落語「猫忠」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「猫忠」(ねこただ。「猫の忠信」)によると
 

 六さんは女師匠の所にはもう行きたくないと言う。聞くと、昼間から酒を酌み交わしている男がいるという。その男とは兄貴分の弁慶橋の常州(常吉の俗称)だという。あの人は硬い上、奥様が名代の焼き餅焼きだからそんなことはない。ウソと思うなら一緒に見に行こう。

 節穴から覗くと、女師匠と兄貴分がだれあっている。「冷たい刺身は体に毒ですよ」と・・・、踏み込んでやろうと思ったが、二人がかりでも兄貴には勝てないから、奥様に告げ口して、あおれば飛んできて、ここで師匠と一戦が始まろうと言うものだ。では、兄貴の家に。

 六さんと次郎さんは針仕事をしている奥さんに、先程の一件を、言ちゃあいけない、いけないと言いながら話を進めると奥様の顔色が変わってきた。「何処で飲んでたの」、「言いたくはないが、奥さんもご承知のお師匠さんとこで」、「まぁ」、「でね、『冷たいお刺身は体に毒だから』って、師匠が口に入れて暖めてから、兄貴の口へ。美味しそうに食べる兄貴も兄貴だ」、「で、何時のことなの」、「今ですよ」、「冗談は別にして。ご苦労様」。
 奥様の顔色が元に戻って貫禄さえ見えてきた。「お前さん達はなあに。友達だったら『まあまあ』と言ってなだめるところを、波風無い所にやってきて、どうしようと言うの。昨日、今日と言うが、家の人は風邪を引いて昨日から寝ているよ」、「ええ?!負け惜しみを言って。今見てきたばかりなんだから・・・」。
 奥から兄貴が顔を出した。「本当に俺を師匠の所で見たんだな。それでは見に行こう」。羽織を出させて三人揃って師匠の表に。

 節穴から覗くと兄貴が居た。兄貴が覗いても自分だった。「これは狐狸妖怪だ」。中に入り、酒を酌み交わす時、相手の耳を掴むと、狐狸妖怪だと耳がピクピクっと動く、そしたら「ピョコピョコだ〜、と怒鳴れ」俺が踏み込んで殴り倒すから。と決めたが、耳を掴むのは恐いからイヤだとか逃げ腰に。
 「こんにちは」、「どうぞお上がり下さい」、「六に次郎か、奥に入って酒でも飲め」、「奥は結構です」、「やですよ。ヤモリみたいで」。酌をしてもらったが、酒ではなく馬の小便だったらと口に運べない。恐る恐る味見すると本物であった。旨かったのでご返杯と盃を出すと、常が手を出す所を掴んで引き倒し耳を掴んだ「ピョコピョコだ!」。裏から常が飛び込んで、取り押さえた。「なぜこの様なことをするんだ。俺も師匠にも迷惑が掛かるんだ。吉野家の常吉、義経が取り調べる」。「はい。全て申し上げます」。

 妖怪はすっかり恐れ入り、(鳴り物入りの芝居がかりで)「常吉様のお姿になってこの家に来たことを一通りお聞き下さい。時代は村上天皇の時、山城、大和の二国に田畑を荒らす大鼠が出た。易を立てると、『皇位の側にいる女猫の革で三味線を作り、それを弾くと大鼠は退散する』とのお告げ。鼠の被害はなくなり民百姓は多いに喜び、その三味線を初音の三味線と呼んだ。その女猫は私の母親です。お国の為とは言え、私はその子猫のこと、泣いて暮らしていました。母親恋しさ、行き先を尋ね歩き、探し当てた私の母親は、あれ、あれあれあれ、あれに掛かりしあの三味線、わたくしはあの三味線の子でございます」。師匠の三味線の革にされた親を慕ってきた、とさめざめ泣く。
 ヒョイと見ると、正体を現した大きな猫がかしこまっている。「兄貴、今度のおさらいは大当たりだね。『千本桜』の掛け合いだろう。これで全て役者が揃った。兄貴が弁慶橋に住む吉野屋の常さんで吉常(義経)。狐忠信てのはあるが、猫がただ酒をのんだから、猫がただのむ(猫の忠信)だ。あっしが駿河屋次郎吉で駿河の次郎。こいつは亀屋六兵衛で亀井の六郎。千本桜ができたね」、「肝心の静御前がねえじゃねえか」、「兄貴とした人が・・・、師匠が延静(のぶしず)だから静御前だ」、

 師匠が「あたしみたいなお多福に、静が似合うものかね」、猫が頭を上げて「ニャァウ(似合う)」。

 


