落語「たがや」の舞台を歩く
 

  
 当代の売れっ子、春風亭小朝の噺、「たがや」によると。 
 

 両国橋の上は花火見物の人でいっぱい。そこへ本所の方から馬上ゆたかに塗り笠の侍。供の侍二人と槍持ちが一人で、花火見物承知で無粋にも橋を渡り始めた。反対の両国広小路の方からやって来た”たが屋”さん。

  道具箱と青竹の”たが”を丸めて担いでいたが、人々に押されながら橋の中央まで来たがたまらず落としてしまうと、青竹のたががスルスルと伸びて馬上の殿様の陣笠を跳ね飛ばしてしまった。笠は川の中に落ちて、陣笠の中の土瓶敷きの様なものが残って、鼻から血を出しているので、回りの者が「ケポッ」と笑ったので、殿様カンカンに怒った。
 「無礼者なおれ!。屋敷に来い!」、「お屋敷に行ったら首が無いので、親に免じて許して欲しい。」。何度も謝って許しを請うが「ならん!」の一言。たが屋さんけつをまくって、殿様に粋のいい啖呵で毒づく。殿様、我慢が出来ず、供侍に「切り捨て〜ぃ」。

 ガサガサの赤鰯(サビだらけの刀)で斬りつけるが喧嘩慣れしたたが屋さんに、反対に切り捨ててしまう。次の侍は出来るが、これもたが屋が幸いにも切り捨ててしまう。殿様槍をしごいてたが屋に向かうが、せんだんを切り落とされ、たが屋の踏み込むのが早く、殿様の首を「スパッ」。

 中天高く上がった首に花火見物の人々が「たがや〜」。
 



 

 「両国花火之図」歌川豊国画 横3枚続き、縦2段の6枚一組図。 文化年間(1804-17)前記の作。
 江戸東京博物館蔵 10年10月追加

1.玉屋と鍵屋かぎやは江戸時代、花火製造元の一つ。万治二年、初代の鍵屋弥兵衛によって創設。玉屋と並称された。その花火は、同業の鍵屋とともに江戸、両国の川開きで人気があった。転じて、花火のあがる時のほめことばとしても用いる。(小学館;国語辞典)

 第1回の川開きは享保18年(1733)5月28日、幕府の許可を得て両国橋畔において行われ、横山町の鍵屋弥兵衛と両国広小路の玉屋市郎兵衛が夏の夜空に華々しい技を競いました。

 鍵屋は日本橋横山町に店を持ち、幕府の御用商人として、また明治維新後も、第二次大戦前まで存続した唯一の江戸花火屋であった。
 鍵屋の歴史は、初代鍵屋弥兵衛が大和国篠原村から江戸に出てきたのが万治二年(1659)火薬の知識を持っていたと思われる。大和国と言えば伊賀、伊賀と言えば忍者。初代は忍者の火術を持ってやって来たのであろう。鍵屋は葦の管に火薬を詰めて星の飛び出す花火を開発し、それが受けた。葦は横山町から歩いてすぐの大川端にいくらでも生えていた。その商才が花火は鍵屋と言われ市場を独占していった。
 当時江戸では花火が盛んに売れていた。しかし、火事の原因になるので前後5回にわたって禁止令を出した。町中での花火は禁止したが、大川端(隅田川河畔)での花火は許された。夏になると納涼船が出て、江戸の豪商達は競って鍵屋に花火を上げさせた。
    「一両が花火間もなき光かな」   其角
  花火は贅沢の象徴。とはいえ、夏の3ヶ月間毎晩のように、大川端で花火が打ち上げられた。それを見たさに庶民も集まり、両国広小路には見せ物小屋や屋台や涼み所が出来て賑わい、一晩に一千両が落とされたという。

 玉屋は、両国の川開きから70年ほど経った文化5年(1808)、鍵屋八代目の時、清七という研究熱心な技術屋の番頭がいた。そこで、のれん分けをして分家を両国吉川町につくり、名前も玉屋市兵衛と名乗った。
 それ以後、川開きでは鍵屋、玉屋が趣向を凝らして競った。おそらく玉屋の方が技術が勝っていたのと、語呂が良いので、かけ声は「玉屋ぁ〜」が多かった。
 しかし、天保14年(1843)10月14日
将軍日光社参りの前夜に火を発し吉川町一帯を半町ほど類焼させてしまった。このため、江戸追放となり、玉屋は断絶してしまった。
結局一代、玉屋市兵衛30年しか存在せず、川開きで技を競った期間は20年あまりであった。しかし鍵屋だけになっても、
   「橋の上、玉屋、玉屋の声ばかり、なぜに鍵屋と言わぬ情(じょう=錠)なし
という歌が残った。

