落語「徂徠豆腐」の舞台を歩く
   

 

 三遊亭円窓の噺、「徂徠豆腐」(そらいどうふ)によると。
 

 正月二日、江戸の小商人は早々に商いにやって来た。
 豆腐屋七兵衛さんが芝増上寺門前の貧乏長屋に入ってきた。転げ込むように住んでいた二十五、六の若者。朝から晩まで書物を読んでいるか、筆をとっているかの毎日。
 注文で1丁売った。ガツガツ食べて4文の金が無いから、明日まとめて払うと言う事になった。翌日も同じようにガツガツ食べてツケにした。3日目も同じで、七兵衛さんが聞くと、学者の勉強をして、世の中を良くしたいと言う。それなら出世払いで良いからと、翌日から差入れが始まった。
 味付きのおからがメーンで、あとは日替わりの売れ残り。三日に一度はお握り。女房の心尽くしのおつけ。若い学者は涙を拭きながら食べました。この長屋では「おからの先生」って言われるようになった。
 ある時、七兵衛さん風邪をこじらして寝込んで商いに出られなくなた。
 マクラも上がって、長屋を訪ねたが、もぬけの殻で、行き先も分からなかった。長屋で名前を聞くと「確か、お灸がツライ、とかなんとか言っていたよ」。
 その後何回か足を運んだが戻らなかった。縁がなくなって夫婦の頭から先生の事が消えていった。

 元禄十五年十二月十四日。赤穂浪士の吉良邸への討ち入り。

 翌十五日の夜中。豆腐屋の隣りから火が出まして、あっという間に辺り一帯が全焼しました。

 明けて十六日の朝。まだ焦げ臭いものが立ち込めた無残な増上寺門前。
 大工の政五郎が豆腐屋七兵衛さん宅に火事場見舞いに訪れたが、着のみ着のままで焼け出され、魚濫坂下の薪屋さんに避難しているという。
 薪屋さんで七兵衛さん夫婦に会い、ある人から頼まれて10両の金を持参したので受け取って欲しいと渡した。受け取った七兵衛さん、嬉しいが分からない金に手を付けられないと、薪屋と相談の上、神棚に上げ、困った時に使う事にした。

 元禄十六年二月四日 四十七士の切腹。街では「なんてぇこった。あんな立派な義士たちをさッ」。とか「まったくだ。誰なんだい、そんなこと決めやがったのはッ」との声が大勢を占めた。

 10日後政五郎が訪ねてきた。腰を痛めた七兵衛さん夫婦を大八車に乗せて、芝増上寺門前の焼け跡へ。
 焼けたはずの店が建ってる。棟梁に聞くと七兵衛さんの店だという。そこに現れたのはあの、おから先生で過日のお礼を述べた。「あれから増上寺の了也僧正にもお世話に相成り、五年後、僧正のお口利きでご大老の柳沢美濃守さまのお引き立てをいただきまして、仕官が叶いました。また、なんらご挨拶もせず長屋を出ましたこと、お詫びを申し上げます。訪ねてきた友人たちに『このままでは体がもたない』と連れ出されたも同然で。」と詫びた。それから「火事にあって焼け出されたことを知り、すぐにお見舞いをと思いましたが、ご存知の赤穂の討ち入りがありました。以来、それに掛かり切りになりまして、お顔出しのいとまもありませんでした。この二月四日、赤穂の面々が腹を召し、ようよう動けるようになりまして、やっと、お詫び方々お目にかかることができました」。
 10両も、おから先生が届けたものであった。

 おから先生の本当の名前を聞くと、『お灸がつらい』ではなく、「荻生徂徠」だと言う。おぎゅう…? そらい…?と聞いて、七兵衛さん思い出した。「岩田の隠居が言ってた。『赤穂の義士に切腹をって、言い出した学者が”おぎゅうそらい”だ』って。その学者って、お前さんかいッ?」と訪ねると、その通りだという。
 それだったら使い込んだが10両と、この家はいらないと言う。

