落語「吉原綺談」の舞台を歩く
   

 

 古今亭志ん生の噺、「吉原綺談」(よしわらきだん)、芳原綺談雨夜鐘(あまよのかね)によると。

 

 ヤクザの権次は下谷長者町の湯屋から出てきた小町とも弁天とも唄われた十七・八の美女のお仲を見つけた。付いて行くと摩利支天の裏長屋に入って行った。お仲の家族は下谷仲町の御成街道で、14〜5人使う骨董屋を営んでいた常陸屋喜右衛門であったが、火事で焼け出されてからは、運から見放され零落して裏長屋住まい。生活が苦しくて、第六天の桂庵・雀屋に頼んで旦那を御願いしていた。
 それを知ったヤクザの兄貴・長次と権次が御家人の息子、美男の森新之助を誘い三人がぐるになって、お仲をたぶらかそうと計画をした。ニセの旦那を作って引きずり出して、150〜200両近くで売ってしまおうと計画していた。旦那に新之助がなって、損料で着物を整え、髷を結い直して、加賀様の家来・時次郎と名を変えて出掛けた。
 お仲は長屋に来た男だから、金ずるで来るような旦那で、酷い男だと思ったら、逆に心まで奪われるようなイイ男だった。お仲は身も心も新之助に、一途になってしまった。
 「恋しい御方にナゾ掛けられて解きゃぁならない繻子の帯」
毎晩通ったが、新之助は娘がイイので連れ出すのを躊躇していた。

 質屋の万屋が刀の目利きをして欲しいと、お仲の父親・常陸屋喜右衛門に持ってきた。50両で貸し出したので50両で売れればいいと万屋の話しであった品物なのだが、名刀で150両以上で売れると目利きした。父親は時次郎(新之助)に依頼して売却し、それで儲けることを考え、時次郎に刀を預けた。それを3人組に語り取られ、売却した150両を三人で山分けして、娘を置いて逃げてしまった。
 万屋から矢の催促。加賀様や雀屋に問い合わせると嘘が判明して、お仲さんは吉原に100両で身を売って金を作った。立花楼に出たお仲さんは見世の屋号をもらって立花として出たが、美女中の美女なので大層な評判者になった。

 新之助の父親が亡くなり、跡継ぎが居ないとお家断絶となるので、探しに探したら、品川の問屋場で遊んでいたのを見つけ出した。話をすると納得し家に収まると、これが立派な男になり、人の苦労も分かり、廻りからも褒められるような武士になった。
 道場の鏡開きに悪友4人と吉原に繰り込む。立花がいるというので、見世に上がると引き付けに通され、おばさんが出てきて、花魁を世話してくれた。新之助に立花が相手をしてくれることになった。立花がお仲であった。二人は、何でこんな所で会うのであろうと思ったが、仕方が無い。
 10両盗めば首が飛ぶ時代、役人に捕まることも覚悟した。部屋に来たお仲は「憎い〜!」、と新之助の胸ぐらをつかんで、母親は気苦労で亡くなり、父親も亡くなって独り者になってしまった。みんな貴方のせいで、親の仇、私の仇だと言い、会所に訴えて捕まえてもらおうと思ったが、それは出来なかった。「好きなのよ」と立花。
 立花と仲を取り戻して、新之助とお仲は起請を取り交わし、夫婦同様の仲になった。

 組頭の娘・お梅さんが寝込んでいるが、それはお前に恋い焦がれた恋煩いなのだと伯父さん。組頭の娘で美人なので一緒になれと言うが、新之助はお仲との件が有り、直ぐには返事が出来なかった。
 新之助は吉原に行った二人の若侍の使いで、立花との別れの話しを持ち込んだ。
 立花は「悔し〜ぃ」と髪の毛を掻きむしりバラして、柱に額をぶつけ眉間から血が流れ、下を向いて舌を噛み切って絶命した。
 二人の若侍は大引けだというのに見世から下駄と傘を借りて吉原を後にした。提灯は風で火は消え、後ろを見ると立花楼辺りから火の玉が飛んできた。ビックリして走ると傘が重くなり、その火の玉が乗っていた。傘を投げ捨て、屋敷に戻ると洗い髪の女が入口に立っていた。それは立花であった。腰を抜かしながらも新之助を起こす二人であった。「不憫であった」と心から思う新之助。
 時間と共に、新之助はだんだんと立花の事を忘れるにようになった。

