落語「崇徳院」の舞台を歩く
 

  
 先代桂三木助の噺「崇徳院」(すとくいん)によると、
 

 恋患い。この病気から噺が始まる。熊さんの出入りの大店の若旦那が病気になり、小さい時からの仲良しだから、熊さんだけに話をするというので、部屋に呼ばれて聞き出すと、上野の清水堂でお詣りを済ませ茶屋で休んでいると、お供を連れたお嬢さんに会った。水も垂れるようなお嬢さんは茶袱紗を落としたので渡してあげると、木の枝に結んであった短冊がひらひらと舞い落ちてきた。
 その短冊を渡してくれた。「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と崇徳院作の上の句で、下の句は「われても末にあはむとぞ思ふ」という恋歌。末には夫婦になりましょうと言う謎掛けの短冊をもらい、以来何を見てもそのお嬢さんに見える。医者の見立てでは若旦那はあと5日の寿命だから、5日間の内に探し出してくれと頼まれる。めでたく探し出したら、三軒長屋をあげるから頼むと言われ、腰にワラジを沢山くくりつけられ帰ってくる。

 翌日から捜し始めるが、水が垂れるようなお嬢さんはいませんかと捜したのに、いっこうに見つからない。奥さんに、「瀬を早み岩にせかるる滝川の」と崇徳院作の上の句を口に出しながら人のあつまる所を回りなさいと、知恵を付けられ、床屋に36軒、お湯屋に18軒回り、疲れた身体を床屋で「瀬を早み・・・」と言いながら休んでいると、近くの頭が四国に若旦那を探しに行くという。
 大店のお嬢さんが恋患いで、その若旦那に上野で袱紗を拾ってもらい、別れ際に崇徳院様の歌の短冊を渡したが、どこのだれだか判らないと言う。北海道はもう出発したと言う。熊さんはそれを聞いて、「三軒長屋、三軒長屋・・、三軒長屋がここにいたか」、頭は「危なく四国に行くところだった」。胸ぐらを掴みながら、家に来い、いや俺の所に先に来いと、争っていると、床屋の商売道具の鏡を割ってしまう。床屋の親方が「どうしてくれる、この鏡」 、
 「親方、心配はいらない。割れても末に買わんとぞ思う」。
 


1.崇徳院=崇徳天皇
  崇徳天皇(1119〜1164)は平安後期の第75代天皇で、名は顕仁(アキヒト)。鳥羽天皇の第1皇子。が、本当の父は鳥羽天皇の祖父、白河天皇だったと言われる。その為鳥羽天皇との仲が不和であった。18年間在位(在位1123〜1141)したが、永治元年(1141)鳥羽天皇に退位を迫られ、弱冠3才の近衛天皇に譲った。鳥羽院の「本院」に対し「新院」と呼ばれた。近衛天皇は久寿2年(1155)17才で没したが皇子は無かった。崇徳上皇は自分が即位するか嫡子重仁親王の即位を期待したが、鳥羽上皇の実子、後白河天皇が即位したためにかなわなかった。保元元年(1156)鳥羽上皇が没すると、後白河天皇と崇徳院の対立が表面化し保元の乱が起こり敗北、讃岐へ流された。同地で没する。

 右図;崇徳院。天子摂関大臣影のうち天子巻より。国立東京博物館蔵 原本は宮内庁三の丸尚蔵館所蔵
2014.02追記
 

2.小倉百人一首
 「瀬を早み岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」
崇徳院作のこの歌は第77番目に出てくるもので、代表的な恋歌ではあるが、彼 崇徳院が新院になった頃の作で、「末にはあわんとぞおもう」と中央政界に返り咲きたいとの思いを詠んだとも言われています。
 「瀬を早み・・」は上の句が「せ」で始まるのはこの歌だけで、「む、す、め、ふ、さ、ほ、せ」の一つで、一枚札として有名。

 

3.元来は上方の落語
 舞台は演者によって、大阪生玉明神、高倉稲荷又は京都の清水観音だったりするが、桂枝雀や笑福亭仁鶴は大阪高津神社を舞台にしている。東京落語では三木助と同じように、上野清水堂になっている。

