落語「猿後家」の舞台を歩く
   

 

 立川志の輔の噺、「猿後家」(さるごけ)によると。
 

 何の不自由も無い大店(おおだな)の後家さんが居た。でも、一つだけ気にしているところがあった。それは少しだけ顔が猿に似ていた。だから後家さんの前では「さる」とか「えてして」の付く言葉は禁句であった。

 ある時、植木屋が庭で仕事をしていると、奥様が出てきて、何か木を植えたいが何が良いかと訪ねると、つい「サルスベリの木」が良いだろうと言ってしまった。一瞬固まった植木屋は土下座して謝ったが、許してもらえずキセルで額を割られてしまった。怒った植木屋は、こんなに謝っているのを額まで割ってどうしてくれると啖呵を切った。「サルスベリがやなら、柿の木を植えて、その上でおにぎりでも食べていろ」と捨てぜりふをはいて帰ってしまった。

 3日経っても後家さんは怒りが収まらなかった。そこに源さんがやって来て小遣い銭ほしさに奥様に声を掛けた。
 「おかみさん〜」と部屋に何度も声を掛けたが居ないので帰ろうとするのを、奥様がとがめて「さっきからここにいるじゃないか」と詰め寄ると「あ!奥様でしたか。てっきりお千代さんかと思いました」、「やだよ、あの子は京の水で洗われた京美人だろ、それに、まだ十七だよ」、「あ!ホントに奥様だ。そんなに綺麗に化粧しているから間違えたんだ」、「嫌だよ。まだ化粧前だよ」。(段々と源さんのペースになってきた)女中のお喜代に酒と鰻を用意するように言い付けて、「今日はどうしたんだい」。

 源さんが言うには、「女房の親が出てきて東京見物をさせたので懐が寂しくなってしまって・・・」、「私が幾らだって面倒見てあげるよ」。
 「親を連れて、皇居見物をして日比谷から銀座に出て新橋の手前の大きな天ぷら屋で食事をした。女房の親だから奮発して特上を頼んだ。それから、泉岳寺に行って靖国神社を見て、上野に出て西郷さんの前で
写真を撮って、浅草で観音様を参拝して仲見世を通って、雷門を抜けて人だかりの中を覗くと見事な今は珍しい”猿回し”が居た」。一瞬両者凍り付いたが、「この情無しぃ〜!」と言う事で、しくじってしまった。

 番頭の所で何か良い知恵はないかと訪ねると、先日仕立屋の田兵衛が来て、話の途中までは良かったが、子供が芝居のウツボで猿をやる事になった。で、しくじってしまった。しかし、翌日女房子供を連れてやって来て、奥様に言うには「江戸にいても奥様にお会い出来なければしょうがないので、転居する」と言う。その上「子供が道々、錦絵を見つけて『おばちゃんだ。おばちゃんだ!』と離れないので、お別れに、この錦絵に奥様の魂を入れて下さい」と差し出した。奥様の機嫌は直って、小金もいただき、出入りも許され子供には小遣いも貰って帰って行った。

 「番頭さん、本当に似ていたのですか」、「お前、馬鹿な事を聞くな。仕立屋の田兵衛が帰り際、私に片目をつむって行ったよ」。今からでは錦絵も手に入らないし、どうして良いか分からなかった。番頭さに聞くには、日本で一番綺麗な人は”小野小町”であると言う。

 奥様の部屋にとって返してお目通りを許して貰おうとしたが、まだカンカンに怒っていた。
「奥様が怒っているのは分かるが、どうして怒っているのかが分からないので、教えて欲しい」と言った。奥様は怒りが収まらず「雷門を抜けたんだろう。その先に人だかりがあったのだろう。その中で何をやっていたんだい。」。「はい。皿回しです」。「さ・ら・ま・わ・し??」奥さまは毒を抜かれてしまった。「お喜代、酒と鰻はまだかい?」。
 「で、晩飯にすき焼きが食べたいというので、食べていたが親が急に『お店(たな)の奥様はどんな人だい?』と聞くので、『そうさな、小野小町のようだ』と答えたんです」、「源さんやだよ、そんな事言っちゃ。小野小町だなんて。お喜代や銀行から壱千万円降ろしておいで。でも、食事中に良くそんな事が出てきたねぇ。源さんは頭が良〜んだね」。
「いいえ。ほんの猿知恵デス」。

 


