落語「馬大家」の舞台を歩く
二代目三遊亭円歌の噺、「馬大家」(うまおおや)によると。
大家・馬場進さんの長屋に借り手がやって来た。
大家は大の馬好きだから、午年以外の借家人は置いていないので、午年の貴方なら借りられるかも知れないと長屋の住人に言われた。大家は午(うま)年の午の月の午の日、午の刻に南部の馬の生産地で、生まれたと言う。
馬の悪口は決して言ってはいけないと、住人に知恵を付けられ大家の家にやって来た。大家は入口に馬頭観音を飾り、馬小屋のような玄関の造りになっていた。
「私は三十三の午年生まれの者ですが、あすこに空いている一万二千円の家を借りたいのですが・・・」、手数の掛からないのがやって来たと、中に通された。大家は飼葉桶に灰を入れて火鉢にしていた。
借り手の前職は曲馬団(サーカス)にいた。その時馬を攻めすぎて、片足が不自由になってしまったが、口の利けない馬をそれ以後は大事にしたと言うと、大家は馬に成り代わってお礼を言うよと、半額の六千円に家賃を負けてくれた。
いままで住んでいたのは、横浜・馬車道に永らくいたが、その後東京・浅草の馬道8丁目、厩橋(うまやばし)と駒形橋の間で焼け出され、練馬の方に引っ越して、叔母さんが日本橋の小伝馬町と馬喰町の間にいて、叔父さんが渋谷の駒沢と上馬にいます。
ここ駒込に引っ越してきたら、馬が揃うが、生まれは何処だと聞かれたので、群馬県の相馬村です。
ところで、好物はと聞かれ、好きな食べ物は人参とウマ煮だ、と答えると、大家は馬肉だという不心得者が居るがとんでもないが、どんなうま煮を食べるのかと問われ、「馬鈴薯です」と答えた。酒は白馬(しろうま=ドブロク)を頂きます。
ところで大家さんの干支は何ですか。午年で婆さんも午年だがどうして?「午年の大家でないと借りないと言う人間だ」と啖呵を切った。
借りられる事になって、名を聞くと本馬幾造(いくぞう)だと言う。大家夫婦以上に息子はもっと馬に似ているという。あまりにも可笑しいので「ひひひ〜〜〜ん」と笑った。笑い方がイイというので二千円負けてくれた。息子は競馬の騎手をしているという。
引越の日は午の日に決めて手を打ったが、今の職業はまだ聞いていなかった。
「バケツを作っている」と言う。「馬力を掛けて作っているので、困る事はない」とも言う。大家は感服して家賃はタダだと言う。
「婆さんや、イイ若い者が来てくれるよ」、「最初から最後まで良く馬を操っていたね」、
「それもそのはずだ、前の職業が曲馬団だ」。
1.本馬さんたちが住んでいたところ
駒込:東京都豊島区駒込(こまごめ)。山手線JR駒込駅を抱え、近くに名園都立六義園(りくぎえん)やソメイヨシノの発祥の地、染井
(霊園)が有ります。
横浜・馬車道:横浜市中区、JR関内近くから新港町・万国橋に至る道の名前で、町名ではありません。横浜では一番異国情緒を残した横浜らしい所の一つです。みなとみらい線・馬車道駅が中程にあります。
馬車道商店街協同組合 http://www.bashamichi.or.jp/home.html
東京・浅草の馬道8丁目、厩橋(うまやばし)と駒形橋(こまがたばし)の間:馬道
(うまみち)は東京都台東区・浅草寺の東側から始まり北に日本堤まで走る道の両側の旧町名と道路名。この町名は南側から1〜3丁目までで、8丁目はありません。
厩橋と駒形橋は隅田川に架かる橋名で、浅草寺雷門から東に行くと吾妻(あずま)橋です。対岸にはれいのアサヒビールのうんちのモニュメントが見えます。その下流(南)に架かる橋が駒形橋、その下流に厩橋があります。河畔の町名で言うと駒形(町)です。
ここには有名な「駒形のどぜう」屋さんがあります。右写真
馬道も駒形も、別々の場所ですから残念ながら同時には住めません。
練馬の方に引っ越して:東京都練馬
(ねりま)区。23区の最北西に位置し、住宅地として伸びている。池袋からの西武池袋線が横断していますし、高速関越道の練馬インターチェンジはここにあります。練馬大根は既に絶滅しています。
日本橋の小伝馬町と馬喰町の間:東京都中央区日本橋馬喰町
(ばくろちょう)と日本橋小伝馬町(こでんまちょう)。隣同士の町ですから、間というとどちらの町になるのでしょうか。
馬喰町と小伝馬町は同名の交差点がありますから、その間の交差点は「倉掛橋」(くらかけばし)と言いますが、その何処かに住まって居たのでしょう。右写真:倉掛橋
馬喰町は落語「御神酒徳利」で紹介したところ、小伝馬町は
江戸時代牢獄が有ったところで、落語「時そば」で紹介したところです。
渋谷の駒沢と上馬:東京都世田谷区上馬(