 徂徠が言うには、「ご主君を失った家臣一同、仇を討ちたしの一心は当然のことでありましょう。まさに義の一字でしょう。しかし、仇討ちはご法度、徒党を組むことも禁じられております。天下の大法を犯しております。法を曲げるわけには参りません」。ですから「私は法を曲げずに、法に情けを注いだのです」。
 「仇を討ち、本望を遂げたのでしょうが、方々にはもう一つ思いがあったはずです。ご主君のおそばへ馳せ参じることです。それゆえ、わたくしは『赤穂の浪士に追い腹を』と言上したのでございます」 。
 「そんなのは、学者の理屈だよ。」と言う七兵衛さん。

 「いえ、これは武士の本分に通じることなのです。七兵衛さん。武士の差しまする大小二本の刀はなんのためでしょうか」。「人を斬るためだろうが」。「まさに大のほうは人を斬るためでしょう。討ち入りで存分に使われました。では、小の脇差はなんのためでしょう」 。「そんな・・・」。
 「己で己を斬るためです。武士の本分、魂は小の脇差にあると、私は思っております。常日頃から己で己を切る覚悟のない武士はまことの武士ではございません。切腹は武士の誇り、誉れなのです。打ち首や獄門などとは比べようのないものなのです。また、散り際をいかにいさぎよくするか、武士というものはそこに生涯のすべてを懸けていると言っても過言ではないのです」 。

 「切腹については浪士の方々から異議を申し立てる声は一つもございませんでした。二月四日、切腹の様子を検死役の方々が異口同音に申しておりました。『赤穂の方々、皆一様に清々しいお顔で、ご主君のそばに馳せ参じる喜びを現わしておられた』と。本望の叶ったことは間違いないと、私は思っております。 法を曲げずに、情けを注ぎました」。
 「法を曲げずに情けを注いだというのは、七兵衛さん。あなたもなさっています。十年前、私は銭を払うような素振りで、都合、三丁の豆腐を食しました。無銭飲食です。法に触れた行いです。しかし、あなたはそのことには触れず、『出世払いでいい』と情けをくださったではありませんか。あなたは天下の法に許す限りの情けを注いでくださったのです」。「そんなつもりじゃねぇんだよ」と、七兵衛さん。
 「そのおかげで、私はなんとか世に出ることができました。私も、赤穂の浪士に法を曲げずに情けを注いだつもりです。十年前、長屋で七兵衛さんに言われました。『腹を減らしてここで死んではならぬ。どうせ死ぬのなら、世に出て見事に花を咲かせてから死ね』と。十年たった今、私、その言葉を赤穂の面々に言っているような気がしてならないのです。『見事に花を咲かせたのであるから、見事に・・・、見事に散れ!』と」。

 七兵衛さん「焼け出されたときは焼き豆腐になっちまったが、今、先生の話を聞いているうちに、泣き豆腐になっちまった。なぁ、おっかぁ。武士に意地があるんなら、情けもあるはずだ。ご主君のそばへ送ってやるのも情ですね、先生」。「わかっていただけて、私も嬉しいです。ですから、十両もこのお店もお受け取りください」。「ありがとうございます。貰ったり返したりいたしまして。お豆腐だったら、とうに崩れてしまってます」。

 徂徠は、「増上寺の了也僧正に七兵衛さんの話をいたしました。すると『寺でもその豆腐にあやかりたいものじゃ』とおっしゃいました。いかがですかな、増上寺へのお出入りは? 」。
 早速納める事にしたが、名前をいただいて『徂徠豆腐』と付けた。
 「徂徠豆腐を泉岳寺へ持ってって四十七士にもお供えし、四十七士に喜んでもらえれば、こっちの自慢になりますよ。それにしても切腹した赤穂浪士も立派だが、先生もてぇしたもんですね」 。
 「いや、私は豆腐好きのただの学者ですよ」。
 「いや、そんなことはねぇ。この店を見りゃぁわかります。先生はあっしのために自腹を切ってくださった」。


 