 
1. うつぼざる【靱猿】
 1.狂言の一。狩に出た大名が猿曳(さるひき)に会い、猿の皮をうつぼにしようとして無心するが、猿の不憫さに心動き許すので、猿曳は礼に猿を舞わす。
 2.歌舞伎舞踊劇の一。常磐津。本名題「花舞台霞の猿曳」。1838年(天保9)中村重助作詞、五世岸沢式佐作曲。 1の狂言を歌舞伎化。大名は女大名三芳野に、太郎冠者は奴橘平に代る。
 3.長唄の一。1870年(明治3)頃、二世杵屋勝三郎作曲。 の長唄化。

広辞苑より


2.猿知恵(さるぢえ)
 こざかしい知恵。浅はかな知恵。「―を働かせる」

■猿回し(さるまわし)
 猿に種々の芸をさせ、見物客から金銭を貰い受けるもの。縁起物として多く正月に回った。猿遣い(さるつかい)。さるひき。(猿は馬の病気を防ぐという俗信から、大名屋敷では厩(うまや)で舞わせた) 
広辞苑より
 源さんも少しは「反省猿」に見習ったらいいのでは・・・。

さるすべり【猿滑り・百日紅・紫薇花・紫薇(しび)
 (幹の皮が滑らかなので猿もすべるの意)
 ミソハギ科の落葉高木。中国南部の原産。幹は高さ数メートル。平滑でこぶが多く、淡褐色。葉は楕円形で四稜のある枝に対生。夏から秋に紅色または白色の小花が群がり咲く。日本で庭木として古くから栽培。材は緻密で細工用。ヒャクジツコウ。サルナメリ。 ヒメシャラの別称。
広辞苑より
 花は寿命が長く、百日も咲き続ける、という意から「百日紅」と漢字を当てられています。 


3.小野小町
 
出自不詳。『古今和歌集目録』には「出羽国郡司女。或云、母衣通姫云々。号比右姫云々」とあり、『小野氏系図』には篁の孫で、出羽郡司良真の娘とある。ほかに出羽守小野滝雄の子とする説などもある。
 経歴等も明らかでないが、仁明朝(833-850)・文徳朝(850-858)頃、後宮に仕えていたことは確からしい。「小町」の名から、姉と共に仁明天皇の更衣(または中臈女房)であったと見る説があり、また『続日本後紀』承和九年(842)正月の記事に見える小野吉子(仁明天皇の更衣とみられる)と同一人とする説などがある。 
 絶世の美女と謳われ、六歌仙の一人として艶麗な歌を残した小野小町。深草の少将をはじめ多くの貴公子達からの求愛にもなびかず、宮仕えを辞した後は全国各地を渡り歩き、衰えた美を嘆きつつ亡くなったという・・・。墓は各地に複数有ります。

 どちらにしろ、若い時はその時代の日本有数の美女であった事は確かです。

 「花の色は移りにけりな いたづらに わが身世にふる ながめせし間に
訳;
『百人一首』にも収められた有名な歌。散りゆく桜の花にわが身の衰えを重ねて嘆く小町。

 「思ひつつぬればや人の見えつらむ夢としりせばさめざらましを
訳;恋しく思いながら寝入ったので、その人が現れたのだろうか。夢だと知っていたら、目覚めたくはなかったのに。

 「いとせめて恋しき時はむばたまの夜の衣をかへしてぞきる
訳;どうにもならぬほど恋しい時は、夜の衣を裏返して着るのです。
当時は夜着を裏返して着れば恋しい人の夢が見られるという俗説があった。

良いですね、恋の歌は。

 


  東京見物の舞台を歩く

 親孝行で回った東京見物の行き先を、同じように回りますので、いつもと体裁が変わっています。
各項、 最初の写真をクリックすると、大きな組写真になります。

皇居(千代田区千代田)

     
 石橋、奥に二重橋が有り   桔梗濠   和田倉噴水公園

 言わずと知れた江戸城の跡。現在は天皇陛下が住んでいる居城で、国事行為を行うところです。一時宮城と呼ばれていた時がありますが、今は皇居と正式に呼ばれています。 

 江戸城は長禄元年(1457)に太田道灌によって創築されたが、天正18年(1590)に北条氏が滅亡し、徳川家康が居城をここに定めた。
 以来、家康、秀忠、家光の三代にわたって西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成した。
 明治維新後江戸城は皇居となり、昭和24年に西の丸下及び現在の皇居を取り巻くお濠の地域が「国民公園皇居外苑」として一般に開放され、昭和44年からは北の丸地域が加えられ広く国民に親しまれている。
 この江戸城跡は、三百年近くにわたる将軍の居所として、また政治の中心としての史的価値が極めて大きく、その規模はわが国随一のものであることから、昭和38年5月30日に文化財保護法による「特別史跡 江戸城跡」に指定された。
(環境省皇居外苑管理事務所、掲示板から)

