落語「ねずみ」の舞台を歩く
   

 

 三代目桂三木助の噺、「ねずみ」によると
 

 大工さんと言えば職人さんの中の司(つかさ)だと言います。その中でも日本一と言われた、飛騨高山出身の甚五郎利勝が居た。名人と言われた甚五郎は京都の御所で竹の水仙を彫り、”左”姓を受けその足で江戸に下った。日本橋の橘町、大工政五郎の家に10年間居候をした。その間に日光東照宮の”眠り猫”や”三井の大黒”、”寛永寺鐘楼に龍”を彫った。政五郎は早死にして息子に名を譲ったが、その後見を甚五郎はした。

 一人甚五郎は江戸を発って奥州に向かった。仙台に着いて宿場のハズレで子供の客引きに会い、虎屋の前にある小さく汚い「ねずみ屋」に落ち着く事になった。布団代だと言われ、前金を取られ、食事代だからと前金で寿司を取り、酒代も前金で買いに走る子供であった。宿では親父が居たが腰が抜けて動けないので、足は裏の川ですすいだ。十二になる息子・卯之吉(うのきち)はハタ目にも良く働く出来た子供だった。
 「どんな小さい宿でも女中さんを置けば良いのではないか」とアドバイスをすると、そのお気持ちに答えて親父の愚痴を聞いてくれと話し始めた。

 「私は元来、前の虎屋の主(あるじ)でした。5年前女房を亡くし、宿の事が良く分かる女中頭の”お紺”を後添えに迎えた。仙台の七夕祭りの時、二階のお客さんの喧嘩騒ぎに巻き込まれ、階段の上から落下して腰をしたたかに打ってしまった。それが元で腰が立たなくなってしまった。離れに布団を敷いてあらゆる手を打ったがだめであった。幼友達で隣の宿の”生駒屋”が見舞いに来て『卯兵衛、子供の身体を見た事があるか。腰だけではなく心まで腑抜けになったのか』と帰っていった。
 子供が帰ってきて、裸になれと言っても、モジモジして脱がないので、叱りつけて肌を見ると生傷だらけ、私の首っ玉に抱きついて『どうしておっ母さんは死んだんだ』と言うのを聞いて、初めて自分の事だけで子供の事を考えてあげなかったのだろうと、すぐ番頭を呼んで、物置に使っていたここに二人で住み始めた。三度の食事は前から運ばせたが、その内二度になって、一度になってしまった。前に取りにやらせると番頭が『忙しい時になんだ』と頭を殴ったとか、主人の息子になんて事をと思ったが、腰が立たないので悔しがっていると、生駒屋がやってきて『番頭も忙しくて気が立っていたのだろう。三度の食事は私の所から運ぼう』と言ってくれました。
 ある時、生駒屋が血相変えて飛び込んできた。『卯兵衛、虎屋をいつ番頭に譲ったのだ。あまりにも横暴なので文句言ったら、印形も押された譲り渡し状を見せられ、元のご主人とは何の関係もないと言われ、帰ってきたが、印形はどうして押したんだ』。印形はお紺に渡していたのでそれを使ったのでしょう。それ以来、子供が言うには『三度の食事をもらっているのは乞食と同じ、自分たちで旅籠をやって生活しよう』と言い、客引きから何まで子供が駆けずり回っています」。
 ねずみ屋のいわれを聞くと「虎屋は番頭に乗っ取られてしまいましたが、この宿は物置小屋でして鼠が住んでいました。それを二人で乗っ取ったので”ねずみ屋”としました」。

 端な木れは無いかと聞いて、二階に持ち込み、頼まれても気が進まないと仕事をしない甚五郎だが、お客が来るようにと鼠を彫る事にした。精魂込めて、朝までに鼠一匹彫り上げた。
 タライを店先に出して鼠を入れて、竹網を掛けて出発した。

 立て札に《飛騨高山甚五郎作福鼠》、近隣の農夫が来て覗くと彫り物の鼠が動いた。立て札の続きに《この福ねずみを見た人は、土地の人、旅の人を問わず、ねずみ屋にお泊まり下さい》。「おらの家まで11町しかないのに泊まれないよ、その上、女房は焼き餅焼きだから大変だ」、「おらが一緒に行って弁解してやるよ」、と言う事で泊まる事になった。虎屋の悪評と、福鼠の評判が広がり満員が続き、裏に宿を建て奉公人も置いた。その反動で虎屋の客は激減した。怒った虎屋は飯田丹下に虎を彫らせ、ねずみ屋を睨み付けるように二階の手摺りに飾った。その途端、ねずみ屋の鼠がピタリと動かなくなった。驚いたのが卯兵衛、その反動で腰が立った。本当はもっと前に治っていたが、立たないと思って立たなかったから立てなかった。甚五郎に手紙を出した「私の腰が立ちました。鼠の腰が抜けました」。

