落語「鈴ヶ森」の舞台を歩く
   
 

 立川談志の噺、「鈴ヶ森」(すずがもり) 別名「白井権八」より
 

 東海道神奈川は川崎宿に桜茶屋という旅籠があった。その宿先の床几(しょうぎ)に二十(はたち)位の、宿の女中も騒ぐほど、ナリも良く男っぷりもイイ大人然とした旅人が腰掛けていた。通りを挟んで雲助がとぐろを巻いて巣くっていたが、仕事が無くて困るとか客が拾えない、とか愚痴を言っている。親方がそれなら向かいの武士を拾いなと言うと二本差しているからやだという。ナリが出来すぎているから、あれは役者が変装しているので恐くない。で、駕籠を勧めに行った。

  親方が言ったように勧めた。駕籠も馬もことわれたので車にしますかというと乗ると言う。そんな物は無いから大八車にくくる、と言うと武士は怒った。しかし、親方が言ったように人を助けるのが武士でしょうから助けて下さい。因州因幡35万石松平相模守の家来1500石の拙者に向かって、川原乞食に例えるとは無礼千万と言うが早いか刀を抜いた。役者の竹光では無いので、驚いた雲助、逃げ帰ってきた。
 そこに親方が出て行って、乗り物を勧めに来たのでは無い、刀を抜いて雲助一人殺めたらどうなるのか知ってるか。知っているなら何処からでも良い、切れ、とすごまれた。武士らしく通りたいのなら武士らしく通ったら良いだろう。と言うので、刀を納め、座興じゃといい2分置いて出掛けてしまった。

 宿の2階から一部始終を見ていた、三十五六の苦み走った江戸前の男が、子分の権兵衛を呼んで、俺も役者だと思っていたが、刀の抜き具合を見ると本物の武士で、それも腕が立つと見た。今夜はそろそろ暗くなり、鈴ヶ森にかかると山賊が出ると言うから、今晩はこの宿に泊まって翌日一緒に江戸に入ろうと、誘いの言葉を伝えた。
 追いついて言葉を掛けた。「花川戸で人入れ家業をしている(幡随院)長兵衛の子分で権兵衛と言います。これから行くと鈴ヶ森で災難に遭われてもいけませんので、今宵は桜茶屋で一泊し明日ご一緒出来ればと申しております」、「西国筋まで名の知れた長兵衛殿のお誘いはかたじけ無いが、聞く前だったら戻ったが、武士として庶民が難儀するのを少しでも救うために戻るわけにはいかない」。

 親方に戻って話をすると、もう一度行ってこいという。「暮れ六つで船は出ないから、どんな方法で向に渡るのか。また、渡れなかったときはここでは無く何処に宿をとるのか見てこい」と、言いつかって出掛けた。
 土手に来ると船は終わって、船頭は酒を飲み始めていた。そこに「船を出せ~、船を出せ~~」、「代官所から、暮れ六つから明け六つまでは船が出せない。明日来い。乗せてやるから」、その規則を知らなかったが、親分の言うことを聞いて泊まれば良かったと思ったが遅かった。少し考えていたが、土手に戻って、同じように叫んだ。「因州因幡35万石松平相模守の早飛脚だ。船を出せ~」、これには船頭も驚いて、嫌々船をよこした。その紙に殿様の名前を書いてくれと言われたが、そんな事は言っていない。ここまで来てしまったからと、1分をポンと置いて行ってしまった。
 頭の良い奴だ。鈴ヶ森でどうなるか見たいと、子分みんなを引き連れて、早駕籠で土手に来て、金で六郷を渡った。

 権八、鈴ヶ森に近づくと、殺気を感じた。処刑場の獄門台に生首が並んでいた。「これが殺気を呼んだのか」。南無阿弥陀仏と菩提を弔もらっていたが、3年後、吉原の二代目高尾お抱えの三浦屋で、花魁小紫に迷って、刃傷沙汰を起こし、同じ台に首を並べるという事は知るよしも無かった。
 山賊がたむろしている所に入って行って、たばこの火を借り、そのまま通り過ぎた。驚いたのは山賊、怖がって近づかないのに、平気なのは天狗だと言い、違うという者も居た。後を追いかけて、天狗で無ければ切って獲物を奪おうと話が決まった。追いかけていって白刃の戦いになったが、妖刀のせいか、山賊が吸い寄せられるように切り刻まれていった。
 因州因幡の浪人、白井権八がたき火の火を背中に浮かび上がっていた。そこに13挺の駕籠が着いて、長兵衛が出てきて「お若け~の、お待ちなせ~」と、お馴染み鈴ヶ森の対面にかかります。 


