落語「汲みたて」の舞台を歩く

 

 三遊亭円生の噺、「汲みたて」(くみたて)によると。

 

 稽古事の師匠は若い女性に限ります。暑いさなか当然男連中のお弟子さんが付きます。町内には一人ぐらい、ばかにいい女師匠がいるもので、つられて男連中は”藪っ蚊”のように集まってきます。

 唄の稽古は難しく進まないので、三味線に切り替えた。唄の稽古は見台が間にあるが、三味線稽古はそれが無く、師匠が指を触って教えてくれるから。という程度の習い事です。
 こないだはバチで殴られた。「ヒドい事する師匠だね」、師匠は洗い髪で粋な着物で立て膝ついて、風が吹くと裾がヒラヒラ動いた。一生懸命下からフウフウ吹いたがダメだったので、力任せに吹いたらバチが頭に飛んできた。「まいった!」と言ったが、怒られた。ご開帳をタダで観ようとしたからバチが当たるのは当たり前だ。

 ここの女師匠はもう艶(イロ)の対象としてはダメだと御注進。それは建具屋の半公がイロだという。師匠の家に行ったら、二人が差し向かいになっていたと、仲間が吐き捨てた。
 師匠の所に手伝いに上がっていた与太郎に、夜尋ねてくる男はいるか聞くと、「いるよ。・・・あたい」と与太さん。半公が来るだろう。こないだ髪をつかんで喧嘩していたので「およしよ」と、止めたが横腹を蹴られて目を回してしまった。夕方半さんは師匠に謝っていたが「気が短いのを分かっていて、したので私が悪い。嫌な人に親切にされるより、好きな人にぶたれた方が私はイイ」。聞いている若者達が歯ぎしりする事、悔しがる事。
 夜になったら半さんが「寝ろ」と言ったが眠くないと答えると、師匠が「半さんがかんしゃくを起こす前に、イイ子だから寝ておくれ」と言うので布団に入った。眠くはなかったので、大きな目を開けていた。「そうだ、いいぞ」。でも、本当に寝てしまった。夜中、目を覚ますとまた喧嘩してたよ。「布団の中で、取っ組み合っていた」。聞いている若者達が歯ぎしりする事、悔しがる事。
 これから、柳橋から船で3人涼みに行くんだ。有象無象に知れるとウルサイから、与太さん内証だよと言われているんだ。
 有象無象の怒る事。

 有象無象は、船に乗って楽しんでいるところを、ジャマしてやろうと言う事になった。
 師匠の三味線で半さんが唄い出すと、「スケテンテンテン、スケテンテン、ピーピィピー、ドンドコドン」凄まじい鳴り物がなって騒々しくて船を移動させた。また唄い出すと同じように鳴り物がなって騒々しい。与太郎が隣の船をのぞき込むと、有象無象がいた。
 半公と有象無象が喧嘩になって、口汚くののしって、「クソでも食らえ!」、「クソを食らうから持って来い!」。

 喧嘩をしている2艘の船の間に、肥船がスッ~と入ってきて「汲みたて、一杯上がるかえ」。


1.稽古事
手習い-長唄の師匠
 「
長唄師匠」江戸見世屋図聚 三谷一馬画

 稽古屋、趣味教養の音曲や踊りを習うところで、稽古屋または指南所と呼ばれた。子供達が習い事で通うのは寺子屋で、武芸などを教えるところはこの様には言わず、道場、武道館(場)などと言いました。
 この稽古屋が繁盛したのは、若い娘を持った親は当然良いところに嫁がせたいのが親心です。そこで、武家に見習い奉公に出し、躾が行き届いたら良縁を期待する。それが普通の親の考えでした。逆に武家側からすると、同じ採るなら一芸に秀でた娘の方が良く、手習いが済んでいる娘を採用した。そこで親たちは唄や踊りに通わせるようになり、稽古屋さんは町内に1軒以上の盛況になった。結果、江戸の文化教養水準が上がった。
 若い独り身の女師匠だと(狼)男弟子が集まってきた。

 江戸川柳にも
 「稽古本ぴったり抱いて駆けてくる」、  「三日坊主の絶えぬ稽古屋」
等は可愛いのですが、中には習い事より、
 「三味の弟子破門の訳は師を口説き」

  清元の女師匠
「素人義太夫」部分 北斎 東京国立博物館蔵 「清元延津賀(のぶつが)」春色辰巳之園

■師匠;学問・技芸などを教授する人。先生。ここでは妙齢の女教師。

 