 それを見た甚五郎は、若い政五郎を連れて仙台に入った。卯兵衛に経緯を聞き、その虎を見せてもらった。「飯田さんが彫った・・・、ん〜、政坊あの虎をどう見る」、「私の力量から見ても、あの虎はそんなに良くはないとふんだ。目に恨みを含んでいる。立派な虎になると額の所に”王”が浮かぶが、あの虎にはそんな風格がない。ね、伯父さん」、「私も、そんなに良い虎だとは思えんがな〜。
鼠。世の中の事はみんな忘れて一心に彫り上げたのだが、それなのに、あの虎が恐いのか」、
「え? あれは虎ですか。アッシは猫かと思いました」。

 


1.この噺「ねずみ」は
 三代目桂三木助が、意気投合した浪曲師の広沢菊春に「加賀の千代」と交換にネタを譲ってもらい、脚色して落語化したものです。
 三木助は「甚五郎の鼠」の演題で、昭和31年7月に初演しました。
 「竹の水仙」「三井の大黒」などと並び、三木助得意の「ねずみ」、名工・甚五郎の逸話ものです。

 木曾海道六拾九次之内「贄川(にえかわ)」広重画 東京国立博物館蔵 
 仙台ではありませんが宿場の情景です。中央、宿に着いた旅人が足をすすいでいます。左の女中さんはお茶を出していますし、奥の女中さんは旅人の荷物を運んでいます。手前の馬子は到着したのでしょうか、荷に手を掛けていますし、左の籠屋さんは仕事が終わったのでしょうか、一服しています。既に投宿して落ち着いた旅人が二階から表通りを眺めています。これが虎屋だとしたら、この二階の手摺りに虎の彫り物をこちらに向けて飾ったのでしょう。

 

2.左甚五郎
 医者黒川道祐が著した『遠碧軒記』には、「左の甚五郎は、狩野永徳の弟子で、北野神社や豊国神社の彫物を制作し、左利きであった」と記されているので、彼が活躍した年代は、1600年をはさんだ前後20〜30年間と言うことになります。
 一方、江戸時代後期の戯作者山東京伝の『近世奇跡考』には、「左甚五郎、伏見の人、寛永十一甲戌年四月廿八日卒 四一才」とあり、寛永11年(1634)に41才で亡くなったとすれば、『遠碧軒記』より少し後の年代の人となります。
 また、四国には左甚五郎の子孫を名乗られる方が居り、墓も存在します。
  広辞苑によると、江戸初期の建築彫刻の名人。日光東照宮の「眠り猫」などを彫り、多くの逸話で知られるが、伝説的人物と考えられる。一説に播磨生れ、高松で没した宮大工、伊丹利勝(1594〜1651)を指す。

 落語に登場する左甚五郎は、一本の竹から彫った水仙に水をやると花が開く、「竹の水仙」は有名だが、これは、宿賃もなしに豪遊してしまう、だらしない大酒呑み甚五郎が、宿賃の代わりに彫ったものです。また、落語「ねずみ」、「三井の大黒」にも登場しこの噺のマクラで、飛騨高山の人と言っています。
 政談ものでも名奉行はみな大岡裁きと決まっているように、名彫刻は、みな名人・左甚五郎作となってしまったのでしょう。張り型(落語「四つ目屋」)までこしらえたのですから、スゴイ名人!

