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落語「髪結新三」の舞台を歩く
六代目三遊亭円生の噺、「髪結新三」(かみゆいしんざ)によると。
写真;閻魔堂前の小公園に描かれた、富岡橋の源七と新三。橋の後方に閻魔堂が見えます。
犯人が美人だったので江戸中で評判になった。これを裁いたのが有名な大岡越前であった。彼は名奉行で数々の名裁きをして、大岡政談ものになっていますが、大多数は後から彼の名前を付けて、大岡越前の手柄になっていますが、資料に残っているこの一件だけは正真正銘彼の裁きでした。
宝暦年間(1751〜64)に講釈師でルポライターの馬場文耕(ばば ぶんこう)が「白木屋政談」といった人情話を、上記の事件を下敷きに書いた。この噺を、三代目麗々亭(れいれいてい)柳橋の口演で、後に春錦亭柳桜(しゅんきんてい_りゅうおう)になった名人が演じた。
河竹黙阿弥が
明治6年(1873)に「梅雨小袖昔八丈」を書きあげ、中村座で初演された。河竹黙阿弥が書いた「梅雨小袖昔八丈」は初夏の風物が魅力的に取り入れられた世話物の傑作となった。
それを円生は落語に戻してと言うより、原点の落語に帰って演じています。
■和国橋(わこくばし);(のちに万橋。新材木町西)東堀留川に架かっていた橋。ここから駕籠に乗って駆け落ちとなった。当然今は川も橋もありません。
■葺屋(ふきや)町;(中央区日本橋芳町=中央区日本橋人形町3丁目1,2)親分弥太五郎源七の住まい。芝居町であって、新材木町の南側です。歌舞伎では乗物町(新乗物町=
堀留町1−
7辺り)になっています。両町は隣同士です。
■新堀(しんぼり);忠七が雨の中、新三に蹴飛ばされる場所です。日本橋川北岸、北新堀(中央区日本橋箱崎町6,7,8,9,10番地)であった。歌舞伎では永代橋になっていますが、落語では永代橋の手前、ここです。
■深川冨吉(とみよし)町;(江東区永代1丁目12,13辺り)汚い裏長屋の新三の住まい。今の永代橋を渡り、門前仲町との中間、福島橋手前右側。
■大伝馬町;(中央区日本橋大伝馬町)桑名屋弥宗右衛門の大店があった。
ここに持参金を持って婿入りする番頭又四郎が働いていた。この北側は牢屋敷が有った小伝馬町で、南が日本橋堀留町で新材木町が有ります。
江戸時代のからかさの主産地は大阪であったが、茅場町(てりふり町隣町)の瑠璃光薬師裏にあった傘屋(右図)は江戸物を扱って「地傘」で名をはせた。『絵本続江戸土産より
部分』 08年8月追記
■閻魔堂橋;深川閻魔堂(江東区深川2丁目法乗院)の前に架かっていた富岡橋(のち黒亀橋、黒亀橋交差点)。今は高速道路が上部に走り埋め立てられて現存しない。新三を恨んだ親分源七は、ここで新三を殺す。
■吉原下駄;芝居茶屋や待合茶屋で小雨の時にお客に貸した下駄で、杉で出来ていて竹皮の鼻緒が付いていた。
■車力(しゃりき);材木などを運ぶ大八車の車夫。
■親分;博打打ちの大本締めでもあり、花買いをしたり、お白州に代理出廷や、大家にもなった。(円生談)
■初鰹;「目に青葉 山不如帰 初鰹」(素堂)。江戸っ子の初物は大好きです。新三は初鰹を3分2朱で買います。今のお金に直すと1匹70,000円(1両=8万円として)
おー、おぉ〜、OH〜、いくらなんでも高い!
■紀文;元禄時代(1688年〜1703年)の豪商・紀伊国屋文左衛門、初代と二代目がいます。初代は寛文9年(1669)?紀州で生まれて、危険を冒してミカン船を出して江戸に無事運び込みます。その成功のあと材木を扱い財を築きます。巨万の富を二代目が、汗水たらして浪費します。吉原を借り切っ
て大門を閉めたのは有名ですが、善行もしていて、永代橋の架設援助、現・清澄庭園の創始、深川八幡宮に神輿奉納などもしています。また芭蕉の一番弟子其角に師事し俳諧に遊んだ。八幡様の近くで閑居し66歳の天命を全うした。伝説が多すぎて紀文は一代だったという人もいます。
■大岡越前守忠相;大岡政談を扱った落語には、この「髪結新三」や「大工調べ」
、「城木屋」、「五貫裁き」、「小間物屋政談」、「唐茄子屋(唐茄子屋政談)」、「三方一両損」
、などが有ります。 舞台の堀留から深川を歩く
舞台の中心、新材木町は今の中央区日本橋堀留、椙森(すぎのもり)神社の西側です。円生は舞台を「足利銀行から入ると、100m程先に埋め立てられた東堀留川で、架かっていた橋が和国橋、後に万橋と改められた。その間に椙森新道が走っていた。その角に白木屋が有った。後に潰されて餅屋になった」。と、噺の中で説明しています。足利銀行の表通りは現在北行きの
4車線一方通行の大道路です。道路下には地下鉄日比谷線が走っていますが、円生当時は都電(路面電車)が走っていて、南から安産の神様水天宮、今でも江戸の味わいと色気を残す人形町、今は無き人形町末広亭跡、三光新道(三光稲荷)、そして舞台の堀留、北に上って大伝馬町、小伝馬町、交差点を渡ると左には牢屋敷がありました。
堀留交差点に戻って、足利銀行を探しますが今は有りません。その交差点を西に入ります。切り絵図によってはこの道を椙森新道と記しているものもありますし、交差し椙森神社に向かう小道を椙森新道と記しているものもあります。円生と状況を見るとこの小道を椙森新道だと思われます。この角に白木屋が有ったのでしょう。この白木屋からお熊と忠七は駆け落ちするのに、示し合わせた和国橋は、今は埋め立てられて児童公園になっている北側の大きなビル保健所がその跡です。当時と道が重なっていませんので、ズレが出ています。どちらにしろここに東
堀留川が流れていて和国橋が過去にあったのです。
大伝馬町の大店・桑名屋弥宗右衛門の番頭・又四郎はこの
堀留の北隣ですから、美女お熊さんの噂は当然耳にしていたでしょうから、500両の持参金を持って喜んで婿に入ったのです。
喜んで入ったのに結果、持参金は取り上げババァ、女房は寝取られて、そのうえ命まで狙われて、この惨状では浮かばれませんよね。高い月謝を払っても、男は美女に騙されるのは今も昔も同じです。
婿に入った又四郎さんは500両を返して貰って離婚したといわれます。私だったら女嫌いになっていたでしょうね。
新三と忠七は連れだって永代橋に向かいます。東堀留川にそって南下し親父橋の、てりふり町で傘と下駄を買います。てりふり町は、今の小舟町の南側。あの落語「宮戸川」の舞台小網町と小網神社の脇を通って日本橋川にそって蛎殻町、永代橋の手前箱崎
町と南下、そこで新三にすごまれて、雨の中で立ちつくす忠七であった。
新三はそのまま隅田川に架かる永代橋を渡って長屋のある深川・冨吉町(江東区永代1丁目)に落ち着くのであった。永代橋は現在の橋より上流に架かっていて、日本橋川を渡らずに永代橋を渡って行った。男の足で20分ぐらいの距離です。
それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 新堀(しんぼり);日本橋川北側、江戸時代北新堀と呼ばれた所(中央区日本橋箱崎町6,7,8,9,10番地) 2008年4月記 |
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