落語「しびん」の舞台を歩く
   

 

 八代目桂文楽の噺、「しびん」(花瓶)によると
 

 珍品の花器を道具屋で探しているお侍さん。主人に勧められる花瓶には目もくれず、心に響く一品に引きつけられていた。道具屋に汚いものだからとか、”しびん”と言われても洗えばいいからと気にも留めない。明日国元へ帰るから土産にしたいと言うので、道具屋に悪い気が起きた。お客様は目が高いと褒めておいて、京都とここだけにしかない南蛮物の珍品、5両で売ってしまった。知らないとは恐ろしいもので大金をはたいて、白昼宿に裸で持ち帰りった。

 宿の女中に生け花用のハサミなどを借りて生け始めると、そこに本屋が頼んだ本を持って現れた。江戸砂子2冊、漢楚軍談は6冊しかまとまらないので、まとまったら国表まで送ります。お子さんにお土産だからと東錦絵を合わせて持ってきた。
 花に目が止まって、旦那さんは古流ですな。それに・・・、その花器・・・は、「本屋さん目が高い、これはしびんである」、「旦那様、それは新しいのでしょうね」、「イヤ、古いもので、道具屋で5両で求めた。国に帰ったら床の間に飾ると、みんなは驚くであろう」。(そりゃ〜、驚きますよ)
 「旦那様、釈迦に説法ですが、しびんとは陶工の名ではなく、寝起きの出来ない大病を患った病人の下のものを取る小便壷です。瀬戸物屋で買っても20文か25文、5両とは法外な値段」、「本屋さん、それは本当か。憎っくきヤツ」、「ダメです。お怒りになっては」、止めるのも聞かず、刀をわしずかみに足袋裸足のまま駆け出した。

 そんな事は知らない道具屋は、目を上げるとくだんの武士が血相変えて走ってくる。しまった、と思ったが間に合わない、土間に片足降りたか降りないうちに、「道具ヤー!」、「しばらく、しばらくお待ち下さい。私が悪うございました。私には一人の母がございまして、病で床に伏せっております。高価な人参を飲ませれば治ると聞かされておりましたが、5両の大金、飲ませる事が出来ません。悪い事とは存じていましたので、母に飲ませ、喜びの顔を見たら、私の方から名乗って出ます。旦那様、それまでは私に命をお預け下さい」、「バカ者。もう少しで切るところであった。そんな横道な事で親孝行が出来るか。親孝行に免じて、金も命もくれてやる」と刀を納めて帰っていった。

 仲間が心配して覗き込んだ。「首は繋がって居るかい。5年前に亡くなった親父の、使い古しのしびんを5両で売ったんだ」、「ふっかけるのもいい加減にしなよ。お袋とか言っていたが、見た事無いがどうしたんだぃ」、「3年前に死んだよ」、「どうしてそんな」、「助かりたい一心だ」。
 「侍は偉いね。金の事はこれっぽっちも言わないで、『金も命もくれてやる』と、スーっと行くとこなんぞ、『花は桜、人は武士』と言うが偉いね。よく、金を返せと言わなかったな」、
「小便は出来ないんだよ。しびんが向こうにあるから」。

 

上図;「しびん」 江戸東京博物館蔵 12.07.追加


  

 これって、我々、いえ私が知っている「しびん」というより、花瓶でしょうね。江戸時代 後期の尿瓶(薩摩焼)、今では花器として・・・。またはヤカンでしょう。水を湧かして、お茶を入れたり、お酒のお燗に使ってしまうでしょう。知る人から聞いていて良かった。

 写真;左、「懐かし屋」さんより  http://www.ee-shina.com/07/post_15.html 

1.この噺「しびん」は
 花瓶(しびん)は、文楽師匠が大阪で圓馬師匠から教わって持ち帰ったもので、大阪から舞台を江戸に移しているのですが、無理がありすぎます。大阪の米屋敷に、所用できた侍が宿屋に泊って、道具屋でしびんの花活けを買うというのはごく自然なのですが、江戸にすると、それなりの役職の侍であれば、上屋敷か、下屋敷のしかるべき部屋に泊まるので、馬喰町あたりの旅籠にとまるというシチュエーションは無理があると思います。そんなこだわりに、4年間、悶々としていましたが(馬鹿ですね)、文楽師匠の良い噺なので、気持ちの迷いを吹っ切って勉強します。文楽師匠の噺は、研ぎに研ぎ、磨きに磨いているので、耳に沁みこんで、文楽師匠のデッドコピーに直ぐなってしまう、恐ろしさ・難しさがあります。
(落研OBの恋歌さんの感想) 
 舞台を馬喰町の宿でなく、屋敷にすれば問題はないと思われます。ここから国元に帰るのです。如何でしょうか。あ!待ってください、それだと私の歩く所が無くなってしまいます。

