落語「景清」の舞台を歩く
   

 

 八代目 桂文楽の噺、「景清(かげきよ)」によると。
 

 腕のいい木彫師の定次郎はふとした事から目が見えなくなっていた。お医者さんにもかかっていたが見放され、信心で治るものならと、赤坂の円通寺の日朝さまに日参し、今日が満願の日であった。確かに御利益があって、昨日ぼーっとではあったが光を感じるようになっていた。嬉しさのあまり母親の意見を振り払い夜通し願掛けをしていた。と、隣にご婦人が同じように願掛けしていた。隣のご婦人にちょっかいを出して信心どころではなくなった。すると目の前が真っ暗になって、前よりは悪くなってしまった。ヤキモチもいい加減にしろと、啖呵を切って帰ってきてしまった。

 石田の旦那の勧めで上野の清水の観音様に願掛けする事になったが、前回の仏罰があるので三七21日ではなく100日それがいけなければ200日と短気を起こさずに通うようにと意見された。

 今日はその満願日。しかし、目に変化は現れない。こんどは観音を罵倒しているところに、石田の旦那が現れ意見をされた。母親が、目が開いたらこの仕立て下ろしの着物が縞ものだと分かるだろうし、帰ったら赤飯と鯛の焼き物と少しのお酒を用意して待っていてくれる。それを考えると帰れない、と言う。
 それを無理に手を引き、坂を下って池之端の弁天様にお参りし、帰ろうとした途端、真っ黒い雲が現れ雷が鳴り始めた。真っ暗になって凄まじい雷雨になった。土橋まで来るとなお激しくなり、旦那も逃げ帰ってしまい、定次郎は気を失って倒れていた。9時の鐘を聞くとすーっと雨がやんで、定次郎も気が付いた。
 「う〜寒い、旦那は居ないし・・・ あぁ!目が・・・、目が開いた。(指折り数える定次郎)有り難うございます」。とって返してその晩は夜通し祈願して、翌朝母親を連れてお礼参り。目がない方に目が出来たという、めでたい話でした。
 


1.赤坂の円通寺(港区赤坂5丁目2-39)
 
日蓮聖人滞在中、日法上人が作られたという日蓮の等身大に近い木像三体を安置している。江戸三祖師のひとつ、圓通寺は江戸時代から「願い事がかなう寺」として信仰を集め、また「時の鐘」を託された九ヵ寺の一つです。 今、鐘楼にかかっている鐘は江戸時代と大戦時の二度の行方不明から奇跡的に生還し、昭和50年に再び戻ってきたものです。円通寺前から北に一方通行のきつい下り坂になっています。道幅は当時のママなのでしょう、この坂を寺名から円通寺坂と言います。標識の説明版によると、「元禄8年(1695)に付近の坂上南側に移転した寺院の名称をとった。それ以前 同名の別寺があったともいう。
 この大戦でも類焼し本堂は昭和のものです。江戸の当時には日朝堂が境内に建っていたのであろうが、今では本堂(祖師堂)に日朝さまが祀られています。今になっては当時の事はよく分からないとの事です。
(御住職奥様談)
 


2.日朝さま
 日蓮宗身延山久遠寺の 貫首で、眼病守護及び学業成就の行学院日朝上人(にっちょう しょうにん、1422〜1500)。
 応永29年(1422)1月5日、当時、関東真言関東ふれ頭円応法主朝善を御父に、妙秀を御母として伊豆の国宇佐美に誕生。 その当時、三島本覚寺の開山一乗院日出といわれる行学一世に秀でた上人に見出され、数え八歳の時に出家されて弟子となり、鏡澄という字と行学院日朝という法名をいただき、お師匠さまのもとで厳しい修行と行学の二道に研鑚されました。
 日朝さまは数え四十一歳のとき、身延山久遠寺の第十一世の貫首になり、十年の年月をかけて七堂伽藍や甍を整備し、身延山を法華経の道場として復興し発展させました。 また新たに法要儀式の作法の制定、立正会やお会式名をいとなみ、三日講問答とよぶ教育の場をもうけて学徒を養成する教育に尽くされ、さらに行学院と称する学室をもうけて御書見聞の解説と講義や補施集、元祖化導記などを著して宗祖への報恩の誠を捧げました。 ここから、学業成就の日朝さまといわれるようになった。また、全国に三十三ケ寺のお寺を開いたと言われます。
 日朝さまは、生涯を身延山の行事、学徒の教育、門下の融和、法華経弘通や著述に尽くされ、昼夜絶え間なくご精進のために眼病を悩まされ危うく失明せんとされましたが、法華経法師功徳品に説かれた功徳を身と心にいただき、信心の功徳、勉学に励んで学業が成就する功徳、仏の心を備える功徳を積んで清浄の肉眼と心の眼を開かれたので”眼病守護の日朝さま”と崇められるようになった。


