで病人が食うもんだ。」、「夜鷹蕎麦にしては出来過ぎだ、ナァ」おつゆまで全部飲みきり、一人で褒めちぎっておいて、「いくらだイ、16文か、銭は細かいけど良いかい」、「それでは、ひい、ふう、みい、・・・なな、や」と数えたところで「今、何刻(なんどき)だ」、「九つで」、「十、十一、十二・・・十六」と、一文かする。
それを見ていた、日当たりの悪いところで、ボーと育ってしまった、安直な江戸っ子が、それをまねしたくて翌日、小銭を用意して早くから蕎麦屋を待つと、前日の蕎麦屋とは反対に、なかなか蕎麦が出てこない。割り箸は割れて先が濡れている。どんぶりは汚く欠けているし、つゆは・・「湯を入れてくれ」。蕎麦はうどんのように太く、ぐちゃぐちゃ。竹輪は名人芸のようにカンナで削ったように薄く、竹輪麩。ガッカリしながら食べ終わり、嬉しそうに金を払い始める。「それでは、ひい、ふう、みい、・・・なな、や」と数えたところで、
「今、何刻だ」、「よつです」
「いつ、むう、なな・・・」。
似顔絵;山藤章二「小さん」 新イラスト紳士録より
六代目春風亭柳橋の「時蕎麦」は名人芸であったが、小さんの「時蕎麦」はまた違った良さがあった。それは食べる仕草と音である。蕎麦の細いのと太いものの差を感じさせたし、うどんとそばの違いもはっきりと演じ分けていた。最初の熱いときと最後の丁度イイ温度になって来たときの違いも分からせた。ある時、小さんが「時蕎麦」公演後たまたま蕎麦屋に入ると、先ほど聞いていた客が蕎麦を食べていた。小さんはその客が見ているので、高座の時のように旨く食べることを意識して食べた。そのせいで店を出た後、旨くも何ともなかったとこぼしていた。そういう事もあったと述懐していた。弟子の小三治もイイ。
1.時(刻(とき))の数え方
江戸時代と現代の時間の単位の比較(春分と秋分時)
英数字が現代の時間 |
一日は等間隔の24時間(定時法)ではなく、不定時法で日の出から日没までを六等分し、これが昼の一刻(いっとき)。同じように日没から翌日の日の出までを六等分したのが夜の一刻。
つまり春分と秋分を除けば、昼と夜の一刻の長さが違った。現代なら非常に困る事だが、江戸時代は陽の明かりをたよりに仕事をしているから、この方が便利であったと思う。太陽の動きで大まかな時間が簡単に分かるし、時計を持たない時代にはそれだけで十分実用的だった。
江戸時代の時間の感覚は実におおらかで、そもそも時計を持っている人間はほとんどいない時代だったから、日の出の明け六つの鐘の音で起き、明るい内に仕事をして、暗くなれば休むまでの事であった。
童謡に「お江戸日本橋、七つ立ち。初のぼり、提灯・・・」との歌詞があるように、まだ夜も明けない午前4時ごろ旅に出発したのであろう。また、おやつは午後3時頃「8つ半」から来ている。
江戸時代は時計がわりに時の鐘が鳴るが、その音の数で何刻(一刻は約2時間)と呼ぶのが普通であった。上の図のように明け方(早朝)の明け六つ、朝五つ、暮れ方の暮れ六つ、夜四つとか言った。その半分を半刻(はんとき=1時間)といい、九つ半とか、八つ半とか言った。
時間の最小単位は四半刻で 2時間/4=30分 となります。おおらかな時代ですから、これで十分間に合った事は言うまでもありません。
時報の鐘について、家康の頃は江戸城西の丸で太鼓を打った。それでは町方には聞こえないので、日本橋石町(こくちょう)に官製の鐘撞堂が出来た。実は将軍の耳元で鳴らすのでは、うるさすぎたので、城外に移したと言われている。 はじめは太鼓で「明け六つ」と「暮れ六つ」の二回だけ打ったが、後に鐘に変わり二代将軍秀忠のころ、昼夜の辰刻(しんこく)ごとに鳴らすよう回数が増えた。時の鐘はおいおい増えて、幕末には「鐘九ヶ所(かねくかしょ)」と言って石町の他、上野山内、浅草・浅草寺、芝切り通し(増上寺 北)、本所横川(墨田区緑4−23辺り)、市ヶ谷八幡(新宿区市谷八幡町 市ヶ谷見附交差点前)、赤坂円通寺(港区赤坂5丁目2-39)、四谷天竜寺(新宿区新宿4−3)、目黒不動(目黒区下目黒3−20−26龍泉寺)。(中央区の説によると赤坂田町)に設けられた。
