落語「鼻欲しい」の舞台を歩く
   

 

  立川談志の噺、「鼻欲しい」(はなほしい)によると。

 

 無礼討ちと言うことが有った時代、逆に町人に刀を奪われ鼻をそぎ落とされた武士がいた。
 殿様の前で事情を聞かれ説明すると、「不埒な奴だ、永のいとまを取らせる」と言うことで、解雇されて長屋住まいの浪人となった。読み書きが出来るので、手習の師匠になった。子供たちに実語教の素読の稽古をしても、言葉が鼻に抜け、「みにゃひゃん、ぴゃんとおつくえにむがって。やまははきがゆえにはっとからず」、これではわからない。子供達は馬鹿にして、「鼻無しの先生」、「鼻欠け先生」と言われて、見栄坊の先生だから恥じて昼間は外出もしないようになった。
 心配した奥方は、気晴らしに川崎大師見学かたわら参拝に行くよう勧めた。

 旅支度をして、品川の棒鼻まで来たら、馬子に馬を勧められて乗ることになった。道中お客を飽きさせないのも馬子の腕、馬子の頭は綺麗に禿げていて、後ろに僅かの毛で髷を結っている。
 そこで浪人、狂歌を一首、「はぎやま(禿山)のみゃえ(前)に 鳥居はなけれども うひろ(後ろ)に かみ(神、髪)がひょっとまひまふ(ちょっとまします)」。
 馬子、なるほど江戸のだんなは違うと感心しながら、「だんなァ、わしが一つ返歌すべえか。けれども、怒っちゃいけねえよ」、「歌だ、風流の道、怒らんからやれ」、「山々に名所古蹟は多けれど、はなのねえのが淋しかるらん」、「やまやまにめいひょこへきはおおけれど、はにゃのにゃいのが・・・うーム、馬方、馬をとみろとみろッ」、浪人、恥をかかされて真っ赤になって怒った。「それだから、怒っちゃだめと断ったでがす」、「だみゃれ、ぶひに対ひて不埒なことを言うやつ」、馬を飛び降り、駄賃を投げ出し、そのまま駕籠(かご)に乗って家に引き返した。

 怒りがおさまらず、驚く奥方に一件をぶちまけたが、興奮のあまり、最後はフニャフニャと、何を言っているか聞き取れない。奥方、聞き終わると、たすき十時にあやなして、やにわに長押(なげし)のヤリをつかんで「あなた、御免あそばせ」と、外へ飛び出した。
「これ女房、血相変えていずれへみゃいる」、「知れたこと。後追いかけてあなたさまの仕返しを」、
「へぐまい(急くまい)、雉も鳴かずば打たれみゃい、歌も詠ますば返歌もしみゃい」、
「口惜しゅうございます」、
「そちは口おひいか。わひは、はにゃが、ほひい」。

 


 

 この噺「鼻欲しい」は、桂文治も演じています。ドガチャカに面白いのですが、鼻から息が漏れるので、文章に落とせません。文治は「口欲しい」という題名で演じています。


1.江戸から川崎大師へ
高輪の大木戸;港区高輪二丁目19 第一京浜国道沿い。

 「大山詣りで高輪の図」(富士登山諸講中の図とも、高輪の喧嘩とも)国芳画 国立国会図書館蔵
 手前の白装束の一団は富士講のグループ、他の人達は大山講の人々。江戸湾が見える高輪の茶店で一休みして、江戸との別れを告げているところ。左手に高輪大木戸の石垣が見えます。落語「三人旅」で歩いたところ。
 高輪の大木戸で見送り人とは別れました。また、奉行の警察権の線引きがここまであった。東海道はここを抜けると品川の宿駅に入って行きます。

品川(しながわ);東海道五十三次の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。落語「品川心中」で歩いたところ。
品川を抜けて馬に揺られて行くと、鈴ヶ森の公開処刑場の前を通過します。

 東海道五十三次「品川」広重画 東海道最初の宿場。風光明媚で魚が旨く、飯盛女も多く四宿の一つとして、宿場の性格より岡場所の性格の方が強く大いに栄えた。宿場の境界を表した棒鼻(榜示杭)が手前に見える。

 ■鈴が森の刑場;(品川区南大井二丁目−5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
 『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺目頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。 江戸刑場史上、小塚原とともに重要な遺跡である。』
(東京都教育委員会説明板より) 落語「くしゃみ講釈」より

