落語「法事の茶」の舞台を歩く
   

 

 三笑亭夢楽の噺、「法事の茶」(ほうじのちゃ)
 

 幽霊が出てくる絵にはかたわらに柳の木があります。幽霊が陰で、柳が陽木で、陰陽が合体してバランスが取れるのですが、円山応挙が初めて書いたときには柳の木は無かった。始め画家が木ならと言うので、桜を描いたが合わなかった。次に梅を描いたが同じく合わない。では、花の無い松を描いたがやはり合わない。画家が考えていると絵の中から文字が浮かんできた。これは幽霊の教えだろうと読むと「あかよろし」と書いてあった。

 幽霊と言えば圧倒的に女性が多いのですが、男の幽霊もいた。佐倉惣五郎が地元の圧政に苦しみ、幕府に直接嘆願したが捉えられて、佐倉に送り返された。見せしめだと、惣五郎を磔(はりつけ)にし、女房と子供三人も処刑した。その後、幽霊となって現れたという。磔柱を背負って、家族中で出てくるので、狭い所には出られなかった。
 こはだ小平次は役者で、芸もよく男前だったので、一座を作って日本中回った。出羽に来たとき女房恋しさに、近々帰ると手紙を出した。もらった女房が驚いた。間男を作っていたので、別れるのが寂しく情人と相談して、江戸に入る小平次を殺して因幡沼に放り込んだ。幽霊になって出てくるときは生臭い匂いがしたという。そのはず、”こはだ”だから。また、「うらめしい〜」と言って出てくるのも彼が最初だった。寿司の裏は飯だから。他の人に言わないように・・・。

 幽霊はやはり女性が圧倒的で、白い着物に洗い髪、両手は胸元で垂らす。詞も「うらめしや〜」となり、出てくる時間も決まって、丑三つ時です。正午の時報を合図に銀座4丁目に出てくる幽霊がいた、聞くと「夜中は恐いから」、どちらが幽霊だか分かりません。
 また、幽霊と化け物は全く違うもので、人が死んで怨念を持って現れるのを幽霊。狸、狐、唐傘等が化けて出るのを化け物と言った。

 マクラはここまで、本題に入っていきます。

 隠居のところに八つぁんが訪ねてきた。珍しいお茶が手に入ったので来るのを待っていた。インドのお土産で、飲むものではなく見るお茶だという。手順があって、まず、お茶の葉を焙(ほう)じ、温かい内に茶碗の中に入れ、熱い湯を注ぐと、中に面白いものが見えてくる。青いあぶくが消えて覗くと・・・、
 中から梅の木が現れ、紅白の花を付けた。その下で鶯が飛び回って「ホーホケキョ」と鳴いた。まもなく消えて無くなった。無理を承知で、カカアに見せてやりたいと言って一回分を分けてもらった。

 「珍しいものを隠居からもらってきた」、「お金かい」。「お茶の葉だ」、「そんなの家にも有るよ」、「そんなお茶じゃ無いんだ」。そこで、お茶を焙じて茶碗に入れ、上から熱い湯を注いだ。青あぶくが消えて覗くと、木が現れたが柳になった。「柳にツバメというから、木の下を飛んで『ホーホケキョ』と鳴くぞ」、「あーら、いやだ。気持ち悪い」といって奥さんは目を回して倒れてしまった。よく見るとツバメではなく幽霊であった。

 隠居のところに飛んできて文句を言った。「そうか、おかみさんが倒れたか。おかみさんの顔が写ったか」、「そうじゃないんです。その通りにやったら、梅ではなく柳が出てきた」、「いろんな木が出るんだな。柳にツバメ、柳に蛙、どちらが出たか」、「幽霊が出てきて、カカアがぶっ倒れたんだ」、「楽しむものだ、そんな幽霊は出ないのだが、それは男か女か?」、「男の幽霊で、どっかで見たことがある幽霊だと思ったら、3年前に死んだアッシの親父の幽霊だったんだ」、
「解った。それは親父さんの”法事”が足りなかったのだ」。

 


1.幽霊
 
夢楽も、この噺のマクラで言っていますが、広辞苑で調べると、
 ・ 死んだ人の魂。亡魂。
 ・ 死者が成仏し得ないで、この世に姿を現したもの。
 ・ 比喩的に、実際には無いのにあるように見せかけたもの。(幽霊会員)
となっています。言葉の幽霊と社会通念上の幽霊は違うようです。

 幽霊画がこんなにも多くあるのは、縁起物だからです。屋根の上に鬼瓦を置くのは、この家にはこんなにスゴい鬼がいるんだと、新たな鬼(不幸)を招き入れないためです。幽霊画も、もうこんな幽霊がいるんだから、新に来なくてもイイよ、という意思表示なのです。絵がないと新に本物が来てしまうと思ったのでしょう。