 お梅さんは薄紙を剥がすように元気になって、婚礼の晩。
 暮れ六つの鐘が鳴って晴れていたのに雨になった。新之助の伯父さんは、風交じりで屋敷の暗さが増したので、いつも以上にロウソクを点けた。
 料理も出てきて宴も進んだように見えたが、蛤の吸い物がいつまで経っても出て来ない。料理番に聞くと、洗い髪の女性が来て、「吸い物は私がお持ちします」と、持って行ったという。
 吾助という中間は2畳の小部屋で酔いつぶれていた。洗い髪の女に、男の仕事は終わったと言われ、お酒を持ってこられ、蛤の吸い物ばかりを持ってきて、食べさせられたが、「沢山食べさせられると飽きちゃいます」。早速、料理番に新規に蛤のお吸い物を作らせ、宴席に振る舞った。

 新之助は花嫁を見るとパチンと音がして、花嫁の綿帽子から、自分が立花に作ってあげた比翼の紋が入った櫛が落ちた。黙って懐にしまった。女中は床の用意をしに行くと、洗い髪の女が床の側で立っていた。顔を見ると「きゃ〜」と悲鳴を上げて震えている。
 花嫁と二人になり「お梅さん、不思議なご縁で一緒になったのですから、これからよそしく御願いします」、「はい、生涯、貴方の側に置いてください」。灯りがス〜ッと暗くなり、屏風の影から洗い髪の立花が「あ〜、羨ましい、うらやましい。アッハハハハ」と笑ったので、花嫁は気を失ってしまった。驚いて父親が来ると、お梅さんは変なことを言い始めた、「新之助と言う人は随分ヒドい人じゃぁアリンセンカ。ワチキを騙してクヤシイじゃアリンセンカ」、「アリンセンカとは何だ。おい、おい、武士の娘が・・・」、「私を騙して悔し〜ぃ、新之助!」と新之助に飛び付いていった。

 様態がおかしいので、自宅に連れ戻すと平常心に戻り新之助の元に返りたいというので帰って来た。
「あ〜、クヤシイ、騙された。ワチキはクヤシイ」、「又、始まったね」、「ワチキはクヤシ〜イ」と新之助にかじり付いていく。
 これには何か訳があるのだろうと新之助に経緯を聞いて「武士が死霊位でまどわかされてどうする。武士道が立つか。よろしい、わしが鎮めてやろう」と芝神明の弁財天に死霊を封じ、夫婦仲良く暮らしたという。
 芳原綺談雨夜鐘と言う噺でした。

 

全編(上・中・下)約1時間半の長演でした。要約も長くなってしまいましたが、お許し下さい。
また、人名等の固有名詞はテープから起こしていますので、漢字が違うかも知れませんし、志ん生は森新之助を序では森田新之助と言っています。その他にもありますが、ご存じの方は正しい書体を教えてください。テープって残酷ですね、間違いやキズが後世に残ってしまうのですから。


 
1.下谷摩利支天横町の裏長屋

■第六天(だいろくてん);台東区蔵前一丁目4にある第六天榊神社(だいろくてんさかきじんじゃ)。元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものですが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更した。
 江戸時代には柳橋一丁目5 篠塚稲荷神社の隣にあり、この近くに雀屋という桂庵があった。神田川には浅草御門(浅草橋見附)があり、現在も浅草橋駅があって繁華街であった。

摩利支天の長屋(まりしてん);摩利支天は、原語のMariciは、太陽や月の光線を意味する。摩利支天は陽炎(かげろう)を神格化したものです。 陽炎は実体がないので捉えられず、焼けず、濡らせず、傷付かない。隠形の身で、常に日天の前に疾行し、自在の通力を有すとされる。これらの特性から、日本では武士の間に摩利支天信仰があった。護身、蓄財などの神として、日本で中世以降信仰を集めた。
 江戸では、徳大寺= 東京都台東区上野・アメ横内にある日蓮宗の寺院。深川にも2ヶ所有るがここでは取り上げない。日本三大摩利支天。ここの裏長屋にお仲さん一家が住んでいた。

下谷長者町(したや・ちょうじゃまち);お仲がお湯屋から出てきた街。台東区東上野三丁目南部、JR山手線の西側の湯屋。上記摩利支天の長屋は北隣町。

下谷仲町(したやなかちょう);仲町と言えば深川の門前仲町を指しますが、上記長者町の湯屋から帰ってくるのには遠すぎます。また、御成街道の常楽院(現在は無い、アブアブの地)の門前町。又は不忍池南端の池之端仲町を言うのか、どちらにしても、どこも町名が違い仲町は無い。下谷で御成街道に面したと言っているので、常楽院門前町を言っているのだろう。常陸屋喜右衛門が骨董屋を営んでいた所。ここから奥に引っ込んだ裏長屋に喜右衛門さん一家が住んでいた。
 志ん生は別の噺で、上野と下谷との中間にあるので仲町と言った。と説明しています。仲御徒町のことか。