2.柳橋(やなぎばし)
大正期の柳橋 江戸の街を東西に横切る神田川最下流に架かる柳橋を北に渡った、台東区南東部の地名。台東区と中央区の区境を流れる神田川の川口に架かる橋の名に因む。柳橋の街は江戸時代から花街として有名です。
 子規の句にも、「春の夜や女見返る柳橋」、「贅沢な人の涼みや柳橋」と詠んでいます。
 神田川は隅田川に合流しますが、その地点は両国橋の直ぐ上流です。この柳橋の土手伝いに船宿が多く、ここからタクシー代わりに向島、浅草、吉原に、また下流の永代、深川に船出したり、純粋に船遊びを楽しんだりしました。
右図;「大正期の柳橋と芸者」部分  大正風俗スケッチ「東京あれこれ」 竹内重雄画

 屋根船船遊び;夏の隅田川は両国橋を中心に、そこに流れ込む神田川に架かる柳橋の船宿から出船し楽しんだ。夜の船遊びは花火も見られ、川風に吹かれて、贅沢な納涼遊びとして風情があった。この船遊びの船の間に割り込んだのが、無粋な”くさや”の匂いのする船だったとは・・・。
 ここ柳橋から猪牙舟で吉原に行く事は道楽船で行くと言われ、贅沢を越した道楽であった。
 道楽が過ぎてそこの船頭になった若旦那の噺は落語「船徳」で紹介しています。

 写真;江戸東京博物館 両国広小路ジオラマから、猪牙舟と屋根船。

猪牙舟(ちょきぶね);奥の2隻。江戸で造られた、細長くて屋根のない、先のとがった舟。軽快で速力が早く、漁業・舟遊びまたは隅田川を上下した吉原通いの遊び船に用いられた。船底がV字形をしていたので、スピードは出たが左右に振れて乗り心地は悪かった。スピードが出るといっても、早歩き程度です。

屋根船(やねぶね);手前の2隻。江戸で、屋根のある小型の船。屋形船より小さく、一人か二人で漕ぐもの。夏は簾、冬は障子で囲って、川遊びなどに用いた。日除け船。どう言う訳か、船頭さんにチップをはずむと、スピードを出すより半刻ほど船から降りてくれた。

「東都両国橋夕涼みの図」部分 渓斎英泉画 江戸東京博物館蔵  夕涼みの図ですが何処も同じように、ばか囃子の有象無象連中と、その隣で迷惑そうにしている師匠が居ます。12.07追加

 

3.肥船
 

屎(し)尿着船場」 砂町下水処理場(江東区新砂3-9。現・砂町水再生センター)では昭和28~57年まで船からくみ上げた屎尿を処理していた。 「TOKYO・下水道物語」 東京都下水道局発行より。
 この船はダルマ船と言って、自船にはエンジンを持たず、タグボートのような引き船で牽引してもらいました。
 平行して三河島下水処理場(荒川区荒川8-25。現・三河島水再生センター)でも処理されていた。

 江戸時代の肥船は、こんな大きな船ではなく荷足船(下記図)のような和船で、肥樽を並べたり、液体を移し替えて運んでいました。この肥(こえ)が野菜作りの貴重な肥料になった。江戸市中からお金を出して集めてきたものですから、金肥とも言われた大事なものです。
 その辺の経緯は落語「ざこ八」で説明しています。

 

 肥船、この資料は大変少なく、探すのに往生しましたが、ましてや浮世絵には残っていません。そうでしょうね、浮世絵って記録を残すものではなく、売り物で商品ですから、誰も買わない絵なぞ、誰も描かなかったのでしょう。また、下水道局にもその資料はないと言います。
 上左図;「東京名所内 両国橋の景」 栄斎重清画 明治15年  屋根船、屋形船などの間を中央に肥船が見えます。ん? ではなく、西瓜売りの船です。舞台の雰囲気はこんな感じだったのでしょう。墨田区緑図書館蔵 
 上右図;「部切(へきり)」和漢船用集より 国立国会図書館蔵  肥船のことを部切船といい、船に蓋をして運んだので、その名が付いた。 2010年10月追記

 人肥としては、下水が発達しない終戦後まで、お百姓さんが汲み取りに来ていました。その後は清掃局がバキュームカーで吸い取りに来ました。その収集したものを上記写真の船に積み替え、処理場まで運ばれたのです。当時一部は大型船で外洋投棄も行われていました。

右写真;当時の肥桶を模して復元されたものです。30リットル入りの桶で前後合わせて60kg近くあった。これが標準ですから、当時の人は力持ちだった。
 江戸東京博物館にて。

 

4.言葉
バチ;【撥】 琵琶・三味線などの弦を弾き鳴らす道具。多くはいちょうの葉の形。三味線のバチは尾端が正方形、象牙製を標準として、水牛の角・木などでも作る。
【罰】 神仏が、人の悪行を罪して、こらしめること。悪事のむくい。たたり。罰当たり。