 「江戸名所図会」より鈴の森。左ページ街道筋上部が刑場
 丸橋忠弥は鈴ヶ森刑場最初の処刑者で江戸時代の反乱事件「慶安の変」の首謀者由井正雪と並ぶ一人。反乱は密告によって未然に防がれ、忠弥は江戸町奉行によって寝込みを襲われた際に死んだが、改めて磔刑にされさらされた。
落語「鈴ヶ森」で歩いたところ。

多摩川の渡し;大田区と神奈川の県境を流れる多摩川に架かる六郷橋。第一京浜国道を渡し、旧東海道はこの地点に多摩川の渡しがあった。

 東海道五拾三次之内 「川崎」  六郷渡舟 広重画 1833・4  対岸が川崎で、上陸して左に曲がり大師河原弘法の道を通り川崎大師に至る。落語「蜘蛛駕籠」で歩いたところ。

川崎大師(かわさきだいし);平間寺は神奈川県川崎市川崎区にある真言宗智山派の大本山。川崎大師の通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院。高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東三本山のひとつ。尊賢を開山、平間兼乗を開基とする。落語「大師の杵」で紹介。だるま市が有名。

 江戸名所図会 「川崎大師」

 

2.鼻欲しい
 江戸時代も入れ歯があったように、”付け鼻”が有ったようです。

 「入歯入鼻仕候」と看板有り。鼻の無き人、「これ幸い」と、細工を頼みければ、早速に入れくれけり。価を問へば、「三両二分」といふに、ぎょっとし、「わづか二三寸の木の切れなり」と値切れども、「少しも掛値はござらぬ」と、角目(つのめ)立って言いければ、かの人も腹を立てたかして、「鼻はそっちのもの、顔はおれがものなれば、鼻さへ戻せば元々」と、入鼻を取って打ち付け、さんざんに木鼻(火花)を散らして争ひけり。
 「軽口恵方の若水」より 都立中央図書館(加賀文庫)蔵

  逆に、医者に鼻を付けてもらったついでに、赤い鼻のスペアを作らせ、「これは酒に酔った時の」付け替え用だという。用意周到な患者もいたのでしょう。

 

3.寺子屋
 江戸時代、教養の高さや識字率の高さはヨーロッパの最先端パリやロンドンを数倍引き離して5割以上の力を持っていた。江戸の終わり頃には男子7〜80%、女子で20%、武家では100%の高さを誇っていた。女子の低いのは、稽古事の踊・唄・楽器・作法や裁縫、家事万端にも時間を割いています。
 子供は5〜8歳になると寺子屋に入った。寺子屋の名称は江戸時代前の教育が寺で行われていた名残り。先生つまり手習いの師匠は浪人、僧侶、医師、神官、等で12〜3歳までの生徒に読み・書き・そろばんを特に教えた。授業は平均あさ8時頃から昼休みを取って2時頃までで、月謝は決まってはいず、身分や貧富に応じて出していた。幕末の江戸には四千軒以上有った。寺子屋は現在の教室とは違って、個別授業であった。 
 寺子屋を出ると、向学心が有る者(武家)では私塾に通ったり、幕府の肝いりの昌平黌に進んで最高の勉学に励んだ。
 その結果、明治に入って欧米化が急速に進んだのも、この下地があったからです。また、江戸時代には貸本屋という商売があって、繁盛していたのもこのお陰です。

 一掃百態より「寺子屋の図」 渡辺崋山画 (田原町教育委員会蔵)
 この自由奔放な教育風景。習字で紙が貴重品ですから何度も書き足し真っ黒、乾くまで、喧嘩で時間つぶし。

 

4.言葉
無礼討ち(ぶれいうち);斬捨御免。手討、打捨とも。江戸時代、武士の特権として、無礼を働いた下士・町人・百姓などを斬り捨てても、とがめられなかったこと。御免と言われたってこちとら命が掛かっているのですから、それでは済まない。後期になると、奉行所で厳密に取り調べられたし、町人も力をつけてきたので軟な武士では歯が立たなかった。落語「たがや」の例もあります。
寛保2年(1742)幕府の法典「公事方御定書」により「辻斬りは引き回しの上死罪」と決められた。

鼻の障子(はなのしょうじ);鼻腔を二つに分ける軟骨。そこに梅毒の病原体が侵入し、末期は腐って鼻梁が落ちます。円生などは鼻の落ちるのを梅毒でやっていますが、談志は刀で切り落とされてしまいます。
 他に鼻が落ちることは考えても居ませんでしたが、あるんですね。「七両二分で片が付き」とか、「二つに重ねて四つにする」とかの言葉が残っていますが、その時に相方の男の鼻をそいだという話も残っています。え!「ベールに包まれたような解説するな」、ですって、判らなかったら親切な隣の男の人に聞いて下さい。