1.この噺は「義経千本桜」のパロディです。
 義太夫、人形浄瑠璃や歌舞伎で時代物の三大名狂言の一つで、この「義経千本桜」、「仮名手本忠臣蔵」、「菅原伝授手習鑑」の名作を指します。落語「忠信」は「義経千本桜」を下敷きにしています。

左図;「義経千本桜」二枚組 豊国画

 『義経千本桜』の場合、源義経が平家を滅ぼすという大きな戦功を立てながら兄頼朝と不和になり、奥州藤原氏を頼って落ちのびる、というのが歴史の史実であり、基本的な筋です。「義経千本桜」の筋書き内容は、それによって引き起こされる周りの人々の悲劇を描き出しました。

 時代物の常として五段構成で作られている『義経千本桜』ですが、中心となるのは二〜四段目の三つの段です。
 二段目は平家再興を図る落ち武者の悲劇。
 三段目は平家に心を寄せる一家の悲劇。
 四段目は桜満開の吉野山、パロディになった部分です。義経一行は吉野山第一の実力者である河連法眼の館に逗留していますが、横川の覚範(実は壇ノ浦で生き延びた平教経)をはじめとして義経を除こうとする動きもあります。そこに佐藤忠信がやってきます。忠信は平家追討の後、母を看病しに田舎に帰っていましたが、母が死に、自分も破傷風を患いこれまで遅くなったが、やっと治ったので戻ってきたと言います。
 ところが、大物浦に行く前に、忠信は義経たちの前に現われており、その時足手まといになる静御前を預けていたのです。しかし忠信には覚えがありません。
 そこへもう一人の忠信が静御前を伴いやってきます。どちらが本物の忠信か、確かめようと静が後白河法皇より下された初音の鼓を打つと後から来た忠信が現われます。実はこの鼓は千年の齢を経た夫婦の狐の革で作られたもの。静に供をしてきたのはその狐の子供が化けた忠信だったのです。
 親恋しさに、忠信に化けた狐は鼓とそれを持つ静を、日に夜に守ってきたわけです。その孝心に感じいった義経は狐に源九郎という名を授け、さらに鼓を与えます。源九郎狐は喜び、やがて押し寄せた吉野山の荒法師たちを不思議な力で蹴散らします。

 右図;「狐忠信」国芳画  寛永元年3月、市村座の「義経千本桜」で四世市川小団次が演じた狐忠信。身軽な小団次が宙乗りを行い、その仕掛けも描かれている。見上げる義経(八世団十郎)、静御前(しうか)を小さく描いている。

 佐藤忠信;平安時代末期の武将で、源義経の家臣。『源平盛衰記』では義経四天王の1人。父は奥州藤原氏に仕えた佐藤基治、もしくは藤原忠継。 奥州藤原氏から送られ、義経の郎党として随行。兄の佐藤継信は屋島の合戦で討死している。忠信享年は26。(菩提寺である医王寺の忠信の石塔には享年34とある)。どちらにしても若い。「義経千本桜」の「狐忠信」こと「源九郎狐」のモデルになった。

 源義経; 九郎判官。源平合戦で活躍するが、その後兄の源頼朝に追われる身となる。義経伝説を背景に、武勇に優れ一軍の将に相応しく情理をわきまえた人物として描かれる。

 武蔵坊弁慶; 豪腕無双の荒法師。義経一の家来。

 静御前; 義経の愛妾で白拍子。義経に千年の劫を経た雄狐・雌狐の皮を張った初音の鼓を託される。

 義経四天王; 駿河次郎、 亀井六郎、 片岡八郎、 伊勢三郎。

 

2.弁慶橋 (岩本町二丁目10&17) 
   
 
絵図;左、江戸名所図会より「弁慶橋」 右、その略図。左図に対応します。南北に走る道は「大門通り」。
え? 大門通りって何なの。そう、元吉原(日本橋人形町)の大門前から北に延びた道で、逆に言えばこの道を南下すれば元吉原大門(入口)に行く道です。

 弁慶橋といえば、赤坂見附の弁慶濠に架かる橋かと想像しますが、これは藍染川に架かっていた弁慶橋です。
藍染川は、於玉ヶ池を埋め立てたときに出来た水路で、弁慶橋は変った橋の形が珍しかったので名所だった。
 藍染川で一番有名な橋は弁慶橋です。「お玉が池旧跡東の方、和泉橋の通、藍染川の下流に架す。其始御大工棟梁弁慶小左衛門といへる人の、工夫によりて懸初しといへり。此地の形に応じ、街を横切て筋替にかくるもっとも奇なり」。(「江戸名所図会」)

