落語「蜘蛛駕籠」の舞台を歩く
   

 

 立川志の輔の噺、「蜘蛛駕籠(くもかご)」によると。
 

 担ぎ手の兄貴分がタバコを吸ってくるから、たまにはお前が客引きをしろと行ってしまった。
 客を強引に捕まえて駕籠に乗せて、行き先を聞くと「好きな所にやれ」という。それではお宅まで行きますからと言うと「前の茶店だ」との事で、駕籠屋をからかわないでください、の言葉で茶店の主人はキレてしまった。「毎日俺の店で茶くれ、火を貸せと言ってくるのに俺が分からないのか。その上、ホウキ、チリトリ持って、前垂れしているだろう。もう店の前でウロチョロするな」。兄貴が中に入ってまとまったが、仲間は客を捕まえて二人だけが残された。これでは野宿になりそう。

 武士が声を掛けてきた。「駕籠が二丁」、すっ飛んで親方の所に走った。「前の駕籠には姫様、後の駕籠には乳母様、それに荷物持ちが2人」。親方の所で荷持ちを手配して貰おう、と思っていると「それに、御伴揃いが10人、今、この前を通らなかったか?」。お〜〜い違うよ、乗るのではなく行列を聞いて居るんだ。そのうえ「茶店にいるから、通ったら教えろ」と言う有様。返事はしたが、後ろで舌を出していた。

 酔っぱらいが気持ちよさそうにやって来た。あの客は乗らないからやめろと言う兄貴の助言を無視してアタックを始めた。
 「気分がいいんだ、聞いてくれよ。今、川崎大師参拝の帰り、多摩川の六郷の渡しまで来て舟に乗ろうとすると、後ろから『あらっ、熊さん。あらっ、熊さん』と言う女の声がしたんだ。振り向くと、辰公のかかあ。『近くだから寄ってって』と言うので行ったら、辰公が喜んで酒や料理を沢山出してくれた。気持ちよく飲んでいたが、遅くなると帰れなくなるのでまた来るよ。アバヨと行って六郷の渡しの所まで来ると後ろから『あらっ、熊さん。あらっ、熊さん』と言う女の声がしたんだ。振り向くと、辰公のかかあ。お前知っているだろう」、「いぃ〜〜ぇ、分かりません」。
 「顔が広い女なんだけどな〜、目の下に小豆粒位のホクロが有るんだ。そこまで言えば分かるだろ」、「まだちょっと」。
 「神田縦大工町、左官の長兵衛の娘”おてっちゃん”と言えば分かるだろ。分からない?加納屋の旦那が仲人で、大黒屋で祝言上げたと言えば分かるだろ」、「いえまだ〜〜」。
 「お前は近くか、『近くだから寄ってって』と言うので行ったら、辰公が喜んで酒や料理を沢山出してくれた。気持ちよく飲んでいたが、遅くなると帰れなくなるのでまた来るよ。アバヨと行って六郷の渡しの所まで来て、舟に乗ろうとすると、後ろから『あらっ、熊さん。あらっ、熊さん』と言う声がしたんだ。振り向くと、辰公のかかあ、知っているだろ」。「えっ〜、神田縦大工町、左官の長兵衛の娘”おてっちゃん”でしょ。」、「嬉しいな。知っている人が居るなんて。目の下に」、「小豆っ粒位のホクロがあるんでしょ」。「加納屋の旦那が仲人で・・・」、「大黒屋で祝言上げたんでしょ」。
 「嬉しいな〜、お前そこに居たのか? 『近くだから寄ってって』と言うので行ったら、辰公が喜んで酒や料理を沢山出してくれた。気持ちよく飲んでいたが、遅くなると帰れなくなるのでまた来るよ。アバヨと言って六郷の渡しの所まで来て、舟に乗ろうとすると、後ろから」、「『あらっ、熊さん。あらっ、熊さん』、でしょ」、「お前見てたのか? うれしいな〜。お前みたいなのと、合えて」。「ところで、駕籠いかがでしょうか」、「わはは、こんな酔って気持ちの良い時は冷たい風に吹かれてブラブラ歩くのが良いのだ。お前もこんな所で油を売っていないで仕事でもしろ」。
 兄貴にこっぴどくどやされる、相棒であった。