御成街道(おなりかいどう);将軍が御成の時に通る街道。江戸城から神田川に架かる昌平橋(現在の万世橋)を渡って真っ直ぐ北に向かい、菩提寺・上野寛永寺に至る、現在の中央通り。芝増上寺に至る街道や日光東照宮に至る街道も御成街道と言われた。

加賀様(かがさま);現石川県、加賀金沢藩松平加賀守百万石の大名の家来と新之助は公言し、お仲に近づいた。加賀上屋敷は現在の本郷東京大学にあたる。落語「粗忽の使者」に詳しい。

立花楼(たちばなろう);吉原の江戸町二丁目の遊廓で、大門をくぐって最初の四つ角を左に曲がった両側の街。見世に立花という花魁がいたが、当然、現在はありません。

大音寺前(だいおんじまえ);大音寺=台東区竜泉一丁目21、吉原の裏にあたります。 立花が自害し、この前で吉原から火の玉が飛んでくるのを見た武士二人。落語「悋気の火の玉」の重要な舞台。どうして大音寺前に火の玉が集まるのでしょう。

芝神明の弁財天;立花の死霊(しりょう)を封じ込めたところ。芝神明(明治5年から芝大神宮=港区芝大門一丁目12)の境内には現在無く、本殿に合祀された。合祀される前は末社として、市杵嶋神社(市杵島姫命=イツキシマヒメノミコト)として、弁財天が祀られていた。芝大神宮は伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。だらだら祭りの様子は落語「江島屋騒動」の一千年祭りをご覧下さい。
また、弁財天は隣町の港区芝公園四丁目7宝珠院にもあり、芝神明西側の増上寺山内にあたります。

 芝公園西側の宝珠院内の弁天堂

 

2.吉原
引き付け;遊廓に上がって最初に通される部屋。おばさんの采配で、ここで相方や料金などの打合せをします。

おばさん;遣り手。妓楼で遊女を取り締まり、万事を切り回す年増女。普通は女郎を卒業した女がなる。

御職(おしょく);その遊女屋で一番上位の遊女。初めは吉原に限られたが、後には岡場所でも言った(板頭と言った)。御職女郎。

花魁(おいらん);人を騙すのが商売だが、尾っぽが無くてもできるので「お(尾)いらん」(志ん生説)。江戸吉原の遊郭で、姉女郎の称。転じて一般に、上位の遊女の称。娼妓。女郎。

仕掛け(しかけ);遊里で、うちかけをいう。また、小袖をいうこともある。着物の上から羽織る一回り大きな着物。

大引け(おおびけ);遊郭で、定められた閉店時刻午後12時を中引けと呼ぶのに対し、午前2時ごろの最終閉店時刻をいう。

上草履(うわぞおり);屋内用草履。吉原の花魁は素足に厚めの草履を履いていた。

見世に出る;花魁はお客を引くのに、街路に面した籬(まがき)のある張り見世に出ます。そこで、お客からのお見立てがあります。

悲しい花魁・若紫について
 投げ込み寺と言われた、浄閑寺本堂すぐ脇には五日後に年期あけを控えて、男と所帯を持つ約束に胸をはずませていたのが、たまたま登楼客の凶刃に殺された哀れな若紫の墓が残っている。超一流の角海老楼に籍を置く 明治を代表する花魁。 

本堂砌(みぎり)の左方に角海老若柴之墓あり。碑背の文に曰ふ。若紫塚記。
女子姓は勝田。名はのぶ子。浪華の人。
若紫は遊君の号なり。
明治三十一年始めて新吉原角海老桜に身を沈む。
楼内一の遊妓にて姿も人も優にやさしく全盛双(なら)びなかりしが、不幸にして今とし八月廿四日思はぬ狂客の刃に罹(かか)り、廿二歳を一期として非業の死を遂げたるは、哀れにもまた悼ましし。
そが亡骸をこの地に埋む。法名紫雲清蓮真女といふ。
ここに有志をしてせめては幽魂を慰めばやと石に刻み、若紫塚と名(なづ)け永く後世を弔ふことと為しぬ。噫(ああ)。

 