3.上野の清水の観音様
(上野公園1-29)
  東叡山寛永寺清水観音堂。天海大僧正は寛永2年(1625)に二代将軍徳川秀忠から寄進された上野忍ヶ丘に、平安京と比叡山の関係に倣って「東叡山寛永寺」を開いた。それは同時に、比叡山が京都御所の鬼門(東北)を守り、王城の鎮護を担うと伝えられるのに倣い、江戸城の鬼門の守りをも意味した。そして比叡山や京都の有名な寺院になぞらえた堂舎を建立したが、清水観音堂もその内のひとつで す。
 寛永8年(1631)京都の清水寺に似せて建立しましたので、高台に張り出した舞台が作られています。本堂並びに本尊の木造厨子は重要文化財に指定され、本尊は千手観音です。毎年 9月25日には、人形供養が行われています。 また、秋色(しゅうしき)桜でも有名です。
  第41話「長屋の花見」、第19話「崇徳院」にも登場する舞台です。


4.
池之端の弁天様(上野公園2-1)
 寛永のはじめ頃、天海僧正により琵琶湖の竹生島に見立て、不忍池(しのばずのいけ)の中に島を築きました。これが弁天島です。弁天島には、 寛永寺が弁財天を祀ったお堂を建てました。このお堂が弁天堂で、戦災で焼失しましたが昭和33年に再建され、八角形で朱塗りの美しい姿を水上に映しています。弁天島には、不忍池由来碑をはじめ数多くの碑が建っています。



 
不忍池にある弁天堂。桜のシーズンで屋台も出て賑わっています。2016年4月追記
 
5.土橋
 中央区銀座と港区新橋の境目を流れる川に架かっていた橋。その下流に新橋。しかし今は川も埋め立てられてその上に首都高速道路が走っていますし、その下は商店街になっています。土橋は無くなり、その上を走る首都高速道路に土橋と表記されています。橋を渡るのではなく、橋をくぐると言うヘンな形になっています。
 上野・不忍池からここまでは5km程もあります。不忍池から黒い雲に追われてここまで逃げてきたのでしょうが、少し距離がありすぎます。土橋とは土で(基礎を固めて)造られた橋ですから、小さな川や庭園の池などに渡す橋には多く採用されていました。噺の流れから、不忍池近辺に土橋が無いか探しましたが、見つける事は出来ませんでした。不忍池南東畔にある区立下町風俗資料館の学芸員にお伺いをしたが、分からないと言います。
上記弁天堂に渡るには、小さな橋を渡りますが、現在は石橋ですが、当時は土橋だったのかも知れません。
 演者によっては、土橋ではなく池之端(不忍池河畔の街)と言っている事もあります。この方が流れが自然です。
 
 不忍池は南側と西側のヘリに沿って忍川(しのぶがわ=大下水)が流れていて、その池側にあった土手に出るには小さな橋が架かっていました。また、忍川の北側(上流・不忍池に接する)あたりから先を藍染川(あいぞめがわ)と言う名の川が流れていました。この藍染川の下流に架かっていた橋が土橋です。具体的に橋の指定は出来ませんが、不忍池の近所です。台東区立下町風俗資料館・学芸員の話による。
  現在の不忍通りの、地下鉄千代田線・根津駅付近。
 この噺は元来上方の噺で、三代目三遊亭円馬が場所の設定を東京に移したものです。円馬から文楽が教わったもので、深く追求するほどの事もないのでしょう。 後半2010年6月追記

