落語「四つ目屋」の舞台を歩く

  
 

 五代目古今亭志ん生の噺、艶笑落語「四つ目屋」によると。
 

 こんばんの演題は私に任せていただいて、普段は滅多にやらない噺をさせていただきます。

 年頃になるとお嬢さん達は武家奉公に出なくてはならなかった。武家の奥では男子禁制であったから、十七、八の娘さん達も女盛りになってくると・・・。それを当て込んで、両国の四つ目屋が男子そっくりのモノを売っていた。またそれをご婦人方が買いに行った。売り方も難しく最初は小さいモノから見せていった。
 「もうすこし大きいモノを・・・」といって買っていった。
禁煙する為にハッカパイプを吸うように、代用のモノで自分を我慢させていた。

 どんな良家のお嬢さんでも同じで、あるとき、体の具合が悪くなったので家に帰り、医者に診せると「御妊娠です」と診断された。驚いたのは両親で、特に母親は「お屋敷に行ったのは、行儀見習いに行ったのに、どうしてこうなったのですか。何処の誰ですか。」と、問いつめた。畳に”の”の字書きながら、「そんな事は・・・、相手はいません。」と言い張った。娘の手文庫を調べると、張り型が出てきた。「おまえ、これで赤ちゃんが出来るかね」と、ヒョイと裏を返したら『左甚五郎作』としてあった。

 


1.四つ目屋
 
「幾代餅」という餅菓子屋は、江戸も天保年間までは、両国(現在の東日本橋)に実在し、大いに流行った。
 四つ目屋というのは、江戸で知られた媚薬・秘具の専門店で、米沢町二丁目(薬研堀)にあった。

  「長命丸元祖明応年中にはじめて長崎へわたり寛永年中御当地にて売りはじむと両国米沢町四つ目屋が看板に見えたり。」太田南畝(=蜀山人)。とか、源内は、化粧品の五十嵐兵庫、淡雪豆腐の日野屋東次郎、幾世餅の小松屋喜兵衛、それに長命丸という外用媚薬を売っていた四つ目屋。この四つ目屋は今風にいえば、子供の 目に毒なアダルトショップ・大人のおもちゃ。だから源内は、「長命丸の看板に、親子連(づれ)は袖を掩(おお)ひ」と記している。
 アダルトグッズのことを「四つ目屋道具」と隠語で呼んでいたそうですから、その人気ぶりがうかがえます。 しかし、「四つ目屋は得意の顔を知らぬ也」の川柳もあり、店内は買いやすいように薄暗かったようです。また、暗くなってから出掛けたようです。

 このころはすでに行商人が(魂胆遣曲道具(こんたんやりくりどうぐ))、と称して商品の一部として売り歩いており、庶民の間に浸透していた様子が、浮世絵にも描かれています。
  ここに日本の性文化がいかに解放されたものであったかをうかがい知ることができます、張形(はりがた)を売り歩いていたのが、行商人特に小間物屋ですから、当然お客様は女性なのです、女性が自分の意思で、張形を購入し、楽しんでいたのです。「武家の奥女中や町人では後家さんなどが使用していたと」としていますが、もっとおおらかに、利用されていたよう です。

http://hda.dip.jp/goooto/edo.htm より 一部参考にしています。

 「日本一元祖 女小間物細工所 鼈甲水牛蘭法妙薬 江戸両国薬研堀四ツ目屋忠兵衛 諸国御文通ニ而(て)御注文之節は箱入封付ニいたし差上可申候」(江戸買物独案内)とあり、 通信販売でも全国に販売していた様です。また、江戸買物独案内に四つ目屋は薬の項にはなく、小間物の項にあったので、薬より道具の方が本業のようであった。
(右の浮世絵は四ツ目屋店内の風景<春情妓談水揚帳>)

 左;四ツ目屋店頭。「近世庶民文化」第34号より
 右;御殿女中が店頭で品選びをしている図。「江戸の盛り場」より 2012.7追記

長命丸;女悦丸と並んで、四つ目屋の代表的な商品の一つで、明応(1500)の頃作られたとも言われます。効能は「射精が遅れ、水を飲むと途端にイク」というものです。ある時、田舎のお婆さんが長生きの薬と間違えて長命丸を買う。「たんと飲んだら長生きしますかいね」。長命丸を飲んだ婆さんしゃきばって苦しむ。水を飲ませるとたちまち治った。という笑い話もあります。もっと凄い話は、この文章が明治になって、どうゆう訳か女学校の国語の教科書に載って大問題になった事です。
 「長命丸は日が暮れてから買う」
「江戸学事典」弘文堂より