宮内庁ホームページ に皇室、皇居、等の写真と説明があります。

■日比谷

   
  ペリカンの噴水   大噴水   小音楽堂

日比谷公園(千代田区日比谷公園)
 
この公園は明治36年(1903年)都市計画により誕生した日本で最初の洋風近代式公園です。江戸時代この付近一帯は松平肥前守、長州藩毛利家などの諸大名の邸地でしたが、明治初年の火災で屋敷が焼失し明治 4年に至り連兵場として陸軍省が所管しました。
 明治21年(1888年)都市計画日比谷公園の設置が告示され、これに伴い用地引継ぎをうけた東京市は本多静六博士(林学・1866−1952)らによる公園の設計案を明治 33年(1900年)採用、16万u以上の敷地の「ドイツ式洋風近代式公園」が、36年6月開園いたしました。
 その後、図書館、公会堂、音楽堂などが設置され都民のいこいの場所として親しまれるとともに広場(現在の第二花壇の位置)では数々の国家的行事が催されました。太平洋戦争が始まると樹木が伐採されて園地は畑となり、かつ金属回収のため外柵等の撤去がおこなわれました。戦後園は連合軍に接収されましたが、解除後昭和26年(1951年)ころからこの復旧を開始、その最終段階の昭和36年(1961)9月には直径30m主柱12mの大噴水が完成し公園の新しいシンボルとなりました。
 このほか、四季花を絶やさぬ洋風花壇や鶴の噴水のある雲形池など各種施設を備えていることで、東京都の代表的公園とされています。
(園内案内板より)
  またオフィス街の中心部にある花壇には一年中、色鮮やかな四季の花が咲き、いこいの場になっています。(第81話「片棒」より)

■銀座(中央区銀座)

   
 銀座4丁目・服部時計店  銀座4丁目・三愛  銀座7丁目・ライオン

 銀座という地名は、江戸幕府が銀貨鋳造所をこの地に置いたことに由来する。 銀座というのは、始めは地名ではなく、役所の名称にすぎなかった。 日本橋の金座があったあたりを両替町と呼んだことに合わせて、銀座は新両替町と呼ばれた。
  明治2年、正式に銀座となったときの区域は、銀座1丁目から4丁目までだけだった。 それも銀座通りに面した部分だけでした。 現在の銀座8丁の広さと比べると、1割にも満たない広さです。
  銀座4丁目交差点は、年輩の人たちには「銀座の終わりで、尾張町の始まり」と記憶されている。私はあくまでも、銀座4丁目です。 今の銀座5丁目、6丁目は、かつて尾張町1丁目、2丁目と呼ばれていた所です。
  銀座7丁目は竹川町、8丁目は出雲町と南金六町でした。今は、東銀座、銀座、西銀座が統合されて、銀座の名で統一されました。

 銀座の事なら何でも分かる、 銀座コンシェルジュ をリンクします。

■新橋の手前の大きな天ぷら屋で食事をした(中央区銀座8−9

     
  新橋脇の天国   天国正面   天国メニュー看板

 「天國(てんくに)の創業は明治18年(1885)。この銀座で、多くのお客様に育てていただいてきました。江戸前の魚や野菜の旬を美味しく召し上がっていただける天麩羅を揚げ続けています。」
 「うちの天麩羅は、良質で香りのよい胡麻油を使った江戸前の味。風味の異なる2種類の胡麻油と淡白なサラダ油を合わせた特製の油で揚げた天麩羅は、芳ばしい香りと濃い揚げ色、こくがあって、あっさりとしているのが特徴です。サックリと軽いので、おやつ感覚で食べていただけます。もたれない理由は、一日に何度も油を取り替え、品質管理しているからで、本店全体ですと一日で一斗缶6本は使いきってしまいます。」
 「『返し三年、揚げ六年』。職人は10年以上修業をするので、天麩羅を揚げられるようになるまでには長くて厳しい道のりがあります。」
 「かき揚げは、丸いお椀型に整えながら、中までぎっしり詰まったタネに均一に火を通し、ふっくらやわらかに3分間で揚げます。別名“一発揚げ”と呼ばれ、熟練の職人にのみ許される仕事です。」
(ご主人談)
http://www.ginza.jp/tenkuni/ 「銀座天国」ホームページ

■萬松山泉岳寺(港区高輪2−11−1)

