落語「宿屋の富」の舞台を歩く

 

 柳家小さんによる宿屋の富」(やどやのとみ) によると、
 

 馬喰町には当時80余の旅籠が有り、江戸で泊まると言えばここ、馬喰町だった。亀戸の五百羅漢や高輪の泉岳寺に参拝するのにも都合のいい場所であった。

 田舎から出てきた、みすぼらしい風体の宿泊客が20日近く安宿に逗留していた。旅籠賃は勿論茶代も置かなかった。それを心配した女将さんが旅籠賃の催促を亭主に頼んだ。
 2階に上がって、宿帳をお願いと切り出して、未だ内金ももらっていないと言う。身なりを見て催促しているなと思い、発つ時まとめて払おうと思っていたし、ワシは金がないんじゃない、払うから幾らになるんだ。
 金には困っていないんだ。何か良い金ずるでもあるのかと聞かれ、大名は貧乏だからワシの所に金を借りに来る。10万両20万両と端した金を借りに来る。期限が来ると利息だと言って余分なお金を置いていく。それが増えて増えて、蔵が幾つも一杯になってしまう。だから、返さないように願い歩いている。店は人が多すぎるので150人ばかり辞めさせたが、あとどの位人が居るのか分からない。離れに行くのも7日も歩いたが着かず、諦めて帰ってきた。そんなご主人が何でこんな汚い旅籠に逗留されるのか聞かれたら、いつもは大旅籠に泊まって下にも置かない。で、自由が利かないので番頭に聞いたら、汚い身なりで、茶代も宿賃も置かなければ、誰もかまわないと言ったから、この汚い旅籠に泊まった。
 昔は大きな旅籠をやっていましたが、落ちぶれてこのざまです。内職に富くじを売っています、どうぞ千両富札一つ買ってください。当たれば千両渡せばいいのか、くれるんじゃイヤだ。そのような欲のない方はえてして当たるものです、当たったら半分くれますか。いいとも、と言う事でなけなしの1分(1/4両)という大金で買わされてしまった。

 行くところもない男はこの富札を持って、椙森(すぎのもり)神社に行くと、境内では抽選も終わっていた。当たりくじの番号を確かめていくと、50両は当たっていないな〜、今は3両さえ有れば帰れるのにな〜100両、500両も当たっていなかった。最後の千両富は”鶴の千三百五十八番”、手持ちの札も鶴の千三百五十八番、すこ〜しだけ違っているな。いや待てよ、と震える手で札と番号を一字ずつ確認すると「あた、、、当たってる!」。体は震えるし、気分が悪くなって、やっと帰り着くと部屋まで上がれず下に床を取ってもらい、寝込んでしまった。

 「当たった。当たった」と亭主が震えて帰ってきた。万が一、当たったら半分もらえるという宿屋の主人は女房に話をすると同じようにクラクラッとなったが、喜んで祝いの膳を用意するという。「貴方、下駄を履いたまま上がってきたの」、「道理で痛いと思った」。お客は1階で寝てると分かり、みんな聞かれてしまって恥ずかしい。
 「旦那さん。先ほどの千両富当たりましたよ」、「え、それで気分が悪いのか」、「お約束の件ですが」、「何か約束したか」、「半分いただけると」、「あ〜イイよ。5両でも3両でも」、「いえいえ、半分の500両なんですが」、「分かった、分かった」。
 「旦那さん。起きて召し上がりものをいただけば気分も晴れるでしょう」
 と、布団をはいだら旦那も下駄を履いて寝ていた。

 



1.日本橋馬喰町
(中央区日本橋馬喰町)
 この近くに”初音の馬場”があり、馬の善し悪しを鑑定する人すなわち博労頭の高木源兵衛、富田半七らが住んでいたので、博労町から馬喰町になったと言われます。江戸時代は江戸に出てきて宿泊すると言えば、黙ってこの地、馬喰町です。
 この舞台は「江戸の夢」や、「御神酒徳利」の旅籠屋の主人仮豆屋吉左衛門などが出てきます。

 幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していた。江戸の旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事(くじ)宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。馬喰町には郡代屋敷があり、関東近辺でのもめ事、訴訟を引き受けていたので、その案件が解決するまで長期に滞在していた。そのため、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得ない程増えた。

