落語「開帳の雪隠」の舞台を歩く
   

 

 六代目三遊亭円生の噺、「開帳の雪隠」(かいちょうのせっちん)別名「雪隠」によると。
 

 江ノ島・鎌倉を知っているだけで、「すごいね〜あの人は」と言われた時代の事です。男連中は旅に出て参拝する事が出来ますが、女性陣はなかなか出来るものではありません。そこで各地の神様が江戸に出てきて、出開帳された。江戸の人気になって、たいそう賑わったと言われます。

 出開帳の行われている回向院の近くで駄菓子屋を開いているお婆さんが愚痴を言っています。
「お爺さんや、商いは無いのに雪隠ばかり借りに来る人ばかりで、忙しい。その上、義理にも駄菓子のひとつでも買っていけばいいのに、それも無い。明日から貸すのをよすよ。」、「来る人もたいへんなんだから、そんな事を言わずに貸してあげなよ。・・・そうだ!良い事を思いついた。明日から商売をしよう。一人8文取って雪隠を貸そう」、「それはイイ」。
 雪隠を綺麗に掃除して、表に「雪隠貸します。一人八文」と言う札を下げた。お客がひっきりなしに訪れて、たいそう儲かった。

 良い事は続かなかった。通りを挟んだ近所に、専用の綺麗な雪隠が出来て一人8文で営業を始めた。同じ料金なら綺麗な方に行くのは当たり前。客は激減してしまった。
 それを見たお爺さんは、「今日は忙しくなるから釣り銭を間違えないように店番をしな」と言いながら、お弁当を持って朝早く参拝に出掛けてしまった。
 その後に目が回る程忙しくなった。「食事も出来ないから、早くお爺さんが帰ってきて、手伝ってくれればいいのに」と口に出る程であった。
 日が暮れる頃にお爺さんが帰ってきた。

「お爺さん、今日はもの凄く忙しかった。そんな御利益のある神様ってどこにあるんですか。」
「いいや、参拝になんて行ってないよ。」
「?? あ〜らいやだ。お弁当まで持ってどこに行ってたの。」
「向こうの雪隠で、一日中座っていたんだ」。

 


 
1.回向院(えこういん。墨田区両国 2丁目8−10)
 
回向院は、両国と南千住の二ヶ所にあります。南千住(小塚原)はもともと江戸幕府初期のお仕置き場として知られ、小塚原と呼ばれていました。万治年間、幕府は町奉行所を通して 両国回向院に牢死者や形死者を弔うことを命じ、さらに寛文七年(1667)に、当時の住職・弟誉義観(ていよ・ぎかん)上人が幕府に願い出て、その別院として小塚原刑場に建てたのが、この小塚原回向院です。

  この落語の舞台両国回向院は、今からおよそ350年前の明暦3年(1657)に開かれた浄土宗の寺院です。江戸市中に「振袖火事」の名で知られる明暦の大火があり、市街の6割以上が焼土と化し、10万人以上の尊い人命が奪われました。この災害により亡くなられた人々の多くは、身元や身寄りのわからない人々でした。当時の将軍家綱は、このような無縁の人々の亡骸を手厚く葬るようにと隅田川の東岸、当院の現在地に土地を与え、「万人塚」という墳墓を設け、遵誉上人に命じて無縁仏の冥福に祈りをささげる大法要を執り行いました。このとき、お念仏を行じる御堂が建てられたのが回向院の始まりです。

図版;回向院資料より「明暦3年の大法要と万人塚」。下図「開帳」も。図版をクリックすると大きな図版になります。

 無縁寺・回向院は一方、境内堂宇に安置された観世音菩薩や弁財天などが江戸庶民に尊崇されることとなり、様々な巡拝の札所となり、また江戸中期からは、その地の利が尊ばれて全国の有名寺社の秘仏秘像の開帳される寺院として、境内は毎年のように参詣する人々で殷賑をきわめました。その数は江戸の出開帳の総数の約四分の一になるほどでした。
 そして江戸後期になると勧進相撲の定場所が当院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。
 回向院ホームページ http://www.ekoin.or.jp/index.html  及び「回向院しおり」より