またの説、寛延3年(1750)では、石町、上野山内、浅草・浅草寺、芝切り通し(増上寺北)、本所横川(三ツ目)、四谷天竜寺、目白下・新長谷寺、赤坂田町成満寺、市ヶ谷東円寺、下大崎村寿昌寺の10ヶ所。
鐘の打ち方は、まず捨鐘(すてがね)を三つ(大阪では一つ)打って、それから刻の数だけ打つ。 例えば、八つだと、捨鐘三回と刻の数八回、合わせて11回撞かれる。
各所の時の鐘の時刻がずれることも珍しくなく、聞く場所によっても時間差が生じた。
夜間は町々の番太郎が、拍子木を打ちながら「九つでござ〜い」と知らせ回った。
落語「芝浜」では、鐘一つ聞き違えたため、2時間早く起こしてしまった。
何故、時の数が九つから始まり、減っていくか? それは易学での陽(宇宙の根元=縁起のいい数)を表す数字が九であり、その倍数の下一桁の数字を選んでいくと、
9x1= 9
9x2=18
9x3=27
9x4=36
9x5=45
9x6=54
9、8、7、6、5、4、の順になるからです。深夜と正午から九つと数えはじめ、9,8,7と減数し、6等分したから4で終わっています。数え方も要は慣れてしまえば、違和感は無かったと思われる。
「午砲」(ごほう) 江戸東京たてもの園
江戸時代の「時の鐘」に替わり、明治4年(1871)から昭和4年(1929)4月まで、皇居旧本丸跡で、空砲により正午を知らせた。東京中で聞こえたという。土曜日の半日仕事、「半ドン」はここから出ています。その後サイレンに変わり、昭和13年(1938)9月まで続いた。 2014.10追記
もう一つの時間の単位は、辰刻法(しんこくほう)と呼ばれ、一昼夜を十二等分して日付が変わる真夜中を子(ね)の刻と呼び、後は一刻毎に十二支の名前を当てて呼ぶものです。江戸初期まではこの方法が使われた。こちらは数の呼び方のような重複がない利点が有った。
この場合、気を付けなければならないのは、例えば子の刻とは午前0時ジャストの時間でなく、その前後一刻の時間の幅全てを言うので、今で言えば午後11時から午前1時までの時間帯を言う。同じように丑と言えば午前1時から3時までを言う。
丑密刻(うしみつどき)と言えば午前2時前後、丑刻参り、怖いですネー。正午とは真昼が午の刻だった12時のことで、午前、午後もここから出ている言葉。また、一刻を上・中・下に三等分して、「申の上刻」「午の下刻」等と使い、武家社会ではのちまで使われた。
右写真;辰刻法による和時計。国立科学博物館蔵 15.07追記
余談になるが、方角もこの辰刻法の表示方法で表された。例えば、北は子の方向であり、南は午で、東は卯、西は酉と言うふうに言われた。辰已(巽=東南)の方向と言えば、ご存じ「深川」を指し、辰已芸者などとも言われた。丑寅の方向と言えば「上野」を指す。これは江戸城を中心に見て、その方向になるからである。丑寅の方向とは鬼門の方角に当たり、寛永寺を設け厄よけとした。
現代でも自衛隊などで正面からのズレを、3時方向とか、真後ろを6時の方向とか言う。
この”時間”の表し方については、江戸時代が舞台では、避けて通れ無い事柄の一つであろう。小難しくなったが、ご了承下さい。
ところで、本題の”九つ”は深夜0時をまわった時刻。お次の物まね江戸っ子は刻を待てず、少こーし早く蕎麦屋を捕まえたため、まだ”四つ”でしかなかった。こういった失敗でいったいいくら損をしたのか?
