落語「ざこ八」の舞台を歩く
三代目桂三木助の噺、「ざこ八」(ざこはち。別名;先の仏)によると。
1.三代目桂三木助
■小糠(こぬか)三合持ったら婿になるな;小糠は玄米を精白した時に出来る外側の部分の粉末。粉糠とも。
江戸時代、江戸の街は男性が女性よりも圧倒的に多かった。で、あぶれた男性が止む終えず独身暮らしとなることは当然多かった。なのにアメリカみたいにレディファーストの様な文化にはならなかったが、長屋暮らしの家庭では”かかァ天下”になっていた。お見合い、許嫁(いいなずけ)、家柄などが当たり前の時代、二人の相性がいいとは家柄が釣り合うという事でした。個人より家を大切にしたから、武家や大店では家を継ぐ子供として長男が選ばれたのですが、女系家族ではそれも出来ず、次男以下の世継ぎに関係の無い独身男性に白羽の矢が立ったのです。
「またしても 前の仏で こぜりあい」 江戸川柳
■上野の山下;今の上野公園、江戸時代の寛永寺の山の南側の登り口。現JR上野駅南口(山下口)を出た辺り。上野の山に対比し上野の山下。
■葛西;(かさい)東京都の東端にあたり江戸川区の南端の街。江戸川を渡ると千葉県浦安市になり、ディズニーランドが有ります。江戸時代は江戸の街に野菜を供給していた農産物供給地帯でした。米、砂村ネギ、つまみ菜、小松菜、亀戸大根、レンコンなどを出荷していた。今ではもう少し北になりますが、花卉(ホオズキ、朝顔、シクラメン等)の出荷で有名になっています。4項で詳述。
■おワイヤさん;人肥を汲み取り、葉野菜の肥料にした。収穫があがると汲み取った先にその野菜を届けた。それは現金を含め大家(家守=管理人)の収入になった。その汲み取った人肥を運ぶ人。
写真中;「肥を引く牛」昭和26年(1951)ゴタード・J・デリーナ撮影 江戸東京博物館蔵
写真下;「肥だめを運ぶ」明治前期 古い写真館 朝日新聞社
■茶屋酒;吉原で大見世、または名のある妓楼に揚がるには、茶屋を通さなければ揚がれなかった。しかし、揚がる前にこの茶屋で芸者、幇間を揚げて飲み食いしていると、また別のおもしろさがあった。妓楼に行かず、ここで飲み遊ぶ事。または、遊んだ上に妓楼に揚がる事。どちらにしろ吉原で遊び惚ける事。
■夜泊まり日泊まり;ここではのべつ幕なしに遊ぶ様をいう。妓楼に行けば、朝帰りになるのは当たり前の事。これを夜泊まりと言います。そのまま朝帰らず、居続けて夜になる事を日泊まりといいます。当然お金は掛かりますし、仕事をせずに家を空ける事になりますから、身内からは猛反対の火の手が上がります。若旦那だったら勘当ものです。
■米搗きの臼;玄米をついて精白する臼のこと。お米屋さんとは米搗き屋さんの事。
■88個鉤の手に;鉤(かぎ)のように、直角に曲った形。店の土間にL字形に臼を並べた。並べられるだけの大きな土間があった大店。
■三枚に下ろす;魚をおろす時、中骨を残し半身を切り取り、この状態を二枚に下ろすという。次に、中骨の付いた身から中骨を取ると全部で3枚になるから。刺身にはこの身から一口サイズに切り出す。
■絹糸草;(きぬいとそう)お絹さんの頭に髪が生え始めた状態を形容して言った。芝生に似た草で背丈の短い葉だけのポヤポヤっとした草。
■仏の精進日;祖先の忌日など精進を行うべき一定の日。亡くなった日の周年日。
■ざこ八;先代は雑穀を扱う店だったのです。決して雑魚ではありません。
700年以上前からこの地域は漁村であったといわれている。漁村の中心は青べかで有名な、浦安市猫実(ねこざね)で、東京湾に面した沿岸地域は海藻や海苔、貝類が豊富だった。また遠浅の海岸には渡り鳥などが群生し、自然豊かな地域であったようである。
1969年に営団(当時)地下鉄東西線の葛西駅ができると、それまで陸の孤島であった葛西は都心に非常に近い住宅地として発展した。1979年には西葛西駅も開業し、ますます発展した。この頃から埋立地(現在の住所表示で清新町・臨海町など)も広がっていった。50年以前はアシの生える湿地帯で人は住まず、蓮田が点在していた。今は東京のベットタウンとして栄え、その為の飲食店やスーパーが林立して、若く活気のある街に大変身。