 甚五郎の素姓について、その七世の孫、左光挙は以下のような考鉦をしています。
 甚五郎は文禄3年(1594)播磨国明石に生まれた。幼名を刀禰松(とねまつ)といい、父は足利義輝の臣伊丹左近尉正利であった。13歳のとき、上京して伏見の禁裏*大エ棟梁、遊左(ゆさ)法橋**与平次に弟子入りした。その後、師とともに紀州根来寺の再建にあたり、同地に3年数か月を過ごしたことがあった。根来出身説はここから出たらしい。元和元年(1615)江戸に出て日光東照宮、芝の台徳院廟***、上野寛永寺の造営に従事して今日にのこる彫刻の数々を手掛けた。しかし、江戸城西の丸地下道の工事に参加したため、機密のもれることをおそれる幕府の手によって暗殺されかけたが、反対に刺客を倒し、老中土井利勝のはからいで寛永11年(1634)讃岐高松藩主生駒高俊のもとに身をよせることとなった。高松藩では、大工頭をつとめ、宗恵と号した。同17年、生駒氏改易となってからは京に帰って大工の棟梁となり、法橋の位を得た。その後再び高松松平氏の棟梁に迎えられて慶安4年(1651)五十七歳で同地に没したという。
 また一説には、甚五郎は飛騨の匠出身の名工で四国とは無縁だったともいう。しかし、これはのちの脚色による甚五郎説話に導かれた説らしい。
 文芸のうえで甚五郎と飛騨の匠を結びつけたものとしては、石川雅望の『飛騨匠物語』(文化5年刊)がある。本書は左甚五郎の神技を伝えた俗伝に『今昔物語集』、『更級日記』の説話をからませた作品で、甚五郎伝説を小説化した代表作というべきものである。 
出典「高松藩にいた名工左甚五郎」(特集「人物往来」昭34・7)
「日本伝奇伝説大事典」角川書店より引用。

 * 禁裏(きんり);宮中、皇居、御所、禁中、など、みだりにその中に入るのを禁ずる意。
 ** 法橋(ほうきょう);僧位で法眼の次の位、律師に相当する。五位に准ずる。中世・近世には医師・画家などにも与えられた。1873年(明治6)廃止。法印→法眼→法橋
 *** 芝の台徳院廟;芝増上寺に埋葬された、二代将軍秀忠(台徳院)廟のこと。台徳院宝塔は戦災で焼失したため、正室・崇源院(俗に”お江”さんのこと)宝塔(石塔)に合祀されている。整備縮小して一ヶ所に集められ、門より向かって右最奥部にある(右写真。通常非公開)。戦災で焼ける前は、日光・東照宮陽明門のような立派な門の内に廟が有った。その門の彫刻などを担当したのでしょう。

政五郎;落語「三井の大黒」の世界では、江戸っ子大工の棟梁(とうりょう。江戸訛りで、とうりゅう。大工の頭)です。甚五郎のスポンサーでもあった。

■飯田丹下(いいだ たんげ);落語「ねずみ」の噺では、仙台伊達藩お抱えの彫刻師、日本一とうたわれた腕を持っていたが、三代将軍家光公の前で二人は三階松に鷹を彫った。しかし、甚五郎に破れ日本一の面目を潰された。元は講談で「講釈師見てきたような嘘をつき」の部類なのでしょう。そのため現存する作品もありません。
 この件について、図書館を数軒ハシゴして延べ100冊以上の人名辞典やそれに類する書物を調べ上げましたが、該当する名前に出会えませんでした。インターネットの中には実在したと有りますが、分かる方がいらっしゃったら、教えてください。現時点では小説、講談などフィクションの中の人物のようです。

 

3.橘町(たちばなちょう)
 政五郎が住んでいたと言うより、甚五郎が江戸で居候をしていた所。今の中央区東日本橋三丁目にあたります。北隣には日本橋横山町があります。そうです、桂文楽演じるところの「富久」、横山町の旦那が住んでいる所です。この時の火事で、政五郎の家は類焼を免れたのでしょうか。その北側は「御神酒徳利」の舞台馬喰町です。橘町の南には、「おせつ徳三郎・下」(刀屋)の舞台、徳三郎が刀を買い求めに寄った村松町があります。

仙台、伊達藩(だてはん);江戸時代に主として現在の宮城県全域と岩手県南部(北上市まで)および福島県新地町を領地とした藩。居城は現在の仙台市にある仙台城で、石高は62万5千石。江戸時代全期を通じて外様大名の伊達家が治めた。
 外様大名の伊達政宗が立藩し、以降、明治の廃藩置県まで代々伊達家本宗家が統治した。伊達家本宗家は、大広間詰国持大名。代々、将軍家より松平姓を許され、歴代藩主のほぼ全員に陸奥守の官位が与えられた。

伊達藩上屋敷;江戸上屋敷は芝口三丁目。屋敷地25,800余坪。北隣は落語「赤垣源蔵」で歩いた脇坂淡路守邸です。現在の汐留、港区東新橋一丁目。ゆりかもめ新橋駅、日本テレビタワー(ビル)が建つ。