2.
開帳かいちょう
 平素は秘仏として公開しないが、一定期間扉を開いて参詣させるのを開帳といい、開帳には居開帳と出開帳があります。本来は純粋に宗教的であったが、後に奉納金品や賽銭を目当てに行われるようになった。
 居開帳;寺院で、特定の日に、厨子の扉を開いてその中の秘仏を一般の人々に拝ませること。 
 出開帳
;本尊など
仏像類を他所へ出して公開すること。時候のよい春に行うことが多い。地方の有名な寺社の秘仏を公開するので、盛り場のように賑わった。
 開帳場(かいちょうば);江戸時代、社寺で開帳をした所。賑わったので、盛り場の意にもなる。バクチの賭場を開く開帳はここから来ています。

 江戸で出開帳があると人々が群集したものであり、またそこで開かれる縁日が一層の賑わいを見せた。当時は旅行することは大変であったから出開帳を人々はよろこんだ。江戸の開帳は寺社奉行に出願し許可をえて行われた。長期間では60日間開かれるのが例であった。
 居開帳の回数の多いのは浅草寺(台東区、31回)、江ノ島弁天(藤沢、16回)、護国寺(文京区、15回)をベスト3として、有名社寺が網羅されていた。
 出開帳は、善光寺(長野県)など地方寺院が江戸で出開帳する寺を宿寺といい、江戸時代、回向院(墨田区)は166回行った。ついで永代寺(江東区)58回、湯島天神(文京区)31回、護国寺(文京区)25回、浄心寺(江東区)23回等であった。宿寺のほとんどは下町であった。
 出開帳でもっとも好評であったのは善光寺如来であったが、ついで嵯峨(京都)の釈迦如来で、三番目の評判の出開帳は、成田(千葉県)の新勝寺の不動尊であった。 

 開帳は本来信仰上のご利益であったが、寺は短期間に多額の臨時収入があり、宿寺の収入も大きかった。
 幕府は、寺社奉行所を通じて、その権威を発揮することができた。また、寺社だけではなく、開帳寺社や出開帳場所となった寺社の門前、境内の諸商人、見世物の興行師、近辺の遊里にも及んだ。吉原の遊女たちは、浅草寺の開帳には名入りの提燈を奉納 して宣伝につとめ、観音のご利益のお裾分けを頂戴した。諸商人も際物商いによりそのご利益にあずかろうとした。 明和7年の嵯峨釈尊の出開帳には嵯峨おこしを売り出す者がいて、これが江戸のおこしのはじめとなった。安永4年の京清水観音の出開帳には、回向院門前で音羽屋多古という男が清水餅を売った。開帳には提燈の奉納がつきものだったから、提燈屋もそのつどご利益を得た 、近郊寺社の居開帳の折には、飲食店にまじって、賭場が設けられたからバクチ打ちまでがそのご利益を得た。開帳仮小屋の普請その他で、職人・ 人足も仕事にありつけたし、馬喰町・小伝馬町の宿屋も参詣人で繁昌した。江戸時代の万博みたいなもので、その他、文化面でも、教養・娯楽面で江戸の民衆の文化創造に多大な影響を与えた。
参考資料;「広辞苑」、「大江戸ものしり百科」細田隆善著、「江戸学事典」弘文堂

回向院で出開帳
 

 両国の回向院で平成25年4月27日から、東日本大震災で亡くなった人たちの供養と被災地支援を目的に、長野・善光寺の出開帳(でがいちょう)があり、本尊「一光三尊阿弥陀如来像」を拝観することができます。
 先日行ってきた善光寺(落語「御血脈」)とはチョット趣が違います。大きさも想像していたものより小さく40cm位でしょうか。又、豪華さもイマイチで、遠くから見ているので、その尊厳も伝わってきません。
 善光寺の本尊は絶対秘仏で見ることが出来ません。その為、同型の前立ち本尊がありますが、これも7年に一度の秘仏。ここに有るのは出開帳用の本尊に模したもの。
 江戸時代、善光寺は極楽往生を願う人々にとって念願の場所だった。回向院では江戸時代に4回、その後に2回、善光寺の出開帳が開催され、特に、安永7年(1778)には60日間で1603万人が参詣し、大変なにぎわいをもたらしたことが記録に残っています。今回、73年ぶりで、5月19日まで開催。
 「お戒壇巡り」も、また、参道には、岩手県陸前高田市の杉で作られた「回向柱」も建てられた。回向柱と出開帳仏とは「善の綱」で結ばれ、仏像に触れるのと同じ御利益があるとされています。
 平成25年(2013)4月追記

 