また、蕎麦屋で刻を聞くのはごく当たり前のことで、「先ほど四つを打っていましたので、今頃は四つ半でしょう。」などと、客に教えていた。
2.二八蕎麦
そば粉が八割と、二割のうどん粉で作られた蕎麦。または、2x8=16文で、こう言われた。の2説がある。小さんは後者を取っている。16文は江戸時代、幕末までこの値段であった。
■夜鷹蕎麦、二八蕎麦を夜売り歩く行商の別名。貞享3年(1686)頃から盛んになった。天秤の前後に大きな箱がつり下がり、その箱に行灯が下がり屋号が書かれていた。片方に火が入り、もう一方に材料などが入っている。前後の箱にかけて屋根が掛かり、風鈴が下がっていた。腰つきに合わせてその風鈴が”チンリン、チンリン”と鳴った。”親父のチャンリン、蕎麦屋の風鈴”はここから来ていると、落語家は言っている。
右図:『江戸商売図絵』 三谷一馬画
夜鷹とは怪しげな女達が、夜ふけにゴザを小脇に抱え、殿方にモーションを掛けてくる艶女。そんな時間に蕎麦屋が出るので、こう言われた。または、その夜鷹が食べたからとも言う。その頃の川柳に「客二つ つぶして夜鷹 三つ食い」と言うのがあるが、これは夜鷹の玉代が24文で2人だと48文、蕎麦が16文、3杯で48文、そこで客2人分で蕎麦3杯が食えた。腹ごしらえをしての、出陣であったか、こなしてからの腹ごしらえか?。小さんは前者を取った。
■割り箸;
割り箸の出現は寛政期(1790年代)であったから、蕎麦屋の出前でも箸がついてきたが、粗末な箸だったので、自分の箸を使っていた。割り箸の歴史って意外と長いのです。
3.永坂蕎麦
麻布永坂下にある、麻布十番の永坂更科と言う蕎麦屋の老舗。旨いが量が少なく高いと評判? 大田蜀山人も狂歌の中でその様に言っている。1文かすり取るような男に、ちょくちょく行けるような店ではなかった。 都内に有名と言われる蕎麦屋が何軒か有るが、同じように高い。その上量が少なく、ザルだと一箸入れるともう下のスノコが見えて、女性でも二枚(二人前)食べないと腹一杯にならない程である。当時は主食と言うより、お八つ代わりに食べられていたようだ。
4.花巻としっぽく
花巻とはかけそばに細かく切り刻んだ海苔を掛けたもの。ざるそばの暖かい丼ものの蕎麦。
(広辞苑)によると、しっぽくとは【卓袱】(唐音)
(1)中国で食卓の被いのこと。転じて、その食卓の称。卓袱台。
(2)そば・うどんの種(タネ)に蒲鉾・松茸・椎茸・野菜などを用いた料理。
しっぽく‐りょうり【卓袱料理】 江戸時代、長崎地方から流行し始めた中華料理の日本化したもの。主として肉・魚介類を用い、各種の器に料理を盛って卓袱台の上に置き、各人取り分けて食う。長崎料理。
元来は長崎料理のしっぽく料理から転じて、蒲鉾やキノコ、野菜を乗せた蕎麦を言うようになったと思われる。しかし、現代では花巻もしっぽくも絶滅したか、それに近いようで、ヤンバルクイナか佐渡の朱鷺かと言う状態である。気の置けない店で聞いても、「知らない」と言う返事がどこでも返ってくるだけである。”しっぽこ”とは、江戸なまり。
しっぽくも落語では竹輪(または、まがいの竹輪麩)が1枚入っているのみの、蕎麦である。
「時(刻)の鐘」を見て歩く
日本橋石町(日本橋本石町3丁目、石町新道脇。現、中央区日本橋本町4−3)
城中からこの地に享保10年、間口12間奥行き19間3尺の土地に鐘撞堂が移された。江戸で最初の「時の鐘」鐘撞堂。三度の火災に遭い時の鐘は焼失。宝永8年、高さ1.7m、口径93cmの鐘が鋳造され、これが現在に伝わっている物です。幕末に時の鐘が廃止され、石町・松沢家が秘蔵。昭和5年9月寄贈され十思公園内に移されて復元、現在に至っています。現在の石町の地に行っても、目印になる物は何もありません。