上図;『江戸の玉屋見世』、「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より

 

2.たが屋、 
  たが【箍】;竹を割ってたがねた輪。桶オケ・樽タルその他の器具などにはめて、外側を堅く締め固めるのに用いる。また、銅・鉄をも用いる。わ。「―をかける」「―をはめる」
 たがが外ハズれる、緊張や束縛がとれ、しまりのない状態になる。
 たがが緩む、年をとって鈍くなる。老いぼれる。また、緊張がゆるむ。
 たがを締める、たるんだ気持を引き締める。緊張や規律を取りもどす。
 たがを外ハズす、興じたあまり、規律もなくなり大騒ぎする。羽目を外す。
(広辞苑)

 ゆるんだたがを元のように締め直したり、新しいたがに交換して、桶などを再生して歩いた職人さん。小朝も言っているが、たがになる細長く割り裂いた竹をくるくると巻いて、最後の所をチョンと内側に引っかけて持ち歩いた。 その為両国橋の上で押された拍子に運悪く、最後の止めが外れ伸びた竹が殿様の陣笠を跳ね飛ばしてしまった。

写真;「十二ケ月年中江戸風俗」 山本養和画 絵巻より”たがや”部分、文化2年頃(1805)の江戸。江戸東京博物館にて。07年10月追加。 写真をクリックすると大きな写真になります。

上写真;「十二ケ月年中江戸風俗」 山本養和画 絵巻より”たがや”部分、江戸後期の江戸。江戸東京博物館にて。15年7月追加。
 


  舞台の両国を歩く
 

 今回の花火大会には(お酒の会とブッキングしていたので)残念ながら、行っておりません。 花火大会時は両国橋から上流の橋は車両の通行止めになるので、花火大会の始まる前の夕方5時頃、たが屋さんではありませんが両国橋の混雑を予想して、下流の佃大橋を渡って帰って来ましたが、すんなりと通常通り渡ることが出来ました。
 下町の人の流れは女性陣の浴衣姿が目立って多く、特に若い娘サンの浴衣姿には嬉しくなるものがありました(^_^;)。
 花火見物で、公園や道路での見物で大変苦労した経験があります。私は飲兵衛ですから缶ビール片手でみんなと車座になって、”花より団子”ではなく、”花火よりはビール”と楽しんでいたのはイイのですが、その内ごく自然に生理現象をもよおしてきました。近くには公衆トイレもなく、また90万人以上が狭い地域に集まっています。昼間の人通りより多い人が裏通りまで歩いています。やむおえず、友人の家まで500m以上駆け足の羽目になりました。私の後ろから何人かの友人が伴走しています。まるで堀部安兵衛が一杯引っかけて高田の馬場に押っ取り刀で駆けつけるような格好になってしまいました。枝雀師匠の口まねで言うと「夏の夜は怖いよ〜。幽霊と花火の小用は。」
それ以来、ご自宅に招かれての花火見物以外行かないことにしています。

 

地図

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写真

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今年の第24回隅田川花火大会
 
平成13年7月28日(土)7時40分、厩橋方向。(毎日新聞より)
 2万4千発の打ち上げ花火と93万人(主催者発表)の見物客で賑わった。21世紀最初の花火大会を記念して終了間際に2千百発の花火が連発された。
「たがや」御正 伸 画
 文芸春秋デラックス11月号(文芸春秋社)より
落語の題材から取って描かれた両国花火の様子。浮世絵以上に情感たっぷりに描かれている。
浮世絵の中の両国橋
 
東都名所「両国花火遠望之図」(広重) うちわ用の浮世絵。江戸時代は今から見れば、極単純な花火が打ち上げられていた。しかし、今と違って娯楽も単純で夕涼みには最高のイベントであっただろう。
 「両国や冷水店(ひやみずてん)の夜の景」   一茶
一茶と言えば信州となるが、今の江東区に住んでいた。江戸下町の句がかなり残っている。
両国広小路
 両国橋を渡る靖国通りは1級国道で大変広いので、今更広小路と呼ぶには、はばかれるほど。中央区側から墨田区を見る。 過去にはこの左手で花火が打ち上げられた。
この広小路に夏場は屋台や見せ物小屋や茶店が並んで賑わった。吉原(遊郭)と同じように、一晩に1千両が落ちた。
 
落語の世界ではめでたく夫婦になった清蔵・幾代が、名物の幾代餅を初めて繁昌した所でもある。

                                                        2001年8月記

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