      
  泉岳寺・大門   泉岳寺・本堂   四十七士墓

  徳川家康が外桜田に創立したが、寛永18年(1641)寛永の大火で焼失。高輪に移転したが再興ままならず、毛利、浅野、朽木、丹波、水谷の五大名に命じやっと出来上がった。曹洞宗の江戸における本山であり、この縁で浅野家など大名数家の菩提寺にもなりました。
 泉岳寺は入り口に「中門」、ここに掲げられた山号「萬松山」の額は左写真。入って正面に「山門」があり、右手に「大石内蔵助良雄銅像」が建っています。山門の奥に「本堂」が有ります。境内左手に「鐘突堂」、梅木があり、「首洗い井戸」が有ります。この井戸は吉良上野介の首をここで洗い、主君の墓前に供えたと言われます。その奥、小高くなった所が赤穂義士の墓所です。いつ行っても線香の煙の絶える事がありません。
 元禄16年(1703)2月4日切腹した後、直ちにここに埋葬されました。間新六の墓は築地本願寺に、寺坂吉右衛門は麻布の曹渓寺に有りますが、後日造られた物です。 (第84話「淀五郎」より)

■靖国神社(千代田区九段北3−1)

    
  神門から拝殿   鳥居の奥の拝殿   神池庭園

 靖国神社は、徳川幕府が倒れ、明治の新時代になる時に起った内戦、すなわち戊辰戦争で斃れた人達を祀るために、明治2年(1869)に明治天皇によって、創建された。
 初め、東京招魂社と呼ばれたが、明治12年に靖国神社と改称されて今日に至っている。
 後に嘉永6年(1853)アメリカの海将ペリーが軍艦4隻を引き連れ、浦賀に来航した時からの、国内の戦乱に殉じた人達を合わせ祀り、明治10年の西南戦争後は、外国との戦争で日本の国を守るために、 戦死した人達を祀ることになった神社です。
 今、小泉首相が参拝する事で、諸外国を含め話題の中心になっている神社です。

 http://www.yasukuni.or.jp/index2.html 靖国神社ホームページ

■上野に出て、西郷さんの前で写真を撮って、

 
  西郷銅像全景   西郷銅像正面   西郷銅像観光客

西郷さん銅像(台東区上野公園1番) 西郷隆盛は文政10年(1827)12月7日薩摩藩士として鹿児島加治屋町に生まれた。通称吉之助、南洲はその号である。若くして、島津藩主に重用され幕末内外多難の際、大いに国事に疾走した。後、京都に上り薩長連合を結成し王政復古の大業を成就。その後も官軍の参謀として活躍、明治維新の基礎を確立した。また、高橋泥舟、勝海舟、山岡鉄舟等の請を容れて江戸城の無血開城を実現、江戸を戦火から救った。明治に入って新政権で活躍するも、意見が合わず帰国。明治10年2月西南の役になり、転戦七ヶ月ついに破れ自刀した。9月24日、享年51才。
 浄財を集め、高村光雲作による彫像で、明治30年竣工した。
(西郷銅像脇の「敬天愛人」説明板から抜粋)
 
高村光雲(1852〜1934)は高村光太郎の父親。江戸生れで、彫刻家。東京美術学校教授になった人です。この「西郷隆盛像」は彼の代表作です。
 
南の方向を向いているのは故郷鹿児島を見ていると言われています。
西郷隆盛は未だどの様な顔立ちだか判っていません。いろいろ当時の写真が出てきて、これぞ西郷だと言われますが、全て顔かたちが違います。 銅像竣工時に立ち会った奥様が思わずつぶやいたのが「西郷ではない」と、言ったとの事があります。(第41話「長屋の花見」より)

■浅草で観音様を参拝して(本堂;台東区浅草2−3)

 
  浅草寺前   浅草寺本堂正面   浅草寺本堂の中

浅草寺縁起、推古天皇36年(628)3月18日早朝、宮戸川(隅田川)で、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の漁師が漁労中網に観音像を掛けて引き上げ郷司土師中知(はじのなかとも)に見せる。土師は自宅を寺とし出家して礼拝した。後、大化元年(645)勝海(しょうかい)上人が観音堂を建立本尊を秘仏とした。奈良朝には既に大伽藍を形成していた。平安期には慈覚大師が本尊を模してお前立ち本尊と御影版木を作る。江戸期には幕府の祈願所としてさらに大きくなり、現在に至る。全国に浅草寺の観音像出開帳としての観音は慈覚大師作前立ちご本尊だと言われています。
 浜成・竹成・土師の三人を祀るのが、浅草神社。俗に三社様と言う。浅草のお祭りとは実は三社様のお祭りです。(第23話「付き馬」より)