右図;柳に幽霊、「幽霊(お菊)」月岡芳年作(1890年)
 幽霊が陰気なのは解ります。柳がどうして陽木なのか、木偏の右側が卯(う)で、方向を表すときは東です。東は太陽が出る方向なので陽。そして柳に雪折れ無しと言って、正月のおせち料理に出される箸はやはり柳です。また、風に吹かれた枝を揺らすところもやはり陽木なのでしょう。
絵をクリックするとお菊さん大きくなります。

■佐倉惣五郎;慶長10年(1605)? - 承応2年8月3日(1653年9月24日)?)は、江戸時代前期における下総国印旛郡公津村(現在の千葉県成田市台方)の名主。姓は木内氏、俗称は宗吾(そうご)。
 下総国で大飢饉が発生したとき、佐倉藩も貧窮状態に陥り、そのしわ寄せは農民に回った。佐倉藩主堀田氏は農民たちに重税を課し、さらに年貢を納められない者を怠納と称して処罰した。
 この状況に、惣五郎は他村の名主たちとも話し合って、代官所への怠納処分の中止を願い出たが、取り下げられ、江戸役人、幕府老中にも訴えたが聞き入れられなかった。御法度である将軍家への直訴を決め、惣五郎は自ら代表となったため、家族に害が及ばないように、妻に離縁状を渡して江戸に出た。上野・寛永寺入り口の三橋付近で四代将軍家綱に直訴に及んだ。
 結果、佐倉領民の願いは聞き届けられ、3年間の課税免除となった。領内の農民たちは、助命嘆願を行ったというが許されず、公津(こうづ)村の刑場で刑は執行された。 惣五郎は磔刑、妻子も死罪となった(妻子は死刑にはならなかったともいう)。
 その後、惣五郎は佐倉藩主堀田正信にたたるようになり、堀田氏は改易となったという。 また刑場跡で惣五郎を祀った所が宗吾霊堂(成田市宗吾)です。
 江戸中期以降、『東山桜荘子』(ひがしやまさくらのそうし)や『地蔵堂通夜物語』などの物語や芝居に取り上げられ、義民として知られ有名になった。
右図;「東山桜荘子」 国立歴史民俗博物館蔵 クリックすると大きくなります。

小幡小平次 (こはだ こへいじ);怪談話の主人公。女房の情人に殺され安積(あさか)の沼に沈められた旅役者。幽霊の役で名をあげた後に殺害され、自分を殺した者のもとへ幽霊となって舞い戻ったという。創作上の人物だが、モデルとなった役者が実在したことが知られている。
 山東京伝作の読本「復讐奇談安積沼(あさかのぬま)」を原拠とする。四世鶴屋南北作「彩入御伽草(いろえいりおとぎぞうし)」、河竹黙阿弥作「怪談木幡小平次」などの歌舞伎に脚色有名になった。
右図;『百物語 こはだ小平二』 葛飾北斎画 クリックすると大きくなります。
自分を殺した男と妻を蚊帳越しに見つめる小平次。

 小幡小平次のモデルは芝居が不振だったことを苦に自殺するが、妻を悲しませたくないあまり友人に頼んでその死を隠してもらっていた。やがて不審に思った妻に懇願されて友人が真実を明かそうとしたところ、怪異が起きたという。
 またこれとは別に、実在した小平次の妻も実は市川家三郎という男と密通しており、やはりこの男の手によって下総国(現・千葉県北部)の印旛沼に沈められて殺されたともいう。

円山応挙(まるやま おうきょ);享保18年5月1日(1733年6月12日)- 寛政7年7月17日(1795年8月31日))は、江戸時代中期の絵師。 近現代の京都画壇にまでその系統が続く「円山派」の祖であり、写生を重視した親しみやすい画風が特色。

右;「おゆき」バークレー美術館蔵

 日本で馴染み深い足のない幽霊は、円山応挙がはじめて描いたとされています。(版画ではそれ以前にもありました。自筆ではこの絵が初めてです)
 彼が、障子越しに病弱であった妻の影姿を見て、足のない幽霊を思い立ったとされています。足の部分は香や蚊遣りをたいていますと、その煙で霞んで見えない事もあります。 幽霊と言うより、愛する病弱な妻を障子越しに鮮烈に瞼に焼き付いた姿を、写生を本領とする応挙が描き上げたものでしょう。
 怖い幽霊ではなく、品のある愛すべき幽霊画「お雪さん」です。
 現在、円山応挙の筆による「幽霊画」と断定されうる作品は、海を渡って、米国カリフォルニア州のカリフォルニア大学バークレー美術館の所蔵(丸山応挙の落款の入った幽霊画)となっているもの。 縦97センチ、横26センチ、江戸の巨匠、円山応挙が描いた幽霊です。
落語「応挙の幽霊」より。
http://ginjo.fc2web.com/126oukyono_yuurei/oukyonoyurei.htm