媚薬・秘具については、インターネットで検索してください。私からはご説明致しかねます。あしからず。

恋病み
 恋は女子(おなご)の癪(しゃく)の種、娘盛りの物思い寝、只ではないと見てとる乳母、しめやかに問ふは、「お前の癪も私が推量、違ひはあるまい。誰さんじゃ。言ひなされ。隣の繁様か」、「いいや」、「そんなら向かいの文鳥様か、「いいや」、「して又、誰でござりますへ」。娘、まじめになりて、「誰でもよい」。
「道づれ噺」より”恋病み” 安永4年(1775)刊 鳥居清経画

鹿の子餅(明和9年刊・1772) 「恋病」 木室卯雲著にも同じ話が載っています。こちらの方が早くに発表されているようです。

 志ん生がマクラでこの話を振っていますが、その話の原話です。
2012.10.追記


2.両国広小路

 
 上図;北斎「両国 納涼・一の橋弁天」
 「両国橋西詰め」、からの情景です。絵の手前が両国広小路で、屋台や小屋掛けの店が建ち並び江戸の5本指に入る繁華街でした。
 ここに落語「幾代餅」(第27話「紺屋高尾」の中にあります)の幾代餅屋さんが有ったし、裏通りの薬研堀には「四つ目屋」が有ったのです。
 両国広小路は隅田川の東詰め「墨田区両国」と、西詰めの「中央区東日本橋」があった。東側を両国東広小路、西側を両国西広小路と言ったが、通常両国広小路と言ったら両国西広小路の事を指して言った。
北斎の両国広小路もここで、手前の賑わっているところがそうです。

 暦の大火後の万治2年(1659)に架設された両国橋は、江戸と江東を結ぶ唯一の橋として、一躍諸人の集まるところとなり、見世物小屋が軒を並べ、青物市が立つまでになりました。俗に、両国橋一日三千両の繁栄は、朝の青物市で千両、昼の広小路の見世物で千両、夜は隅田川の納涼の賑わいで千両の上がりがあったといわれていました。(中央区観光協会)


3.薬研堀(やげんぼり)

 薬研の形、すなわちV字形になった底の狭い堀。 両国広小路に平行して南側(東日本橋)にあり、左に”L字”に折れて、「元柳橋をくぐって」隅田川に接していた堀割。南側の平行した部分は文政(1828)の頃にはみられたが安政(1854)の頃には埋め立てられて無くなったが、元柳橋が架かった部分は後まで残った。 元柳橋は北斎の浮世絵の題材にもなっている。薬研堀には不動堂があり、また付近は芸者、中上流の医師が多く居住した。
 現在、薬研堀は参道に名前を残すのみで、全て埋め立てられて元柳橋共々その痕跡すら有りません。

■薬研(やげん);主として漢方の薬種を細粉にする、金属製または硬木製の器具。形は舟形で中が深く窪む。これに薬種を入れ、軸のついた円板状の車輪様のものをきしらせて薬種を押し砕く。くすりおろし。日葡辞書「ヤゲン。クスリクダキ」 (広辞苑)

 薬研は主に薬種を粉末にすり潰して薬にする道具。時代劇などで医者が円盤状のものを前後にゴリゴリやっているのを見かけるのが薬研です。この薬研は大きく2つのパーツで構成され、舟形で断面が三角形をした受け部と円盤状で端部を尖らせてある転輪からできています。鉄製が多く他に石製、陶製のものもあります。


4.左甚五郎
 医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されている ので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20〜30年間と言うことになります。
 いっぽう、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎 伏見人 寛永十一甲戌年四月廿八日卒 四一才 」とあり、寛永11年(1634)に41才で亡くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
 また、四国には左甚五郎の子孫を名乗られる方が居り、墓も存在します。
広辞苑によると、江戸初期の建築彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」などを彫り、多くの逸話で知られるが、伝説的人物と考えられる。一説に播磨生れ、高松で没した宮大工、伊丹利勝(1594〜1651)を指す。

左甚五郎作とされている。 活躍した年代が様々であるように、出身地も、根来(和歌山県)、伏見(京都府)、明石(兵庫県)と、史料により様々です。 また、関東には来なかったとの記録が多いが、日光をはじめ上野東照宮の「昇り龍・降り龍」など、甚五郎作とされる作品は多い。 写真;日光東照宮「眠り猫」

 落語に登場する左甚五郎は、一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く「竹の水仙」は有名だが、これは、宿賃もなしに豪遊してしまう、だらしない大酒呑み甚五郎が、宿賃の代わりに彫ったものである。 また、「ねずみ」、「三井の大黒」にも登場しこの噺のマクラで、飛騨高山の人と言っています。
 政談ものでも名奉行はみな大岡裁きと決まっているように、名彫刻はみな名人・左甚五郎作となってしまったのでしょう。張り型までこしらえたのですから、スゴイ!
 


