立川談志の噺、「鼻欲しい」(はなほしい)によると。
この噺「鼻欲しい」は、桂文治も演じています。ドガチャカに面白いのですが、鼻から息が漏れるので、文章に落とせません。文治は「口欲しい」という題名で演じています。
1.江戸から川崎大師へ
「大山詣りで高輪の図」(富士登山諸講中の図とも、高輪の喧嘩とも)国芳画 国立国会図書館蔵
■品川(しながわ);東海道五十三次の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。落語「品川心中」で歩いたところ。
東海道五十三次「品川」広重画 東海道最初の宿場。風光明媚で魚が旨く、飯盛女も多く四宿の一つとして、宿場の性格より岡場所の性格の方が強く大いに栄えた。宿場の境界を表した棒鼻(榜示杭)が手前に見える。
■鈴が森の刑場;(品川区南大井二丁目−5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
「江戸名所図会」より鈴の森。左ページ街道筋上部が刑場 ■多摩川の渡し;大田区と神奈川の県境を流れる多摩川に架かる六郷橋。第一京浜国道を渡し、旧東海道はこの地点に多摩川の渡しがあった。 東海道五拾三次之内 「川崎」 六郷渡舟 広重画 1833・4 対岸が川崎で、上陸して左に曲がり大師河原弘法の道を通り川崎大師に至る。落語「蜘蛛駕籠」で歩いたところ。 ■川崎大師(かわさきだいし);平間寺は神奈川県川崎市川崎区にある真言宗智山派の大本山。川崎大師の通称で知られる。山号は金剛山。院号は金乗院。高尾山薬王院、成田山新勝寺とともに関東三本山のひとつ。尊賢を開山、平間兼乗を開基とする。落語「大師の杵」で紹介。だるま市が有名。 江戸名所図会 「川崎大師」
2.鼻欲しい
「入歯入鼻仕候」と看板有り。鼻の無き人、「これ幸い」と、細工を頼みければ、早速に入れくれけり。価を問へば、「三両二分」といふに、ぎょっとし、「わづか二三寸の木の切れなり」と値切れども、「少しも掛値はござらぬ」と、角目(つのめ)立って言いければ、かの人も腹を立てたかして、「鼻はそっちのもの、顔はおれがものなれば、鼻さへ戻せば元々」と、入鼻を取って打ち付け、さんざんに木鼻(火花)を散らして争ひけり。
逆に、医者に鼻を付けてもらったついでに、赤い鼻のスペアを作らせ、「これは酒に酔った時の」付け替え用だという。用意周到な患者もいたのでしょう。
3.寺子屋
一掃百態より「寺子屋の図」 渡辺崋山画 (田原町教育委員会蔵)
4.言葉
■鼻の障子(はなのしょうじ);鼻腔を二つに分ける軟骨。そこに梅毒の病原体が侵入し、末期は腐って鼻梁が落ちます。円生などは鼻の落ちるのを梅毒でやっていますが、談志は刀で切り落とされてしまいます。
梅毒=(ばいどく、Syphilis。黴毒、瘡毒(そうどく)とも)は、スピロヘータの一種である梅毒トレポネーマ (Treponema pallidum) によって発生する感染症、性病。 in vitroでの培養は不可能のため、病原性の機構はほとんど解明されていない。1998年には全ゲノムのDNA 配列が決定、公開されている。 ■実語教(じつごきょう);寺子屋で、子供に読み聞かせている教科書。多くは対句をなす五言句48聯からなる児童教訓書。鎌倉時代成立。1巻。作者不詳。勉学の勧めや日常道徳などを仏教語をまじえて説く。江戸時代手習所教科書として使用。一緒に勉強しましょうか、
山高故不貴 以有樹為貴 「山高きがゆえに貴からず、木有るをもって貴しとす。」
元治元(1864)甲子年 新刻判「實語教童子教」 馬喰町四丁目 分江堂 吉田屋文三郎出版 自家蔵 ■素読(そどく);文章の意義の理解はさておいて、まず文字だけを声を立てて読むこと。漢文学習の初歩とされた。
■棒鼻(ぼうばな);榜示杭(ぼうじくい)という。宿場の境を示す為に打ち込まれた杭。宿駅の出入り口に建つ杭。 ■狂歌(きょうか);諧謔・滑稽を詠んだ卑俗な短歌。万葉集の戯笑歌、古今集の誹諧歌の系統をうけつぐもので、鎌倉・室町時代にも行われ、特に江戸初期および中期の天明頃に流行した。えびすうた。ざれごとうた。 ■返歌(へんか);人から贈られた歌に対する返答の歌。かえしうた。 ■馬子(まご);馬をひいて人や荷物を運ぶことを業とする人。うまかた。 ■駄賃(だちん);駄荷の運賃。また、品物を送り届けた賃銭。運び賃。人を乗せても言うし、特に、子供へのほうび。 ■駕籠(かご);乗物の一。古くは竹、後には木でも作り、人のすわる部分の上に1本の棒を通し、前後からかついで運ぶもの。身分・階級・用途などにより種類が多い。タレが付いているので外からは見られない。 ■長押(なげし);日本建築で、柱と柱とを繋ぐ水平材。建具の上に水平に走り支える部材。ヤリや薙刀などはここに置く。