浅草寺と三社様に詳しいリポートがあります。

■仲見世(台東区浅草1、雷門から宝蔵門の間)

 
  宝蔵門から仲見世   仲見世   仲見世から雷門

仲見世 雷門から宝蔵門までの参道の両側にある、土産物店街。本堂に行くにはここを通ってお詣りをする。何時も人通りが絶えない。(第23話「付き馬」より)

■雷門(台東区浅草1、浅草寺参道入口)

 
  雷門全景   雷門から境外を見る   雷門正面

雷門 慶応元年(1865)焼失した門を昭和35年(1960)5月、95年ぶりに松下幸之助氏(松下電器創業者)の寄進により再建された。「風神・雷神像」、「天龍・金龍像」を奉安する。「雷門」と書かれた大提灯は幅3.4m高さ4m重さ670kg有る。(第23話「付き馬」より)

 繰り返しますが、雷門は昭和35年、95年ぶりに再建されたのです。噺の中では雷門を抜けて、と言っていますので、時代設定は慶応元年前の江戸時代か昭和35年以降になります。また、西郷さんの銅像前では記念撮影をしたと言っていますので、江戸時代ではないでしょう。また、靖国神社を参拝しているので、明治以降になります。これから推察すると、舞台は昭和35年以降だと分かります。つい最近の話なんですね。
 

浅草の興業の華
 明治の、浅草公園六区の象徴といえば何といっても玉乗りであった。江川と青木、二つの玉乗り一座が互いに人気を競っていた。それだけに、明治を語る回想記に、玉乗りの記述が多い 。
 「玉乗りとは、直径65cmぐらいの白い玉をつくって、それに人が乗り両足で球を回しながら舞台を歩きまわり、球の上で曲芸を演じたり、カッポレなどを踊ったりするのである。十歳から十五、六歳の女の子が薄化粧し、ピンク色のメリヤスのシャツの上下を着、腕を両脇に組んで球をあやつるのであったが、中には髪を桃割れに結ったりしたのもいた。」と、明治 30年代(1897〜1903)中頃の玉乗りの光景を語っている。年長でも二十代の玉乗り娘の桃色(肉色)の肌着姿は、特に印象が強かったようだ。また独特の扮装も魅力だったに違いない。
 江川一座が、浅草で人気の出始めた明治25(1892)年から27、8年頃は、盛り沢山の玉乗り演目があった。当時は、三番叟、石橋、道成寺など、歌舞伎芝居風や所作事を、玉に乗って演じてしまう和風仕立てがほとんどである。

 
この江川一座の常打ち小屋を、大盛館といった。
 明治36年、浅草六区に、日本最初の活動写真(映画)常設館が誕生、青木の玉乗り小屋は、明治41年、映画の大勝館に鞍替えし、一座は解散する。しかし、江川の興行は手堅く、
「浅草の観覧物の中では、玉乗りが一番無邪気で陽気、譚もなく面白い。軽業の方では、危ない放れ業を演じて看客に汗を握らせる」と好評、加えて、娘太夫に感じる官能的な魅力もあってであろう、玉乗り一座は賑わっていたようだ。明治末、 映画街に変貌しつつあった六区で、玉乗り江川一座は、まだまだ、浅草遊覧に欠かせない、名物の見世物であった。
「明治の東京100話」日本風俗史学会編 つくばね舎より抜粋

 雷門を抜けたところでは大道芸はスペース的には出来ないでしょう。でも、上記のように六区や奥山では盛んに行われていた。

■すき焼き屋(台東区浅草1−3−4)

 
  ちんや看板   茶色のちんやビル   ちんや入口

 すき焼き専門店「ちんや」江戸時代、弊店は諸大名や豪商に狆(ちん)などの愛玩動物を納め、獣医も兼ねていたところから「狆屋」と呼ばれておりました。明治13年に料理屋に転じましたが、「ちんや」をそのまま屋号といたしました。その後、明治36年にすき焼の専門店になりました。

「ちんや」ホームページ http://www.chinya.co.jp/ より

それぞれの先頭の写真をクリックすると大きな組写真になります。
 

☆ヨイショの源さんは一日で回ってきましたが、私は足が短いので、3日掛かりの旅行記になってしまいました。 最後までご同行いただきまして、お疲れさまでした。そこらで一杯やりますか?ね。

 私も口が滑ったときのために、絵草紙屋さんによって美女の版画でも購入しましょうか。

写真;「絵草紙屋」、江戸東京博物館にて撮影。 07年10月追加。
写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 


                                                        2005年7月記

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