落語「茶の湯」の舞台を歩く

  
 

 三代目三遊亭金馬の噺、「茶の湯」によると。
 

  息子に身代を譲って、隠居所を探していたら茶道具一式と、孫店(まごだな)付きの長屋が付属した、住まいが見つかった。賑やかな蔵前からここ根岸の里に小僧の定吉を連れて移ってきた。近所は琴や生花、盆栽を楽しむ風流人ばかりで、自分たちも何かをやってみたかった。

 幸い茶道具があったので風流な茶の湯を始める事にした。知らない事を忘れたと言ったが、緑の粉が何だか分からない。定吉は”青黄粉”を抹茶と思って買ってきたが、元より知らない事、点ててみたけれど泡が出ない。泡が出る元が無いからと茶釜に、”椋(ムク)の皮”をほおり込んだ。ぶくぶくとモノの見事に溢れるほど泡が立った。
 おっかなびっくり飲んでみたが・・・、飲めたモノではない。が、「風流だな〜」。4〜5日もやると体調を崩しってしまった。隠居は夜通し16度もトイレ通い。定吉は1回だけ、若いと違うと感心すると「入ったきり出て来れなかった」。「体がふわ〜っとして風流だな〜」。これでは駄目だと、孫店の3人に招待状を出した。

 長屋の豆腐屋さん、物知りで通っていたが知らないので大騒動。恥をかくくらいなら店をたたんで引っ越す事にして、頭(かしら)の所に挨拶に行くと引越の最中。やはり恥かくぐらいなら、引っ越しするという。手習いのお師匠さんなら解るだろうと二人で行くと、やはり引越の真っ最中。「 飲みようなら」と逃げたが、「その上ご流儀はと聞かれたら大変だから・・・」、と逃げるが、頭は「その時はこの拳固で」。と言う事で、3人は出掛けた。

 知らない者同士の茶の湯、がぶりと飲んではみたものの、飲める代物ではない。あわてて、口直しの羊羹を口の中に。
 これに味を占めた隠居は近所の人まで茶の湯でもてなした。茶は不味いが羊羹は美味いと、羊羹泥棒が始まった。金がかかるので菓子を手作りした。皮をむきサツマイモを蒸かしてスリコギであたり、蜜を混ぜて、型には黒い灯し油を付けて型抜きし、”利休饅頭”と名を付けて出した。 まことに美味そうに見えたがが、不味い!
 客は激減して来訪者はいなくなった。

 ある時、蔵前時代の来訪者があって、何も知らないので茶を教えてほしいと所望があった。「でわ!」っと、いつもより多めの青黄粉と椋の皮を入れて出した。知らずに口に含むと、飲めるものではない。慌てて利休饅頭を二つも取り上げほおばったが、食べられず、袂(たもと)に入れた饅頭からは黒い油がにじみ出した。我慢が出来ず、「お手洗いを拝借」と席を立って逃げ出した。どこか捨てるところと探したが、庭は掃き清められて捨てられない。前を見ると垣根の向こうに畑があった。ここなら良いだろうと投げると、その饅頭が運悪く畑仕事をしているお百姓さんの顔に当たってしまった。
 お百姓さんそれを取り上げ、「また、茶の湯やってるな」。
 


1.根岸の里(台東区根岸)  
 江戸の別荘地として有名で、ご隠居さんやお妾さんが小粋な造りの家に生んでいた。吉原の大店の主人達もここに住まいや別荘を持っていて、看板娘が病気で倒れるとここで療養させたりした。そのぐらい閑静で自然の景観が良かった。今、JR「鶯谷」駅が有る。その駅名からも当時の雰囲気が伝わってくる。
 正岡子規も晩年この地で暮らしたが、「妻よりは妾の多し門涼み」と詠んでいる。
 落語「悋気の火の玉」で妾宅のあった所ですし、落語「お若伊之助」の”御行の松”(根岸4-9-5)もこの地に有った所です。「茶の湯」でデタラメな流儀でお茶を点てて来客者をあわてさすのも、みんなこの根岸の里です。
 ”根岸の師匠”と言われる前に亡くなった林家三平がここに住んでいた。当然その海老名家も今ここ根岸に住んでいます。ここに「ねぎし三平堂」が有ります。