東京(江戸)湾では、葛西浦の海苔採取は寛永時代から行われていた。この地域でとれる「葛西海苔」(別名「浅草海苔」)は海苔のブランドとして有名だった。養殖産業は大正時代にかけて活況を呈したが、葛西浦の漁業は昭和37年(1962)に漁業権放棄で終了したが、現在でも中葛西7丁目には白子のりの本社がある。
「江戸と葛西の関係」 荒川放水路はなかったが、中川が南北に流れていたので、中川船番所が出入りのチェックをしていた。江戸東京博物館資料より。
■広い意味での葛西を言う時は、隅田川東側を指します。今の江東区、江戸川区を合わせて言いました。ここは江東デルタ地帯と言って、低地で大水の心配をいつも抱えていましたが、肥沃な土壌を持っていたので、野菜作りには好適な地帯でした。
この地は埋め立てられた干拓地であったので、幕府は入植を奨励し、関西や北陸、東北地方から農業従事者を入れています。そのため、高いレベルの農業生産を行ってきました。促成栽培や野菜の苗作りでは高い技術を発揮し、将軍から庶民まで喜ばせました。
都心から隅田川に架かる永代橋を渡り、深川に入ります。葛西橋通りを東に進むと荒川に架かる葛西橋に出ます。この大きな(正式名称)荒川放水路は大正期に開削された放水路ですから、それ以前には存在しません。今の江戸川区も、その北の葛飾区も川に隔てられた地区ですが、地続きの地域だったのです。江戸の街を横切るのは、小さな川を除けば隅田川だけで、南には県境の多摩川があり、東の県境は江戸川です。
葛西橋を渡り一直線に東に伸びる葛西橋通りの終点浦安橋までの両側が葛西と言われる地区です。正確に言えば北側に平行に流れる新川まで、南は平行する地下鉄東西線(ここでは高架を走っています)をくぐり、南端の高速湾岸線とJR京葉線をくぐると、海岸線を利用した葛西臨海公園、東京都葛西臨海水族園http://www.tokyo-zoo.net/zoo/kasai/ があります。そこまでが葛西地区です。
ざっと、江戸川区の南部1/3を占めています。戦前までは開発の手がつかず、湿地帯でアシが生えた湿原で当然、人は住んでいませんでした。今の葛西橋通り周辺に、その湿地を利用した蓮田?蓮池?が並んでいました。
その当時の住居「旧大石家住宅」が江東区に有形文化財として残っています。この建物は6畳と8畳の畳間二部屋と、同じくらいの広さの板の間があり、同じくらいの土間が付いています。天井裏が深く、水害時には水が引くまで、ここで生活が出来るようになっています。半農半漁で、大石家では漁業は海苔の生産を主に行っていました。この様なわらぶき屋根の家が、浦安、市川、船橋の沿岸部には標準家屋のように存在していました。
江戸川区の中央部には「一之江名主屋敷」が現存しています。前記の大石家住宅の2〜3倍の大きさを持っていますが、一部は公的な部屋で家族も入る事を禁じられたスペースです。プライベートで使えるスペースは大石家とさほど変わっていない事に気付きます。家の中は仕切の障子や襖を取り払えば、1ルームとした大きなスペースで使える反面、プライベート空間は便所以外何処にもありませんので、現代人は住む事に難渋するでしょう。
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葛西橋(荒川放水路に架かり江東区東砂と江戸川区西葛西を結ぶ)
江戸川(江戸川に架かる地下鉄東西線の橋梁)
葛西駅(江戸川区中葛西5、東西線駅)
西葛西駅(江戸川区西葛西、東西線駅)
葛西臨海公園(江戸川区臨海町六丁目)
上野山下(台東区JR上野駅南側)
史跡一之江名主屋敷(江戸川区春江町2−21−20)
旧大石家住宅(江東区南砂5−24 仙台堀川公園内) 2009年9月記 |
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