■延静(のぶしず);女師匠を円生は延静で演じましたが、「延」が付くのは
清元の師匠で、家元の延寿太夫の一字を取ったもの。落語「百川」に登場の歌女文字(かめもじ)師匠のように、「文字」が付けば常磐津です。
■村上天皇;平安中期の62代天皇。醍醐天皇の第14皇子。名は成明(ナリアキラ)。後世、天暦の治と称される。日記「天暦御記」。(在位946〜967)(926〜967)
■山城、大和の二国;山城(やましろ)、旧国名で五畿の一、今の京都府の南部。大和(やまと)、旧国名で今の奈良県の管轄。もと、天理市付近の地名から起る。 その二国は京・奈良の地方。
4.円生のマクラより
江戸では同じ地区に縁の通った所があります。(現在地名を書き加えています)
●京橋から日本橋に掛けて、『武器』に縁がある町名が多くあった。「鑓屋町」(やりやちょう)が銀座3.4丁目境界道路両側にあった。抜き身では危ないと「鞘町」(さやちょう=北鞘町、日本橋北。南鞘町、京橋一丁目)、「鞍掛橋」(くらかけばし=馬喰町の通り南、現存せず)、「馬喰町」(ばくろちょう=日本橋馬喰町)、「鉄砲町」(てっぽうちょう=小伝馬町牢屋敷西南)、「兜町」(かぶとちょう=日本橋兜町)、「鎧橋」(よろいばし=兜町に渡す橋)などが有った。
●浅草から下谷に掛けて、『三味線』に縁のある町があった。「三味線堀」(=台東区小島)、そばに「三筋町」(みすじちょう=台東区三筋)があり、「同朋町」(どうぼうちょう=下谷同朋町、台東区上野三丁目御徒町駅西)、「天神」(三味線の頭の部分=湯島天神)、「駒形」(こまがた=台東区駒形、駒形橋南)等があり、不信心すると「撥」(ばち)が当たるという。
●牛込と言う所は、『お神楽』に縁があります。「神楽坂」(かぐらざか=新宿区神楽坂)の上の方には「岩戸町」(=新宿区岩戸町)、「雅町」(みやびちょう=?)があり、岩戸神楽、雅神楽とそろいます。坂を下ると、昔、橋があって「どんどん」(船河原橋=飯田橋)と言った。川が急に落ちるので、その様な音がしたのでしょう。そこに林様というお屋敷があって、殿様の顔がヒョットコに似ていて、奥様がお多福に似ていた。しょっちゅ夫婦喧嘩が絶えず、聞いたら、御内所がピイピイだった。お神楽の揃いです。
●一から十まで揃った縁があります。「市ヶ谷」(=新宿区市ヶ谷)、「二丁町」(=秋葉原駅北東)、「山谷」(さんや=台東区日本堤等)、「四ツ谷」(=新宿区四谷)、「五軒町」(=小日向五軒町、新宿区小日向三丁目)、「六間堀」(=江東区森下にあった堀)、「七軒町」(=港区芝大門。八丁堀にもあり)、「八丁堀」(=中央区八丁堀)、「九段」(=千代田区九段)、「十間店」(じゅっけんだな=中央区日本橋室町)。
●麻布から芝に掛けてオデキに縁がある。「ねぶと坂」(?)、坂の途中に「陽泉寺」(ようせんじ=港区赤坂一丁目アメリカ大使館裏)に「澄泉寺」(ちょうせんじ=左同)が並んで建っていた。詰めて言うと、「ようちょうねぶと」坂ノ下に「伊丹屋」(いたみや)という酒屋があった。離れているが「神谷町」(かみやちょう)デキモノには必要でしょう。坂の上に公儀のご番所があったが長いので詰めて「公約番所」(膏薬ばんしょ)と言った。近くに「吹きで町」(ふきでちょう=?)があった。坂を上がった所から「品川の海(ウミ)」が見えた。これは綺麗な縁ではありません。
舞台の弁慶橋跡を歩く
靖国通りから南に入った岩本町二丁目に弁慶橋跡はあります。どの駅からも10分以上かかる中途半端(失礼)な場所です。靖国通り岩本町交差点と人形町通りの交差点を一本東に行った南北に走る通りが大門通りで、この道を南に行けば人形町の元吉原の大門(おおもん)に出る道なのです。元吉原は40数年の寿命でしたし、新吉原に引っ越して350年以上経っていますので、今は元吉原の感覚はありませんし、そのような街並みもなく、大手の入ったビルが建ち並びその風情は皆無です。その西側の人形町付近は江戸風情を残した老舗も多くあります。
大門通りを入っても、弁慶橋跡の地は何も無く、ただ中小企業の小さなビルが肩を寄せ合って建っています。岩本町二丁目10と17の間(大門通り)に架かっていた橋ですが、左右から細い藍染川が流れてきますが、その川は埋め立てられて宅地になり、前後にしっかりした道路が作られました。その為に正確な橋の位置は推定するより仕方がありません。その橋の位置より北側の、最初の角の民家の塀に千代田区教育委員会の立てた説明板が建っています。位置のズレがあるのはしょうがないのでしょうか。
ここから、南隣の小伝馬町に行きます。
道を隔てて千代田区から中央区に入りました。ここは中央区日本橋小伝馬町と言い、丁名はありません。北東半分が亀井町と呼ばれていた町で、義経四天王 亀井六郎にちなんだ町名として訪ねているだけです。その北側に”竹森神社”があり、江戸七森の一つだと云います。その七森のもうひとつ、”初音森神社”は浅草橋南詰め郵便局の隣にあり、柳森は浅草橋の南、柳原通りの土手道を入って行くと”柳原神社”に出ます。