お疲れさまです。長い話最後までお付き合いくださり有り難うございます。


 
1.「荻生徂徠( おぎゅう_そらい)」 寛文6年2月16日(1666年3月21日)〜 享保13年1月19日(1728年2月28日)
 江戸時代中期の儒学者・思想家・文献学者。本名は雙松(なべまつ)、字は茂卿(しげのり)で徂徠は号である(「徂來」との説もある)。本姓は物部氏。父は幕府将軍徳川綱吉の侍医荻生景明。弟は徳川吉宗の侍医で明律研究で知られた荻生北渓。
 朱子学に立脚した古典解釈を批判し、古代中国の古典を読む解く方法論としての古文辞学を確立した。また、柳沢吉保や八代将軍徳川吉宗への政治的助言者でもあった。吉宗に提出した政治改革論『政談』には、徂徠の政治思想が具体的に示されている。
 江戸に生まれ、14歳の時上総の本納村(現・茂原市)に移り、25歳で江戸に帰って学問に専念した。元禄9年(1696)31歳で綱吉の側用人の柳沢吉保(やなぎざわよしやす)に仕えたが、宝永6年(1709)44歳の時、吉保の失脚にあい、藩邸を出て日本橋茅場町に住み、私塾を開いた。やがて徂徠派を形成する。享保7年(1722)56歳以後は将軍徳川吉宗に接近して諮問にあずかった。享保13年(1728)に死去、享年63歳。
 墓所は東京都港区三田の長松寺。

 荻生徂徠落語の噺の原典になる話と逸話はここ



2.
芝増上寺門前
 芝増上寺(芝公園4)の東側(芝公園1&2丁目)は増上寺の子院がぎっしりと軒を並べていた所ですが、今は一寺も有りません。そのど真ん中に港区役所が建っているくらいですから。その東側(芝大門1&2丁目)の1丁目(北側)は落語「江島屋騒動」で紹介した芝神明の有るところで、神明前と呼ばれました。 その南側2丁目は片門前町1〜3丁目及び中門前町1〜3丁目がありました。
 その東側は第一京浜国道(旧東海道)でその両側を濱松町と呼ばれました。その先大名屋敷の向こうには東京湾、いえ、江戸の海が望めました。
 話を戻して芝増上寺門前とは片門前町と中門前町を合わせた町を呼称しているのでしょう。又はそこにある表門(現存)をくぐる道(所)を大門(だいもん)と言いましたので、その門前だと言ったのかもしれません。

図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より『豆腐屋』 クリックすると大きくなります。

魚濫坂下( ぎょらんざかした。三田4と高輪1の境目の坂)
 三田と高輪の境にある坂が魚濫坂、北側で桜田通りとの交差点が魚濫坂下です。魚藍坂の中腹に魚藍観音を安置した寺があるために名づけられた。 坂下にあった薪屋さんに豆腐屋さん夫婦が避難していました。

徂徠の墓所
 東京都港区三田4−7の長松寺にあります。 (月の岬の麓に存在)。

月の岬は、伊皿子坂を東海道の方から登っていくと頂に到着します。その峰は北東から南西に連なった尾根になっています。尾根の部分に道が走っていて、岬のような形状から、土手道とは言わず、綺麗に岬と呼ばれた。ここが、かつて東京湾を一望に見渡せる場所であり、特に夜になると海から上る月がまことに美しく月の名所として名高かった。江戸時代、徳川家康により”月の岬”と称された。ただし江戸時代は大名屋敷や寺社が立ち並び庶民が立ち入ることは出来なかった。したがって庶民が遠望を楽しめるのは、伊皿子(いさらご)坂、潮見坂辺りに限られたと考えられます。

 図は歌川広重 安政4年(1857)「月の岬
 地図はクリックすると大きくなります。

伊皿子坂(いさらござか):明国人・伊皿子(いんべいす)が住んでいたと伝えられるが、ほかに大仏(おさらぎ)のなまりともいう。第一京浜国道の泉岳寺交差点から登って伊皿子交差点まで。その先下り坂を魚濫坂と言い、桜田通りの交差点を魚濫坂下という。

 「朝顔に 釣瓶取られて もらい水」 千代
 この有名な句を詠んだ井戸がこの近くにあります。
 元和7年(1621)に麻布狸穴に開創された薬王寺は、寛文元年(1661)に現在の場所(三田4−8−23)に移転して来ました。俳人加賀千代は、諸国歴遊の途中に薬王寺の井戸水が霊水であるとの噂を耳にし、ここへ立ち寄りました。千代はここで、「朝顔に 釣瓶取られて もらい水」(朝起きて外へ出てみると、井戸の釣瓶に朝顔がからみついて咲いているので、それをちぎって水を汲むには忍びないと思い、そのままにして近所からもらい水をした)と詠みました。その井戸は現在も残っています。

