落語「御神酒徳利」の舞台を歩く
六代目三遊亭円生の噺、「
御神酒徳利(おみきどっくり)」によると。
主役は日本橋馬喰町の大店・旅籠刈豆屋吉左衛門で働く通い番頭の善六さん。
年に一度の十二月十三日大掃除の時、先祖が徳川様から頂いた銀の葵のご紋の入った一対の家宝の御神酒徳利が台所に転がっているのを見つけた。しまうところがないので水瓶の中に入れ、そのまま忘れてしまった。このお神酒徳利で大神宮様にお神酒を上げるのが慣わしになっている。後で、徳利が無いと大騒ぎ、善六さん家に帰ってから思い出したが、今更自分がしたとは言えない。すると
、おかみさんは父親が易者だったので、徳利のあるところは判っているからソロバン占いをして、出せばいいと言う。生涯に三度だけ占う事が出来るという触れ込みで、占う事にした。無事徳利が見つかったというので、ご主人は大喜び。
幸か不幸かこの見事な、不思議な占いを宿に泊まっていた鴻池の支配人が知り、実は鴻池の一人娘が難病にかかり、その原因がどうしてもわからない、それを何とか占って欲しいと依頼する。善六は本当に占いが出来るわけがない。善六は引き受けたくないが、おかみさんにそそのかされて、こんなチャンスはめったにない上に三十両が貰える、占いは適当にやればいいからと大坂にしぶしぶ行くことにした。
善六さん、支配人と大坂に向かう道中、神奈川宿で、滝の橋の新羽屋 (にっぱや)源兵衛という鴻池の定宿に泊まろうと立ち寄った
。店の中が慌ただしい。女将が言うには、四,五日前に薩摩武士が泊り、金七十五両と幕府への密書が入っている巾着が無くなったので、内部の者に嫌疑がかけられ、主人源兵衛は取調中とのことだった。
これを聞いた支配人、じゃここにおいでになる占いの善六先生に見てもらったらいい、まだ1回あるからお願いしますという。もとより占いを知らない善六は
、お供えにハシゴだワラジだ大きなおむすびだと夜逃げの算段。すると夜中に女中が善六の部屋にやって来て「自分が親の病気を治したいばっかりに盗んだ」と白状した。隠し場所は嵐で壊れた庭の稲荷の社
(やしろ)の床板に隠したと聞いて女を帰した。早速宿の女将を呼んで、あたかもソロバン占いに掛が出たと、在りかを当てたので宿中大喜び。新羽屋から礼にもらった三十両の内女に5両与え、女将には稲荷の社を直すように諭し大坂へ。
三度目の占いに掛かった時は、苦しい時には神頼みで、水垢離を続けた。すると満願の日、神奈川宿の稲荷大明神が夢に現れ、稲荷の社の修復と信心が戻った事への感謝をあらわし、「鴻池家の乾(いぬい=北西)の隅の柱の四十二本目の土中に観音像が埋もれているから、これを掘りだして崇めれば娘の病気はたちどころに治る」と教示があった。掘ってみると夢の通り観音像が出てきた。鴻池はこれを機に米蔵を開いて大坂三郷の貧民に施しをしたので、慈善の徳で娘の病気は全快した。
善六は鴻池から金を出してもらって馬喰町に立派な旅籠屋を建て、いままでの貧乏暮らしが一躍大金持ちになった。もともとソロバン占いで成功したので、生活が桁違いに良くなったのだという。
この噺
「お神酒徳利」は別名;「占い八百屋」とも言います。
1976年7月24日NHK放送「小さん独演会」より 聞いてみますと、
『大店に出入りの八百屋、女中に冷たくされた腹いせに錫のお神酒徳利を水瓶に沈めておき、女中が主人に叱られているところへ現れて、徳利の在り処を占いで当てる。元より自分が隠したのだから、当たるのは当たり前。ところが・・・・・・。』と若干、円生の話の筋と違いますが、中身は大筋で同じです。
でも、八百屋さんが逃げ出しに成功して、噺は神奈川の宿で終わります。この噺では御神酒徳利は”錫”で出来ています。
1.お神酒徳利
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左 お神酒徳利 江戸時代後期
中 お神酒徳利 江戸時代後期
右 お神酒徳利 昭和時代 |
神前に供える瓶子と共に江戸中期から末期にかけて、細い鶴首のお神酒徳利があります。その模様は、これ以上めでたい図柄はないと思われるほどおめでた尽くしの絵が描かれているものが多く見られます。
備前・丹波・瀬戸などの古窯で焼かれました。 菊正宗のホームページより http://www.kikumasamune.co.jp/toshokan/10/10_04.html
