落語「宿屋の富」の舞台を歩く
柳家小さんによる「宿屋の富」(やどやのとみ)
によると、
幕府は初期においては江戸に滞在する旅人の統制のため馬喰町以外の宿泊は禁止していた。江戸の旅籠屋は馬喰町に集中されており、この旅籠屋は大部分が公事(くじ)宿であって、訴訟をする者や役所に用事があるものが宿泊する宿であった。馬喰町には郡代屋敷があり、関東近辺でのもめ事、訴訟を引き受けていたので、その案件が解決するまで長期に滞在していた。そのため、郡代の役所に行くものとか、寺社の参詣に行くものが増え、近隣の町の旅籠屋の宿泊も認めざるを得ない程増えた。
■旅籠について 食事は大体が一汁三菜であまり美味しいものではなかった。但し上記茶代をあらかじめ置いた客に対しては別の一品をつけた。特に大きな旅籠屋を除いて料理人は置かず、旅籠の女将さんと下女たちが料理した。 食事の場所は馬喰町の公事宿では宿泊者全員が台所で食事をとっていたが、一般の旅籠屋では客の居る部屋で女中さんの給仕で食事をしていた。 風呂は江戸市中では火事対策のため各家で風呂を焚くことは禁じられたので、町民は皆、銭湯に行かねばならなかった。旅籠の客も同様であった。元禄頃には風呂を設けて、風呂に入れることが売りの一つだった。 衛生面で問題なのは虱、のみ、しらみが出た。充分な消毒薬品や殺虫剤がない時代は一旦客に持ち込まれると彼らは繁殖力が強く、なかなか退治が難しかった。 夜具と蒲団は上下は提供したが、敷布は無く、浴衣も無かった。旅人は寝巻を持参する必要があった。 女将(おかみ)はいつの時代も、安堵に泊まれる最大のキーポイントであった。大部分の男客に対して笑顔での接客と気配りは、何よりのサービスであり、その女将が美人で有れば尚のことで、その腕で客数が変わった。 サービス、観光地では観光案内や有名店の紹介、道案内などをした。お酒のサービスもすれば、その宴に付随して芸者・幇間の斡旋や夜の姫君の紹介もした。また、定宿になれば、所持品で不要になったものやお土産の取り置き、住まいまでの配送もしたし、手紙の受け渡しもしてくれた。 3.富興行
江戸の三富と称されたのが谷中感応寺(のちの・天王寺)、湯島天神、目黒不動でしたが、寛政二年で江戸では他に22社寺でも催されました。幕府では財政ひっ迫の折り援助もまま成らず、寺社の修復が目的で始まったものが、江戸市中を熱狂させました。三富では平均、富くじ1枚が金一分(1/4両)、発行枚数5千〜1万枚、最高当たり富(突き留め)が100両で人気が出ました。噺では千両になっていますがこの高額賞金は例外中の例外です。職人や一人商人は高額すぎて買えず、10枚、20枚と分割して売り出す者も居ました。
抽選の当日は、重々しい太鼓の音から始まり僧侶の読経に続いて、寺社奉行の役人が入場、箱を点検すると共に中を良くかき混ぜます。進み出た僧侶が錐(きり)で突くと、相方の僧侶が札をかかげ「○○番。○○番」とさけびます。次々と当たりくじが読み上げられ、最後の札が「突き留め」と言い100両が当たります。当たった木札に対応した紙札「富札」と交換、賞金を受け取りました。
「首くくり 富の札など もってゐる」 江戸川柳 左;売られている紙の「富札」 守貞漫稿。 中;木札の「富札」 千代田区歴史民族資料館蔵。 右;「谷中感応寺富くじ興行」 江戸名所百人一首。
馬喰町から椙森神社へは江戸通りを小伝馬町に向かい400m、小伝馬町交差点を左折、5車線の大きな一方通行路を逆に行くこと300m、右手の証券会社のビルと旅行代理店のビルの間に挟まれた路地を入ると、その突き当たりにあります。ゆっくり歩いて10分位。かの男は目的もなかったので、すぐに着いてしまったような距離です。
写真2009.06撮影;左の老舗が「うぶけや」、右隣が人形町末広亭跡、その先玄冶店、その先人形町交差点
椙森神社の由来記を読むと、一千年の昔、武蔵野の原たりし時代の、創建にして、天慶三年(940)田原藤太秀郷(たわらとうたひでさと、後に藤原秀郷)平将門を追討せんと、常に信心厚き心から当社に詣で、戦勝を祈願し、下総の国(千葉の一部)に至り強敵を亡ぼす、これ偏に神助に依ることと、願望成就の報賽として、常に尊心せる、白銀の狐像を奉納す。(現存す) それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。1999−2000年頃撮影、取材 初版:1999−2000年頃記 |
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