3.言葉
桂庵(けいあん);承応1652〜1655の頃、江戸京橋の大和慶庵という医者が、よく縁談の紹介をしたからいう。縁談・奉公などの紹介者。私設職業紹介所。口入れ屋。また、口入れ宿(奉公先が決まるまでここの2階に逗留させていた)。

旦那(だんな);家人召使いが主人を呼ぶ語。妻が夫を呼ぶ語。また、妾や囲い者の主人。パトロン。

品川の問屋場(といやば);この場合は「とんやば」とは言いません。新之助が遊んでいたところ。東海道最初の宿品川に設けられた、人馬の継立などの事務を行なった所。

御家人(ごけにん);直接にその主君に属する家臣。特に、江戸時代、将軍家に直属した家臣で1万石未満の者をすなわち旗本、御目見以下(江戸幕府将軍直参の武士のうち、将軍にお目見する資格のないもの。)を御家人という。

会所(かいしょ);吉原では大門を入った右手に4人ずつ1日3交代で勤務、町奉行所と連絡しながら廓内の秩序維持にあたった。その監視人は世襲の四郎兵衛と言われ、四郎兵衛会所とも言われた。その主たる職責は、遊女の逃亡を見張ることであった。大門の反対側には会所に対して、”門番所”があった。番所の格子の中から大門の内も外も見張れるようになっていた。町奉行所隠密廻りの同心が、二人ずつ昼夜交代で詰めていた。同心は岡っ引きを使って怪しい奴を取り押さえ、番所内で取り調べた。

起請(きしょう);起請文。神仏に誓いを立て自分の行為・言説に偽りのない旨を記すこと。また、その文書。起請誓紙。落語「三枚起請」に詳しい。

洗い髪(あらいがみ);女性の長い髪を洗った後の髪形の状態。当然正式な髪形では無いので人前には出られない。通常幽霊の定型髪形。下記2図。

 

左より、「月百姿・源氏夕顔巻」 月岡芳年画、  右、「鮑取りの海女」 歌麿画

暮れ六(くれむつ);日の入りの時刻。夕方6時頃。

蛤の吸い物;ハマグリの二枚の殻は、対になっている者同士しか合わないから、結婚式の祝い膳に出されます。蝶つがいのような元の部分が、別々の貝の殻だと絶対に合わず、閉まることもなければ、綺麗な形に合わさることもありません。そこから良い夫婦の象徴ともされています。縁起物のお吸い物なのに・・・。

比翼の紋(ひよくのもん);比翼紋。自分の紋と情人の紋とを組み合せた紋。ふたつもん。関係の無い花嫁の頭から、お仲と新之助の比翼紋が入った櫛が落ちるわけは無いのだが・・・。

 


 

 舞台の下谷を歩く

 

 JR御徒町駅で降り南口から街に出ます。西側には新築なった吉池が垢抜けて再生されました。ここには日本全国の銘酒(?)といわれる日本酒が集まっていて、当たり外れを楽しむことが出来ましたが、売り場が縮小され新潟を中心に東北の酒が置いてあります。そうそう、酒の話しでは無く、表に出ると奥(御成街道)に松坂屋上野店が一回り上の高級品を並べています。寄り道しないで歩きます。
 先程の御徒町駅から南側に、JR右側(西)の街が下谷長者町と呼ばれた所です。現在は湯屋は近所には2軒ほど有りますが、ここには何処にも有りません。銭湯は絶滅危惧種になってしまいました。美女が出てくるところを想像していたのですが、あきらめて、線路伝いに北に向かい、吉池の正面道路・春日通りを渡り、アメ横に入って行きます。
 凄い人出ですが、本当に商品は安いのでしょうか。それを狙う客と、それらしい商品を並べる店との競争です。入って、一つ目の路地を左に曲がると、その一階は商店でその二階がというより屋上が本堂になっています。そこが摩利支天です。私は未だ、どう言う神様なのか良く理解できません。と言うのも、摩利支天の摩利とは陽炎とか威光の意味だと言い、具体的な事物が無いのです。本尊や脇仏はありますが、何か腑に落ちるところが有りません。JRの上野、御徒町間で、電車に乗っていると直ぐ線路脇に見ることが出来ます。
 摩利支天の階段を降りて道に出ると、自分のペースで歩けないほどの人出で、裏長屋なんて想像も出来ない繁華街に変わっています。表の御成街道(中央通り)を右に見ると突き当たりが上野公園、その手前に有る”アブアブ”が仲町と志ん生が言っているところです。ここに常陸屋喜右衛門が骨董屋を営んでいた場所です。このころは一人娘のお仲さんは、乳母日傘で育った良い所のお嬢さんだったのが、火事を出して、それが悪運の付き始めで、店は潰れて裏に引っ込んでしまい、その上金が無いので、お仲さんに旦那を取らせることになってしまったのです。3人の悪党に騙されなかったら人生も変わっていたかもと思うのですが、レバタラは通用しませんし、お仲さんには可哀相ですが波瀾万丈だから話しになるのでしょう。
 このアブアブ前の道路を渡った所が、世界的に有名な落語界のメッカ、鈴本演芸場が有ります。