オチについて、「小便は出来ない
 道具屋の符牒で「買いそうな雰囲気を見せ、結局買わずに帰る客」、「店先でひやかすだけで買わない客」を指す『小便』と、用を足す行為を引っ掛け、しびんが向こうにあるから小便出来ない。 似たようなオチは『道具屋』にも登場している。 武士を茶化した内容では、「棒鱈」(ぼうだら)のようにただ一方的にこき下ろすのではなく、親孝行の徳に免じて道具屋を許すことで、この噺を清々しくしている。

 

2.馬喰町 (ばくろちょう。中央区日本橋馬喰町)
 江戸に出た時には、ここで宿泊します。その為宿屋が多かった。落語でもここを舞台にした噺が多くあります。
宿屋の富」、「御神酒徳利」、「江戸の夢」、「馬大家」等があります。そこで詳しく説明しています。


 「馬喰町」江戸名所図会

ちょっと寄り道、江戸馬喰町の七奇異

 寛政11年(1799)の夏だという。江戸馬喰町に「七奇異」と呼ばれる出来事が次々に起こった。
 最初の事件が6月に起きた。
 馬喰町に住むある老人の家で行灯(あんどん)の油を舐めている生き物がいた。老人は鼠だと思って、蚊帳の中から追い払おうとしたが、鼠にしては大きいことに気がついた。
 ビックリした老人は、「妖怪じゃ!」と叫んだ。
 その声に金八という男が飛び出してきて、戸口のところで、「おとっつぁん、どうしなすったぇ!」と叫んだ。その声に驚いた生き物が金八の足元を駆け抜けて、戸が開いている金八の家に逃げ込んだ。金八は大捕物の末にこの生き物を空の米びつに閉じこめた。そのかたちは鼠に似ているが、鼠よりもずっと大きくて、胸から腹にかけて虎のような斑点があったという。
 金八は翌朝になってこの獣を町内の者たちに見せたが、誰も名前を知らない。そこでこれを奉行所に差し出した。奉行所は数人の学者にこの生き物を見せたが、誰も名前を知らない。おそらく中国でマミ(アナグマ)と呼ばれる動物だろうとか、いやオコジョ(蝦夷いたち)らしいとか言うが、はっきりしたことは言えない。こんな動物を預けられても奉行所は困ってしまう。そこで届け主である金八に引き取らせることにした。
 珍らしい動物だから逃がしてやるのも惜しいというわけで、金八は自宅でこれを飼うことにしたが、一日に油揚げを15、6枚も食べるので、餌代がたいへんだとこぼしていたという。
 あとでわかったことだが、近所に住む長崎帰りの商人がこの動物をオラソダ船の船員から買いとり、こっそり自宅で飼っていた。ところが檻を食い破り、逃げ出したらしい。この商人は大騒ぎになったために、咎めを受けるのを恐れて素知らぬ振りをしていたという。
 この騒動の興奮が治まらないときに、おなじ馬喰町に住む布袋屋という商人の裏店に住む職人の女房が卵を産み落としたというので、またも町内は沸き返った。
 産婆が駆けつけて取り上げたのが大きな卵だったのだ、そして、その卵が割れて、男の赤子が産まれたというからびっくりである。
 これは町内の物知りが、「それは卵ではなくて、赤子を包んでいる胞衣(えな)ごと産まれた袋子というものじゃ」と話題になった。
 それから5、6日たった日に、三つめの事件が起きた。
 小伝馬町との境界がある一丁目の木戸際で1匹の牝犬に2匹の牡犬が同時につるんでるという。最初に見つけたのは木戸の近くで遊んでいた子供たちで、それが大きな声で触れ回ったから、大人たちがどっと押し寄せた。騒ぎを聞きつけて、小伝馬町や浅草の方からも人が集まってきた。ものすごい人垣に囲まれた中で、確かに一匹の牝犬に二匹の牡犬が交尾をしている。これが事件でなくてなんであろう。まさに奇事だ。
 その翌日、一丁目の通りで四歳の児が水溜桶に落ちて死亡するという事件が起きた。火災に備えて商人の店の前におく天水桶に落ちたのだという。