旅籠について
 相部屋が普通、個室が欲しいときは早く着いて茶代(チップ)を前もって出すこと。普段より多く出すと、出されるお茶も菓子も違うし、蒲団も一枚多いと言われた。

 食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかった。但し上記茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の一品をつけた。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置かず、旅籠の女将さんと下女たちが料理した。

 食事の場所は馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事をとっていたが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていた。

 風呂は江戸市中では火事対策のため各家で風呂を焚くことは禁じられたので、町民は皆、銭湯に行かねばならなかった。旅籠の客も同様であった。元禄頃には風呂を設けて、風呂に入れることが売りの一つだった。
 ただ、旅籠は薪代の節約と手間を惜しむため、一度沸かしたら、そのままで、追い炊きをすることはなかったので、大勢が入るとぬるい湯となり、皮膚病を移される恐れもあった。この為、七つ時(16時)頃までには宿に入らないとイイ風呂に入れなかた。
 文化文政以降になると、入浴中の客にぬるければ沸かすと声をかけるようになり、サービスが改善された。

 衛生面で問題なのは虱、のみ、しらみが出た。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。
 この点、本陣とか上級宿はこの心配が無かった。上宿を選ぶのは防犯ばかりでなく、虱のような害虫から身を守り、ゆっくり寝られると言うことでもあった。

 夜具と蒲団は上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。旅人は寝巻を持参する必要があった。

 女将(おかみ)はいつの時代も、安堵に泊まれる最大のキーポイントであった。大部分の男客に対して笑顔での接客と気配りは、何よりのサービスであり、その女将が美人で有れば尚のことで、その腕で客数が変わった。

 サービス、観光地では観光案内や有名店の紹介、道案内などをした。お酒のサービスもすれば、その宴に付随して芸者・幇間の斡旋や夜の姫君の紹介もした。また、定宿になれば、所持品で不要になったものやお土産の取り置き、住まいまでの配送もしたし、手紙の受け渡しもしてくれた。


2.椙森(すぎのもり)神社
(中央区日本橋掘留1−10−2)
 平安時代の創建で、御祭神は伍社稲荷大神。その伍社とは、倉稲の魂(うがのみたま)之大神、素盞嗚(すさのう)之大神、大市姫(おおいちひめ)之大神、大巳貴(おおなむち)之大神と四大神(しのおおかみ)で、恵比寿大神が相殿(あいどの。同じ社殿に二柱以上の神を合祀すること)されています。
 中央区民文化財として、富札・富塚の碑、附造営関係資料、椙森神社文書等があります。
 富興行が行われた場所で、古今亭では湯島天神としているが、この噺では椙森神社が舞台。江戸三富は湯島天神、谷中感応寺(現・天王寺)、目黒不動でここは入っていないが、他に22社寺有った、その中の一社。
ただ江戸三森とはここ椙森神社、新橋の烏森神社、神田の柳森神社があります。

3.富興行

谷中天王寺富興行」 東都歳時記より 

 江戸の三富と称されたのが谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動でしたが、寛政二年で江戸では他に22社寺でも催されました。幕府では財政ひっ迫の折り援助もまま成らず、寺社の修復が目的で始まったものが、江戸市中を熱狂させました。三富では平均、富くじ1枚が金一分(1/4両)、発行枚数5千〜1万枚、最高当たり富(突き留め)が100両で人気が出ました。噺では千両になっていますがこの高額賞金は例外中の例外です。職人や一人商人は高額すぎて買えず、10枚、20枚と分割して売り出す者も居ました。

 抽選の当日は、重々しい太鼓の音から始まり僧侶の読経に続いて、寺社奉行の役人が入場、箱を点検すると共に中を良くかき混ぜます。進み出た僧侶が錐(きり)で突くと、相方の僧侶が札をかかげ「○○番。○○番」とさけびます。次々と当たりくじが読み上げられ、最後の札が「突き留め」と言い100両が当たります。当たった木札に対応した紙札「富札」と交換、賞金を受け取りました。
 通常翌日交換に行くのが規定ですが、最大次の興行(年3〜4回行われる)までに交換しないと無効になります。1両以上の受取金額は、例えば100両が当たったら、一割の10両は奉納金として没収、さらに次の富を5両分買わされ、祝儀として神社寺院関係者や札売りに5両引かれ、結局2割の天引きで、80両が受け取り賞金でした。この富くじによって、家族が分裂したり生活が破綻したり、負の面も大きかったのです。

