落語「ぞろぞろ」の舞台を歩く

  
 
林家彦六(正蔵)の噺「ぞろぞろ」によると、

 浅草田んぼの真ん中に有る太郎稲荷。
 その参道に、1軒だけ店を構えている、茶店兼荒物屋の主人がお詣りにいつも行っている。ここのところ客足さえ無いのに、雨が降ってくると、雨宿りをしている客が足元が悪いとワラジを買っていく 客があった。3年も売れなかった物が売れたのだ。次の客もワラジを欲しがり、全て売り切れてしまい、品切れになった。
 新たな客に今売れてしまったので無いと断るが、天井からワラジが下がっている。いぶかしながらそれを売ると、次のワラジがぞろぞろと天井から下がってくる。ワラジがどんどんと売れて大繁盛している。その評判で参拝客がつめかけ、稲荷も綺麗になった。

 田町の床屋の主人がそれを聞いて、言われるままに太郎稲荷に行って、「この前の茶店同様の御利益をお願いします」と願掛けに行って来ると、願が叶って、店に帰ると、普段客など見ないぐらい暇なのに、入る所もないほど満員の客で埋まっていた。 客をかき分け店に入り、最初の客を椅子に座らせ、「おまちどおさま、どこをやりましょう」。
「髭(ひげ)をあたって、くれ」、 「ハイ、私に任せなさい」、 自慢の剃刀で髭をツ〜と、やると、
新しい髭が、ぞろぞろ!

 

 写真;「林家彦六」 ぞろぞろ公演中 国立演芸場蔵 13.09写真追加


1.太郎稲荷神社(江東区亀戸3−38)
 天祖神社境内に有る稲荷神社。宇迦之御魂大神(伏見五祭神)を祀る。和銅4年に伏見稲荷の大神をいただいて徳川時代、筑後柳川11万9,600石の大名、立花家下屋敷(今の千束2丁目と入谷2丁目)にあった代々の守護神であったものを、江戸末期天祖神社境内に移したもの。当時評判が良かったので、一般に開放したら享和、文化から慶応にかけてなぜか、はやったりさびれたりを繰り返した。

 樋口一葉の「たけくらべ」にも出てくる神社。主人公が太郎稲荷神社に商売繁盛の願掛けに行く場面があります。
  舞台の吉原田んぼ太郎稲荷は台東区入谷2-19-2に有ります。写真のところで詳しく記述します。

 当時の江戸の道は雨が降ればぬかるんで歩けなかった。その上、傘は贅沢品で庶民は蓑笠ですごし、外出は控えますが、出先で雨に出会えば雨具よりワラジとなったのです。
右図;「東都御厩川岸之図」国芳画より 08年8月追記
 

2.浅草田んぼ(別名、吉原田んぼ)
 遊郭吉原を取り巻く一帯に有った田んぼ地(台東区浅草3〜6丁目と同千束1〜3丁目の一部)。その南側が浅草寺。遊郭吉原に行くのに、蔵前の方から近道を行くと、浅草寺の境内を縦に突っ切り、浅草田んぼを行けば、その先に吉原の明かりが見えた。落語「唐茄子屋政談」に出てくる勘当された若旦那が、初めて唐茄子を担ぎなが売り歩き、気が付くとこの吉原田んぼに出て、吉原を遠くに見ながらつぶやく場面があります。若旦那の述懐が何ともほろ苦く遊びの世界と現実の世界のギャップをまざまざと見ることが出来ます。

右写真;荒物屋さんの天井から吊り下げられたワラジと草履。江戸東京たてもの園 2014.10追記


3.田町(台東区浅草6丁目)
 吉原と浅草寺の間だの土地。明治14年頃浅草田んぼが埋め立てられて、約2万1千坪が平地となり、その一部が田町という町名になった。安易な町名の付け方ですが、現在この地名はありません。田町とは江戸に(東京にも)同名の町名が他にも有りますが、落語の世界では断りを入れない限り、ここの”田町”が舞台です。 
 