 

3.泉岳寺( 港区高輪2−11)
泉岳寺のしおりから赤穂事件の概要
 播州赤穂藩・浅野内匠頭公は勅使饗応役を幕府から命ぜられました。その役目の上司が吉良上野介です。
 浅野内匠頭が接待に関して、吉良上野介に指導を仰いだのですが、種々の嫌がらせを受けたと言われています。
 それは、武士の立場を著しく傷つける理不尽なものであったため、ついに元禄14年(1701年)3月14日、浅野内匠頭は江戸城・松の廊下で刃傷に及んだのです。傷は深手ではありましたが命を奪うことは出来ませんでした。
 これが松の廊下事件と呼ばれるものです。
 当時は「喧嘩両成敗」という御定法があったため、浅野・吉良いずれも処罰を受けると思われていたところ、予想に反して赤穂藩は改易,浅野内匠頭は即日切腹。しかも大名という高い位にもかかわらず、庭先での切腹でした。一方の 吉良はお咎めなしとなったのでした。
 赤穂藩の武士たちがこの処罰に納得するはずはなく、処罰の撤回と藩の再興を嘆願しましたが容れられませんでした。
 そして家老・大石内蔵助を頭とした47人の武士が、2年近く後の元禄15年(1702年)12月14日に吉良邸に討ち入り、 本懐を成就したのです。
 本懐成就した赤穂義士たちは、亡き主君に報告すべく、内匠頭が眠る泉岳寺へ吉良の首級を掲げながら向かったのです。
 義士たちは逃げ隠れすることなく幕府に白分たちの行いを報告し、討ち入りの翌元禄16年(1703年)2月4日に四大名家(細川家・松平家・毛利家・水野家)にて切腹となりました。
 この史実である赤穂事件はのちに演劇化され、「忠臣蔵」として今でも多くの日本人の心をつかんで放さないものとなっています。それはこの中に日本人の重んじる「義」や「忠」という精神が貫かれているからなのです。

 赤穂義士引き上げ行程は、第84話・落語「淀五郎」で詳しく解説しています。
 


  舞台の月の岬を歩く

 高輪から三田にかけて、フランスパンを置いたような地形が”月の岬”と呼ばれた半島のような台地です。第一京浜国道(15号線)を都心から品川方面に下ると、泉岳寺交差点に出ます。右折すると直ぐに突き当たりのようになり、 その突き当たりの奥が泉岳寺です。忠臣蔵四十七士が眠るお寺として有名です。本堂の裏は急な上り坂になっていて、東海大学付属高校に山道(?)は繋がり、月の岬の斜面を登ります。

 元の道に戻ると右に左に曲がりながら、上り坂になります。この曲がりくねった上り坂が伊皿子坂と言い、フランスパンの頂上、月の岬に達すると伊皿子交差点になります。 (フランスパン=月の岬)尾根に沿って左に曲がると、間もなく右手に高松宮邸が現れ、その先を右に曲がります。左側のマンションが切れたところを入ると、右側に落語「井戸の茶碗」で歩いた、細川邸跡が有ります。銘板の説明によると、赤穂義士17名が切腹をした現場だと有ります。左側には「自刀せる義士左の如し」の銘板が有ります。それによると大石内蔵助良雄(45)、吉田忠左衛門兼亮(63)、原惣右衛門元辰(56)、小野寺十内秀和(61)、堀部弥兵衛金丸(77、最高齢)、・・・大石瀬左衛門信清(27,最年少)までの17名が列記されています。
 もどって伊皿子交差点をそのまま直進、尾根道を進むと、フランスパンの右縁に道は下ります。この坂を聖坂と言います。7〜8割下ったところに、左に上る坂が見えます。またフランスパンの上部に登る事になり、 潮の干満が望めたので、この坂を潮見坂と言います。その頂上には普連土(フレンド)学園が建っています。5〜6階建てのスマートな学舎ですが、関係者に聞くと、一番高い屋上からの展望でも、埋め立てられて海は遠くになって、高層ビルが乱立し、東京湾は望めないと言います。

