落語「唖の釣り」の舞台を歩く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「唖の釣り」(おしのつり)によると。
 

 上野の池は古くから殺生禁断の地でした。ところが七兵衛という男は、毎晩こっそりと上野の池へ鯉釣りに出掛け、それを魚屋に卸して生計を立てていた。それを聞いた与太郎さん「おらぁも連れて行ってくれ。ダメだったら、この話みんなに言ってしまうからな。」と脅して頼んだ。これには 七兵衛もしかたがなく、その晩、与太郎を連れて釣りに出掛けた。

 別れて釣り始めたら、与太郎は食いがいいのでキャアキャア言いながら釣っていたら、役人に捕まってしまった。かねて教わっていたとおり「病気のお母ぁが鯉を欲しがるが貧しいので買うことができません。悪いこととは知りながら釣っておりました」。しどろもどろながら教わった通りに申し開きをしたら、「こいつは少し足りない男のようだが、親孝行の為なら、今夜だけは見逃してやろう」、と許してもらった。

 続いて、今度は七兵衛が見つかったのだが、いきなり「また釣っとるかァ」と殴られた。「また」というのだから与太郎がしくじったのだと思った七兵衛、とたんに舌がもつれて声が出なくなってしまった。役人が唖と思い込んだのを幸い、器用に身振り手振りのパント マイムで親孝行の説明をする。
「なんと、今晩は親孝行が流行るわい。なかなか器用な唖だな。大目に見てやるぞ」。
それを聞いた七兵衛さん、「あ、ありがとうございます」。
役人はビックリして 「あ、本当に器用な唖だ。口を利いた」。

 


 
1.出典
 元禄11年(1698)『露新軽口ばなし』の「又いひそうな事」が出典であろう。昭和の初め、上方の「唖の魚釣り」を林家彦六が東京に移植したもの。聾唖者への配慮もあり、あまり放送でも聞く事が少ない。また、ラジオ等では身振り 手振りが分らないので、与太郎の場面だけを演じ、
「それなら許してやるぞ。早く帰って親に食わせてやるが良い。で、どの位釣れた」。
「36匹。もう魚籠に入らねぇや。何か入れ物をくれぇ」 で落とす。
この場合は「上野の釣り」という題名も用いられる。

■場所を寛永寺の池に移したり、権兵衛を七兵衛に変えました。大阪のものでは、 権兵衛という名がもともと甚兵衛なのですが、手まねで説明すると役人が権兵衛 と受けとるといったぐあいに、手間がかかります。このやり方は『ひねりや』で 吉原の女郎が小遣いに困って、唖の真似をして、おとっつァんはと聞かれたときに権兵衛と手真似で説明をする、あれをそっくりとったんだと思います。最初から七兵衛でやって差しつかえないと思います。(林家彦六)

 

2.殺生禁断の上野の池
 
上野の池とぼかして言っていますが、誰が考えても上野公園にある寛永寺とその前の池は不忍池(しのばずのいけ)以外にありません。神社仏閣に付随した池は場所柄、例外無しに「殺生禁断の池」です。誰も釣らないから、入れ食い状態で、楽しいのでしょう。

 仏教の五戒は、在家の守るべき 五種の禁戒。「不殺生(ふせっしょう)」「不偸盗(ふちゅうとう)」「不邪淫(ふじゃいん)」「不妄語(ふもうご)」「不飲酒(ふおんじゅ)」。
 殺生戒により、 寺社の境内はどこでも殺生禁断の場所で、魚鳥獣の捕獲を禁じた。江戸時代には 浅草寺の要請で、隅田川も寺近くの大川一帯が殺生禁断の場として指定されたことがあった。

 私も与太さん同様、五戒はなかなか守る事が出来ません。蚊が止まれば「パシッ」と手を打ちますし、人の心まで盗みたくなります。妄想の中では手も繋ぎたくなりますし、美女を見ればやはり心動かされます。大語もしたくなれば、嘘をついてまで背伸びしたくなります。酒?、もういけません。いけませんとは、やらないと言う事ではなく、美女同様膝に抱えていつまでも・・・。でも、どれもこれも弱くなりましたな〜。
 五戒についてはひどく誤解をしている私です。まさしく「迷中又迷の漢」です。