同中屋敷;上屋敷から旧東海道を渡った南側、港区新橋五〜六丁目の内。屋敷地10,200余坪。

同下屋敷;港区南麻布一丁目西側半分。この中に韓国大使館があり、北側道路を仙台坂と言います。屋敷地21,300坪。屋敷南側に麻布絶江釜無村の木蓮寺がありました。落語「黄金餅」の終点木蓮寺ですが、絶江坂を下った絶江和尚が居た曹溪寺(港区南麻布二丁目9)は東側。門前の公園が絶江児童遊園です。
下屋敷東側に出た古川の手前に落語「小言幸兵衛」の家主幸兵衛さんが住んでいた、麻布古川町があります。

 もう一ヶ所、品川の先、大井村に2,134坪の屋敷を構えていました。江戸の朱線引きに接する南側ですから、江戸市中ではなく、在になるでしょう。現在の品川区東大井四丁目北側にあった。北側に接する坂道をやはり仙台坂(くらやみ坂)と言い、東に下ると旧東海道です。

同蔵屋敷;江東区清澄一丁目2。屋敷地5,400坪。この南側に流れる掘り割りを、屋敷の名前から仙台堀川と言います。東側には現在、清澄公園、深川図書館、岩崎弥太郎が買い取ったという都立清澄庭園があります。
 蔵屋敷とは、国元から年貢米や領内の特産物を収蔵した蔵を有する屋敷で、収蔵品を販売するための機能を持つこともあった。主に海運による物流に対応するため、隅田川や江戸湾の沿岸部に多く建てられた。この蔵屋敷も東京湾(江戸湊)から隅田川を遡って、永代橋をくぐった右側、仙台堀に入った北角です。

 

4.虎
 虎を虎らしく、またはそれ以上に描くのは至難の業です。

左から、佐々木美山画。岸駒画。無款。伝・李公鱗画(韓国) 全て部分。

 「虎を画きて猫に類す」 良寛 

 日本にトラは生息していませんので、当然ながら、昔の画家で本物の虎を知っている者はいなかった。知ってても虎の敷物ぐらいです。しかし、勇猛な虎という存在は、日本画でも好んで描かれる画材です。
 画家達は、身近な猫や敷物を観察して虎を想像するしかなかった。江戸時代の有名な画家たちでも、描いた虎の瞳は、針のような縦長の瞳だった。その中で、狩野派の画家達による虎の瞳は、狩野探幽(1602〜74)から明治時代にいたるまで、正しく円形に描かれています。韓国から渡来した虎図は、実物を知っているので正確です。

ねずみ;十二支の中に一番で出てくる”子”(ね)でもあり、米を食い散らかす害獣でもあり、その為に猫を飼われたとも言われます。逆に大黒様のお使いでもあり、善悪両方を持ち合わせた鼠です。
右図;北斎漫画より「兎と鼠」 江戸東京博物館蔵

 

5.言葉
三代目三木助がこの噺のマクラに
 「ベレーが鼠、服が鼠、シャツが鼠で、万年筆が鼠、靴下が鼠でドル入れが鼠、モモヒキが鼠で、靴がまた鼠ッてえ、世の中にゃァいろいろまた好き好きてえもんがありますもんですな。このひとが表へ出ましたらお向かいの猫が飛びついてきた」。
 とやったそのねずみ男のモデルが、三木助の理解者だった演劇評論家・作家の「安鶴」こと安藤鶴夫(1908〜69)だったことは、安鶴当人の直木賞受賞作「巷談本牧亭」に残っています。

日光東照宮の眠り猫;あまりにも有名な牡丹と猫の彫り物です。右図。

上野寛永寺鐘楼の龍;あまりにも素晴らしい龍なので、夜ごと隣の不忍池に降りて水を飲んだ。円生は鼻面に引っ掻き傷の鯉が増えたと言っています。落首が立って「甚五郎左が過ぎて水を飲み」。
 残念ながら、明治の始め上野戦争で焼失し、現存せず。上野戦争については落語「お富の貞操」を参照。
 この位置は、現在、「小松宮親王」の銅像が建っている辺りです。
右図;「東都名所上野東叡山全図」の部分、鐘楼 広重画 この鐘楼の柱の一つに甚五郎の龍が彫られていたが、夜ごと抜け出して不忍池まで遊びに行っていた。他の三人の彫った龍は優美で細かい所まで良く出来ていたが、甚五郎の龍はブ男で荒削りであったが、高い所に上がると、誠に生き生きとして他を圧倒した。夜遊びが過ぎるので、後ろ足を釘で留めたら、その後飛び立たなくなった。