 そこにいなせな遊び人風の酔っぱらいが踊りながら来た。兄貴が「こういうのが乗る客だ」と言い、客引きが始まった。「お前達も踊ったら・・・」と言う事で、二人は踊り始めて駕籠の回りを踊った。「旦那、ここらでお駕籠に乗ってください」と言うと、
 「乗りたいけれどお金がない」。

 


1.「蜘蛛駕籠」の噺について
 
志の輔はここで話を切っていますが、これではなぜ「蜘蛛駕籠」なのか分かりませんよね。この話の続きを橘家円蔵の噺で聞いてみましょう。

 手が鳴って振り向くと、駕籠の中から「仲(吉原)まで行ってくれ」との嬉しい言葉。その上、1分(ぶ)のところ2分出すという。担ぎ出したが重いのでビックリしたが祝儀が出ているので行く事にした。
 駕籠の中では2人が悪いシャレをしたと話あっている。こんな狭い所で男同士が向き合っているのはツライ、まるで相撲をしているようだ。仕方話になって、2人とも本気になって力が入った途端、駕籠の底が抜けてしまった。駕籠屋は怒るどころか呆れていた。「抜けたって良いだろう、向こうに着いたら駕籠は直してあげる。駕籠の中で走るからやってくれ」。と言う事で走り出したが、それを外で見ていた子どもが見つけて「おとっつぁん、駕籠屋の足が4本、駕籠の中に4本、アレはなんて言う駕籠なんだい」。
「アレが本当の蜘蛛駕籠だ」。

 円蔵は噺のマクラで、蜘蛛駕籠は
 「空の雲のように定住しないで、あちらやこちらで、流しながら客を拾うからだとか、蜘蛛のように網を張っていて獲物(客)を捕らえるからだとか、二つの説があるようです」。と言っています。

 酔っぱらって、何度も同じ事を言う酔っぱらいを、落語仲間の符丁で「あら、熊さん」と言います。

おとし
 大津街道蹴上(けあげ。京都市東山区の地名)辺りに、駕籠かき二三人寄り合ひ、「駕籠やろ、駕籠やろ」といふてゐる所へ、人足回しらしき者が、息せきと走り来て、「コリヤ、コリヤ駕籠の者」、「ハイ」、「駕籠が五挺」、「ハイ」、「人足が八人」、「ハイ」、「こふは行なんだか」といふた。

 「軽口噺し鳥」(かるくちはなしどり)より”おとし” 明和の頃。 作者不詳。『うき世絵ばなし』にもあり。
 おとし=上手く相手をはまらすこと。

 落語の概略の中でも同じ話が使われています。その原話です。注文と思いきや問い合わせであった。
2012.10.追記


2.六郷の渡し
 東京と神奈川県の県境・多摩川を渡る旧東海道に有った渡し。

   

江戸近郊八景之内 玉川秋月
歌川広重 1835頃

 第一京浜国道に架かる六郷橋の所にあった渡しで”六郷の渡し”。江戸側は今の国道に沿って旧東海道があり、土手に突き当たって降りた所が船着き場でした。川崎側は今の六郷橋の下あたりです。
 六郷橋は家康が慶長5年(1600)架橋。六郷橋は千住大橋についで古く。最初の長さは108間(196.6m)であったが、貞享元年(1684)に改修された橋は4メートル長くなり、両側に高欄(擬宝珠)の付いた立派なものであった。当時の規模も大きく橋幅も4メートルほどであった。橋の工事は、多摩川の流路を変える堀をほるなど大工事であった。六郷橋は両国・千住の大橋と共に「江戸三大大橋」と呼ばれた。
 
その後破損修復を繰り返しながら貞亨(1688)の洪水で流失以降架橋は絶え、交通は六郷の渡しに依る事になります。当初渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6年(1709)川崎宿が幕府からその運営を任せられます。