  根岸にはJR鶯谷(うぐいすだに)駅があります。名前からも分かる様に鶯が沢山生息していた所です。駅の向こう側には旧地名”谷中初音町”が有ります。初音とは鶯が春さき最初に鳴き始める鳴き声の事です。そのぐらい静かな”東京の軽井沢”だったのでしょう。
子規の句に「雀より鶯多き根岸かな」。

 俳句に「・・・根岸の里のわび住まい」と言うのがあります。上の句に好きな季語を入れれば素敵な句になります。例えば”夕涼み”を入れて「夕涼み根岸の里のわび住まい」。梅一輪を入れて「梅一輪根岸の里のわび住まい」。「柳風根岸の里のわび住まい」、「ウグイスの根岸の里のわび住まい」、何でも出来ます。また、それらしく聞こえるから不思議です。試してみてください。

根岸 下町の別荘地帯と言われていた根岸は、江戸時代から多くの文人墨客芸術家の住んだ所である。「呉竹の根岸の里」「初音の里」「鶯の名所」の別名があり、自然の風物に恵まれていた。
  また、根岸の里は日本橋あたりの大店の寮
(別荘)が多く、竹の生垣や黒板塀にお妾さんを隠れ住まわせるという町であった。「鶯や同じ垣根のいくまがり」と子規が詠んだ、くねくねと曲がった細い道に咲いた根岸花柳界は今は見る影もない。
(台東区ホームページより)
 

図版;江戸百景より「根岸の里」 寮の前には畑が広がっている。お百姓さんの農作業が見えます。そこに・・・。

ねぎし三平堂台東区根岸2-10-12) 林家三平にかんする資料、遺品が展示されている記念館があります。開堂日:曜・曜・曜(ドーもスイません) 、開堂時間 :午前11時〜午後時 入堂料600円 。
 下足札をもらい、とんとんとんと二階に上がります。階段の途中に三平の大きな写真が飾ってあります。その前で、高座で使う「今来るかと、お待ちしていました」の声が流れたのには驚きより、顔面が緩むのを感じました。展示室の中にはいろいろな仕掛けがあります。資料を見るだけではない楽しさがあります。
 
ねぎし三平堂は、林家三平の笑いの精神を永遠に生かし続ける場所です。落語家の名門に生まれながら、それまでの古典落語に飽きたらず、落語の殻を大きく破った三平落語を創り上げる。
その自由闊達な話芸は、寄席だけにとどまらず、あらゆるメディアに進出し、神風タレント第一号、昭和の爆笑王として、いつまでも日本人の心にのこっている
(パンフレットより)

子規庵(台東区根岸2-5-11) 子規庵の建物は、旧前田侯の下屋敷の御家人用二軒長屋といわれています。
明治27年子規はこの地に移り、故郷松山より母と妹を呼び寄せ、子規庵を病室兼書斎と句会歌会の場として、多くの友人、門弟に支えられながら俳句や短歌の革新に邁進しました。 
 子規没後も、子規庵には母と妹が住み、句会、歌会の世話をつづけましたが老朽化と大正12年の関東大震災の影響により 昭和元年に解体、旧材による重修工事を行いました。
 昭和2年、母八重(83歳)没。同年7月子規の遺品や遺墨等を保管するため土蔵(子規文庫)建設に着工。 昭和3年、子規門弟を中心とする子規庵維持保存会が財団法人子規庵保存会として認可され、初代理事長には正岡律が就任いたしました。  
 昭和16年妹律(71歳)没後、同20年4月14日の空襲により子規庵は焼失。幸い土蔵は残り貴重な遺品が後世に残されました。現在の子規庵は昭和25年高弟、寒川鼠骨
( 吟醸注;そこつ)等の努力で再建され、同27年東京都文化史蹟に指定されて現在に至っております。(子規庵公式ホームページより http://www.shikian.or.jp/