 夏の日なので、その桶の水が涸れて、なかばしか水が溜まっていなかった。この児は手にしていた人形を桶の中に落としてしまったのを、取ろうとしてさかさまに落ちてしまったらしい。「天水桶に入水してはかなく命を落とししは、一奇事なり」と言い合った。
 馬喰町の怪事はなおも続く。
 町内で若い者同士が喧嘩をし、和解したのだが、一方の男がそれでも腹が治まらなかったらしい。相手の男が銭湯から帰るのを待ち伏せして、叩きのめした。手傷25ヶ所というから、かなりの怪我である。
 「和解の後に相手を怪我させるのは、これも珍らしい」と噂になり、馬喰町の異事の一つに加えられた。
 次は数日後だ。
 馬喰町と塩町(一丁目の南、通塩町)の境に「三日月井戸」と呼ばれる井戸がある。町の境界線で、しかも馬喰町に住む地主と、塩町に住む地主の土地の境に井戸があるから、話がややこしくなった。この井戸を掘るときに、二人の地主が半々ずつ金を出し合って掘ったのだが、予算が足りなくなってしまった。その不足分を出す、出さないで揉めために、それならば井戸を中央で仕切って半分づつ使おうと、井戸の真ん中を板で仕切った。
 丸い井戸を真ん中で仕切ったから、ほんとうは「半月井戸」と呼ぶべきだが、「三日月井戸」という名がついたという。8月3日にこの井戸さらいが行なわれた。それを両方の町の者が手伝ったが、その最中に双方の町の者が喧嘩になった。怪我人が出るような派手な喧嘩となり、それぞれの町内の世話役が町奉行所に訴えでる騒ぎとなった。
 町奉行所が仲裁に入り、9月3日に両町内が和解したが、「三日月井戸」で8月3日に喧華となり、9月3日に和解とは、これまた「3」の字に縁があるものよ、と奇事の一つに加えられた。
 8月のさなかには、別の奇事があった。
 馬喰町の隣の岡漬塩町(通塩町?)にある衆人宿に鳥海ナニガシという奥州からの旅人が宿泊していた。鳥海ナニガシは東北地方から江戸見物にやってきた商人か富農の御隠居さんでもあったろう。しぽらく滞在して、江戸を見物したあと、鎌倉に向かった。彼は鎌倉である神社を参拝したが、このとき突然、左の眼球が潰れてしまった。江戸に帰ってきて、宿の主人に言うには、「参拝する際に身体をこごめた瞬間、豆が弾けるよりな音がして左の目がひどく痛んだ。慌てて鎌倉の宿屋に戻り、人に目を見てもらったところ、左の眼球が砕けてしまっていた」。
 その神社が何の神を祭っているのかわからないまま参拝してしまったが、後で聞くところによると、鎌倉源五郎景政を祭った神社であるという。「驚いたことには、自分は景政の目を矢で打ち抜き、命を取った鳥海弥三郎の子孫なのである。数百年も経て、いまなお神の怒りが我が身に及ぶとは、なんと恐ろしいことであろうか」と何度も嘆息した。
 こういう話は江戸っ子は大好きだから、アッという間に広まって、七奇異の最後に加えられた。
 それにしても、一つの町内でこうも次々と事件が起きると、退屈だとは言っていられない。いや、退屈だからこそ、なんでもかんでも事件に仕立てて、おもしろがっていたのかもしれない。
 「江戸を騒がせた・珍談、奇談、大災害」 檜山良昭著 東京書籍より。
 私、吟醸はこれを都市伝説という。現在の中国と同じように、幕府の悪口や政治的な報道は書けなかったし、言えなかった。そのため、たわいのない事を事件に仕立てて騒いでいるのが良く分かります。
 上図;名所江戸百景「馬喰町 初音の馬場」広重画
 その下図;「熈代照覧」より通本町の自身番屋の前に置いてある天水桶。各町内に必ず置いてあった。

 

3.言葉
■しびん【溲瓶・尿瓶】;シュビンの訛。【溲瓶】(唐音) 寝所の近くなどに置いて小便をするのに用いる器。現在はガラスやプラスティック製ですが、当時は陶器で出来ていた。