十思公園内時の鐘(中央区日本橋小伝馬町1−5)
水天宮通りの小伝馬町交差点を通り過ぎて、最初の路地を左に曲がり、すぐ右側に十思公園がある。この一角に新しく作られた現代的な二階建ての鐘撞堂が目に入る。その中(上階)に当時の鐘がつり下がっている。
(鐘は都の重宝に指定)
ここは元、伝馬町牢屋敷跡で、この公園と隣の元、十思小学校(現在は廃校になり区の十思スクェアになっている)及び南側にある身延別院、安楽寺、瑞法寺がその敷地であった。この三寺院はここで処刑された刑死者の鎮魂とこの土地の平安のため、明治になって建立されたもの。
この牢屋敷は慶長年間(1596〜1615)にこの地に開かれ、200数十年間続き、明治8年(1875)5月に廃止された。 敷地は広大で2千6百坪(約8600m2)で、その回りに堀を巡らしその南西部に表門があった。獄舎は揚座敷、揚屋、大牢及び女牢に分かれていた。明暦3年(1657)には130人の囚人を収容していた。安政大獄(1859)には吉田松陰ら90余名が投獄され、ここで処刑されている。
吉田松陰は第7話「藁人形」で千住宿を歩いたときに出てくる、千住回向院に埋葬されています。
ここで処刑される者の命を哀れみ、その当日には時間を遅らせて鐘が撞かれたという。鐘の音を受刑者はどのように聞いていたのであろうか。
石町・伝馬町牢屋敷間、直線距離で400m弱。
鐘突男は”辻源七”と決まっていて、代々この辻源七が撞いた。俗に辻鐘と呼ばれた。
上野山内、(台東区上野公園4番地)
JR上野駅・公園口で降りる。目の前にコンサートホールの文化会館が見える上野公園で、その一番奥にある上野動物園の隣にあるフランス料理の店「精養軒」。その入り口隣に、ちょっと小高くなった上に赤い鐘楼がある。この鐘は寛文6年に鋳造されたが、現在のは二代目で、谷中感応寺(現、天王寺)で鋳造されたもので、今でも朝夕6時と正午の3回昔ながらの音を響かせている。
平成8年6月、環境庁の残したい「日本の音風景100選」に選ばれた名鐘。
浅草・浅草寺、(台東区浅草2丁目3浅草寺境内)
浅草は正面の雷門をくぐり、人で混雑する仲見世を通り宝蔵門に至る。左手にはきらびやかな五重塔、正面には浅草寺本堂、その右手に三社さま、どこも参拝人と観光客でざわめいている。鳩の餌売りが、境内の鳩を集めて忙しそうにしているし、その鳩を蹴散らかす子供達。宝蔵門の少し手前右手に、少しだけ小高い弁天山という上に鐘楼は建っている。その下の児童公園では浮浪者同士が口喧嘩をしている。これぞ、浅草の地色。
鐘の大きさは、高さ2.1m、直径1.5m、元禄5年(1692)8月に鋳造。
この鐘は「時の鐘」の他、除夜の鐘等、寺の祭事のときにも撞かれ、文学作品にも多々登場する。なかでも松尾芭蕉の俳句、
”花の雲 鐘は上野か 浅草か”
は、あまりにも有名。
昭和20年3月の戦災で鐘撞堂は焼かれてしまったが、鐘は無事助かり、昭和35年5月再建された。
神田やぶ蕎麦(千代田区神田須田町1)
永坂と並んで有名な老舗というのは何処も何時も満員である。相席ながら、もり蕎麦(この店では”せいろ”と呼ぶ)を注文する。濃い口のしっかりとだしの獲れた辛目の付け汁に、緑鮮やかな、細めの腰のきいた蕎麦。旨い。旨いが二箸も付けると、もうスノコが見える、後は早い、アッという間にお終い。後味の良さと、何時までも口中に残る香りと余韻は流石。 スノコは蒲鉾状に真ん中が持ち上がり、上げ底。落語の薄く切られた竹輪麩のように、お腹の中で何処にあるのか分からないくらい少ない。昔は主食ではなくお八つ代わり、小腹を満たすだけの量であったのが、現代にも踏襲されているのか。ハンバーガーやホットドックとコーヒーで小腹を満たすのと似ている。メニューには”花巻”も”しっぽく”も無い。