元の亀井町に戻ると、その西南、人形町通りを渡った所に江戸で一番恐いと云われた小伝馬町の牢屋敷があります。現在は北半分は時の鐘を置いた、十思公園を中心に当時の状況が残されていますし、南半分は処刑された人達の菩提を弔う為に二つのお寺が建立されています。
義経四天王
駿河次郎の駿河町は、落語の舞台にも何回か出てきたところで、日本橋三越の北側道路にその名を見付ける事が出来ます。その北側は三井本館や三井タワーがある三井村です。江戸時代の町名は現在の道路に囲まれたブロック単位ではなく、道を挟んだ両側がその街になります。表通りの背中方向は別の町になります。ここでは三越と三井村が駿河町と呼ばれた町なのです。駿河町は駿河の富士山が道の西方向に展望出来たからと云われます。
右図;「名所江戸百景 駿河町」 広重画
富士山は広重のイメージでそんなにドデカくは見えませんでした。
円生がマクラでやっていた一から十までの街並みを私流で江戸の町名をあげてみましょう。
一番町、二番町、三番町・・・六番町・・・。一の橋、二の橋、〜六の橋、これでは様になりません。マジに探してみましょう。それも、円生が挙げていない地名で、
一ツ橋/大手門横、二本榎/芝、三橋/下谷、四ツ目/錦糸町、五の橋/亀戸、六本木/港区、七面坂/谷中銀座、八ツ見橋/一石橋、九軒町/須田町、十番馬場/麻布十番、百姓町/麻布、千田/深川、万年町/深川、十万坪/深川洲崎辺り、そして永代橋/隅田川河口。
地図をクリックすると大きな地図になります。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
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弁慶橋跡(千代田区岩本町二丁目10と17間)
人形町の元吉原の大門通りがここを渡ります。当時の横の道はなくなり、現在と当時の街区が重なりません。写真のこの通りが大門通りで、人形町方向をむいています。赤い看板あたりに橋がありました。
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弁慶橋跡説明板(千代田区岩本町二丁目11−10)
弁慶橋の説明板は2−11−10の民家の壁面にあります。上記橋跡の写真は前方交差している道路の右側になります。
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弁慶橋(港区赤坂見附交差点弁慶堀に架かる)
上記橋の材木を使って架けられたと言いますが、現在は車の往来も多く、コンクリートの橋になっています。手摺りや擬宝珠は木造橋の雰囲気を残しています。橋の前方が赤坂見附交差点と左・赤坂東急ホテル。
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駿河町(中央区日本橋室町一丁目と二丁目の境)
写真は駿河町の通り。左が三越本店。その右側は下記写真。駿河町の奥に見えるはずの富士山はビルに阻まれ見えません。東京には富士見町とか富士見坂と呼ばれる所が多くありますが、現在見える所は奇跡に近い。
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駿河町(中央区日本橋室町一丁目と二丁目の境)
写真は駿河町の通り。三越を挟んだ右側の中央三井信託銀行と三井本館、三井タワー。
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亀井町(中央区日本橋小伝馬町16〜19)
亀井町の西側には人形町通りを挟んで江戸時代の獄舎、伝馬町牢屋敷がありました。
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竹森神社(中央区日本橋小伝馬町19) 亀井町の一角にある江戸七森の一つ、竹森神社があります。
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初音の森神社(中央区東日本橋二丁目27) 上記竹森神社で馬喰町に初音森神社があると紹介されていたので、『初音』につられて、隣町なもので行ってきました。この噺の初音には関係がなかったのですが、この住所は浅草橋南詰めですので、ラインの引き方で東日本橋になってしまった。 |
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2011年11月記
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