  舞台の薬研堀を歩く

  明暦の大火(1657)は江戸の市街の大半を焼失し、10万余の死者を出した。その時このあたりで逃げ場を失って焼死する者が多数出た。この為対岸への避難の便を図り両国橋が架けられた。隅田川は当時武蔵と下総の両国の境界をなしていた。また延焼防止のため橋に向かう沿道一帯を火除け地指定し空き地とした。やがてこれが広小路となり、江戸三大広小路の一つとなり、上野、浅草に並び称せられる盛り場に発展した。明治維新の頃、ここには新柳町、元柳町、横山町、吉川町、米沢町、薬研堀町、若松町があったが、昭和7年合併して日本橋両国になり、現在の東日本橋になった。両国広小路の碑文より。

 今の両国広小路も広い道ですが、当時の道幅を見ると2〜3倍の広さを持つ広場だったようです。ここに仮小屋を建てて見せ物、屋台、茶店等、多くの店が並び歓楽地として栄えました。夏の花火の時期には、吉原と同じお金が一晩に一千両落とされたという。

 この両国広小路の南側に「薬研堀不動院参道」があり、その入り口の看板が見えます。入っていくと右側に見落としてしまいそうなお寺さん「日本山妙法寺」があります。その先の左右が旧名米沢町二丁目で、ここに「四つ目屋」さんが有ったのでしょう。その先左右に延びた所が薬研堀を埋め立てた、薬研堀町です。
 その先、6つ又交差点を左に曲がると「薬研堀不動院」が有り、川崎大師(川崎市川崎区大師町4−48)の別院です。当時の地図を見ると薬研堀の脇に建っていました。”納めの歳の市”が有るのでも有名です。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

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四つ目屋(中央区米沢町二丁目。現東日本橋2−13辺り)引き札
引き札とは、商品の広告、開店・売出しの披露などを書いて配るふだ、ちらし、ビラ、のことです。長命丸五十六文の名前が見えます。

薬研堀・米沢町(中央区米沢町二丁目。現東日本橋2−13辺り)
両国橋西詰め南側、一歩入った裏通りがここです。ここら辺りに「四つ目屋」さんが有ったのでしょう。

  

薬研堀不動院(中央区東日本橋2−6)
 略縁起;大本山川崎大師・平間寺(へいけんじ)東京別院「薬研堀不動院」の御本尊・不動明王の尊体は、遠く崇徳天皇の代、保延3年(1137)に、真言宗中興の祖と仰がれる興教大師覚鑁上人が、43歳の砌厄年を無事にすまされた御礼として一刀三礼敬刻され、紀州根来寺に安置されたものであります。
 その後、天正13年(1585)、豊臣秀吉勢の兵火に遭いましたが、根来寺の大印僧都はその尊像を守護して葛篭に納め、それを背負ってはるばる東国に下りました。そして、やがて隅田川のほとりに有縁の霊地をさだめ、そこに堂宇を建立しました。これが現在の薬研堀不動院のはじまりであります。
 また、薬研堀不動院は、順天堂の始祖と仰がれている佐藤泰然が、天保9年(1838)に和蘭医学塾を開講したところでもあります。(不動院縁起より)

両国広小路
左側に広小路の碑が建ち、右前方に両国橋が見えます。薬研堀は写真右の外側に有ります。

  

両国広小路碑
両国橋西詰めに建っている碑です。
江戸期の木製両国橋は今の橋より南側に架かっていました(地図参照)。その為、広小路は道と言うより火伏せの為の大きな広場だったのです。その広場に、何かの時にはすぐ取り壊されてしまうのを条件に、仮小屋が建ち、歓楽街に変身していったのです。

両国橋
隅田川下流から上流の浅草方向を見ています。写真の右側が墨田区両国、左側が中央区東日本橋、ここに薬研堀があり、両国広小路がありました。

                                                             2004年11月記

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