書道博物館(台東区根岸2−10−4) 子規庵の前にあります。子規庵は純正な木造平屋建ての家屋ですが、ここは近代的なビルになっています。http://www.taitocity.net/taito/shodou/
 書道博物館は、洋画家であり書家でもあった中村不折(なかむらふせつ、慶応2年〜昭和18年 )により、昭和11年に開館されました。
  博物館には、亀甲獣骨文(きっこうじゅうこつぶん)、青銅器、石碑、鏡鑑(きょうかん)、法帖(ほうじょう)、経巻文書(きょうかんもんじょ)など、不折が書道研究のために収集した、中国及び日本の書道に関する古美術品、考古出土品など、重要文化財12点、重要美術品5点を含む約16,000点が所蔵されています。
(解説文より)

笹乃雪(台東区根岸2-15-10)月休、11時〜21時 。言わずと知れた豆腐料理屋です。この豆腐料理屋さんは豆腐を”豆富”と書きます。http://www.sasanoyuki.com/
由来; 元禄4年初代玉屋忠兵衛が上野の宮様(百十一代後西天皇の親王)のお供をして京都より江戸に来て初めて絹ごし豆富を作り、豆富茶屋を根岸に開いたのが始まりです。
 宮様は当店の豆富をことのほか好まれ「笹の上に積もりし雪の如き美しさよ」と称賛され、「笹乃雪」と名付け、それを屋号といたしました。その時賜りました看板は現在も店内に掲げてございます。当時の製法そのままに、にがりのみを使用した昔ながらの豆富の味をご賞味ください。
(パンフレットより)

■御隠殿跡碑・根岸薬師堂 (根岸2-19-10) 上野の宮様、輪王 寺宮、つまり寛永寺門主の隠居所。
 寛永寺の門主は代々皇室から法親王が降下し就任してきたか゜明治以降この制度は無くなった。
 この3000余坪の屋敷に造営されていた上野の宮様の隠居所といった建物が御隠殿であるが、建物は幕末の上野戦争で焼けてしまった。

2.椋(ムク)の皮
 
ニレ科の落葉高木。本州中部以南の山野に自生。高さ20メートルに達する。葉は長卵形で左右非対称。葉面はざらざらして物を磨くのに用いる。春、新葉とともに淡緑色の単性花を付ける。雌雄同株。 球形の核果は秋に熟して紫黒色となり、食用。材は器具用。(広辞苑)

 「ムクロジの実と種」 左側の実をお湯で煮ると石鹸水のように泡立ちます。実物は半分ぐらいの大きさ。
 右は割った中から出てきた黒い種は堅くて、羽根突きの玉に使われと言うが納得できます。食べられると言いますが、さすがの私も夜中に通うことがあるので遠慮しますが、やはり体験。皮は柔らかく、甘さを感じ不快感はありません。口の中が泡だらけではいけないので、飲み込まずに丁寧にゆすぎました。口の中にいつまでも苦味が残っています。石鹸をかじるネズミもこんな感じなのでしょうか。2014.10追記

 『正月に遊ぶ羽根突きの、羽根が付いている黒い玉が椋の実(種)で、その周りに杏のような実が付いている。これを干したものが椋の皮と言われるものです。渋くて飲めるものではない。 』(金馬が噺の中で語っている説)。 水でも泡立つのに、お湯に入れたら凄まじい、サポニンを含む洗剤として乾物屋で売っていた。

 椋の実は広辞苑に食用と出ています。で、それを乾燥しても食べられるはずで(ドライナッツ)、この口伝は間違って伝わっています。正確には無患子(むくろじ)の事です。”むくろじ”がいつか”むく”になってしまったものです。
 ただ、「むくろじ」を略して「むく」と呼ぶ事があるので、紛らわしい。

無患子(むくろじ) ムクロジ科の落葉高木。高さ約10〜15メートル。6月頃、淡緑色5弁の小花を大きな円錐花序につけ、球状の核果を結ぶ。種子は黒色で固く羽子(ハゴ)の球に用い、また果皮はサポニンを含むので石鹸の代用とした。西日本の山林に自生し庭園にも栽培。むく。つぶ。(文、写真;広辞苑)

黄粉(きなこ) 大豆をいって碾(ヒ)いて粉にしたもの。砂糖をまぜ、餅・団子などにまぶして食べる。豆の粉。「―をまぶす」。
 青黄粉(あおきなこ) 青大豆を炒り、碾(ヒ)いて粉にしたもの。
(広辞苑)