 

2.お茶
 茶の若葉を採取して製した飲料。若葉を蒸しこれを冷却してさらに焙って製する。若葉採取の時期は、夏も近づく八十八夜の4月頃に始まるが、その順番によって一番茶・二番茶・三番茶の別がある。葉その物を摘んで口に入れても、青臭いだけで茶の旨味は何処にもありません。湯を注いで用いるのを煎茶といい、粉にして湯にまぜて用いるのを抹茶またはひき茶という。
なお、広義には焙じ茶・紅茶・ウーロン茶・マテ茶などの総称。

工芸茶
 紅茶の中には多くの変わり茶があり、ハスの花のお茶や水連花茶など、あらゆる素材からお茶にして飲まれますが、美味いと言うより珍しいもの、珍品なのです。味を楽しむもの、香りを楽しむもの、茶碗の中の形を楽しむものなど、多くの種類があります。

 ・ 右写真;紅茶専門のルピシアより、茶器の中で花開く紅茶です。
 形状はころんと丸く、お湯を注ぐと茶葉が花のように開く、中国の不思議な工芸茶。中には、お茶の中から本物の花が出てくる優雅なものも。1980年代中頃、安徽省(あんきしょう)で誕生。主に外国人観光客向けのおみやげとして話題となり、次第に有名になりました。今日では、中国国内でも結婚式などのお祝いのお茶として飲まれています。
http://www.lupicia.com/column/column.php?kaidt=2010-03-25 

 ・ アンダンテさんのコーナーで、「愛心奉献」と言うお茶は、(写真下)
http://blogs.yahoo.co.jp/andante730/34661171.html 

  

 ・ 花痩美 http://www.hanasouvi.jp/SHOP/HSV8821.html でも沢山の工芸茶を販売しています。

 

 しかし、残念ながら噺の中にあるような、鶯が「ホーホケキョ」と鳴くようなお茶はありません。


3.言葉
あかよろし;花札の梅、松、桜の三枚の札(右図)
は赤短冊になっています。その二つは「あ可よろし」と書かれています。桜は「みよしの」と入っています。どの絵柄にも幽霊は合いません。
陽木と言っても、陽気過ぎるのでしょうか。

 柳と相性がいいのはやはり、蛙とツバメでしょう(左図)。ホントに合うのは柳に雨かも。

丑三つ時(うしみつどき);丑の時を4刻に分ちその第3に当る時。およそ今の午前2時から2時半。「草木も眠る丑三つ時」。一番幽霊の出やすい出勤時間。
 時の数え方;現今は真夜中(午前零時)から真昼(午後零時)までを午前、真昼から真夜中までを午後とし、そのおのおのを12等分(または午前・午後を通して24等分)する。
 昔は、12辰刻が広く行われた。これは夜半を九つ、一刻を終るごとに八つ・七つ・六つ・五つ・四つとし、正午を再び九つとして四つに至る区分です。また民間では、日出・日没を基準に定めて、明六つ・暮六つとし、昼間・夜間をそれぞれ6等分して、四季に応じて適当な分割による時刻をも定めた。
 また、時刻を方位に結びつけ、1日を十二支に配して12等分し(夜半前後一刻を子の刻とする。午前零時から午前2時までを子の刻とする説もある)、一刻の前半・後半を初刻と正刻に分け、さらにまた四分などする区分もあった。この区分は、後に一刻を上・中・下に三分するようになった。

出羽(でわ);東北地方の一国で、明治元年12月(1869)羽前・羽後の二国に分割。今の山形・秋田両県の大部分。羽州。

焙じる;あぶって湿気をとり去る。炒る。「茶を焙ずる」。コーヒーの場合はローストと言って青豆を炒って文字通り焦がしますが、お茶の葉は湿気を取り去る程度ならいいのですが、深く焙じると焙じ茶になってしまいます。
法事、死者の追善供養のため、四十九日まで7日ごとに行う仏事や、年忌に営む仏事。
お茶の焙じ方が少ないと先祖が出てきて、もっと充分に法事をしろと促しています。  




  舞台の柳の街を歩く


 東京(江戸)で有名な柳とその下に居るであろう幽霊を探しに出掛けます。

★ 先ずは、東京の中心地銀座に出掛けます。そのまた中心が「銀座四丁目」です。新宿、渋谷に並んで人の集まる繁華街と言えますが、銀座通りは日曜日歩行者天国になっていますから交差点内はご覧の状態です。

