落語「反対俥」の舞台を歩く
桂文治の噺、「反対俥」(はんたいぐるま)によると。
今は無くなってしまった人力車だが、その当時の話です。
今川(いまがわ)橋で客待ちの居眠りをしている車夫に声をかけた。「万世橋から上野までやってくれ」の注文で、とろりとろりと走り始めた。と思ったが、かじ棒が上がりすぎ車夫は空中で足をばたつかせ、走り初めても提灯が借り物だからと、丁寧にゆっくりと走らせて(歩いて)いる。若い車夫に抜かれると「若い者に花を持たせやしょう」と動じない。今度は年取った車夫に抜かれて「年寄りにも花を持たせましょう」。心臓が悪いので、走ると死んじゃうかも知れません。その時は身寄りがないので、お弔いをお願いします。
急いでいるので降ろしてもらった。
「そこにいる若いの、早そうだな」。俺は早いよ、と言うなりかけだした。まだ乗っていないのに・・・。角を曲がって戻ってきた「道理で軽かった」。乗るから「万世を渡って北へ真っ直(つ)ぐやってくれ」、アラよっ、アラよっと走り始めた。風を切って走った。土管を飛び越え、しゃべる車夫の唾が風に飛ばされ客に飛んだ。土手に突き当たり俥はやっと止まったが、そこは埼玉県川口と書いてあった。「『北に』と言われたのでここまで来たが、上野なら戻ります」。
またアラよっ、アラよっと走り始めた。「こないだは急行列車を追い抜いた」。今は汗が目に入って前が見えない。「止めてくれ」、「勢いが付いているので止まらない。トラックが来たら避けてください」。「お客さん、保険に入っていますか」、「そんなのには入っていないヨ」。「奥さんはいますか」、「二十八だよ」。「二十八で後家さんにしては可哀相。奥さんだけでも私が引き取りましょう」、「冗談言っちゃいけねェ〜」。
桂文治師匠は2月31日午後5時17分、白血病による腎不全のため亡くなりました。80歳でした。99年から落語芸術協会会長を務め、1月下旬に体調を崩して入院。亡くなった31日が任期満了の日で、翌日2月1日から桂歌丸さんが会長に就任することになっていた。81年10月三越落語会に出演、芸術祭最優秀賞受賞。96年3月に芸術選奨文部大臣賞、2002年に勲四等旭日小綬章を受けた。
文治師匠のご冥福を祈り、ここに彼の噺を題材に舞台を歩きます。
1.反対俥
『愛蔵版 爆笑!! 円鏡メモリアル』(ビクター)、円鏡(現円蔵)自身の演目解説によると、ものすごく体力を使う噺で、「疲れた時演(や)ります。疲れた時ダラダラした噺を演ってるとダメです。疲れた時は、疲れる噺をすると、手を抜くわけにいかないですからガンガン演っていきます。」と。
「明治から大正の初期にかけて、大変にこの人力車ッてな流行(はや)りましてねェ。
赤いゲットゥにくるまって居眠りしてるからそそかっしいやつァね、はがきィほうり込んだりなんかしてねェ。」と、噺に入っていくんですが、「あれは伸治兄さん(故桂文治)が演っていたんです。三平さんも演っていた。でもあれは古い、もう。だからわざと時代をつけるために言う場合もあるんです。もう赤ゲットなんて言葉はね。そうかといって、毛布にくるまって…というとダメなわけなんで、でも『赤ゲットと郵便ポストと間違えて』といっても、まあ100人中5人ぐらいしか知らないんじゃないかな。うけないんじゃないかな。でもまあ、ちょっと時代をね。ああそう、明治時代なのかな?とかね。」とも。
落語反対俥は大阪では「いらち俥(くるま)」と言われ、大阪から東京に移された噺です。演者によってギャグがいろいろあって、それぞれが面白く、聞くより見る落語かも知れません。
赤ゲット:ケットはブランケット(毛布)の略。人力俥のお客のための膝掛け赤毛布。明治時代、赤い毛布を外套がわりにはおって都会見物に来たことから田舎者のことや
、慣れない洋行者をも指すようになった。
2.人力俥
人をのせ、車夫がひいて走る一人乗もしくは二人乗の二輪車。明治2年(1869)和泉要助・高山幸助・鈴木徳次郎らが発明し、翌年東京府下で開業したのに始まる。大正後期より衰退。腕車(ワンシヤ)。俥(クルマ)。人車(ジンシヤ・クルマ)。力車。(広辞苑)
人力車が発明され、こいつは便利だというのでたちまち全国に流行して、明治4年には東京で4万台にも急増。
「人」という字と「車」という字を合わせて「俥」(じんりきしゃ、くるま)なんて字が出来たほどです。
明治8年には新橋駅の前だけで270台からの俥があり、これでも足りないというのでまた70台ばかり増やす事になりました。
明冶13年になると、一人乗りが10万5千台、二人乗りが5万1千台、合わせて15万6千台以上が、鑑札を取って営業し、町中を流していた。何処でも俥は拾えた。
そんな車夫の服装はというと、紺の股引きにわらじばき、上は半纏を着て帯でキュッと結んでいる。頭はまんじゅう傘というのをかぶって、首には豆絞りか何かの手拭を結んでいた。みんな威勢が良くて早そうに見えた。