5両と20文;10両盗めば首が飛ぶ時代の5両は大金。約4〜50万円、今でも使い古されたしびんに出す金ではない。20文=約300円。

南蛮物(なんばんもの);ポルトガル、スペインから渡ってきたもの。

江戸砂子(えどすなご);1723年に発刊された江戸の地誌。菊岡沾涼(せんりょう)著。全6巻8冊
早稲田大学所蔵の江戸砂子の中身を閲覧する事が出来ます。 http://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/ru04/ru04_01761/ 

右図、その中から「御本丸」についてのページ。

漢楚軍談(かんそぐんだん);江戸中期の読本(よみほん)。明代の「西漢通俗演義」の翻訳。15巻。7巻まで夢梅軒章峰、8巻から称好軒徽庵(きあん)訳。1695年発刊された中国の軍談の仮名草紙。秦の始皇帝から漢の劉邦と楚の項羽とを主人公に、その時代の史実を簡明な読み下し文で述べたもの。中国種の軍談物の先駆。

東錦絵(あずまにしきえ);上方の錦絵に対して、江戸で刊行された多色摺りの木版の浮世絵。江戸の名物で、鈴木春信がはじめて売り出した当初から、この名を用いた。吾妻錦絵。江戸絵。

古流(こりゅう);生花の流儀のひとつ。古流は江戸中期頃(明和年間)に今井一志軒宗普(そうふ)によって江戸で創始されました。その後、江戸時代後期にかけて2代松応斎安藤涼宇(あんどうりょうう)、3代関松盛斎本理遊(せきもとりゆう)、その後を引き継いのが4代関本理恩(せきもとりおん)でした。
 現在、古流13会派が所属する古流協会があります。
右写真;古流松藤会会長の生け花より(あかめ柳・くじゃく草)
古流松籐会ホームページより

人参(にんじん);朝鮮人参。高麗人参。栽培は半日陰の中で四年ほど掛けた上で収穫されるが六年根も存在する。使われるのは根で、有用成分はサポニン群で、糖尿病、動脈硬化、滋養強壮に効能があり、古くから服用されてきた。また、自律神経の乱れを整える作用もある。
 江戸時代には大変高価な生薬で、庶民には高嶺の花だった。このため、分不相応なほど高額な治療を受けることを戒める「人参飲んで首括る」(高価な人参を無理して手に入れて病人が回復しても、高価な薬代の借金で結局は首をくくらなければならない)のことわざもある。現在も人参は使われており、滋養強壮剤としてドリンク剤にマムシ、スッポンなどと一緒に調合されている。

横道(おうどう);正しい道からはずれたこと。よこしま。不正と知りながら行うこと。



 舞台の馬喰町を歩く


 このお侍さんの気持ちは痛いほど良く分かります。自分の情報力の無さを棚に上げて、フリーマーケットで買い求めた物がガセで有ったりしたときは、同じ気持ちで「金返せ」と言いたくなりますが、そこは紳士ですからグッと押さえて又出掛ける根性無しです。

 日本橋馬喰町は何回か来た所ですが、改めてまた歩きます。


 「幕末の浅草橋」鹿鳴館秘蔵写真帖 川は神田川、左が馬喰町から日本橋、江戸城、右が浅草方向。明暦の大火でこの門が閉じられ2万人の死者を出した。その為、隅田川に両国橋が掛けられた。

 浅草橋駅から江戸通りを南にチョイと行った所に神田川(江戸城の外堀)が流れています。そこに架かっている橋が河口の柳橋から2番目の浅草橋。JR浅草橋駅にも注意書きがありますが「ここは浅草ではありません」。皆さん、いえ、極一部の方が浅草と浅草橋を間違えるのでしょうね。浅草にある橋が浅草橋ではありません。とは言っても紛らわしいのは事実です。同じように、江戸川橋があります。この橋は江戸川区(東京の最東端の区)に架かる橋のように思い地図で探し始めますが、あるのはずっと離れた都心の文京区水道、神田川に架かる橋です。
 話もどして、橋の左右には屋形船をもやった船宿が並んでいて壮観ですが、東側の柳橋との間にある船宿には、徳さんが居た落語「船徳」の船宿があったはずです。柳橋を越えると3回転してから浅草に向かう隅田川に合流しています。海から遡上してきた小魚、ボラの子供と思いますが大量に水面を泳ぎ回っています。
 その浅草橋は江戸時代、外堀に架かる重要な御門でしたから、大番所もあって警戒は厳重で、浅草御門と言いました。現在はそんな事を連想する事も出来ません。
 浅草橋を渡った所にある交番の横に掲示板があって、ここは郡代屋敷が有った跡だと説明しています。
 郡代屋敷は関八州の徳川家領の年貢の調達や係争事を裁いていました。その係争の結論が出るまで近くの馬喰町旅人宿で待機しなければなりませんでした。その為もあって馬喰町は宿で賑わっていました。