建具屋;部屋を区切るために取り付ける戸・障子・襖などを建具と言い、それを作る商売。それを作る職人。

立て膝;片膝を立てて座ること。着物姿の女性は通常下着を着けていなかった為、立て膝をすると男心をくすぐった。

有象無象(うぞうむぞう);宇宙にある有形・無形の一切の物。森羅万象。なんて高尚なものではなく、世にいくらでもある種々雑多なつまらない人々。

糞を食らえ;やけを起したり、相手の言動をののしりかえしたりして言う語。糞食らえ。


  舞台の柳橋を歩く

 師匠一行が納涼の為、船に乗ったのがここ柳橋の船宿です。柳橋の船宿と言えば忘れてはいけない、落語「船徳」です。遊びすぎて勘当され、ここの船宿で船頭見習いから船頭に腕を上げた徳さんですが、まさか、師匠一行の船を船頭として徳さんが櫓を操ったのではないでしょうね。涼むどころか冷や汗ものです。でも、有象無象にしてみれば面白くてしょうがない、かもしれませんね。
 江戸時代、この柳橋から吉原通いの船が出ていたのは有名な事で、速度の出る猪牙舟は勘当船と言われるぐらい、高価な料金と贅沢さが有りました。船頭の徳さんですらその失敗から船頭になったのですから。
 落語の舞台にも多くの場面で出てきます。「花見小僧」のおせつ徳三郎と小僧、婆やを乗せて向島にお花見に、「百年目」では番頭が芸者幇間を引き連れてここから船で同じように向島に、「権助魚」の権助が旦那の変わりに網捕り魚を買ったりします。遊山船やタクシー代わりの猪牙舟はみんなここから出ます。

 今の神田川は、刑務所のコンクリート塀の様に切り立った薄っぺらい土手が両岸に建っています。見ようによっては、まるで川に落ちない為のコンクリート手摺りです。ですから、趣があるような船宿はありません。最上階に入口があって、その下に事務所兼倉庫のような小さな部屋があります。その下には水面に桟橋が船宿ごとにあります。江戸時代のように、船宿を逢い引き宿のように使った、なんて事は現在あり得ません。船宿はその他にも、恋文の中継所に使われたり、遊び着に着替えるロッカーの役もこなしていました。お馴染みさんになると、いろいろ融通を利かしてくれていたのでしょう。船宿ばかりでなく、馴染みの飲み屋さんでも無理を聞いてくれる事があります。馴染みの強さですよね。船でも、心付けの多寡によって船頭が気を利かせて居なくなるなんて事もなくなりました。また、禁じられた船頭と芸者だけの二人だけで乗る”二人船”も言葉だけで、文字通り過去の事になりました。

 今、船宿はここ柳橋だけでなく、各河川の両岸や湾岸地帯にも多くの船宿があります。釣り船を出すのがメインだったのが、いつの頃からでしょうか屋形船が主流になってしまいました。どこでも料金は同じようなものですから、会社からまたは交通が便利な所から乗船してしまいます。
 柳橋では、暗い中、出船しない屋形船が多く係留されています。残念ながら有象無象が乗るような小型の船はありません。

地図

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写真

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柳橋(台東区と中央区の区境・神田川に架かる)
夜と言ってもまだ日が落ちたばかりですが、往年のざわめきはなく静かなものです。 芸者の三味線や嬌声は勿論、歩行者もパタリと無くなります。
柳橋から出船
柳橋と浅草橋に挟まれた神田川に船宿が集中しています。お客様の乗船が完了し出船の運びになりました。 前方の橋が柳橋。
両国橋(隅田川との合流点)
柳橋から出船してきた屋形船が隅田川に合流する所です。奥に見える灰色のラインは首都高速道路、その手前に黒く沈んでいるのが両国橋です。
両国橋より柳橋を望む
隅田川に架かる両国橋。その上流に合流する神田川の最下流に架かる柳橋。両国橋の上からその柳橋を見ています。
落語「船徳」の徳さんは必ずここで三べん回ってから右側の上流に向かった所です。
荷足船(にたりぶね。江東区横十間川・海辺和船乗船場)
この船が荷足船と言って荷物を運ぶのを主目的に作られていますが、ここでは観光の為お客様を乗せて楽しませています。
この船に肥桶を満載して運んだのでしょう。このお客様を肥桶と思って(失礼)ご覧下さい。
砂町水再生センター (砂町下水処理場。江東区新砂3-9)http://www.gesui.metro.tokyo.jp/odekake/syorijyo/03_06.htm より
砂町水再生センターは、昭和5年に稼動した東京で2番目に古い水再生センターです。砂町処理区は、隅田川と荒川に囲まれた通称江東デルタ地帯で、墨田区の全部、江東区の大部分、中央・足立・江戸川・港区の一部からなる広大な区域(6,153ha)から発生する下水を有明水再生センターとともに処理しています。処理した水は東京湾に放流しています。また、その一部を砂ろ過してセンター内の機械の洗浄・冷却、トイレ用水などに使用しています。 ホントは飲めるほど清澄な水だそうです。

                                                    2010年6月記

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