■雉も鳴かずば打たれまい;雉も鳴かずに静かにしていれば猟師に打たれることも無い事から、無用のことを言わなければ、禍いを招かないですむことのたとえ。
東海道を鼻無し師匠と歩きます。 東海道の起点は日本橋ですが、師匠の寺子屋は何処に有ったのか分かりませんから、江戸の奉行の捜索範囲が終わる高輪大木戸から歩き始めます。ここを集合地点として奥様の見送りもあって、さ〜、出発です。 旧東海道は国道15号線、第一京浜国道がそうですが、ホントの旧道は近くを並行して走っているところもあります。この高輪大木戸は国道になって車幅が広げられ、大木戸の土塁がその影響で片側を削られて海側の土塁しか残っていません。甲州街道の新宿・大木戸は名前が残りましたが、土塁は何処にも有りませんから、ここはこれで良しとしましょう。江戸の錦絵を見ると、ここで見送りの人と茶屋でお茶などを飲んで別れを惜しみ、また、迎えの人達とは再会を喜び合った所です。東海道の直ぐ前(東)は海で、風光明媚な所だったのでしょう。現在は、埋め立てが進み見渡しても海岸線は見えず、JRの山手線、京浜東北線、東海道線、新幹線等が走り、海の上に出来た土手の上を走っていた鉄道が、今では大木戸のビル一軒裏を走り抜けています。品川・田町間には品川の操車場が有り、JRの敷地は広く、ここを整理して山手線の新駅を作ることが決定しています。丁度この高輪辺りですから、駅名は「高輪」が最適ではないかと、私は考えています。
高輪大木戸跡は地下鉄泉岳寺駅前で、ここから一駅で品川駅になります。ここからまた、歩き始めて、京急(京浜急行)は旧東海道に沿って走っていますので、つかず離れず歩いて行きます。 踏切を渡った最初の一歩は、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川一丁目)です。その先、北品川宿(北品川二丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川一丁目)の三区画に分かれていて、宿は約1.5kmの長さがありました。歩行新宿に落語「品川心中」で有名な飯盛女がいる貸し見世が集中していて、島崎楼跡や土蔵相模跡があります。奥に進むと品川宿の中心を成していた本陣跡は「聖蹟公園」として活用されています。品川宿を終わったところで、このまま真っ直ぐ進むと、今歩いた距離ぐらいで鈴ヶ森刑場跡に出ますが、軟弱な私は右に曲がって京急「青物横丁駅」に出て、電車で向かいます。 京急「大森海岸駅」で下車して、第一京浜を戻る形で鈴ヶ森処刑場跡に行きます。この刑場跡は処刑された受刑者の菩提を弔う為建立された大経寺によって管理され、綺麗に整備されています。本堂の南側に石碑や記念碑が多く林立していますが、第一京浜国道の開通で、南端は三角形に切り取られていますので、当時の大きさ・規模からするとこじんまりとなっています。ここで処刑された有名人(?)として、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などがよく知られています。人がメッタにやって来ない場所ですから、私も早々に遠慮させていただき、南隣の品川水族館を観ます。ここは家族連れの多くの人で賑わい、イルカショーや今流行のクラゲを観たり、サメの泳ぎを間近で観て、先程の暗から明に気分転換します。 京急「大森海岸駅」から川崎の一つ手前の「六郷土手駅」まで行き、東側の六郷橋を歩いて渡ります。第一京浜国道を渡していますので、車道と歩道は完全に分離されていて安全で川風に吹かれながら対岸の川崎に入ります。六郷橋の下が渡し場が有ったところで、陸に上がって道なりに右に行くと川崎宿です。その右に曲がる角に奈良茶飯で有名な「万年屋」が有りました。(下図)
『江戸名所図会』斎藤長秋 編、長谷川雪旦 画に描かれた「万年屋」。
川崎大師まで歩いてもイイのですが、川崎宿の旧東海道を見学しながら京急川崎駅に向かうのもまた楽しいでしょう。街道には旧東海道の石柱も有りますし、「砂子(いさご)の里資料館」もあって川崎宿の賑わいを感じることが出来ます。 六郷の渡しを渡る前には、いたはずの寺子屋のお師匠さんは駕籠に乗って江戸に逆戻り。奥様が言われたように、私だけでもと、参拝して帰って来ました。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。 2014年8月記
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