 湯に入れた青黄粉だけの飲み物だったら、不味いだけで飲めたでしょうが、椋の皮(むくろじ)が入ったからたまりません。想像するだけで「うッ」となるのが分かります。


3.茶道
 八代将軍義政の時代に登場した村田珠光(1422-1501)は、唐物道具ばかりでなく、和物といわれる日本製の茶道具をも併せて使用する草庵茶の湯を考案し、 四畳半茶室も創り出しました。そして我慢(わがまま)と我執(自己執着)とを戒めた精神的な茶の世界を考え出したのでした。この精神を受け継いだのが、 武野紹鴎(1502-1555)であり、さらに哲学的な思考性、美の世界を見極める審美性を加えて草庵茶の湯をわび茶道として大成したのが、千利休(1522-1591)でした。

 茶道の大成者千利休に対し、ある人が「茶道とは何ですか、教えてください」と尋ねました。 それに対し利休は、「茶は服のよきように点て」、「炭は湯の沸くように置き」、「冬は暖かに夏は涼しく」、 「花は野の花のように生け」、「刻限は早めに」、「降らずとも雨の用意」、「相客に心せよ」、この七則がすべてですと応えました。 すると尋ねた人は怒って「そんなことくらいは、三才の赤子でもわかっております」と言いました。 すると利休は「わかっていてもできないのが人間ではないですか。あなたが本当にできるならば、私があなたの弟子になりましょう」と言ったということです。
裏千家ホームページ http://www.urasenke.or.jp/index2.html より

■ お茶の飲み方 これは流派によって微妙に違いますが大筋では次のようになります。これ以上流儀はと聞かれたら、頭(かしら)の台詞ではありませんが、ゲンコをこさえて懐にしまって出掛けましょう。

1.まずはお客様が用意して持参する物があります。正式な物は別として、最低限「懐紙」、「楊枝(菓子切り)」、「茶席用の扇子」。

2.茶室への入り方、 正客から順次入室し、床の間を拝見して席に着きます。詰客(末客)まで入室したら入り口を閉めます。この時正客と詰客は最後まで大事な仕事がありますので、初めての人はその間に挟まって入りましょう。これからは挟まった人達の話です。

3.亭主(お茶を点てる人)が茶器に抹茶を入れる頃に「お菓子をどうぞ」と声が掛かります。大鉢で盛りつけられていたら、懐紙に自分の分を取り分けます。器は声を掛けて次の人 (次客)に回します。 「お先にいただきました」とか「どうぞ」と声を掛けます。「どっこいしょ!」と、声は掛けません。この様に声を掛けると落語「禁酒番屋」の水カステラになってしまいます。 ここまでは無駄口をきいてはいけません。
 その時に食べ始め、お茶が点て終わるまでに食べ終わります。残した時はその懐紙に包んで袂などにしまい持ち帰りOK。次客以降は同じ時期に食べても、自分のお茶が点て始める時に食べてもかまいません。大きな会場では次客以降は奥で人数分だけ別に点てていますので、最初にみんなと一緒に食べていた方がいいようです。

4.お茶が点て終わると、半東(お茶運び)が自分の前に運んできます。上客に「今一服如何ですか」と声を掛け、次客に「お先に」と声を掛けて右手にもって、左手で受けて、 茶碗の正面を右に回して一口いただきます。亭主から「如何ですか」と声が掛かりますので「けっこうなお点前です」と礼を言い、残りを幾口かに分けて呑みきります。 飲み口を指で拭いて、正面が向こうになるように回して、膝前に置きます。
 飲む時は茶碗を三回まわすのだとか、いろいろ言われますが、間違いで、5回まわすのが正式です。(ウソ、うそ。それはゴカイの元です)。お客に正面を向けて出された茶碗に口を付けづに、少しまわして正面をはずします。また飲み終えたら、正面が向こうになるように回して下に置きます。

5.これで飲み終わりましたので、大きく肩で息をしましょう(?)、またゲンコもしまいましょう。 
 この後、茶碗の拝見に移り、今呑んだ茶碗を見せていただきます(拝見)。これも上客の仕草をマネましょう。時によったら、この時使用した道具の拝見もあります。
 これで一通りの事が終わりました。濃茶の作法はまた違いますが、薄茶だけ心得ていれば用が足りるでしょう。