かみうま、町)と、隣の駒沢(こまざわ、町)。厚木(大山)街道と言われる玉川通り(246号線)の上部には首都高速3号線が東名高速と繋がっています。その地下には東急新玉川線が走っています。環七通りと交差するところが上馬で、その先が駒沢で駒沢大学を抱えていますので、駒沢大学駅があります。
246号線も東急新玉川線も渋谷から出ています。ですから、渋谷区ではありませんが、渋谷の・・・と言っています。
2.馬頭観音
六観音の一つで、馬頭観世音とも呼ばれます。
馬頭観音は6〜7世紀ごろ日本に伝えられ、8世紀には奈良の大安寺、福岡の観世音寺で馬頭観音像が造られており、鎌倉時代の武家社会では馬は貴重で戦闘にかり出されたので馬頭観音信仰は盛んになりました。江戸時代には家畜の守護神、旅の道中の安全を守る菩薩として路傍や田舎のはずれなどに石仏馬頭観音像が置かれるようになり、民間信仰化します。天台大師の「摩訶止観(まかしかん)」では馬頭観音は六道世界の内、畜生界救済にあたる菩薩とされます。怒りが強いほど馬頭観音の人を救う力が大きく、また馬は大食であることから人々の悩みや苦しみを食べ尽くすといわれています。
3.うま煮(旨煮・甘煮)
うま煮;肉・魚介・野菜類をみりん・砂糖・醤油・出し汁などで甘辛く煮つけた料理。大家さんは「馬肉と言う奴もいるが、馬を喰われたんじゃ〜たまんない」と怒っていますが、馬肉のうま煮も有るんですよ。
馬鈴薯(バレーショ);ジャガイモ。(「ジャガタラいも」の略。慶長年間、ジャカルタ(ジャガタラ)より渡来したからいう)
ナス科の一年生作物。南米のアンデス高地の原産。世界の各地に広く栽培。初夏に白・淡紫色の小花をつける。塊茎で繁殖する。塊茎は澱粉に富み、食用。また、澱粉・アルコールの原料、飼料用。男爵など多数の栽培品種がある。馬鈴薯。二度芋。ゴショイモ。
噺の中では馬に掛けたので、馬鈴薯と言っています。
4.午(うま)年の午の月の午の日、午の刻
十二支の寅を正月とする古い中国の夏時代の暦から、旧暦5月が十二支でいうと午の月、午の日は5日、午が重なって5月5日は端午というわけです。午の刻は午後0時、昼の正午になります。ですから、大家さんの馬場さんは午年生まれの5月5日正午に生まれた事になります。
午年は平成14年、2年、昭和53年、41年、29年、17年、5年、大正7年、明治39年、27年、15年、3年となります。借り主の本馬さんは昭和5年生まれだと言っています。だとすると4回り上の大家さんは明治15年生まれです。
舞台の隅田川の橋を歩く
浅草は浅草寺の東側、二天門を出たところの交差点に立っています。ここが馬道と言われた町で過日は1丁目と呼ばれていました。ここから北に延びる道が「馬道」で、2丁目、3丁目と町の呼称が増えていきますが、3丁目止まりで8丁目はありません。北に進む程に、賑やかさは無くなり地味な街合いになってきますが、その先に吉原という歓楽街が控えています。
そこまで行く用もないので、二天門から南下します。左に東武浅草駅=浅草松屋デパートがあり、その先の吾妻橋交差点を右に曲がると雷門に行きます。左に曲がると直ぐ目の前に隅田川に架かる吾妻橋があり、橋のたもとには船着き場があって、水上バスが隅田川を下っていきます。橋の前方に目をやるとアサヒビールとそのビアホールがありますが、有名なのが屋上に上がったウンチのモニュメント。海外の作品ですが、どう見ても崇高には見えないのは私だけでしょうか。その吾妻橋から下流(南)を見ると、青い一連の蒲鉾型の橋が見えますが、それが駒形橋です。
駒形橋のたもと台東区側(西)に駒形堂という小さなお堂があります。ここは浅草寺の金無垢の観音様が漁に出ていた漁夫によって引き上げられ、この場所で船から上がった所です。浅草寺にすれば聖地で、その名前から駒形橋と言われます。
その下流(南)に架かるのが厩橋です。くすんだ緑色をした、三連の橋です。道一本下流に御厩河岸の渡しが有ったのでその名があります。
駒形橋と厩橋の間の街は台東区側には駒形(町)が有ります。この中程に浅草名物、駒形のどぜうがあります。本馬さんはこの辺りに住んでいたが、焼け出されてしまったのでしょう。
もう皆さんも一緒に歩かれてお分かりのように、馬道と駒形では違う土地ですので、同時に二ヶ所には住めません。
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2007年1月記
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