 明治7年(1874)八幡塚村の元名主であった鈴木左内が有料の橋を建設。別名左内橋と呼ばれ、この時から渡船が無くなります。
 私財を投じて建設した左内橋も、たびたびの災害による補修で金食い橋と呼ばれたが、完成から約5年後大洪水によって橋は流され、短い寿命を終えてしまった。その後はまた渡しに逆行してしまった。数度の流失に耐えて現在の橋が建設されています。

■六郷の渡しを浮世絵から紹介しましょう。それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

 1  2  3
東海道五十三次 六郷渡
柳川重信 1804
東海道五拾三次之内 川崎  
六郷渡舟 広重 1833・4
江戸名所図絵 六郷渡場
長谷川雪旦 1834
 4  5  6
東海道五十三次之内 川崎  
六郷の渡し舟 広重 1841頃
六合渡し場の景(3枚組)
広重 1847
東海道五十三次 川崎  
六郷のわたし 広重 1849頃
 7  8  
絵本 江戸土産 六郷川舟渡
広重 1850
六郷渡
柳々居辰斎
 
 9    10
武州六郷渡船図(3枚組)
魁斎芳年 明治元年(1868)
明治天皇が江戸に入るさい、舟を並べてその上に板を敷いた舟橋を作った。
  六郷川蒸気車往返之全図(3枚組)
広重(三代) 明治4年(1871)
新橋・横浜間の鉄道が開通し、鉄橋の上を汽車が走り抜けていますが、下流では相変わらず、渡船です。

  絵図は大田区立郷土博物館所蔵「よみがえる大田区の風景」より
大部分の絵はバックに富士山が描かれています。ですから、手前が江戸側、川向こうが川崎になります。川は右側から左に流れています。

 蛇足;絵図9を見てください。江戸(東京)に入る天皇の行列を描いたものですが、隊列から見て手前が東京です。当然向こう岸が川崎になります。川の流れは右から左に流れています。おや?おかしくありませんか?
 川の流れで川面に浮かんだ舟は引っ張られて左に円弧を描くはずです。どう考えても上流に舟が流される事はありません。ではどうしてこの様な間違いがあったのでしょう。作者は当日写生をしてなくて、後日想像で描いたと言われています。その理由は同時にこれだけの行列が橋の上には乗れないので、天皇の威勢を後世に残す為であったと言われています。
 最初の疑問に戻りますが、私はこの様に思っています。
1.ロケーション無しで、後日想像から描いた事が分かっていますので、川の流れを勘違いしてしまった。
2.この絵は版画ですから、版木を起こした時には正常の左側に弧を描いていた。

  大田区立郷土博物館の学芸員さんに聞きました。絵は写真と違って画家の感性で描かれているので、写実性に合っている間違っていると言う事は考えてはいけないと言います。また版画でも原画はこの様に描いて彫り師に渡すので、完成品と原画は同じで、裏焼きのような事は無いでしょうとの事です。

 多摩川に架かる六郷橋は河口に近いので、大潮時は川の流れが逆流するのではないかとの、ご質問をいただきました。ハッとするようなイイご提言です。私、六郷橋下に大潮時を見計らって行ってきました。結果、逆流します。しかし、計測ではたったの20分間だけでした。そこで、結論ですが、
 天皇の隊列が渡る時に、こんな短い時間で渡れるでしょうか。また、危険で不安定な逆流時に渡るでしょうか。小潮でしたらもっと短いか、逆流は起きないと思われます。
私の結論:やはり、流れを間違って絵にした公算が大です。やはり写生をしていない、ミスが出てしまったようです。
07年4月4日六郷橋下で大潮時調べる。

皆さんからのご意見を待っています。

 

3.川崎宿(神奈川県川崎市)
 