まずは、ゲンコをこさえてお出かけ下さい。

 


  舞台の根岸を歩く
 

  JR鶯谷駅から歩き始めます。「悋気の火の玉」でも歩いた所で、駅前からラブホテル街ですから、独り取材の身には応えます。早々にホテル街を抜けて寛永寺陸橋を左に見ながら通りを渡ります。右手に根岸小学校左手に豆腐料理屋の「笹の雪」が有ります。昼のランチでも千数百円しますが、流石老舗混んでいます。

 その笹の雪の角を左に曲がり、最初の信号機の交差点を「ねぎし三平堂」の看板を見ながら左に斜めに入って行きます。直ぐに三平堂が左側に現れます。落語家・林家三平の住まいを改築し資料館になっています。
 下足札をもらい2階に上がると、三平、三平、三平の資料が満載です。VTR「源平盛衰記」の放映や彼が愛用したSPレコード、写真機、ポマードに櫛、チックには髪の毛まで付いています。勉強熱心な彼らしく大学ノートに成果が書き込まれています。何だか分からず、捨てるに捨てられない物まで展示しています(いったい何なんでしょ)。彼への書簡が裸で置いてあります。大らかというか不用心というか、 「危ないよ」と言うと「今まで盗まれた事がないから」、とおおようなものです。写真の前に立つとテープが流れる細工や、拍手をすると「お稲荷さんではないんだから」と生前の彼の声が聞こえてきます。階段では「お帰りになるのですか」と彼の声が背後でするのには、驚き以上に笑ってしまいました。

 道を一本南に行くと、歌人・正岡子規が住んでいた「子規庵」があります。典型的な明治・大正期の木造日本家屋と平均的な庭のたたずまいを今に残しています。
 その前には、「書道博物館」が現代的な建物で建っています。

 この辺一帯は妾宅や別邸が多くあったと言われていますが、今は少ないのでしょう、と思います。裏道は細いながら生け垣の美しさや家々のたたずまいに品があります。

 流石に利休饅頭を投げ捨てるような畑はとうの昔に無くなっています。

 

地図

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写真

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 根岸台東区根岸2)
車もすれ違えない細い裏路地に過日の根岸を見る事が出来ます。
しかし、町は静かで、綺麗に清掃され住人の質の高さを感じます。

根岸台東区根岸3)
諸所にこの様な旧家を見付ける事が出来ます。往時の豊かさを感じます。

ねぎし三平堂台東区根岸2-10-12
落語家・ 故林家三平師の資料館です。3階建てで日本建築の良さを取り入れた建物の2階部分が資料館になっています。三平に関する資料、遺品、蒐集品、落語資料が展示されています。
「お待ちしていました」と言う林家三平の顔写真。資料館の中に造られた高座に写真の三平が鎮座しています。この高座を利用して月に一度「三平堂落語会」が開かれています。

子規庵(台東区根岸2-5-11、東京都史跡)
当時を代表する平屋建て木造日本家屋です。この地でたくさんの歌人達と親交を結び、歌を詠み、ここで亡くなっています。
もごく普通の庭です。

書道博物館(台東区根岸2−10−4)
子規庵の真ん前にあるのがこの博物館です。子規庵とは対照的にコンクリートの近代的な建物です。

笹乃雪(台東区根岸2-15-10)
豆腐料理で有名な老舗です。
 談志師匠ではないがフルコースで食べたが、帰り道に焼き肉を食べたが普段と同じ量を食べてしまった。

御隠殿跡碑・根岸薬師堂 ( 根岸2-19-10)
天皇の親王あるいは養子を迎えて輪王寺の門主に就いていた。その輪王寺宮の別邸「御隠殿」があった所です。敷地三千数百坪、入谷田圃の展望と老松の林に囲まれた池を持つ優雅な庭園で、ここから眺める月が美しかったと言われる。慶応4年(1868)5月彰義隊との戦い(上野戦争)によって焼失し、現在は全くその跡を留めていない。

                                                              2004年4月記

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