 またまた伊皿子交差点に戻ります。右に曲がって(泉岳寺からは直進)直ぐに道は急な下り坂になります。この坂を魚濫坂と言います。坂の中程右側に真っ赤な山門の浄土宗魚濫寺があるので、こう呼ばれています。月の岬を下りたところが魚濫坂下です。この交差点は桜田通り、国道1号線(第二京浜国道)です。真っ直ぐに行くと落語「小言幸兵衛」の舞台 、古川橋に出ます。
 魚濫坂下交差点を右に曲がり30〜40m先右側に長松寺が有ります。道路際に「史跡 荻生徂徠墓」の石碑が建っていますので直ぐに分かります。急な坂道を一直線に上ると月の岬中腹にある長松寺本堂前に着きます。本堂前を横切り正面右側の墓が荻生徂徠とその家族の墓になります。

 せっかくここまで来たのですから、ちょっと寄り道します。場所的には徂徠のお墓の斜面上辺り、月の岬の斜面に薬王寺があります。ここが有名な加賀の千代女が詠んだ「朝顔に つるべ取られて もらい水」で有名な井戸があります。薬王寺は月の岬の尾根から入ります。 訪問すると井戸のつるべに朝顔が巻き付いています。

 

地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

芝増上寺門前
増上寺前の大門(だいもん)。この奥に芝増上寺が有ります。可哀相に参道を舗装されて、堂々と車が通る道になってしまいました。
この大門の(写真)左側の町並みが片門前町と中門前町で、芝増上寺門前と呼んだのでしょう。豆腐屋さんと徂徠が住んでいました。 別説によると徂徠は近所の芝浦に住んでいたとも言われます。

伊皿子交差点
泉岳寺から伊皿子坂を上がってくると、月の岬頂の交差点です。写真正面パトカーの先が魚濫坂、後ろが伊皿子坂、左が細川邸跡、右が聖坂から潮見坂です。

魚濫寺港区三田4−8)
魚濫坂の中腹にある、名前の元になった魚濫寺山門。赤い山門をくぐると、山門に似合わない木造の古い形態の本堂が現れます。ここら辺一帯はお寺さんの密集地です。

魚濫坂下
薪屋さんに避難した豆腐屋さんが居た坂下です。写真正面が魚濫坂、交差するのが桜田通り(第二京浜国道)、右に行けば五反田から横浜、左に行けば三田の慶応大学、芝の東京タワー、芝増上寺です。

長松寺港区三田4−7徂徠墓
上記魚濫坂下から数十メートルの所にある長松寺に墓があります。
「徂徠物先生乃墓」と刻まれた墓が、家族の墓に囲まれて建っています。
 

薬王寺(港区三田4−8−23)
「朝顔に つるべ取られて もらい水」 加賀千代女
 薬王寺の井戸で加賀千代女はこの句を詠みました。その井戸は現在も残っていますので、寄り道しました。 ポンプで汲み上げられ、冷たかった井戸水です。

潮見坂
月の岬の北東端にある坂。坂上から芝浦の浜が見渡せて、潮の干満を知る事ができたのでこの名が付いた。それ程の名勝地であった。
この坂の頂きに今、普連土学園が有ります。

泉岳寺(港区高輪2−11)
忠臣蔵四十七士を祀ってあるので有名なお寺さんです。芝増上寺から約2kmそれ程遠い距離ではありません。

「東京都指定旧跡」細川邸跡
門柱の右側には「赤穂義士史蹟碑」が埋め込まれ、それによると、ここは赤穂義士17名が切腹をした現場だと有ります。左側には「自刀せる義士左の如し」の銘板が有ります。それによると大石内蔵助良雄(45)、吉田忠左衛門兼亮(63)、原惣右衛門元辰(56)、小野寺十内秀和(61)、堀部弥兵衛金丸(77、最高齢)、・・・大石瀬左衛門信清(27,最年少)までの17名が列記されています。
写真左の説明版拡大;「大石良雄他16名忠烈の跡

                                                       2006年10月記

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