 上野公園内の上野東照宮唐門(唐破風造り四脚門。重要文化財)。日本には一つしかない金箔の唐門。扉には梅に亀甲の透かし彫り、門柱左右に左甚五郎作昇り龍(左)、降り龍(右)の高彫りがあります。ここの龍は飛び立たないので現存しています(ジョークですよ、燃えなかっただけです)。

三井の大黒;落語三井の大黒」をご覧下さい。

端な木れ(はなぎれ);端材。端木れ。切り裁ちして使わなかった部分。

11町;距離の単位。約1.2km。当時の人だったら、約15分で行けたでしょう。宿賃と奥さんの焼き餅を考えたら帰りたい距離です。

 

6.仙台の旅籠ねずみ屋跡は
  仙台出身の翁家小三馬師により、その所在を確認してもらうと・・・。こちら  2012年1月追記




  舞台の上野から仙台藩屋敷を歩く


 上野恩賜公園に甚五郎の龍を見に出掛けます。今公園で一番の人気は上野動物園(右写真)です。パンダが中国から来て、子供連れの親御さんが列を作って見学です。その入口手前左側に小松宮の騎乗銅像が建っています。この場所に焼けてしまった鐘撞堂があったのです。現在に残っていたら国宝級だったのは確実です。
 その素晴らしい4本柱の一つに甚五郎の龍が巻き付いていたのです。彼の作品は毎回心血を注いで彫り上げていますから、この龍も、夜な夜な下の不忍池に降りていって水を飲んできたのでしょう。講談の中では仙台で鼠を彫り、動き回っていましたし、同じ生き物でも寝たものを彫らせたら、ず〜っと寝たっきりの猫を日光東照宮に残しています。

 上野にはもう一ヶ所、龍の彫り物を残しています。先程の小松宮銅像の左側を入ると上野東照宮に入っていきます。上野動物園は寛永寺の寺領だった所ですから、墓所や五重塔が園内に残されています。その五重塔(右写真)が東照宮の参道の右側に、動物園の塀の直ぐ向こうに望めます。
 桜の時期には絶景なのですが、今回はあきらめましょう。
 また、参道の左側には立派な牡丹園がありますが、冬の時期なので今回もあきらめましょう。
 参道の突き当たりに本命の東照宮があります。この東照宮は現在改修工事中で、あと2年(平成23年12月完成)は掛かると言います。正面には実物大の写真がシートに印刷されて囲われています。ここも、今回は完成まであきらめましょう。それでは、犬がお預けを食ったようになりますので、工事に入る前の龍の写真を、下に載せておきました。

 残念ながら仙台まで行けませんので、仙台藩江戸屋敷を訪ねます。

 上屋敷は現在最先端の街として再開発された、新橋駅東側の汐留跡地がそうで、北側から脇坂・播磨竜野藩上屋敷約八千坪、その隣今回の主人公仙台藩上屋敷約二万五千坪、その南隣陸奥会津藩中屋敷約二万九千坪の三大名の屋敷が並んでいました。その中央の屋敷地ですから、現在の開発地の中心地で、湾岸のお台場に行く愛称”ゆりかもめ”線の汐留駅と新橋駅を抱えて、日本TV、ロイヤルパークホテル、汐留シティセンター、電通本社、等々のそうそうたる高層ビルが建ち並んでいます。あまりにも斬新な街造りになっていますから、大名屋敷があった事すら想像も出来ません。

 中屋敷は西側の15号線東海道を渡った所にあります。なんの変哲もないビジネス街になっていますから、ここも屋敷地跡だったなんて想像も出来ません。五丁目と六丁目の境の道が中屋敷の真ん中ですが、この道を西に500m程行くと、江戸では見晴らしの良い小高い山の一つで、愛宕山と言います。25.7mの標高が記録されている自然の山でしたから、初期のNHK送信所が建てられ、現在はNHK放送博物館になっています。そんな高い山ですが、先程の中屋敷跡からは手前のビルが邪魔して望む事は出来ません。