梅毒=(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ  (Treponema pallidum) によって発生する感染症、性病。 in vitroでの培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA 配列が決定、公開されている。
 抗生物質のない時代は確実な治療法はなく、多くの死者を出した。慢性化して障害をかかえたまま苦しむ者も多かったが、現在ではペニシリンなどの抗生物質が発見され、早期に治療すれば全快する。罹患患者も減少しているが、根絶された訳ではない。
 昔は鼻部の軟骨炎のために鞍鼻(あんび)や鼻の欠損になることがあり、川柳などに詠われていた。江戸時代の夜鷹などには『鼻欠け』が多かったので、川柳に詠まれた。
 「鷹の名にお花お千代はきついこと」
夜鷹の女に鼻なしが多いのを皮肉ったもの。「お花お千代」はもちろん「お鼻落ちよ」の掛け言葉です。

実語教(じつごきょう);寺子屋で、子供に読み聞かせている教科書。多くは対句をなす五言句48聯からなる児童教訓書。鎌倉時代成立。1巻。作者不詳。勉学の勧めや日常道徳などを仏教語をまじえて説く。江戸時代手習所教科書として使用。一緒に勉強しましょうか、

 山高故不貴 以有樹為貴 「山高きがゆえに貴からず、木有るをもって貴しとす。」
 山は高いから価値があるのではない。そこに木々があるからこそ価値があるのだ。
”富士を見ぬ 奴がつくりし 實語教”という川柳が作られたりした。
 人肥故不貴 以有智為貴 「人肥えたるがゆえに貴からず、智あるをもって貴しとす。」
 人は裕福だから偉いのではない。智恵があってこそ偉いのである。
 敬老如父母 愛幼如子弟 「老いたるを敬うは父母のごとし、幼(いとけなき)を愛するは子弟のごとし。」
 年寄りのことは自分の両親のように敬い、幼い子供は自分の子供や弟妹のように愛しみなさい。
 玉不磨無光 無光為石瓦 「玉磨かざれば光無し。光無きを石瓦とす。」

 元治元(1864)甲子年 新刻判「實語教童子教」 馬喰町四丁目 分江堂 吉田屋文三郎出版 自家蔵

素読(そどく);文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声を立てて読むこと。漢文学習の初歩とされた。

棒鼻(ぼうばな);榜示杭(ぼうじくい)という。宿場の境を示す為に打ち込まれた杭。宿駅の出入り口に建つ杭。
 右写真;榜示杭(品川歴史館、復元杭)。東海道五十三次「品川」広重画に描かれた榜示杭の復元品。

狂歌(きょうか);諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑歌、古今集の誹諧歌の系統をうけつぐもので、鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸初期および中期の天明頃に流行した。えびすうた。ざれごとうた。

返歌(へんか);人から贈られた歌に対する返答の歌。かえしうた。

馬子(まご);馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人。うまかた。

駄賃(だちん);駄荷の運賃。また、品物を送り届けた賃銭。運び賃。人を乗せても言うし、特に、子供へのほうび。

駕籠(かご);乗物の一。古くは竹、後には木でも作り、人のすわる部分の上に1本の棒を通し、前後からかついで運ぶもの。身分・階級・用途などにより種類が多い。タレが付いているので外からは見られない。

長押(なげし);日本建築で、柱と柱とを繋ぐ水平材。建具の上に水平に走り支える部材。ヤリや薙刀などはここに置く。

雉も鳴かずば打たれまい;雉も鳴かずに静かにしていれば猟師に打たれることも無い事から、無用のことを言わなければ、禍いを招かないですむことのたとえ。
注:ことわざで定型句なので、”うたれまい”は「打たれまい」と書き、「撃たれまい」とは書かない。
 


 
 舞台の大木戸から川崎大師を歩く

 

 東海道を鼻無し師匠と歩きます。

 東海道の起点は日本橋ですが、師匠の寺子屋は何処に有ったのか分かりませんから、江戸の奉行の捜索範囲が終わる高輪大木戸から歩き始めます。ここを集合地点として奥様の見送りもあって、さ〜、出発です。