あらっ、熊さん。あらっ、熊さん」と呼び止められた所は、六郷の渡し。何回(?)も呼び止められた地名は川崎宿の入口です。

 江戸に幕府が開かれたあと、東海道の開設とそれによる交通量の増大のため、重要な要衝になった。当初は品川から神奈川までの間5里(20km)に宿場はなかったが、1627年に中間の川崎が宿駅となった。
 元禄3年(1690)版の地図によると、橋が描かれ108間(196.6m)有ったと記されています。日本橋から東海道の最初の宿が品川宿で、次が川崎宿です。 東海道53次の2番目の宿駅です。1843年には、人口2433人、住戸541軒、宿屋72軒、全長1800mの川崎宿を形成していました。
 庶民の行楽の地、平間寺(川崎大師)はこの渡しを使って楽しみに行っていた。この落語の設定もその様になっています。川崎大師は第102話・落語「大師の杵」で紹介した所です。

八幡塚村
 多摩川の左岸江戸側の村、江戸期の六郷側は八幡塚村と言われた。この頃の村の人口は、江戸後期7500人ほどであったという。渡しの近くにイカダの中継点、イカダ宿があって賑わった。左内橋を掛けた鈴木左内もこれで利益を上げ、その材木で架橋したとも言われる。多摩川上流の杉や檜で有名な青梅材を扱って、ここから江戸に舟に積まれたり、イカダに組み直されたりして出荷された。

 

4.神田竪大工町
 第106話・落語「子別れ」の中の熊さんが住んでいた所。熊五郎は吉原の見世で名乗りを上げる「俺は神田竪大工町にいる大工の熊五郎てぇ堅気の職人だぁ・・・」。
 また、第37話・落語「三方一両損」で、大工の”吉五郎”がサイフを落とし、鰯の塩焼きで一杯呑んでいた所。

 どちらにしても落語界の大工さんは皆ここ、神田縦大工町に住んでいた。今は内神田三丁目(JR神田駅西側)。「大工調べ」の棟梁”政五郎”もここに住んでいた。
 


  舞台の六郷の渡し跡を歩く

 川崎宿を訪ねます。JR川崎駅より京急川崎駅が近くて便利でしょう。
 京急川崎駅より第一京浜国道に向かって商店街を歩きます。まもなく旧東海道の交差点に出ますので、真っ直ぐ行くと競馬場に行ってしまいますので、必ず左に曲がります。
 曲がりましたか? その旧道には「旧東海道」の石柱が幾つも建っていますので、間違わずに商店街を歩く事が出来ます。左側にナマコ壁の「砂子(いさご)の里資料館」が現れます。私設の資料館で無料ですが、浮世絵、川崎宿の模型などが揃っていて見応えがありますので是非寄ってください(日曜祝日休館)。ここら辺りが川崎宿の中心地で、「佐藤本陣跡」や「田中本陣跡」がその前後にありますし、川崎宿の行政を司る「問屋場(といやば)跡」などもあります。旧道の右側は堀之内と言えばよき男性達はニヤリとする、吉原と並ぶお風呂屋さんが密集する歓楽地です。
 寄り道せずに歩くと・・・、歩いていますよね。旧東海道は一本道なので間違わずに六郷橋の下に出ます。橋をくぐって一方通行の出口の所に「万年横町跡」の小さい碑が建っています。真っ直ぐ行けば川崎大師にいけますので「大師道」と言います。当時万年(屋)と言う奈良茶飯しで有名な茶屋が有ったところです。
奈良茶飯とは塩を少し加えた茶飯に炒り豆や焼き栗などを混ぜて、濃い煎茶を掛けて食べるものです。
 橋に沿って左に曲がると、土手上に出て多摩川が目の下に望めます。
 土手上には、六郷の渡しの説明板や天皇の「武州六郷渡船図」(上記浮世絵、9図)のレリーフが飾られています。川崎大師の灯籠があり、ここから歩行者用の測道を通って 六郷橋を東京側に渡ります。