 ここに藍染川(愛染川)が流れ、それに架かっていた橋で、『江戸砂子』に「逢初川という。神田鍛冶町一丁目より紺屋町に落ちる大溝である。 一丁(約109m)ほど上にて南北の水の落合、両の水逢そめこの所へ落つるからといふ。又紺屋町のうら通リなのでその縁によっていふのである。」とあります。又橋について「すじかいにわたってむつかしき橋である。これは大工棟梁弁慶小左衛門の地割の橋であるといふ。」とかかれています。明治十八年(1885)川は埋立られ橋も廃せられてしまいましたが、この橋は小左衛門の名作というので明治22年(1889)に廃材を利用し、清水谷から赤坂見附の方へ出るところに、同じ橋の名で架設され、古風な江戸のおもかけを残して明治・大正時代の名所となりました。
千代田区教育委員会説明板から

  付近には駿河町、亀井町など、源義経の四天王にちなんだ町名が並んでいました。
■駿河町;中央区日本橋室町、現在の三越北側脇。

■亀井町;中央区日本橋小伝馬町。牢屋敷の東側。ここに竹森神社(中央区日本橋小伝馬町19−4)があります。小伝馬町の北側が馬喰町です。
 竹森神社」は、江戸時代よりこの付近に竹やぶが多く、竹につながる町、竹職人の町ともいわれ、竹藪にちなんで竹森神社としたと言われている。 神体は伏見稲荷からもらいうけ、俗に「江戸七森」の一つに数えられて、江戸市中、数多い稲荷神社の中で由緒深いものとされている。
江戸七森 「椙森」(すぎのもり)/堀留、 「烏森」(からすもり)/新橋、 「初音森」(はつねのもり)/馬喰町、 「柳森」/柳原土手、 「あずまの森」/向島、 「笹森」(ささのもり)/谷中、 「竹森」/小伝馬町。
以上竹森神社説明板より。

江戸八森;烏森、 鷺(さぎの)森/麻布、 椙森、 嬉(うれしの)森/花川戸、 初音森、 宮戸森/駒形、 桜森/蔵前、 柳森。 他に鈴ヶ森、吾嬬の森、雀の森(於三の森)/深川、等々があります。

江戸三森椙森神社/中央区日本橋堀留町、 柳森神社/千代田区神田須田町、 烏森神社/港区新橋。

 「初音森神社摂社」(中央区東日本橋2−27)は、江戸七森の一つ、墨田区千歳二丁目4にある初音森神社の摂社です。初音森神社は、元弘年間(1330年頃)に創建、文明年間(1469-1487)には太田道灌により社殿が建立されたと伝えられ、当地周辺の産土神として崇敬を集めたといいます。天文20年(1551)社前に馬場が出来、初午祭には馬追いの催し等が行わていましたが、江戸の拡張・明暦の大火に伴い、別当寺の西光寺と共に墨田区千歳二丁目に遷座しました。昭和23年(1948)に、旧蹟地である当地へ初音森神社摂社を創建しています。
 残念ながら、初音の鼓とは関係がないみたい。

 

3.言葉
■習い事
;稽古屋、趣味教養の音曲や踊りを習うところで、稽古屋または指南所と呼ばれた。子供達が習い事で通うのは寺子屋で、武芸などを教えるところは道場、武道館(場)などと言いました。この稽古屋が繁盛したのは、若い娘を持った親は当然良いところに嫁がせたいのが親心です。そこで、武家に見習い奉公に出し、躾が行き届いたら良縁を期待する。それが普通の親の考えでした。逆に武家側からすると、同じ採るなら一芸に秀でた娘の方が良く、手習いが済んでいる娘を採用した。そこで親たちは唄や踊りに通わせるようになり、稽古屋さんは町内に1軒以上の盛況になった。結果、江戸の文化教養水準が上がった。
  若い独り身の女師匠だと(狼)男弟子が集まってきた。
「三味の弟子破門の訳は師を口説き」

狐狸妖怪(こりようかい);キツネとタヌキの妖怪。ひそかに悪事をはたらく者のたとえ。人知では解明できない奇怪な現象または異様な物体。ばけもの。

やもり;害虫を捕食することから家を守るとされ、漢字では「守宮」(あるいは「家守」)と書かれよく似た名のイモリ(井守)とともに古くから親しまれていたことが伺えます。
 人間に対しては臆病で攻撃性が低く、食害や咬害を与えることもないため、有益な動物です。縁起物として大切にする風習もありますが、逆に都会では民家に侵入する不快生物として扱う人々も存在します。
 ちなみに、惚れ薬として黒焼きにされるのは、このヤモリで無く、水性のイモリです。