  

 「土橋」。橋の表面を土で覆った小橋。具体的な橋名は無いでしょう。2017年9月追記。向島百花園にて


6.平景清
(たいら の かげきよ)
 
平 景清
(生年不詳 - 建久7年(1196年)?)は平安時代の武士。藤原忠清の子。

 平家に仕えて戦い、都落ちに従ったため俗に平姓で呼ばれているが、藤原秀郷の子孫の伊勢藤原氏(伊藤氏)である。本名は藤原景清(伊藤景清)。通称、上総七郎(かずさのしちろう、上総介忠清の七男であるため)。信濃守(1180年)、兵衛尉。「悪七兵衛」の異名を持つほど勇猛であった。

 平安末期における源平の戦いにおいて活躍した。『平家物語』巻十一「弓流」において、源氏方の美尾屋十郎の錣を素手で引きちぎったという「錣引き」が特に有名である。壇ノ浦の合戦で敗れた後に捕られ、預けられた八田知家の邸で絶食し果てたといわれるが異説もある。

 「悪七兵衛」の「悪」は悪人という意味ではなく、「悪党」と同様に勇猛さを指すものとされるが、壇ノ浦の敗戦後に自分を匿った叔父の大日房能忍を疑心暗鬼にかられて殺害してしまったためにそう呼ばれるようになったとの伝承もある。ただし近年は能忍の死因は病死または事故死とする説が有力。

 実在したとはいえ生涯に謎の多い人物であるため、各地に様々な伝説が残されているが、いわゆる平家の落人として扱われる事は少ない。このためか各種の創作において主人公としてよく取り上げられている。

 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より


  舞台の眼科(?)のお寺を訪ね歩く

 赤坂の円通寺です。赤坂の中心、TVやラジオで有名なTBSの裏側にあたりますが、細い道と一方通行の道で、なかなか行き着けません。一歩入った裏通りは昔ながらの細い道と急な坂道で、人も車も通りにくそうです。円通寺の境内はお世辞にも広いとは言えませんが、現代的なビジネス街に古き良きたたずまいを醸しています。2度も家出をして行方不明になった梵鐘も、新調してもらった鐘楼に安心したかのようにぶら下がっています。この鐘が、江戸で刻(時)を告げる鐘九ヶ所のひとつとして有名です。
 このお寺さんには日朝さまの説明書きは何処にもなく、我々若い(?)世代以後の人達はここが江戸時代に有名だった眼病に効き目があるお寺さんだとは気が付かないでしょう。いただいた寺歴(縁起)の中のどこにも見る事が出来ませんでした。
残念!

 上野の清水の観音様と弁天堂。何回か足を運んだところです。桜の頃の素晴らしさは格別ですが、今の葉が落ちた木々の間だから望まれる不忍池の風情は又いいものです。観音堂は色も塗り直して、綺麗になっています。

 赤坂界隈を歩いている人達と、上野界隈を歩いている人とでは、何でこんなにも雰囲気が違うのでしょうか。

 

地図

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写真

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赤坂の円通寺(港区赤坂5−2)
 定次郎が最初に願掛けをしたお寺さんです。満願の夜、ここでいい匂いをプ〜ンとさせたご婦人が隣に来て願掛けをするものだから、途中から気持ちがやましい方にねじ曲がってしまったのでしょう。帰りの坂道が悔しかった事でしょう。「時の鐘」を託された九ヵ寺の一つです。

円通寺坂
 
坂の頂上はT字形の突き当たりで、ソフトバンクのビルです。円通寺は手前隣りになり、ここから急坂が始まります。急な坂で若者が身体を倒して、フウフウ言いながら上がってきます。

上野の清水の観音様(上野公園1-29)
 落語「崇徳院」で伺った時は桜満開でしたが、今回は何もない状態で、不忍池が舞台から望めました。

池之端の弁天様(上野公園2-1)
 左の写真が参道を通って正面から見るお堂です。
 右の写真は池側(裏側)から見る弁天堂です。2004.7月撮影、蓮が茂っています。

                                                                  2005年2月記

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