 上野広小路交差点から西に行くと、湯島天神を越した先、本郷を右に入ると東京大学です。そこが加賀様の屋敷跡です。

 また、この上野広小路を北に行くと、上野公園にぶつかるようになりますが上野駅前を道なりに進み、今の昭和通りを三ノ輪方向に進み、竜泉で右に曲がると吉原の裏手、大音寺前に出ます。吉原は裏手ですから現在は有りませんがお歯黒ドブにそって大門まで回って、正面から入ります。その途中の竜泉三丁目にはお札の顔になった樋口一葉が住んでいて、現在は一葉記念館になっています。現在の吉原はドブも大門も遊廓も有りませんから好きなところから出入りできます。
 そして気に入ったお風呂屋さんに入って男は遊んでくるのでしょう。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

下谷長者町(台東区東上野三丁目南部)
 JR御徒町駅南から秋葉原方向を見ています。左側にJRの線路が走り、その右側の町です。賑やかなのはその先までで、道を越えると急に静かな街になります。ここに湯屋が有ったと言いますが現在は残念ながら有りません。

摩利支天(台東区上野四丁目6徳大寺)
 上野と御徒町駅の間には、線路沿いに”アメ横”という超賑やかな商店街が有り、暮れの買い物では正月用品の買い出し風景がTVで放映され風物詩のようになっています。そのど真ん中にある徳大寺は摩利支天です。その脇をJRの高架線路が走っています。

摩利支天通り(徳大寺前の道)
 上記摩利支天前の通りを江戸の頃から摩利支天横町と言います。表通りからJRの線路までと言うより、繁華街の真ん中を横切っています。この近所に貧乏長屋があったのでしょうが、現在は考えられません。

下谷仲町(台東区上野四丁目6アブアブ 元・常楽院門前町跡)
 上記、摩利支天横町を表通り・御成街道(西側)に向かって出たところが、写真の右隅です。路地を一本北側に行くと、白い建物が常楽院跡の百貨店のアブアブです。常陸屋喜右衛門が骨董屋を営んでいた所です。写真の左隅の緑があるところが、上野公園で、その右に上野駅があります。

第六天榊神社(台東区蔵前一丁目4)
 下記第六天神社が遷宮して数百m北側の蔵前に、榊神社と名称変更になって、第六天榊神社となりました。

第六天神社跡(台東区柳橋一丁目4)
 桂庵があったと言われる、第六天神社跡です。正面の神社は篠塚稲荷神社で、その左側の数軒が第六天神社が有った跡です。この近所に雀屋さんという桂庵があったのでしょう。現在の浅草橋駅周辺になります。

加賀上屋敷跡(文京区本郷七丁目東大構内)
 赤門で有名な東大ですが、江戸時代は加賀様の屋敷で、その面影は三四郎池がある庭園や赤門として残っています。その赤門を校内側から見ています。

大音寺(台東区竜泉一丁目21)
 人魂が吉原の立花楼から飛んできて、二人の雨傘の上に乗りかかりました。火の玉に縁の深い大音寺です。門戸は何時も閉まって居るので、扉の隙間にレンズを突っ込んで撮った写真です。

吉原・江戸町二丁目(台東区千束四丁目13〜17)
 現在の吉原で、大門から入って背骨に当たる仲之町から、左を見たところが江戸町二丁目です。現在は道に囲まれた一ブロックを○丁目と言いますが、江戸の当時は道に町名が付いていて、その両側の家並みが町名になります。吉原も同じでこの両側が江戸町二丁目です。

芝神明(港区芝大門一丁目12)
 芝大神宮と呼ばれ、「だらだら祭り」や「め組の喧嘩」で有名。周りに生姜畑が多かったので、市が立ち、現在も「生姜市」が開かれます。本殿から階段を降りてきて鳥居をくぐると第一京浜国道までの参道がありますが、どこにも境内神は無く、全て本殿に合祀されています。そこに有った弁財天は本殿の奥深くに有り、対面することは叶いません。

                                                    2014年9月記

 

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