錫製もあり、我が国の伝統的な錫製品の代表的なものは、神社仏閣で使用しているお神酒徳利です。そのため古くは神酒徳利を「錫」と呼び、転じて中身の酒もさすようになった。埼玉県北部の秩父地方や児玉地方では、今日でもお神酒徳利のことを”おみきすず”と呼んでいるが”お神酒錫”とは、神酒徳利が錫で作られていた名残りの名称である。3月のお雛祭りの御神酒徳利も錫です。
円生の噺では御神酒徳利は”銀製”で、形は鶴首のポッチャリ型だったのでしょう。絵柄は葵の御紋が付いていたので、それは大事にしていた事でしょう。非売品ですから。
写真は「とこさん」提供。ご自宅の近所の神社で。
2.すす払い
師走13日は煤(すす)払いです。武家屋敷の女達が、頬被りもかいがいしく畳を上げて、大掃除です。つい先年まで使われた踏み台兼用ちり箱も見えます。喜多川歌麿「武家煤払いの図」です。
武家屋敷だけでなく、商家から裏長屋まで、この日に大掃除をするのが江戸の習わしでした。
一茶も大掃除していましたよ、「すす払い 藪の雀の 寝所まで」
落語の舞台もこの日12月13日、このどさくさに紛れて、大事な大事な”御神酒徳利”が紛失してしまったのです。
写真をクリックすると大きな写真が見られます。
3.円生御神酒徳利御前口演について 円生師の記述で、この時のいきさつが語られています。
御前口演の打ち合わせ、出し物の調整、当日の様子が生き生きと語られています。
「円生御前口演顛末記」一部編集したものが、ここにあります。
「助六」さんのホームページに詳しい。 http://www.din.or.jp/~sukeroku/bangai/gozencoen.htm
より
4.馬喰町(ばくろちょう、中央区日本橋馬喰町)
この辺りは、古くから定期的に馬市(馬を売買する為の市)が立っていて、伝馬用の馬を供給していました。町名は、幕府の
牛馬の売買や仲介をおこなう博労頭たちが住んでいたことによります。博労頭の富田半七、高木源兵衛等がいたため博労町としていたが、後に馬喰町に改めた。
馬喰町一丁目には「初音の馬場」が有り、また、ここから浅草御門(今の浅草橋)にかけて郡代屋敷がありました。浮世絵を出版した書店も多く、馬喰町の西村寿堂は東錦絵を多色刷りで出しました。
また、地方から出てきた人達用に旅籠が多く集まっていて、落語第2話「宿屋の富」の舞台もこの馬喰町です。
■郡代屋敷跡;(日本橋馬喰町2丁目付近)
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写真は浅草橋南側交番となり |
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江戸時代に、関東一円及び東海方面など、各地にあった幕府の直轄地(天領)の、年貢の徴収、治水、領民紛争の処理などを管理した関東郡代の役宅があった跡です。
関東郡代は、徳川家康が関東に入国した時に、伊奈忠次(ただつぐ)が代官頭に任命され、のちに関東郡代と呼ばれるようになり、伊奈氏が十二代にわたって世襲しました。その役宅は初め、江戸城の常磐橋御門内にありましたが、明暦の大火(1657)で焼失し、この地に移りました。
伊奈忠尊(ただたか)が罪を得て失脚した寛政4年(1792)以後は、勘定奉行が関東郡代を兼ねてここに居住しました。
文化3年(1806)に焼失した後、代官持ちとなって、馬喰町御用屋敷と改称されましたが、江戸の人々はこの地を永く郡代屋敷と呼んでいました。(中央区教育委員会掲示板より)
郡代屋敷は江戸時代の馬喰町4丁目の北にあって柳原に接していました。明治初年に諸藩出張所となり、馬場の廃止とともに町屋に変わりました。
■旅籠「刈豆屋吉左衛門」;
馬喰町の旅籠総取り締まりで、実在しました。
■神奈川宿旅籠「にっぱや」;右図下から1/3の所に滝の橋が有ります。滝の橋は神奈川宿の真ん中辺りで、その右側に「につぱや」と表示されています。滝の橋と本陣・石井に挟まれたところです。
落語ってすごいですよね。講談と違って歴史的にも地理的にも正しい内容になっています。
図;「細見神奈川絵図」天保15年(1844)横浜開港資料館蔵 2013.9.追記