 「首くくり 富の札など もってゐる」  江戸川柳

       

 左;売られている紙の「富札」 守貞漫稿。  中;木札の「富札」 千代田区歴史民族資料館蔵。  右;「谷中感応寺富くじ興行」 江戸名所百人一首。



 舞台の椙森神社を歩く

 馬喰町から椙森神社へは江戸通りを小伝馬町に向かい400m、小伝馬町交差点を左折、5車線の大きな一方通行路を逆に行くこと300m、右手の証券会社のビルと旅行代理店のビルの間に挟まれた路地を入ると、その突き当たりにあります。ゆっくり歩いて10分位。かの男は目的もなかったので、すぐに着いてしまったような距離です。
 大きな一方通行路をそのまま行くと、まもなく左手に「百川」の舞台、長谷川町三光新道が有ります。その先、ハサミや刃物を売る老舗「うぶけや」さん、隣が元・人形町末広亭が有ったとこです。その先歌舞伎で有名な「玄冶店」(げんやだな)跡、その先人形町の交差点です。

写真2009.06撮影;左の老舗が「うぶけや」、右隣が人形町末広亭跡、その先玄冶店、その先人形町交差点

 椙森神社の由来記を読むと一千年の昔、武蔵野の原たりし時代の、創建にして、天慶三年(940)田原藤太秀郷(たわらとうたひでさと、後に藤原秀郷)平将門を追討せんと、常に信心厚き心から当社に詣で、戦勝を祈願し、下総の国(千葉の一部)に至り強敵を亡ぼす、これ偏に神助に依ることと、願望成就の報賽として、常に尊心せる、白銀の狐像を奉納す。(現存す)
 文正元年(1466)の頃、関東一帯、連年旱魃ありて、農民疲弊の時、太田道灌、当社に詣で民の憂いを訴え,ひたすら、雨を乞い祈らば、その霊験あり、大いに喜びて、尊敬のあまり、山城国稲荷山五社大神を、遷して祭祀す。
 以来、毎年四月中の卯の日(現在五月十六日)を祭日と定め、御社大いに栄え、西の方、芝原宿という、鎧の渡しより陸奥に行く駅路ともなりぬ。
 江戸時代には、江戸三森(椙森、柳森、烏森)の一つに数えられ、諸大名の中に崇敬者も多く、松平伊豆の守信綱は、桜樹千株を移植し、松平播磨の守頼隆は、石の鳥居を建立せらる。又,商業の地として栄えた土地がら、晴天十日間の花相撲、更には、富興行等も、数多く行われ、三富の一つにも数えられる程であった。
 特に神道家の吉川惟足(これたり)は信仰厚く、寛文年間(三百有余年前)五社稲荷の一社なる大巳貴大神の御宣託に依り、恵比寿大神を奉斎せられ、今日に至るも年々盛大に、祭典を執行せり。
 江戸名所図会等にも掲載されている神社です。
地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。1999−2000年頃撮影、取材

馬喰町交差点
馬喰町は衣料品の一大問屋街になっている。平日は車と人で身動きできないが、休日ともなるとウソの様に人っ子一人居ない無人地帯になる。
電話帳で調べても、ビジネスホテルが2軒しか無い。
馬喰町交差点から小伝馬町方向を見る
小伝馬町を左に曲がると、まもなく椙森神社が右手に見えてくる。
椙森神社本殿
境内の半分は数台分の駐車場になっている、小さな神社。
現在は表通りからひとつ入ったところに、こぢんまりと建っているが、人出を考えると、昔はもっと大きかったのであろう。
椙森神社本殿左側に建つ富くじを扱った記念塚
椙森神社の由来記がこの横に立っています。

                                                初版:1999−2000年頃記
                                                全面改訂版:2009年6月記

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