 旧東海道は国道15号線、第一京浜国道がそうですが、ホントの旧道は近くを並行して走っているところもあります。この高輪大木戸は国道になって車幅が広げられ、大木戸の土塁がその影響で片側を削られて海側の土塁しか残っていません。甲州街道の新宿・大木戸は名前が残りましたが、土塁は何処にも有りませんから、ここはこれで良しとしましょう。江戸の錦絵を見ると、ここで見送りの人と茶屋でお茶などを飲んで別れを惜しみ、また、迎えの人達とは再会を喜び合った所です。東海道の直ぐ前(東)は海で、風光明媚な所だったのでしょう。現在は、埋め立てが進み見渡しても海岸線は見えず、JRの山手線、京浜東北線、東海道線、新幹線等が走り、海の上に出来た土手の上を走っていた鉄道が、今では大木戸のビル一軒裏を走り抜けています。品川・田町間には品川の操車場が有り、JRの敷地は広く、ここを整理して山手線の新駅を作ることが決定しています。丁度この高輪辺りですから、駅名は「高輪」が最適ではないかと、私は考えています。

 高輪大木戸跡は地下鉄泉岳寺駅前で、ここから一駅で品川駅になります。ここからまた、歩き始めて、京急(京浜急行)は旧東海道に沿って走っていますので、つかず離れず歩いて行きます。
 品川駅を出て最初の南の交差点を京急にそって左に曲がると、下の川は水ではなくJRの幹線が何本も走っている列車の流れで、橋を「八ツ山橋」と言い、渡ると小公園になっていて、品川宿の地図や説明、トイレやベンチがあります。案内地図には八つ山のこの地点に”ゴジラ”が上陸したところだと書き込まれています。ゴジラどころか落語「品川心中」の貸本屋の金蔵さんが心中仕損なって上陸した所でも有ります。
 これから歩くんだぞ、と言う楽しみが湧いてきます。京急「北品川駅」が見える踏切の向こうは品川宿の始まりです。踏切手前の左側に、「従是南(これよりみなみ) 品川宿 地内」と書かれた棒鼻が建っています。

 踏切を渡った最初の一歩は、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川一丁目)です。その先、北品川宿(北品川二丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川一丁目)の三区画に分かれていて、宿は約1.5kmの長さがありました。歩行新宿に落語「品川心中」で有名な飯盛女がいる貸し見世が集中していて、島崎楼跡や土蔵相模跡があります。奥に進むと品川宿の中心を成していた本陣跡は「聖蹟公園」として活用されています。品川宿を終わったところで、このまま真っ直ぐ進むと、今歩いた距離ぐらいで鈴ヶ森刑場跡に出ますが、軟弱な私は右に曲がって京急「青物横丁駅」に出て、電車で向かいます。

 京急「大森海岸駅」で下車して、第一京浜を戻る形で鈴ヶ森処刑場跡に行きます。この刑場跡は処刑された受刑者の菩提を弔う為建立された大経寺によって管理され、綺麗に整備されています。本堂の南側に石碑や記念碑が多く林立していますが、第一京浜国道の開通で、南端は三角形に切り取られていますので、当時の大きさ・規模からするとこじんまりとなっています。ここで処刑された有名人(?)として、丸橋忠弥、天一坊、白井権八八百屋お七白木屋お駒などがよく知られています。人がメッタにやって来ない場所ですから、私も早々に遠慮させていただき、南隣の品川水族館を観ます。ここは家族連れの多くの人で賑わい、イルカショーや今流行のクラゲを観たり、サメの泳ぎを間近で観て、先程の暗から明に気分転換します。

 京急「大森海岸駅」から川崎の一つ手前の「六郷土手駅」まで行き、東側の六郷橋を歩いて渡ります。第一京浜国道を渡していますので、車道と歩道は完全に分離されていて安全で川風に吹かれながら対岸の川崎に入ります。六郷橋の下が渡し場が有ったところで、陸に上がって道なりに右に行くと川崎宿です。その右に曲がる角に奈良茶飯で有名な「万年屋」が有りました。(下図)

 『江戸名所図会』斎藤長秋 編、長谷川雪旦 画に描かれた「万年屋」。
 宿場入り口の右角が「万年屋」が有った場所で、現在は第一京浜国道の高架橋の下になっています。絵の左側は東海道が突き当たり左に曲がると六郷の渡しに、そして右側に進むと、道の名が変わって大師道と言われ、川崎大師に繋がっています。
 右;川崎宿の「砂子の里資料館」 模型より

 川崎大師まで歩いてもイイのですが、川崎宿の旧東海道を見学しながら京急川崎駅に向かうのもまた楽しいでしょう。街道には旧東海道の石柱も有りますし、「砂子(いさご)の里資料館」もあって川崎宿の賑わいを感じることが出来ます。
 京急「川崎大師駅」で降りると、駅前からお大師さんの参道よろしくお土産屋さんの行列ですから、道に迷うこともなく、たどり着けます。
 当日は「風鈴市」が開かれていて、普段より大勢の参拝客で賑わう境内です。と思います。空模様も芳しくなく、時折ぱらつく雨の中、無事参拝を終わらせました。