■大坂と大阪;明治に入るまでは大坂と土へんの坂を使っていたが、明治政府によって“大阪”と表記されるようになった。坂も阪も元は同じ字であった。坂は土に帰る=墓に入る、と嫌われ、また士(武士)が謀反を起こすと嫌われ、“阪”が使われるようになった、とも言われます。
舞台の馬喰町を歩く
日本橋馬喰町は日本橋横山町と並んで日本有数の衣料品の問屋街です。平日に入り込んだら人混みで息が詰まってしまうかも知れませんが、出掛けたこの日は休日で逆に閑散としています。
日本橋馬喰町のど真ん中を縦断する江戸通りは浅草橋を渡り蔵前を抜けて浅草に通じる”落語街道”です。右側には平行して隅田川が流れています。ここも落語の中の主人公達が走り回っているところです。
馬喰町交差点から北に向かって歩き出しますが、何処を向いても衣料品店ばかりです。最近は一般のお客さんにも販売する店が増えています。一本東側の路地に至っては中小の店が軒を連ね、その全てが衣料品店です。大手の問屋は休日で店を閉めていますが、小売りをする店は頑張って店を開いています。
国道6号線の江戸通りの下には総武線(東京、千葉間)の快速が走っていますし、その駅が「馬喰町」です。間もなく江戸通りは浅草橋の交差点に出ます。交差している道路がここを起点に東に国道14号線の京葉道路、これはすぐ先の両国橋(第95話「四つ目屋」の舞台)を渡って千葉まで繋がっています。西に都道302号線の靖国通りで新宿まで繋がっています。ここまでが日本橋馬喰町1丁目、江戸時代には浅草橋交差点の手前には初音の馬場がありました。また、旅籠がひしめいていたのでしょうが、今は衣料品問屋に色変わりしています。何処にも馬場も宿屋もありません。
交差点を渡ると日本橋馬喰町2丁目。浅草橋との間の左手に「郡代屋敷」がありました。説明板は橋のたもとに建っていますが、もっと交差点よりに有ったようです。浅草橋の下を流れる川は「神田川」
、右手の橋は「柳橋」、何処かの勘当された若旦那が四万六千日に船を漕ぎだしたところです。当時川の岸には柳並木になっていて、「柳原通り」と言われていましたが、今でもここには柳並木が健在です。
柳原通りは芝日陰町と並んで古着屋さんが多く並んでいました。
地図をクリックすると大きな地図になります。
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馬喰町交差点(中央区日本橋馬喰町
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日本橋
馬喰町の中心地(?)。終日車の往来が切れません。何処を向いても衣料品店ですが、今日は休日、シャッターを閉めた商店が大半です。
浅草橋方向を見ています。
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馬喰町裏通り(中央区日本橋馬喰町
1)
日本橋
馬喰町は衣料品問屋街で日本唯一の規模を誇っていますが、さすが休日の問屋街はこの様に静かなものです。
(協)東京問屋連盟
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浅草橋交差点(中央区日本橋馬喰町)
この交差点は前方に浅草橋があります。そこまでが日本橋馬喰町で、浅草橋際に郡代屋敷跡の説明板が有ります。
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ホテル 日本橋ヴィラ(中央区日本橋馬喰町2
−2)
http://www.hotelvilla.jp/
日本橋
馬喰町にある2つの旅籠、いえホテルの一つです。ビジネスホテルで当時の旅籠をイメージするには難しすぎます。
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柳原通り(中央区日本橋馬喰町2
)
江戸時代の神田川に沿って柳並木「柳原通り」があったその面影を残します。
その通りにある二つ目のホテル、カプセルホテルです。茶色の建物がそれです。
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2004年
12月記
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