延静(のぶしず);女師匠を円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは 清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。落語「百川」に登場の歌女文字(かめもじ)師匠のように、「文字」が付けば常磐津です。

村上天皇;平安中期の62代天皇。醍醐天皇の第14皇子。名は成明(ナリアキラ)。後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」。(在位946〜967)(926〜967)

山城、大和の二国;山城(やましろ)、旧国名で五畿の一、今の京都府の南部。大和(やまと)、旧国名で今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起る。 その二国は京・奈良の地方。



4.円生のマクラより
 江戸では同じ地区に縁の通った所があります。(現在地名を書き加えています)
●京橋から日本橋に掛けて、『武器』に縁がある町名が多くあった。「鑓屋町」(やりやちょう)が銀座3.4丁目境界道路両側にあった。抜き身では危ないと「鞘町」(さやちょう=北鞘町、日本橋北。南鞘町、京橋一丁目)、「鞍掛橋」(くらかけばし=馬喰町の通り南、現存せず)、「馬喰町」(ばくろちょう=日本橋馬喰町)、「鉄砲町」(てっぽうちょう=小伝馬町牢屋敷西南)、「兜町」(かぶとちょう=日本橋兜町)、「鎧橋」(よろいばし=兜町に渡す橋)などが有った。

●浅草から下谷に掛けて、『三味線』に縁のある町があった。「三味線堀」(=台東区小島)、そばに「三筋町」(みすじちょう=台東区三筋)があり、「同朋町」(どうぼうちょう=下谷同朋町、台東区上野三丁目御徒町駅西)、「天神」(三味線の頭の部分=湯島天神)、「駒形」(こまがた=台東区駒形、駒形橋南)等があり、不信心すると「撥」(ばち)が当たるという。

●牛込と言う所は、『お神楽』に縁があります。「神楽坂」(かぐらざか=新宿区神楽坂)の上の方には「岩戸町」(=新宿区岩戸町)、「雅町」(みやびちょう=?)があり、岩戸神楽、雅神楽とそろいます。坂を下ると、昔、橋があって「どんどん」(船河原橋=飯田橋)と言った。川が急に落ちるので、その様な音がしたのでしょう。そこに林様というお屋敷があって、殿様の顔がヒョットコに似ていて、奥様がお多福に似ていた。しょっちゅ夫婦喧嘩が絶えず、聞いたら、御内所がピイピイだった。お神楽の揃いです。

●一から十まで揃った縁があります。「市ヶ谷」(=新宿区市ヶ谷)、「二丁町」(=秋葉原駅北東)、「山谷」(さんや=台東区日本堤等)、「四ツ谷」(=新宿区四谷)、「五軒町」(=小日向五軒町、新宿区小日向三丁目)、「六間堀」(=江東区森下にあった堀)、「七軒町」(=港区芝大門。八丁堀にもあり)、「八丁堀」(=中央区八丁堀)、「九段」(=千代田区九段)、「十間店」(じゅっけんだな=中央区日本橋室町)。

●麻布から芝に掛けてオデキに縁がある。「ねぶと坂」(?)、坂の途中に「陽泉寺」(ようせんじ=港区赤坂一丁目アメリカ大使館裏)に「澄泉寺」(ちょうせんじ=左同)が並んで建っていた。詰めて言うと、「ようちょうねぶと」坂ノ下に「伊丹屋」(いたみや)という酒屋があった。離れているが「神谷町」(かみやちょう)デキモノには必要でしょう。坂の上に公儀のご番所があったが長いので詰めて「公約番所」(膏薬ばんしょ)と言った。近くに「吹きで町」(ふきでちょう=?)があった。坂を上がった所から「品川の海(ウミ)」が見えた。これは綺麗な縁ではありません。




  舞台の弁慶橋跡を歩く


 靖国通りから南に入った岩本町二丁目に弁慶橋跡はあります。どの駅からも10分以上かかる中途半端(失礼)な場所です。靖国通り岩本町交差点と人形町通りの交差点を一本東に行った南北に走る通りが大門通りで、この道を南に行けば人形町の元吉原の大門(おおもん)に出る道なのです。元吉原は40数年の寿命でしたし、新吉原に引っ越して350年以上経っていますので、今は元吉原の感覚はありませんし、そのような街並みもなく、大手の入ったビルが建ち並びその風情は皆無です。その西側の人形町付近は江戸風情を残した老舗も多くあります。
 大門通りを入っても、弁慶橋跡の地は何も無く、ただ中小企業の小さなビルが肩を寄せ合って建っています。岩本町二丁目10と17の間(大門通り)に架かっていた橋ですが、左右から細い藍染川が流れてきますが、その川は埋め立てられて宅地になり、前後にしっかりした道路が作られました。その為に正確な橋の位置は推定するより仕方がありません。その橋の位置より北側の、最初の角の民家の塀に千代田区教育委員会の立てた説明板が建っています。位置のズレがあるのはしょうがないのでしょうか。
 ここから、南隣の小伝馬町に行きます。