 写真で右下方向が銀座八丁目、八丁目が終わるところに堀が有って新橋が架かっていました。その堀を埋め立てて、ショッピング街が出来上がり、屋上が繋がって高速道路が出来ました。その高速道路の橋をくぐると、左側に「銀座の柳」と、旧新橋の親柱が残されています。ここも夜通し人通りが絶えない所です。

★ 吉原入口に立つ「見返り柳」は、土手通り=山谷堀の土手道から吉原に入る角に有る柳の木。今はガソリンスタンドの前の歩道に寂しそうに立っている。
  『吉原遊郭の名所のひとつで、京都の島原遊郭の門戸の柳を模したという。遊び帰りの客が、後ろ髪を引かれる思いを抱きつつ、この柳の辺りで遊郭を振り返ったということから、”見返り柳”の名があり、
   「きぬぎぬ*の後ろ髪ひく柳かな」
   「見返れば意見か柳顔をうち」
 など、多くの川柳の題材になっている。かっては山谷堀脇の土手にあったが、道路や区画整理に伴い現在地に移され、また、震災・戦災よる焼失などによって、数代にわたり植え替えられた

 (台東区教育委員会の説明板より) *吟醸注、きぬぎぬ;花魁との朝の別れ。
  「もてた奴ばかり見返る柳なり」
 柳の右側にある吉原に入って行く衣紋坂(勾配は現在ない。別名五十間茶屋町)を下ると吉原大門に出ます。
  「不(醜)男も坂でつくろうぬき衣紋」

★ 浅草橋南側の土手伝いに柳の並木があり、その道を「柳原通り」と言います。江戸時代から古着屋が集まって賑わった所です。

「神田岩本町(柳原土手通り)古着市場」 明治東京名所図会 講談社版 
 古着屋とは古着だけではなく、既製品(仕立て下ろし)の着物も並べられていた。現在我々が買い求める洋服は、大部分既製品で、それと同じ感覚だったのです。

★ 「柳橋」は橋の名前ですが、北に接する町名でも有ります。この街は昭和の中頃まで花街として栄えた町で、現在でも芸者さんこそ絶滅しましたが、亀清楼などの老舗が残っています。次回落語「不孝者」で詳しく柳橋を歩きます。

★ 「柳島」は名前に柳が付いていますが、どこにも柳の片鱗は見付けることは出来ません。南北に走る横十間川で江東区と墨田区を隔てている、その最北端部で北十間川にT字型に接しています。その一帯が江戸時代柳島と言われた所で、両川が接する左(西)先端部に位置するのが落語「中村仲蔵」で願を掛けた、妙見さんです。この妙見さんは東京都の震災対策として木造の社殿は許されず他所に移転を言い渡されました。現在地にいるから妙見さんで、他所に移ったらその歴史が無くなります。そこで、移転できないように自ら大きなマンションを建てその1階に納まってしまいました。
 また、北十間川を西に行くと最近オープンしたばかりの東京スカイツリーがそびえています。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

銀座四丁目(中央区銀座四丁目)
 まさかまさか、この時間、この場所に出てくる幽霊なんて・・・、有るとすれば、なんて可愛い幽霊なのでしょう。

  

銀座の柳(銀座の並木)
 東京・銀座の並木道と言えば「柳」と決まっていたのは過去の話です。銀座八丁目の外側(南)に新橋跡の親柱と記念の柳が植えられています。歌謡曲で有名な柳がこれです。

吉原入口の柳(見返り柳)
 柳で一番の有名どころと言えば、この吉原入口の見返り柳でしょう。男達はこの柳を目印に歩いてきたのですから。

柳原の柳並木(浅草橋南西土手)
 浅草橋南詰めから西に向かう道が柳原土手通り。現在の道路プレートには”柳原通り”と入っています。正面の新しい建物が日本橋女学館。江戸の当時は古着屋さんで賑わった所で、土手がありました。

柳橋(神田川の最下流に架かる)
 両国橋の上流で隅田川と合流する所に架かる橋。橋のたもとには柳が植えられています。と言うより、川岸に並木のように植えられています。奥の建物群が花街の柳橋(町)でした。

柳島(墨田区柳島)
 柳が無くても柳島。ここは落語「中村仲蔵」で来た妙見さんの法性寺が有る地です。柳島橋を渡ると左側に妙見さん、正面にはスカイツリーが見えます。昭和の頃は都電が走っていて橋のこちら側で終点・柳島で、須田町行きと月島行きが出ていました。

                                                                  2012年7月記

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