3.不忍池

 弁天島には上野観光連盟の建てた「不忍池」の大碑があり、その裏面に不忍池の由来が次のように書かれています。

 「不忍池は忍ヶ丘(しのぶがおか)に連なって都心随一の山水美を誇るばかりでなく、江戸以来相次いで大火・大地震・大戦などの災禍が起こるたびに避難の場所としても都民に慕われてきた。
 大昔の武蔵野に深く食い込んでいた東京湾の入り江がたまたま一部だけ取り残されて、西暦紀元前数世紀ごろからこの池となり13世紀以来今の名で呼ばれるようになった。1625年江戸幕府が、西の霊場比叡山に対照させて東叡山寛永寺を営むや、開祖慈眼大師天海大僧正はこの池を琵琶湖に見立て、竹生島なぞらえて新島を築かせ弁天堂を建てた。この景観は江戸名所図絵の圧巻とされたが、20世紀に入ってからは博覧会場、競馬場に利用されて湖畔はますます賑わった。
 1943年終戦後の激動期には、池の一部に稲が植えられ不忍田圃の異名がついた。続いて全面干潟論や、野球場新設の猛運動などに脅かされたが、上野観光連盟の前身鐘声会や地元有志が、郷土愛に燃え私財を投じて疾走した結果、昔ながらの風致を確保出来たばかりではなく、その上新たに水上音楽堂が設けられ、毎夏の納涼大会に興趣を増した。
 なお、1964年アジア最初のオリンピックを契機に周辺の文化諸施設も一段と整備され、探勝の外人客が、西独ハンブルグの都心を飾る名勝アルスター湖を連想して激賞するるほど、著しく近代化された。」

以下略

 先代金馬さんも言っています。「戦後、食糧難の時代鯉より主食のお米が足りなく、そのお米の増産の為不忍池を田圃にした。悲しい時代だった。」と、噺のマクラで話していました。
 十数年前には不忍池の水を抜いて、駐車場にしようと言う案もありましたが、幸いにも立ち消えになっています。では、その地下に、造ったらどうだという意見も出て、大変だったのを思い出されます。

 


 舞台の不忍池を歩く

 池の中央の弁天島を中心に、不忍池は大きく3分割されています。それぞれ、蓮池、ボート池、鵜の池にと遊歩用の土手で仕切られています。

 夏の暑さの中、蓮池にはギュウギュウ詰めの蓮たちが押し合いへし合いしています。蓮の花も隣の葉に邪魔されて、いびつの花を咲かされています。手入れをすればもっと素晴らしい花達が咲きそろうと思うのは私だけでしょうか。その間をぬって大きな鯉たちが泳ぎ回っています。

 ボート池ではごく普通の手漕ぎボートに混じって、足漕ぎボートのスワン型ボートも家族を乗せて泳ぎ回っています。当然ここには蓮は1本も植えられていません。
 ただ、ここには怖い看板が数メートルおきに立っています。曰く、
 「(2006年)6月11日の早朝にボート池の護岸で獰猛なワニガメが発見され、捕獲されました。産卵の為に池にあがってきていたところから、他にもまだ居る可能性が有ります。近づいたり触れたりすると大変危険ですので、発見した場合は手を出さず通報してください。」と警告の看板は言っています。写真に捕獲された洗面器大の怖い顔つきのカメが写っています。
 7月にまた同じカメがボート池で見つかりました。いったい何匹いるのでしょう。これも大人が飼いきれなくなって放したものでしょうが、ここで遊ぶ子供達の事を考えると憤りすら感じます。いっそ、カメ釣り大会をして、根絶出来ないものでしょうか。

 上野動物園の鵜の池では野生の鵜が飛んできて、コロニーを形成しています。夕陽が沈む頃になるとカメラマンが三脚を並べて、白くなってしまった木に沢山の鵜が集合しているところを、撮る為に待機しています。都会の中でこれだけの自然を写真に納める場所は、そうざらには有りません。

 皆さん、それぞれの楽しみ方をしています。

 

地図

     地図をクリックすると大きな地図になります。 
 不忍池に建てられた案内看板より

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

不忍池1
ボート池には手漕ぎボートや足踏みボートが涼を求めて、水上を滑っています。

不忍池2
ボート池湖畔で涼を求めて一息です。
奥にボート乗り場、その奥に弁天堂が見えます。

 

不忍池釣り禁止看板
どうしてなんでしょうね、看板の下には1m近くの真鯉や錦鯉が群れをなして泳いでいます。この場所が一番安全なのでしょうか。

不忍池で釣り
オッといました、真っ昼間から七兵衛さん夫婦。真剣になって釣っていますが、まだ、何もあがっていません。肩をトントンと叩かれたら口が利けなくなってしまうのでしょうか。

弁天堂遠景
蓮池から見る弁天堂です。どこまで行っても蓮ですので、この上を歩いて渡れそうです。右足が沈まないうちに左足を前に、左足が沈まないうちに右足を前に・・・。

浅草観音戒殺碑(台東区雷門2−2駒形堂境内)
ここ駒形堂は浅草寺の金のご本尊が最初に上がった聖地です。そのため隅田川の南は諏訪町(厩橋北)から北は聖天河岸(言問橋北・待乳山)に至る十町余の川岸を魚介殺生禁断の地にした。この事を記念して元禄に碑が建立されたが焼失などで行方不明になっていた。昭和2年土中から出たが、初期の物か再建の物か分からない。昭和47年に現在の碑が再建された。
06年12月追記

                                                        2006年8月記

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