3.雪隠(せっちん)
  便所のこと。かわや。ご不浄。せっちん。WC(円生はそー言っていた)
広辞苑では雪隠の派生語を次のように並べています。結構ありますね。
・雪隠浄瑠璃(せっちんじょうるり);人前では語れないようなへたな浄瑠璃。転じて、まずい芸。落語「寝床」のご主人や、「軒付け」の素人集団がこれに入るのでしょう。
・雪隠大工(せっちんだいく);雪隠の工事などのほかには使いみちがない意で、へたな大工をあざけっていう語。
「大工調べ」の棟梁が大家にバカにされながら言われる台詞で使われた。
・雪隠詰め(せっちんづめ);将棋で王将を、また、十六六指(ジユウロクムサシ)で親石を盤の隅に追いこんで詰めること。 
・雪隠で饅頭;こっそりと自分だけ利益を得ようとするたとえ。
まさにこの落語『雪隠で弁当』でしょう。 また落語「みそ豆」の主人公達の隠れて食べるのは雪隠。
・雪隠の火事;「やけくそ」のしゃれ。
・雪隠詣り(せっちんまいり);生後3日または7日に、赤児をつれて便所の神に詣ること。関東・東北で広く行われていた。
・雪隠虫(せっちんむし);糞壺に生ずるうじ。せんちむし。
・雪隠虫も所贔屓(ところびいき);どんな場所でも住みなれた所はよいと思うのが人情であることのたとえ。
住めば都。
 

4.下肥(しもごえ)
 糞尿は肥料にされて下肥といわれた。リサイクルが進んでいた江戸では、排出される糞尿は周辺の農村で使用する重要な肥料であった。
 ことに近世中期以降になると農村の商品生産が進み、肥料として下肥を使うことがさかんになって江戸の下肥は巨大な需要を持つにいたった。18世紀半ばの延享・寛延のころ、江戸町方の下肥は、これを汲み取るのに、人数100人あたり1ヶ年に金2両、一荷で銭32文、1駄(1荷半)に銭48文の割合で支払っていたと見積られている。
 下肥を大量に出すのは武家方では大名や高級旗本の屋敷であり、町方では大商店や裏店(うらだな)の共同便所であった。長屋の大家はこの収入で、かなり潤った。
 収集した糞尿は江戸近郊の農家で重要な肥料として使われ、金銭や商品の野菜で支払われた。後期には商品として扱われ、農家が手に入れるのに3倍程の料金になった為、幕府に直訴する騒ぎにもなっている。
 機転の利く者は盛り場や街路に便所を設け、有料または無料にて使わせ、それを商品として農村に販売した。

 この噺の爺婆も8文の収入だけではなく、副収入の下肥代でもかなりの収入になったはずです。

 何もしないのに声ばかり大きな人を「菜っぱの肥やし」と言います。それは『掛け声(肥)ばかり』。葉もの菜物の肥料には、この下肥が最高なのです。
 落語にも、世情に暗い殿様が「この菜のおひたしは元気が無くて、不味いがどうしたのだ」と家老に尋ねると、「城中で作らせたもので、掛け肥えをしなかったからでしょう」と答えた。まさか殿様に向かって人糞を掛けた野菜を使う訳にはいかなかった。殿様は「くるしゅうない。この上から『掛け肥え』をかけよ」。

 


 

  舞台の両国回向院を歩く

 

 第38話・落語「しじみ売り」、第39話・落語「猫定」、で歩いた両国回向院です。
 JR両国駅を国技館側で降り、南側に歩くとすぐ京葉道路に突き当たります。突き当たったところが回向院山門入口。右手は隅田川で両国橋が架かっています。江戸時代は火伏地として両国橋の両側は広小路になっていて、緊急時は取り壊せるように、バラック建ての小屋が建ち並び歓楽街の様相を呈していました。夏には花火も上がって、吉原、魚河岸、歌舞伎興行と同じ、一日に千両が落ちたと言われる程賑わったところです。今は普通の国道で橋の両岸は当時の面影はありません。