 下屋敷は元気いっぱいの街、麻布十番の南にあります。中屋敷の北側に接する坂を”仙台坂”と呼び、仙台藩の屋敷があった事をかろうじて現在に伝えています。仙台坂を東に下ると国道1号線に出ます。出た所の南側が落語「搗屋幸兵衛」(小言幸兵衛)の舞台、麻布古川町です。
 仙台坂上まで戻って、五差路の交差点を屋敷地跡に沿って左に曲がると、ここも直ぐに下り坂になります。その坂を”絶江坂”と言い落語「黄金餅」の終点、麻布絶江・釜無村の木蓮寺に到着となるのですが、この坂の両側はお寺さんの品評会場のように寺院が並んでいますが、木蓮寺は架空のお寺ですから何処にもありません。絶江和尚がいたという曹溪寺(港区南麻布2丁目9−22)はこの裏手にあります。

 これでお終いと思ったら、蔵屋敷もありました。蔵屋敷の南側に流れる堀川を”仙台堀川”と言います。スゴいですね、自分の屋敷の名前を川に命名してしまうのですから。それも、隅田川に接する江東区の西の端から、東に江東区の終点近くまで流れ、進路を北に変えて小名木川に接する川です。仙台坂のように百m前後にも満たない距離ではないのです。途中、木場公園の先から”仙台堀川公園”と名を変えて、小川のように川幅を狭めて岸辺を、緑多い公園に生まれ変わっています。あまりにも自然すぎて、都会には住まないと言う野鳥”カワセミ”が住み着いています。

 長い道のり、ご苦労様でした。一息入れましょうね。ビールでもやりながら。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

橘町(中央区東日本橋三丁目)
 大工政五郎が住んでいた所。言葉を変えれば甚五郎が世話になっていた所。衣料品関係の町ですが、横山町、馬喰町と比べると、少しおとなしくなります。

東日本橋駅(中央区東日本橋三丁目)
 橘町のまん中にある、地下鉄都営浅草線・東日本橋駅で、サブタイトルに馬喰横山駅と入っています。表通りにある駅入口と違って、三角の街の中にありますので、中途半端(失礼)な出入り口です。

横山町(中央区日本橋横山町)
 前記橘町の北側にある街で、落語「富久」の旦那が住まっていました。火事の時、延焼せずに助かった地です。また「文七元結」では文七が奉公していた鼈甲問屋の御店(おたな)がここにありました。

馬喰町(中央区日本橋馬喰町)
 
毎回出てくる馬喰町ですが、前記横山町の北側にある宿場町だった所です。現在は横山町と並んで衣料品問屋が並んでいる所です。

仙台藩上屋敷跡 (汐留跡地=港区東新橋一丁目)
 上屋敷跡は当時国鉄と言われた時の貨物操車場跡地です。貨物駅は廃止され、現在は超高層のビルが林立し、その間をモノレールが走っています。

仙台藩中屋敷跡 (港区新橋五&六丁目の半分)
 新橋のこの地域は中小クラスの企業が集まって、昼時はサラリーマン、OLで街がいっぱいになってしまいます。写真は五丁目と六丁目の境をなす道で、中屋敷の真ん中です。奥に見えるズングリしたビルがフォレストタワー、隣の愛宕山が全く見えません。

仙台藩下屋敷跡 (港区南麻布一丁目西半分)
 下屋敷跡北側に接する坂道を仙台坂と云います。町中は江戸の風情は当然ありませんが、坂の名前に仙台藩の名前が残っています。
写真の右側が藩邸だった所で、仙台坂上(ここ)を南に下ると、ご存じ「黄金餅」の最終目的地、絶江坂です。当然、釜無村も木蓮寺もありません。

仙台藩蔵屋敷跡 (江東区清澄一丁目2)
 写真は清川橋の上から東方向の仙台堀川です。左側の緑は清澄公園、その左手前に仙台堀川に沿ってマンションと生コン会社、読売新聞社があります。その地が、蔵屋敷跡です。川の背中方向は当時隅田川に合流し、「上の橋」がありましたが、現在は排水機場となっていて、水面は確認出来ませんし、橋柱が残っていますが上の橋もありません。

上野東照宮(上野公園内)
 5年掛かりの工事中で、唐門から本殿すべてシートで囲われて、漆塗りや金箔の張り直しをしています。その為、賽銭箱の後ろの唐門はシートに印刷された実物大の写真です。完成は平成25年末。門の左右にあるのが甚五郎作昇り龍、降り龍です。工事前の写真はここに

小松宮彰仁親王銅像(上野公園内、動物園入口左)
 小松宮は明治初年鳥羽伏見の戦いに征東大将軍として参戦、戊辰戦争を戦った。後年日赤の総裁となった。
 ここに焼失した鐘撞堂がありました。

                                                                  2011年11月記

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