 江戸通りの先に京葉道路との交差点、浅草橋交差点があります。左(東)を見れば隅田川に架かる両国橋が遠望出来ます。
 道なりに真っ直ぐ江戸通りを進むと、左右は全てと言うほど洋品関係の問屋街です。左奥は横山町ですが、同じ洋品関係の問屋街で、落語「富久」で、浅草阿倍川町から久蔵さんが火事見舞いに駆けつけた旦那が居たのもここです。ここら辺を中心に洋服関係の問屋が目白押しです。素人さん入店厳禁の看板がプロ向けの問屋街を表しています。
 その先の、清洲橋通りが5車線ぐらい有る大通りですが左に行くのみの一方通行路です。ここが馬喰町交差点です。当たり前ですが、タクシーに乗ると順方向には容易に行けますが、逆方向から行くと大変です。馬喰町はここが一丁目、先程の橋から浅草橋交差点までが二丁目です。正式には日本橋馬喰町といいます。
 二丁目には4軒、一丁目には1軒の大きなビジネスホテルが現在有ります。江戸時代から比べるとホテル数(宿屋数)ではかないませんが、部屋数で言ったら何倍もあるでしょう。東京駅にJRで2駅、また地下鉄も2線走っていますので、交通の便は良いでしょう。

 江戸通り、馬喰町交差点を通り越すと、日本橋小伝馬町、その交差点を右に曲がると、お馴染みの(?)左側に牢屋敷跡があります。江戸で一番怖がられた場所ですが、今では公園になってその隣には、ここで処刑された人達の菩提を弔うためにお寺さんが建立されています。知ってか知らずか、サラリーマンや営業マンが斬首刑が行われていた牢屋敷跡の十思公園で一息ついています。あまり休んでいると、首になってしまいますよ。

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

馬喰町の道案内図より。江戸後期の地図も合わせて表示。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

浅草橋(神田川に架かり江戸通りを通す)
 浅草方向を見ています。橋の先に総武線の黄色い電車がガード上を通過しています。その左側に浅草橋駅があります。
この橋の両側には船宿が多く、現在は舟遊びの屋形船がズラリともやっています。私の立っている所が下記柳原です。

柳原(中央区日本橋馬喰町二丁目-7)
 馬喰町の一番北側、神田川に架かる浅草橋手前西側。184話「鼻利き源兵衛」で源兵衛さんが暖簾を買い求めた古着屋街だった所です。
現在は日本橋女学館の真新しい校舎が建っています。
この南側、約二丁目全域に郡代屋敷があって、徳川家直轄領の管理をしていた屋敷がありました。

浅草橋交差点
 正面が江戸通りで、手前(北)が浅草橋、写真奥(南)が馬喰町交差点。左右が同じ道ですが名前が変わって、右(西)に都心に入って行く靖国通り、左(東)に両国橋を渡って千葉に行く、京葉道路と名前が変わります。

江戸通り(中央区日本橋馬喰町一丁目)
 馬喰町の街を北から南方向を見ています。表通りには旅人宿は全くありません。その代わり衣料品の問屋街ですから、衣料品とそれに関する部品小物まで何でも揃います。

馬喰町街中(中央区日本橋馬喰町一丁目交差点)
 表通りから一歩町中にはいると、どこも衣料品屋さんです。

馬喰町交差点(中央区日本橋馬喰町一丁目)
 北側から歩いてくるとここに出ます。この街は衣料品店ばかりだと言いましたが、こんな携帯電話屋さんも有るのです。

馬喰町交差点(中央区日本橋馬喰町一丁目)
 上記交差点を渡るとここです。右側が江戸通り、左側が清洲橋通り。
江戸通りの地下にはJR総武線の快速が走っていて、この下に馬喰町駅が有りますし、清洲橋通りの地下には地下鉄都営新宿線の馬喰横山駅があります。

                                                                  2011年10月記

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