■清水観音堂(台東区上野公園1−29) ここは落語「長屋の花見」でも歩いた所で、公園で一番古い(寛永8年、1631)建物です。過去にはすり鉢山の頂上に建っていましたが、元禄7年(1694)この場所に移設されました。正式には東叡山寛永寺清水観音堂と言い、国の重要文化財に指定されている。
 舞台の脇(南側)にしだれ桜と井戸が有ります。江戸時代、まだ十三才の”お秋”という日本橋の菓子屋の娘が花見のおり 『井戸端の 桜あぶなし 酒の酔い』 と詠んで、桜の枝に吊して帰った。これを見た輪王寺の宮のお褒めにあずかり、長じて宝井其角門下の俳人となって号を”秋色(しゅうしき)”といった。そして今、このしだれ桜を秋色桜といいます。
清水_国貞
 「中古倭風俗旧幕大藩の姫君上野清水御花見之図」3枚続 歌川国貞画 上野・寛永寺蔵  
清水堂の舞台から不忍池の弁天島を望む。(10.02追記)
 

4.落語「千早振る」
 落語にはこの他、百人一首から取った噺で、落語「千早ふる」と言うのがあります。
「千早ふる神代もきかず龍田川からくれないに水くくるとは」在原業平の解釈を聞かれた、横町の物知り(?)隠居が言うには、

 『相撲取りの大関龍田川が芸者の千早に席に来てくれと言うと「あちきは嫌でありんす」と振ってしまう。妹の神代も「ネーさんが嫌なら、私も嫌でありんす」と振る。
 落胆した龍田川は廃業して実家に帰り、豆腐屋を手伝う。そこに落ちぶれた千早がオカラをくれと偶然訪ねる。お前のせいで相撲から足を洗った私だ、オカラはやれないと突き手をすると、痩せた千早が飛んでいって井戸に落ち水をくぐった。
 「え!、これが歌の意味ですかい。それでは最後の『とは』ってなんですか」、「その位はまけとけ」、「いえ出来ません」「う〜、それは千早の本名だ」。』

というチン解釈をする。でも、この方が本当らしいから面白い。落語「千早振る」に詳しい。
 



  上野の山(上野公園)を歩く
 

 JR上野駅公園口を出ると、桜の季節とぶつかり大変な人出が道をふさぐ。そうなんだ、今日は急ぐ必要がないので人混みに身を任せて公園の中央、動物園方向に向かう。満開の桜の下、花吹雪を楽しみながら、若旦那とお嬢さんが一目惚れしたという清水堂に向かう。ここ清水堂は昔ながらの風情を残し時間の経過を感じさせない。
 しかし、いくら待っても初い二人はやって来ない。肩を組んだり、じゃれ合った二人は沢山来るが、もう今では化石標本でしか無いのであろうか。
 清水堂の舞台から下を見ると、足の下の階段が続く坂道と正面に不忍池。その中心に弁天堂がある弁天島が見える。弁天島へは長く伸びた土手で繋がり、ぼんぼりのさがる中、屋台やそれを見ながら行き来する人出が見える。右手に動物園、不忍池の正面向こうに積み木細工を重ねたような風変わりなビル、その向こうの丘が東京大学、その左に湯島天神(落語「初天神」で金坊が凧を買ってもらった所)、左、不忍池湖畔にある水上音楽堂とその向こうに上野歓楽街が見える。その中に有名な上野 鈴本演芸場がある。

 噺の中では、「・・神田明神、左の方には聖天(しょうでん)の森から待乳山(まつちやま)が見える」と言っているが、神田明神はここからでは見えない。また、待乳山は真後ろになり、やはり見えない。待乳山は落語11話「ぞろぞろ」に出てきたので、思い出して下さい。

 ここだけの内緒話。不忍池の景色が見えるのは冬場の木が枯れている時だけで、葉が茂ると、手前の木立が屏風になって何も見えない。残念ながら。
 これだけ時間を掛けても二人は現れなかった。そうだろうな〜、変なおじさんが居たらムードも壊れてしまいますよね。早々に私は退散。

 

地図

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写真

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   百人一首「崇徳院」のカルタ
「われても末にあはむとぞ思ふ」この何とも切ない心の叫び。こんな短冊を貰ったら私だって、熊さんや誰だって、お嬢さんに見えてしまうかも知れない。しかし貰ったのは上の句、歌の素養がなければ恋患いも、末に逢うことも無かったであろう。
上野寛永寺
上野公園内の桜。寛永寺の五重塔が何とも風情がある。
寛永寺の境内に入る参道には花見の屋台が並んで、桜の下で呑んだり食べたり、散り急ぐ桜を楽しんでいます。
清水堂
上野公園内にある清水堂。上野の山の一番高いところに有り下には不忍の池があり、この清水の舞台からの眺めは見晴らしが良い。近くに茶屋も沢山あり、何時も沢山の遊客で賑わっている。
花見の客
若旦那とお嬢さんが見たら、気絶しそうなカップルが沢山いる。今は当たり前の光景だが、今の時代でも、初々しい二人はやはりここまで大胆になれるのには時間と経験が必要みたいだ。

                                                       2001年4月記

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