落語「へっつい幽霊」の舞台を歩く
三代目桂三木助の噺、「へっつい幽霊」(へっついゆうれい)によると。
長屋のへっつい。一口タイプで足元には台が付いている。9尺2間の長屋の土間に置かれたへっつい。
左から長屋の二口タイプ。中;贅沢な銅作り。右;名主屋敷の大所帯用の3連タイプ。写真上、左、中は深川江戸資料館にて、右は江戸川区名主屋敷にて。 写真をクリックすると大きくなります。
■へっつい横丁;(台東区雷門1丁目10と11、14と15の間の道)
■へっつい河岸;(中央区日本橋人形町2−24) ■本町の店;若旦那の親御さんの店があるところ。三木助は場所を明示していませんが、円生さんは大店が多い本町と言っています。三木助は奉公人が14、5人いる立派な店だった。親御さんに話をすると勘当しているのに300円、札で出してくれた。金貨でなくてはいけないというと30枚、金庫から出してくれたという大店です。
2.長屋
表通りの店の奥には長屋が連なっています。(江戸東京博物館)
長屋入口風景。(浮世床) ■どぶ板;下水の溝に当てるフタ。普通、路地の中央にU字溝があり、それに被せる木製のフタ。 ■掃きだめ;ごみため。ゴミを捨てる為の集積箱。トイレに井戸に掃きだめは長屋に一ヶ所、共用です。 右;井戸端と路地にはどぶ板が見えます。深川江戸資料館
3.幽霊
幽霊とお化けには違いがあると落語家は言います。
■八つ;今の午前2時頃。幽霊の出る時刻。草木も眠る丑三つ刻、家の棟も三寸下がる、水の流れもピタリと止まる刻限。
4.サイコロ賭博 ■丁半博打;2個の賽子を振って出た目の合計が”丁”(偶数)か”半”(奇数)かを当てるもの。この噺では五六の半だと言います。お分かりでしょうが、五と六を足して十一で奇数ですから”半”、幽霊もガッカリするのが目に見えます。足さなくても一見で分かります。それは、偶数同士、奇数同士だと”丁”、どちらかが奇数だと”半”です。
その「猫定」より。私はやったことがないので、三田村鳶魚(えんぎょ)著「江戸生活事典」から引用すると、
八王子の六斎市での賭場の風景。野天博打である。三間盆といって、畳を三間(三枚長く)つなぎ、二枚ずつ合わせてカスガイを打ったものの正面に賽と壺皿(壺)を持った者が立て膝をしている。張る人は両側にいるので、畳の境目ところに子分の目の利いた者が一人ずつ検分している。壺皿は目籠の底を深くした様なもので、紙で張って渋が引いてある。賽は1寸(3.3cm)角もある、鹿の角製の大きなもので、これを二つ打ち込んで壺皿をポンと伏せる。丁方、半方は(置く場所が)決まっているので、丁の人は彼方、半の人は此方に分かれる。丁方も半方も札や銀貨をどんどん張るが、丁方に張ったのが100両有れば、半方に張ったのも100両でなくてはいけない。それを金へ手をつけないで勘定して、両方が合わなければ、何とかして同じようにする。大勢いるので、造作なく平均することができる。 ”思うツボ”はサイコロ賭博 ■桂三木助は若い時、芸もすさんで博打にのめり込み、当代一流(?)の博打打ちで”ハヤブサの七”と呼ばれ、17年この生活が続いた。落語会の楽屋で、円生がこの噺を終えて戻ったら、そのサイの振り方は違うと言い放ったが、そこまで言うかと円生は思ったという。それを救ったのは25歳年下の仲子への実直な愛で、本物の落語家になったらその時一緒にさせるとの家族の言葉で、「芝浜」でプッツリ酒を止めた勝っつぁんとダブり、精進して名人になった。
5.言葉 ■渡世人;(無職渡世の人の意)
博打(バクチ)打ち。やくざ。広辞苑
■300円(両);三木助は明治の初めで時代設定していますから、円と両がごっちゃになって噺の中に出てきます。要約では円で統一してあります。貨幣価値としては3〜5万円位になるでしょうか。だとすると現在では900万〜1500万円。若旦那の家は紙幣または金貨で即座に出せる大店なのです。
■左官;(江戸訛りでしゃかん)(宮中の修理に、仮に木工寮の属(サカン)として出入りさせたからいう)
壁を塗る職人。かべぬり。壁大工。泥工(デイコウ)。広辞苑
浅草は雷門。浅草寺への入口で、本堂と並んで観光スポットです。その為多くの参拝者がここで記念撮影をしています。その前の道が”浅草広小路”で江戸時代から賑やかさではトップクラスの繁華街です。
あらら、横道にそれてしまいました。先ほどの雷門前に戻ります。
右写真;雷門前から望む東方向。
通りの左(南)側を歩きます。歩き始めて突き当たり交差点との中程に”久保田万太郎”の句碑が現れます。それが、へっつい横丁の入口です。入っても、「だからなんなのよ」と言われても、返す言葉がありません。そこには江戸の状況が残っているはずもなく、しいて言えば料亭の一松が木造の家屋敷を残す店構えで盛業していますが、それとても江戸の時代から遠く及ばない世界です。”へっつい”自体が時代の彼方の言葉ですから、そこから追求しても解答が出るはずもありません。時代は遠くなりにけりです。
田原町はこれ以外にも、落語「蛙の遊び」で淺草紙の発生の地と言われた場所”紙漉町”は、ここの奥にある田原小学校、田原公園付近にあったと言われています。その解説板は駒形橋通りに出た田原小学校の門に掲示されています。
本町は落語「帯久」、「雪とん」の舞台です。そちらをご覧下さい。今でも大店の多い所です。 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。
へっつい横丁入口(台東区雷門1丁目10と11、14と15の間の道)
へっつい横丁内(台東区雷門1丁目10と11、14と15の間の道)
久保田万太郎碑
(台東区雷門一丁目15)
日本橋本町(中央区日本橋本町一丁目)
日本橋本町(中央区日本橋本町四丁目)
へっつい河岸
(中央区日本橋人形町2−24) 2010年3月記 |
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