右図;「英名二十八衆句 白井権八」 月岡芳年画 鈴ヶ森で山賊退治をしている図。

 


 

1.もう一つの落語「鈴ヶ森」
 
桂歌丸による「鈴ヶ森」です。
ドジでマヌケな新米泥棒を親分が実地指導をするのですが、いかに。

 「出掛けるから、にぎりめしの風呂敷を担げ、お前が食べるんじゃ無いぞ。舅(しゅうと)に食べさせるんだ」、「舅って連れ合いの親ですよね」、「何にも分からないのだな」、「舅はウルサいだろ。だから犬のことだ」、「では猫は小舅ですか」。
 「ドスを差して行けよ」、「何でドスと言うのですか」、「うるさいな。ドッと刺して、スッて抜くからだ」。
 「表へ出ろ。戸締まりはしてきたか。世の中物騒だからな」、「大丈夫です。物騒なのが二人出てきましたから」。「暗いですね」、「俺たちは暗いから仕事になるんだ」、「恐いから、もっと明るい吉原に行きましょうよ」、「歩くと、もっと暗いとこに行くぞ。鈴ヶ森で追い剥ぎだ」、「鈴ヶ森はよしましょう。幡随院長兵衛や白井権八の強いのが出てくるから」。
 「着いたらやってもらいたいことがある。旅人が来たら後ろから『おーい、旅人。ここを知って通ったか、知らずに通ったか。明の元朝から暮れの晦日まで、おらぁ~頭の縄張りだ。知って通れば命は無い、知らずに通れば命は助けてやる。その代わり身包み脱いで置いて行け。イヤとぬかせば最後の助、2尺8寸段平物を己(うぬ)が腹にお見舞え申す』と言っている間に、俺が後ろに回って仕事をするんだ」、「親分、それは誰がやるんです。アッシですか。それは無理です。では紙に書いて下さい」、「暗闇で書けるか」、「アッシも読めませんから、相手に見せて読んでもらう」。鈴ヶ森に着いたが、身を隠すことも知らない。もたもたしている内にカモがやって来た。
 親分に押されて飛び出して、旅人を呼び止めた。口上はさんざんで相手に馬鹿にされる始末。「2尺7寸段平物と言ったが、それを言うのだったら2尺8寸段平物と言え。1寸足りないぞ」、「1寸先は闇でございます」。

 

2.川崎の宿
 江戸に幕府が開かれたあと、東海道の開設とそれによる交通量の増大のため、重要な要衝になった。当初は品川から神奈川までの間5里(20km)に宿場はなかったが、1627年に中間の間(あい)の宿だった川崎が正式な宿駅となった。
 元禄3年(1690)版の地図によると、橋が描かれ108間(196.6m)有ったと記されています。日本橋から東海道の最初の宿が品川宿で、次が川崎宿です。東海道53次の2番目の宿駅です。1843年には、人口2433人、住戸541軒、宿屋72軒、全長1800mの川崎宿を形成していました。

 落語蜘蛛駕籠」で川崎宿を歩いています。

「東海道分間絵図」より川崎宿。 右側に多摩川の橋があって、左側に神奈川の宿(横浜)が有ります。

 

3.鈴ヶ森(品川区南大井2-5大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
 『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺目頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には火あぶりや、磔(はりつけ)に使用したという土台石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、白井権八、天一坊(落語「棒鱈」)、八百屋お七(落語「くしゃみ講釈」)、白木屋お駒(落語「髪結新三」、また「城木屋」)などは演劇などによって、よく知られている。
 江戸刑場史上、(千住)小塚原とともに重要な遺跡である。』(東京都教育委員会説明板より)