4.お岩稲荷(新宿区左門町17) 四谷 於岩稲荷田宮神社 東京都史跡
 今までの説明は林家彦六の噺にそって書いてきましたが、古今亭志ん朝の噺では舞台が違います。粗筋は同じですが、荒物屋と床屋は隣同士で商売をしている。荒物屋の主人はいつもお岩稲荷に出かけ掃除がてらお供え物まで面倒を見ている。その御利益のお陰で、天井からワラジがぞろぞろ。それを見ていた隣の床屋の主人が荒物屋に出向き訳を聞いて、自分も願掛けに行く。願が叶って・・・。落ちも当然同じ。

■「お岩稲荷」;歌舞伎脚本『東海道四谷怪談』で有名。五幕。四世鶴屋南北作の世話物。文政8年(1825)初演。浪人民谷伊右衛門は私欲に迷って妻のお岩に毒を盛り憤死させ、家伝の秘薬を盗んだ小仏小平をも惨殺し、二人を戸板の裏表に釘付けし死骸を川に流したが、そのお岩の亡霊に悩まされて自滅する。南北の代表作。
 しかしこの話は実在のお岩さんから、200年後に創られた、全くのフィクション。本当は、四谷左門町に住む、お岩は御家人田宮(読みは同じだが字体が違う)伊右衛門の妻で人も羨む仲の良い夫婦であったが、30俵3人扶持で台所が苦しく、夫婦は商家に奉公に出て家計を支え、家を再興した。この健気な一生を送ったお岩の美徳を祀ったのがお岩稲荷。人々もこの女性を慕い「お岩稲荷」と呼んで信仰し、参拝客も増え屋敷内の神社から今の神社になった。歌舞伎も大いに当たったが、その影響で稲荷もたいそう大きくなった。
 その後、祟りの話が出てきた。最初は出演した役者がお詣りに来ていたが、その内公演前に参拝しないと病気や怪我が出るという風評が立つようになった。これはなにしろ怪談の為、トリックに懲り、道具立ても複雑になり多くなる。舞台は怪談だから暗く、天井からの吊し物も多い。その様な中で芝居をするので事実、怪我が多かった。そこから”お岩さま”の祟りが出たのであろう。今は、芸能、興行の成功、招福、商売繁盛の御利益がある。さらに交通安全、入試にも功徳がある、と言われる。
 同格の分社が中央区新川2−25−13もと田宮家屋敷内にも有ります。
 お岩さんの墓地は豊島区西巣鴨4−8の妙行寺に有ります。
 

5.小学校の国語教科書に載った「ぞろぞろ」
 三遊亭円窓の落語「ぞろぞろ」全文。
 


 
  舞台の亀戸・太郎稲荷と四谷お岩稲荷を歩く。


 亀戸天神(亀戸天満宮)の裏手、江東区の一番北側に天祖神社があります。銀杏の木立が境内を圧倒する中、南の大鳥居をくぐると正面に大きな社、それが天祖神社。その右側に小さい社が建つ、それが太郎稲荷神社。その正面までが細い参道と鳥居で結ばれ、その両側には赤く染め抜かれた何本もの、のぼりが風にはためいています。そう大きくない境内ですが、回りの民家が分からないくらい木々に囲まれ鳥のさえずりや、木漏れ日を浴びていると、都内にいるのが嘘のように感じられます。元々天祖神社は地元の氏神さまで、祭礼などが無い限り、わざわざの参拝人は滅多に居ません。その中の太郎稲荷、私のようにそこを目的に行く参拝人は少ないでしょう。私も「ぞろぞろのように」と願を掛けて来た。願を掛けるのは参拝者の少ない今が一番。

 於岩(おいわ)稲荷田宮神社は、都心から第8話「文違い」で紹介した”新宿”の手前、四谷3丁目の交差点(角に四谷消防署)を左に曲がり、左側に四谷警察署。その先のコンビニの有る角を左に入る。ここからは狭い道で昔からの路幅なのでしょう。すぐ突き当たって、右に曲がると、民家や小さなビルに囲まれ建っています。太郎稲荷よりず〜っと大きくて流石有名度は全国区。参拝人は絶えない。しかし神社の前には茶店も床屋も、参拝客目当ての店すら1軒も有りません。恐ろしく怖いイメージの主人公お岩さんが、こんなにも愛される女性の鏡のような人だとは思いもよらず、そのギャップに驚いています。