 橋を右にして、東京側の土手上に立ちます。
 今まで居た川崎側をのぞむと、河川敷が大きくて多摩川の本流を見る事が出来ませんので、いま渡ってきた橋に沿って川端まで土手下を行きます。川はくびれていますので流れは速く、渡船の時は結構操船が難しかったでしょう。先程のボート桟橋や下流を見ると大師橋も見ることができます。橋をくぐって右側(上流)に出ると、四角く石積みされた木橋の遺構が見られます。ここに架かっていた木橋が何回も流されたのでしょうね。
 元の土手(東京側)に戻ります。六郷橋をくぐり河川敷のゴルフ練習場がある土手を町側に下りると「止め天神」(北野天神)が有ります。その境内に木製の「六郷渡し跡」の標柱が有ります。その先、六郷橋への誘導道路の空き地が公園になっていて、その中に先代の六郷橋の橋門と親柱が残されています。
 また橋の下をくぐります。橋に沿った道が東京側の旧東海道です。その先4〜500m位の今の第一京浜国道と“Y”の時状に合流するところに「六郷神社」があります。唯一の旧東海道を彷彿させる神社です。

 

地図

   地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

川崎・万年横町(神奈川県川崎市旭町)
川崎側の土手際にあります。写真前方は六郷橋の接続部分。この下をくぐると旧東海道で南下します。右側が多摩川の土手で渡し跡があります。
この後ろ(カメラマン)側に続く道が川崎大師につながる道「大師道」です。当時奈良茶飯で有名だった茶屋「万年」の状況。

川崎・旧東海道(神奈川県川崎市本町)
六郷橋を抜けて旧東海道を歩くと、50mおきぐらいに旧東海道を示す石柱が建っています。旧田中本陣跡付近です。写真正面が多摩川方面、右側が堀之内の歓楽街、左側が京急の川崎駅があります。

川崎宿場模型(神奈川県川崎市本町)
私設「砂子(いさご)の里資料館」内の江戸期の川崎宿模型。学芸員さんの許可を得て撮影しています。右側の黒い川が多摩川で、渡しがあって左に東海道は延びています。渡しから上がったところに、「万年(屋)」があってここで一息入れて旅立ちました。上の万年横町の碑がその場所です。

川崎側渡し跡(神奈川県川崎市旭町先)
六郷橋の下流側、橋の直下に渡しがありました。川崎側にはボート乗り場(マリーナ)の桟橋があるだけで、その面影はありません。川向こうの河川敷にはホームレスの掘っ建て小屋がありますが、その当たりに茶店や待ち合わせの小屋などがあったのでしょう。

東京側・渡し跡(東京都大田区仲六郷先河川敷)
上記の写真の対岸から臨んでいます。上を走るのは当然六郷橋。
中州状にせり出した河川敷部分から対岸に渡りますが、川幅が狭まった分、流れは速くなっています。

東京側・木橋遺構(東京都大田区仲六郷先河川敷)
六郷橋下から上流を見ています。橋影で黒く土手が見える先、四角く飛び出した部分は、何回も流された木橋があった、その接続部分跡です。水中を見ると朽ち果ててはいますが、棒杭が立ち並んでいるのが見えます。

東京側・河川敷(東京都大田区仲六郷先河川敷)
土手上から 見ています。河川敷が大きくて川の本流は見る事が出来ません。正面のマンションは川崎です。河川敷にはゴルフ練習場や野球場、ゲートボール場があって、皆さん楽しんでいます。

東京側・旧東海道(東京都大田区東六郷3)
上記土手を下りると橋の側道から、4〜500mは旧東海道が本道と並行して残っています。写真は旧東海道から六郷の土手を見ています。

東京・六郷神社(東京都大田区東六郷3)
旧道が現在の国道と合流するところに、六郷神社があります。渡しに乗る前に道中の安全を祈願したのでしょう。江戸の絵図にも残っている古社です。

東京・渡し跡標柱(東京都大田区仲六郷4−29)
六郷橋と京急の陸橋に挟まった土手下にある、止め天神境内 の「六郷渡し跡」の標柱です。柱には「日本橋へ四里半」、「六郷の渡し」と記されています。

東京・先代鉄橋の門橋(東京都大田区仲六郷4)
上記の止め天神の隣、六郷橋のたもとに小さな公園があって、その中に、大正14年完成の先代の六郷橋の橋門と親柱部分が残っています。昭和59年(1984)に現在の橋に架け替えられました。

                                                       2007年3月記

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