「鈴ヶ森で出合う白井権八と幡随院長兵衛」 国貞画

白井権八(しらいごんぱち);因幡国鳥取藩士であったが、数え18歳の1672年(寛文12年)年秋、父・正右衛門の同僚である本庄助太夫(須藤助太夫とも)を斬殺して、江戸へ逃亡(退去とも)した。新吉原の三浦屋の遊女・小紫と昵懇(じっこん)となる。やがて困窮し、辻斬り(強盗殺人)を犯し、130人もの人を殺し、金品を奪ったとされる。権八は、目黒不動瀧泉寺付近にあったとされる普化宗(ふけしゅう)東昌寺(現在廃寺)にかくまわれ、尺八を修め虚無僧になり、虚無僧姿で郷里・鳥取を訪れたが、すでに父母が死去していたことから、江戸に戻り自首したとされる。 1679年12月5日(延宝7年11月3日)、品川・鈴ヶ森刑場で刑死した。享年25(満23-24歳没)。小紫は刑死の報を受け、東昌寺の墓前で自害したとされる。同寺に「比翼塚」がつくられたが、同寺が廃寺となったため移転し、目黒不動瀧泉寺に現存している。歌舞伎などに登場する白井権八のモデル。
右図;『東海道五十三次の内 川崎駅 白井権八』 三代目歌川豊国(初代国貞)、1852年 バックは六郷の渡し

 幡随院長兵衛(1622年 - 1657年)とのエピソードが多く語られるが、実在の長兵衛は1657年に殺害されており、時代にずれがある。『浮世柄比翼稲妻』(四代目鶴屋南北、1823年)における二人の鈴ヶ森での出会いで、長兵衛に「お若えの、お待ちなせえやし」と問われ、「待てとお止めなされしは、拙者がことでござるかな」と応える台詞が有名である。長兵衛との説話では、権八はこの後、長兵衛の食客となったとされ、「権八」といえば「居候」を意味するほどに普及したエピソードである。 「白井権八」と「小紫」を描いた歌舞伎狂言や浄瑠璃を「権八小紫物」と呼び、ほかにも、『江戸名所緑曾我』(1779年)、『驪山比翼塚』(吉田鬼眼・桂川甫粲、同年)等がある。
  ウイキペディアより

 権八は江戸で侠客の幡随院長兵衛の食客となったという俗説もありますが、これは後世の芝居による創作で事実とは違います。
 史実の権八は醜男だったようですが、芝居の権八は前髪立の美少年です。初演で五代目岩井半四郎という美貌の女形が演じたので、女と見間違える美少年になったのです。

幡随院 長兵衛(ばんずいいん ちょうべえ、元和8年(1622年) - 明暦3年7月18日(1657年8月27日))は、江戸時代前期の町人。町奴の頭領で、日本の侠客の元祖ともいわれる。『極付幡随長兵衛』など歌舞伎や講談の題材となった。本名は塚本 伊太郎(つかもと いたろう)。妻は口入れ屋の娘・きん。
右図;「幡随院長兵衛」 国芳画

 元和8年(1622年)、誕生。唐津藩の武士・塚本伊織の一子とされているが諸説あり、滅亡した波多氏の旧家臣の子であるとする説や、向導の実弟または幡随院の門守の子という説もある。 父の死後、幡随院(京都の知恩院の末寺)の住職・向導を頼って江戸に来て、浅草花川戸で口入れ屋を営んでいたとされる。
 旗本奴と男伊達を競いあう町奴の頭領として名を売るが、明暦3年7月18日(1657年8月27日)、若い者のもめ事の手打ちを口実に、旗本奴の頭領・水野十郎左衛門(水野成之)に呼び出され殺害された。芝居『極付幡随長兵衛』の筋書きでは、長兵衛はこれが罠であることを勘づいていたが、引きとめる周囲の者たちを「怖がって逃げたとあっちゃあ名折れになる、人は一代、名は末代」の啖呵を切って振り切り、殺されるのを承知で一人で水野の屋敷に乗り込む。果たして酒宴でわざと衣服を汚されて入浴を勧められ、湯殿で裸でいるところを水野に襲われ殺されたとしている。 享年36(満34-35歳没)。墓所は、東京都台東区東上野6丁目の源空寺。
  ウイキペディアより

 