 

地図

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写真

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太郎稲荷神社
新しい赤いのぼりが何本も建ち並び、太郎稲荷は元気がいい。参拝人が少なく、今願掛けに行くと、御利益が多いかも。
於岩(お岩)稲荷田宮神社
志ん朝が言うところの神社。暗いイメージの神社が明るく見えた。爽やかで庶民的な暖かな神社だと、再認識しました。宮司は田宮家11代目の子孫です。
待乳山(まつちやま)聖天(しょうでん)
大川を昇って、この待乳山を左に見ながら、今戸で舟から下りて山谷堀に入る。土手の上を行けば見返り柳と吉原大門。今は、大川も隅田川と言い、山谷堀も大門も吉原も無い。
舟で左に曲がる目印の地に、今もあるのが聖天。小高い丘の頂に立派な本堂があります。この北西方向に吉原、田町、浅草田んぼが有った。ビルばかりで何処も見えません。
   舞台の吉原田んぼ太郎稲荷(台東区入谷2−19−2)
 このホームページ読者の菅沼和男氏からお便りをいただいて、早速行って来ました。
立花家下屋敷に有った、この太郎稲荷は元々、今の松ヶ丘3丁目に有ったものを明治20年代に今の土地(旧町名;光月町)に移された。家と家のあいだ(スキマ?)1.5間(2.7m)の参道を入るとそこにこじんまりとした社があります。地元の有志が会を作って手厚く護られています。江戸時代大変繁盛していたころは、広い境内に参拝客が入りきれず長い行列が出来ていたと言われます。また夜はお籠もりの人で賑わい、入りきれない参拝客が裏の畑にゴザを引いて一夜を明かしたとも言われます。落語「明烏」の若旦那時次郎はここには居ない (^_-)   しかし、残念ながら今はその面影すらありません。当然周りには門前町のような形態はどこにも無い。
 台東区の合羽橋商店街(浅草寺西側、国際通りのもう一つ西側の大道り)を北に向けて抜けると、金竜小学校前交差点に出ます。渡り右手にその小学校を見ながら、次の信号機のある交差点を真っ直ぐに、二つ目の路地(カドの酒屋)を左に曲がると、まもなく右手に太郎稲荷の赤い幡が見えてくる。行き過ぎないように。
 亀戸の太郎稲荷も元は同じ立花家下屋敷に有ったもので、分社されて、光月町と亀戸の二社になった。
 2001年9月追記
  立花家中屋敷にあった太郎稲荷(台東区東上野1−23−2)
こちらは中屋敷跡の太郎稲荷です。
当町は江戸時代万治年間筑後柳川藩十一万九千六百石の立花左近将監が江戸中屋敷として設けた跡地であって当太郎稲荷は母堂みほ姫の守り本尊として邸内の現在地に建立されたものです。諸処の祈願事を叶え給え、特に商売繁盛に御利益あらたかな処から江戸、明治、大正時代を通し広くその名が知られ多くの善男善女に厚く信仰されて来ております。(中略)今も初午祭が盛大に行われています。(太郎稲荷の由来板より)
下屋敷の本家とここ中屋敷にも同じ太郎稲荷が有ったのです。周りはオフィスビルに囲まれて、幟がなかったら何処かの小さな祠ぐらいと、通り過ぎてしまうでしょう。
 2004年11月追記
於岩稲荷田宮神社の分社(中央区新川2−25−13)
元・田宮家屋敷内に有る於岩稲荷田宮神社。
「東海道四谷怪談」での名優市川左団次から、「四谷まで毎回出掛けるのは遠すぎる。新富座などの芝居小屋のそばに移転してほしい。」と要望があった。明治12年(1879)四谷左門町の火事で社殿が焼失したのを機に、新川にも移転し、全く同格の於岩稲荷田宮神社が二つ出来た。(於岩稲荷田宮神社由来記より)
2008年8月追記

                                                       2000年11月記

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