 道を隔てて千代田区から中央区に入りました。ここは中央区日本橋小伝馬町と言い、丁名はありません。北東半分が亀井町と呼ばれていた町で、義経四天王 亀井六郎にちなんだ町名として訪ねているだけです。その北側に”竹森神社”があり、江戸七森の一つだと云います。その七森のもうひとつ、”初音森神社”は浅草橋南詰め郵便局の隣にあり、柳森は浅草橋の南、柳原通りの土手道を入って行くと”柳原神社”に出ます。
 元の亀井町に戻ると、その西南、人形町通りを渡った所に江戸で一番恐いと云われた小伝馬町の牢屋敷があります。現在は北半分は時の鐘を置いた、十思公園を中心に当時の状況が残されていますし、南半分は処刑された人達の菩提を弔う為に二つのお寺が建立されています。

 義経四天王 駿河次郎の駿河町は、落語の舞台にも何回か出てきたところで、日本橋三越の北側道路にその名を見付ける事が出来ます。その北側は三井本館や三井タワーがある三井村です。江戸時代の町名は現在の道路に囲まれたブロック単位ではなく、道を挟んだ両側がその街になります。表通りの背中方向は別の町になります。ここでは三越と三井村が駿河町と呼ばれた町なのです。駿河町は駿河の富士山が道の西方向に展望出来たからと云われます。
右図;「名所江戸百景 駿河町」 広重画
 富士山は広重のイメージでそんなにドデカくは見えませんでした。

 円生がマクラでやっていた一から十までの街並みを私流で江戸の町名をあげてみましょう。
 一番町、二番町、三番町・・・六番町・・・。一の橋、二の橋、〜六の橋、これでは様になりません。マジに探してみましょう。それも、円生が挙げていない地名で、
 一ツ橋/大手門横、二本榎/芝、三橋/下谷、四ツ目/錦糸町、五の橋/亀戸、六本木/港区、七面坂/谷中銀座、八ツ見橋/一石橋、九軒町/須田町、十番馬場/麻布十番、百姓町/麻布、千田/深川、万年町/深川、十万坪/深川洲崎辺り、そして永代橋/隅田川河口。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

弁慶橋跡(千代田区岩本町二丁目10と17間)
 人形町の元吉原の大門通りがここを渡ります。当時の横の道はなくなり、現在と当時の街区が重なりません。写真のこの通りが大門通りで、人形町方向をむいています。赤い看板あたりに橋がありました。

弁慶橋跡説明板(千代田区岩本町二丁目11−10)
 弁慶橋の説明板は2−11−10の民家の壁面にあります。上記橋跡の写真は前方交差している道路の右側になります。

弁慶橋(港区赤坂見附交差点弁慶堀に架かる)
 上記橋の材木を使って架けられたと言いますが、現在は車の往来も多く、コンクリートの橋になっています。手摺りや擬宝珠は木造橋の雰囲気を残しています。橋の前方が赤坂見附交差点と左・赤坂東急ホテル。

駿河町(中央区日本橋室町一丁目と二丁目の境)
 写真は駿河町の通り。左が三越本店。その右側は下記写真。駿河町の奥に見えるはずの富士山はビルに阻まれ見えません。東京には富士見町とか富士見坂と呼ばれる所が多くありますが、現在見える所は奇跡に近い。

駿河町(中央区日本橋室町一丁目と二丁目の境)
 写真は駿河町の通り。三越を挟んだ右側の中央三井信託銀行と三井本館、三井タワー。

亀井町(中央区日本橋小伝馬町16〜19)
 亀井町の西側には人形町通りを挟んで江戸時代の獄舎、伝馬町牢屋敷がありました。

竹森神社(中央区日本橋小伝馬町19)
 亀井町の一角にある江戸七森の一つ、竹森神社があります。

初音の森神社(中央区東日本橋二丁目27)
 上記竹森神社で馬喰町に初音森神社があると紹介されていたので、『初音』につられて、隣町なもので行ってきました。この噺の初音には関係がなかったのですが、この住所は浅草橋南詰めですので、ラインの引き方で東日本橋になってしまった。

                                                                  2011年11月記

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