地図をクリックすると大きな地図になります。
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旧石町時の鐘(中央区日本橋小伝馬町1−5)
区立十思公園内にあり、ここは元伝馬町牢屋敷の跡であった。
時の鐘と牢屋敷。鐘の音に残り時間を数えられている命。何とも時間の進行が切なく哀れみを感じる。 |
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上野・上野公園内、精養軒隣
この公園内には寛永寺があり、その梵鐘ではなく、独立した鐘撞堂「時の鐘」として存在する。今も現役。
上野公園は飛鳥山、隅田公園と並んで花見の名所で、春は上野の山全体が桜で覆われ、素晴らしく、人出もすさまじい。ここには美術館、博物館、動物園、芸大、それに彰義隊の墓と西郷隆盛の銅像等が有る。
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浅草・金竜山浅草寺(台東区浅草2丁目)
聖観音宗(天台系の一派)の寺で山号は金竜山。本坊は伝法院。628年、川より示現した1寸8分の黄金の観音像をまつったのが始まりと伝え、円仁・頼朝らの再興を経て、近世は観音霊地の代表として信仰を集めている。
弁天山の上に、江ノ島の弁天堂と並び三大弁天の一つである弁天堂と鐘楼が有る。 |
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浅草弁天山
この木立の中の山(?)の上に鐘楼があります。ここに銘鍾浅草寺の梵鐘があり、今でも突かれています。人力車夫が指さしている先が弁天山。 |
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芝切り通し(港区愛宕2−5。現存せず)
芝増上寺の北側切り通しに有った。落語「芝浜」でも出てきた鐘。今は無い。
日本一の音と言われる芝増上寺の大梵鐘。(写真;増上寺・芝公園4丁目)
延宝元年(1673)品川御殿山で椎名伊予守によって鋳造されたもので、高さ一丈(約3メートル)、重さ四千貫(15トン)の大梵鐘。時の四代将軍家綱の命により、奥方のかんざしなど多くの寄付を集めて江戸で初めて造られた鐘である。
東京湾を渡った木更津でも聞こえたといわれ、江戸庶民に親しまれ、川柳も沢山詠まれた。 |
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「藪蕎麦」
老舗で店のたたずまいも、昔ながらの手入れの行き届いた前庭がある木造平屋造り。秋葉原の交通博物館の近所で、休日は人通りのない寂しい街ながら、この店の中だけは待つほどの混雑である。どこから人が来るのか。「いらっしゃぃ〜」の挨拶と注文を通すときの女将のかけ声は独特のものである。
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麻布永坂「更科本店」
港区麻布十番1−2、交差点の角にある。藪蕎麦と違い、近代的なビルの1階で営業している。味も盛り付け量もごく普通であるが、接客は流石老舗を感じさせて、気持ちが良い。この店には、花巻があった。”かけ”に海苔が乗せてあるとお品書きには書かれていた。
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2000年11月
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