 六郷の渡しを渡る前には、いたはずの寺子屋のお師匠さんは駕籠に乗って江戸に逆戻り。奥様が言われたように、私だけでもと、参拝して帰って来ました。

 

地図

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写真

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高輪大木戸跡(港区高輪二丁目19番地)
 宝永7年(1710)、東海道から江戸府内の入口として、設けられた大木戸の跡。木戸は始め、元和2年(1616)に芝口門が建てられ、高札場が置かれ札の辻に設けられたが、700m南の同所に移転し高札場として大木戸が設けられた。 木戸は、始めは街道の両側に築かれた幅約20mの土塁の間に木戸を設け、明け方六ツに開き、暮れ六ツに閉じて、治安の維持と交通規制の役割を果たした。 現在の木戸の大きさは両脇に長さ五間(9m) 、幅四間(7.2m) 、高さ一丈(10尺=3m)の石垣であり、間に柵と門が設けられた。

品川宿・棒鼻(品川区北品川一丁目4 京急踏切際)
 東海道五十三次「品川」広重画で有名な品川宿入口風景は、現在のJR品川駅南側の京急北品川駅の北側に有る踏切から宿場は始まります。
 写真前方に見える街道が品川宿です。踏切手前左側の電車の手前に棒鼻が見えます。広重の絵と現在地は一致しませんが、絵は写真と違いますから深く追求してはイケマセン。いえ、現代の棒鼻が後から建てられたので空きスペースを利用したのでしょう。

鈴ヶ森刑場跡(品川区南大井二丁目5大経寺内)
 写真左側が刑場跡で、ここで処刑された、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などが有名です。第一京浜国道と旧東海道に挟まれた地に有ります。刑場跡地の向こう側に見える道が旧東海道で、左に行くと品川宿、右に行くと大森から多摩川の渡しへ行きます。

多摩川の渡し跡(東京・神奈川の県境の多摩川を渡す)
 京急の多摩川鉄橋から六郷橋を見ています。六郷橋下に渡しの跡が残っています。右側が東海道二番目の宿駅・川崎の町、左側が東京側の河川敷です。

万年横町(川崎市川崎区旭町一丁目2)
 六郷の渡しから川崎宿に入ると、万年屋・会津屋・新田屋などの旅籠や茶屋がありました。特に万年屋は、奈良茶飯が評判でした。米国総領事ハリスや皇女和宮も宿泊しました。万年屋から左に曲がり医王寺までを万年横丁と呼んでいました。 この街道を別名大師道と呼ばれていました。
 写真;左側に多摩川が並行して流れ、背中方向に万年屋跡があり、川崎宿に入っていきます。右隅に大師道の標柱が建っています。



川崎大師(川崎市川崎区大師町4)
  今を去る880余年前、崇徳天皇の御代、平間兼乗(ひらまかねのり)という武士が、生国尾張を追われ、諸国を流浪したあげく、この川崎の地に住みつき、漁猟をなりわいとして、貧しい暮らしを立てていました。
 兼乗は深く仏法に帰依し、とくに弘法大師を崇信していましたが、わが身の不運な回り合せをかえりみ、また当時42歳の厄年に当たりましたので、 日夜厄除けの祈願をつづけていました。
  ある夜、ひとりの高僧が、兼乗の夢まくらに立ち、「我むかし唐に在りしころ、わが像を刻み、海上に放ちしことあり。已来未(いらいいま)だ有縁の人を得ず。いま、汝速かに網し、これを供養し、功徳を諸人に及ぼさば、汝が災厄変じて福徳となり、諸願もまた満足すべし」と告げられました。兼乗は海に出て、光り輝いている場所に網を投じますと一躰の木像が引き揚げられました。それは、大師の尊いお像でした。 兼乗は随喜してこのお像を浄め、ささやかな草庵をむすんで、朝夕香花を捧げ、供養を怠りませんでした。
  その頃、高野山の尊賢上人が諸国遊化の途上たまたま兼乗のもとに立ち寄られ、尊いお像と、これにまつわる霊験奇瑞に感泣し、兼乗と力をあわせ、ここに、大治3年(1128)一寺を建立しました。そして、兼乗の姓・平間をもって平間寺(へいけんじ)と号し、御本尊を厄除弘法大師と称し奉りました。これが、今日の大本山川崎大師平間寺のおこりです。 (平間寺縁起より)  写真上;大提灯、下;本堂。

                                                        2014年8月記

 

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