 回向院山門を入ると、参道の左手に「力塚」、「万霊供養塚」の聖観音、突き当たりに本堂、建物がお寺さんの形をしていないので、「寺務所はあるが本堂がない」と誤解してしまいます。寺務所横のホールで葬儀の準備が進んでいます。身元や身寄りのわからない人々だけの慰霊をしているだけではありません。普通のお寺さんのようにお墓もありますし、檀家さんもあります。本堂の左側には、各種慰霊塔や慰霊碑、動物たちの納骨堂、ネズミ小僧の墓「落語・しじみ売り」や猫塚「落語・猫定」もあります。5年前に来たときよりネズミ小僧が丸くなっています。ネズミ小僧が人間的に丸くなったのではなく、削ってもイイ墓がだいぶ丸くなっています。
 裏門が開いているので、参道を抜けるご近所さんが便利に近道として利用しています。この細かい心遣いがたまりません。

 近くには忠臣蔵「吉良邸跡」(墨田区両国3−13 本所松坂町公園。落語「淀五郎」)、「勝海舟生誕の地」(両国4−25 両国公園)、「大高源吾忠雄句碑」(両国橋東詰め。落語「淀五郎」)、「塩原太助住居跡」(塩原橋袂。落語「塩原多助一代記」)、「芥川龍之介住居跡」(墨田区両国3−22)等が近くに点在します。また相撲のメッカですから、相撲部屋も沢山ありますし、ちゃんこ料理屋さんも沢山あります。
 JR両国駅の北側には相撲協会の「国技館」、その中に「相撲博物館」、その隣にはこの落語の舞台を歩くで何回も訪ねた「江戸東京博物館」(写真
落語「縁切り榎木」)があります。その北側には「旧安田庭園」(落語「縁切り榎木」)の素晴らしい日本庭園が待っています。

 回向院は振り袖火事の焼死者を弔っていますが、江戸東京博物館の北側に都立横網町公園が有りますが、この中心部には関東大震災で亡くなった人達を弔っている都立慰霊堂(旧震災記念堂)があります。ここには誰でも入 って参拝する事が出来ますし、震災の状況が絵や写真で説明されています。また、隣に復興記念館があって、そこにはもっと詳しい資料などが展示されています。回向院にはその様な資料は供養塔位しか我々は見る事が出来ませんが、都立慰霊堂と記念館には多数の資料を見る事が出来ます。

 「都立慰霊堂と記念館」 http://ginjoaruku.web.fc2.com/02-03/03-09/03-09j.htm  「最近思う事」の9月1日に詳しい記事を書いています。また、8月29〜31日に東京大空襲の火災による被害写真を載せています。

 

地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。
拡大図は回向院ホームページマップより

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

回向院・山門墨田区両国 2丁目8−10
京葉道路に面した、「両国二丁目」交差点前です。右側が両国橋。左側が下段の回向院隣、写真。

回向院・力塚
江戸後期になると勧進相撲の定場所が回向院に定められ、明治末期までの七十六年間、いわゆる“回向院相撲”の時代を日本相撲史上に刻したのです。
 

回向院・万霊供養塚
万霊供養塚の上に立つ新しい風をイメージし、平成14年に作られた聖観音。バックの緑に映えた観音が美しい。

回向院・動物供養塔の前に建つ猫
諸動物の納骨堂前に愛嬌を振りまく二匹の猫ちゃん。

回向院本尊
宝永2年1705(1705)に再鋳された銅の阿弥陀如来座像。通称・釜六(釜屋六右衛門)の作で浅草寺の時の鐘も彼の作です。容姿、技法供に優秀で、10ヶ所程に分けて鋳造されていますが、継ぎ目が分からない程精巧に造られています。背面は千体地蔵尊。
像高282cm、蓮台高さ80cmあります。(回向院のしおりより)

回向院・慰霊塔
右側の塔が明暦大火の供養塔。海難事故の供養塔や関東大震災の供養塔などが並びます。

回向院前(隣)
この3棟からなる建物があったところが、旧両国国技館があったところです。ドーム型の当時では斬新な建物でしたが、老朽化が進んで、昭和57年解体され現在のようなマンションに大変身。
明治42年に建設され、再建を繰り返したが、昭和29年に蔵前に移転、昭和60年に現在の両国に戻ってきた。
相撲協会ホームページに細かい情報があります。
http://sumo.goo.ne.jp/ozumo_joho_kyoku/shiru/kiso_chishiki/mame/kokugi.html

両国橋広小路の賑わい
回向院側の東岸より対岸の西岸を見ています。橋上の人の数も凄いですが、川面に浮かぶ舟の数も凄いものです。対岸の小屋は見世物小屋です。
江戸東京博物館ジオラマより

                                                          2007年8月記

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