今は芸者さんが料亭に出勤するのにわずかながら残ったのと、観光目的に観光地で活躍するものが、残って活躍しています。
浅草・浅草寺で観光人力俥を経営する「えびす屋」 http://www.ebisuya.com/ のホームページも頑張っています。
また、「時代屋」さんも頑張っています。 http://www.asakusa-e.com/jidaiya/jidaiya.htm
3.道順
演者によって乗る場所も上野を通り越して行き着く所もまちまちですが、万世橋を渡って上野駅まで行くのは同じです。
今川橋(神田)−→須田町−→万世橋−→上野駅−→気が付いたところ・・・川口
この街道は日光街道と江戸時代から言われ、地元では上野までを中央通り、上野からは昭和通りと名を変えます。その先、真っ直ぐ行くと埼玉県草加市に行き着きます。文治師匠は埼玉県川口に着いたと行っていますので、上野の先で左に曲がり、 明治通りで王子、北本通りで赤羽を抜けて荒川の土手に突き当たったのでしょう。土手はまだ東京ですから、そこに川口の看板はある訳はなく、噺のあやで、聞く者を納得させてしまいます。
もう一つの疑問ですが、乗る所は神田駅前です。目的地は上野駅です。演者によっては「上野発の列車に乗りたいので、急いでくれ」と言っています。だったら神田駅から当時の省線(電車)に乗って、三つ目の駅が上野ですから、その方が確実で、安く、安全に行けたでしょうに。というのは今の考えで、明治の頃はまだ山手線が繋がっていませんでした。上野駅は明治16年(1883)7月営業開始していますが、神田駅が大正8年(1919)、御徒町、秋葉原駅が開業したのが大正14年(1925)11月です。この年初めて山の手線は環状線になったのです。やはり人力俥で行くより方法はなかったようです。
写真は明治45年(1912)落成の初代・万世橋駅。お茶の水駅と神田駅間にあったが、今は廃駅になり交通博物館になっています。
写真;万世橋駅模型。鉄道博物館所蔵。写真をクリックすると大きくなります。
今川橋〜上野駅間は距離にして約2.5kmです。マラソンランナーでしたら10分弱で駆け抜けてしまうし、タクシーで千円ぐらいの距離です。今の東京、自動車でもこのぐらいの時間は掛かってしま
います。て言う事はちっとも進歩していないのでしょうか。
演者によって行き過ぎて戻ってきたら、そこは大森だったというのもあります。大森は上野、東京、品川、を通り越して二つ目の駅です。もうひと駅過ぎると、東京の南の県境である多摩川の土手に突き当たる事になります。おお!なんて早い俥なんでしょう。
戻ったところが板門店だったなどもあり、北はカムチャッカまで行った車夫もいます。
舞台の今川橋から上野駅まで歩く
中央通りを北上する旅(? 散歩コース)になります。南に行けば道路起点の日本橋に行き着きます。今川橋
交差点の西側はJR神田駅があります。今川焼きの発祥の地で、江戸神田今川橋あたりで作られ始めたとこから今川焼きとなったようです。
ここから出発し、直ぐに神田駅を左に見ながら山手線のガードをくぐります。この辺は金券ショップが多く、高速道路券や新幹線の切符が安く買えます。その先靖国通りとの交差点が須田町です。この近辺には元神田青果市場が有って、震災で全滅したが復興し東洋一となったが、昭和3年12月1日に閉鎖、秋葉原北側に移転した地です。今はその名残は有りませんが、落語「千両みかん」の舞台でもあります。
中央線のガードの手前左側には交通博物館があります。目の前の橋が神田川に架かる万世橋です。この橋の上から見ると電気屋さんの看板がものすごく林立しています。それもその筈、日本一の電気街です。平日でも凄い人出ですが、よく見るとオタクばかりの男の町で色気はありません。
電気街の中心地秋葉原の駅を右に見て、電気街から抜けて間もなく右手に松坂屋デパート。その奥にJR御徒町駅が有ります。線路づたいに進めば「アメ横」と言われる、商店街が続きます。元の道に戻って上野広小路から正面に見える丘が上野公園です。落語「ねぎまの殿様」で歩いた
上野広小路です。道は右に曲がってガードをくぐりますが、その左手が上野駅です。「♪上野発夜行列車おりたときから・・・」ではじまる「津軽海峡冬景色」の北の玄関。落語「恋の山手線」の始発駅です。駅前広場の先に高速道路とその下の昭和通りが見えます。
ここから川口やカムチャッカまで一走りしたのでしょう。
| 地図 |
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| 写真 |
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2004年3月記
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