4.六郷の渡し
  第一京浜国道に架かる現・六郷橋の所にあった渡しで、東海道は”六郷の渡し”。江戸側は今の国道15号線に沿って東側に旧東海道があり土手に突き当たって、降りて河原を突っ切った所が船着き場でした。川崎側は今の六郷橋の下あたりです。
  六郷橋は慶長5年(1600)架橋、その後破損修復を繰り返しながら貞亨5年(=元禄元年、1688)7月21日の洪水で流失以降架橋は絶え、交通は六郷の渡しに依る事になります。当初渡し船の運営は幕府の直営で行われましたが、その後江戸町人の請負となり、宝永6年(1709)川崎宿が幕府からその運営を任せられます。
  明治7年(1874)江戸側の八幡塚村の元名主であった鈴木左内が有料の橋を建設。別名左内橋と呼ばれ、この時から渡船が無くなります。

 現在の東京都と神奈川県の境を流れる多摩川を、渡し船で東海道を渡していた。渡って江戸側に入り、東海道を7km位行くと左側に鈴ヶ森の刑場があります。

 「東海道五十三次 川崎」  六郷のわたし 広重 1849頃

 

5.言葉
旅籠「桜茶屋」;この噺は1675-6年頃の話になっています。元禄3年(1690)版の地図「東海道分間絵図」(上図)では、多摩川には橋が架かっています。橋が架かったのが1600年、橋は流失して船渡しになったのが1688年、ですから権八が多摩川を渡ったのは船では無く、橋だったのです。
 また、川崎宿は度重なる大火に見舞われ、特に元禄年間や宝暦11年(1761)に発災した火災では川崎宿が全て灰になり、それ以前の資料もその時全て失われてしまいました。この噺の年代のことは他に記述が有ったとしても、その事について調べようがありませんし、確証も取れません(川崎宿の砂子の里資料館、及び、川崎市民ミュージアムの解説による)。
 旅籠の名前が、談志曰く「桜茶屋」と言っていますが、調べようがありません。東京・向島には有名な桜茶屋が有りますがねェ~。当時の歴史的資料は無くなっていますので、たぶん架空の名前をあてたのでしょう。

■床几(しょうぎ);腰掛の一種。長方形の枠2個を組み合せ、中央で打違えとして両枠の一方の端に革を張って尻の当る所とし、折りたたんで携帯に便利なように作る一人用腰掛け。
また、庭や露地に置いて月見や夕涼みに使う細長い腰掛。
上に緋毛氈などを敷いて茶店などで使う広い台。

  「木曽海道六拾九次之内 関か原」 広重画
 川崎宿とは違いますが、茶屋の前に床几が並べてあります。お茶の接待を受け、その前には馬子が馬を勧めています。  

雲助(くもすけ);悪さをするレベルの低い駕籠かき。駕籠かきの蔑称。

大八車(だいはちぐるま);(八人分の仕事の代りをする意) 荷物運搬用の大きな二輪車で、2~3人でひくもの。江戸前期から使用された。

川原乞食(かわらこじき);(京都の四条河原で興行したからいう) 歌舞伎役者を卑しめていう語。

竹光(たけみつ);竹を削って刀身とした刀。その上から銀紙を貼ってらしく見せ、芝居で使った刀。また、鈍刀をあざけっていう。

因州因幡(いんしゅういなば);因州は因幡国の別称。今の鳥取県の東部。

35万石 松平相模守:池田 光仲(いけだ みつなか)は、因幡国鳥取藩初代藩主。鳥取藩池田家宗家3代。備前国岡山藩主・池田忠雄の長男。徳川家康の曾孫であり、別姓は松平。

2分(2ぶ);金貨で2分金。1両の半分で、約4万円。船頭がもらった1分はその半分。彼らからすれば驚くような高額の値。

花川戸(はなかわど);台東区花川戸。浅草・浅草寺の東側で隅田川までの街。歌舞伎の助六が住んでいたという粋な街。

人入れ家業(ひといれかぎょう);人入れは間違いで「口入れ屋」と言います。職業斡旋所。奉公先が見付かるまでここで寝泊まりしていたので、口入れ宿とも言います。

暮れ六つ(くれむつ);夕方の陽が落ちる時刻。陽が上がる時間を明け六つと言います。

早飛脚(はやびきゃく);江戸時代の飛脚のひとつ。並飛脚が昼間のみであるのに対し、夜間も逓送した。

獄門台に生首(ごくもんだいになまくび);さらし首をのせる台。江戸時代には死刑の一つで獄門という刑があり、刑場または犯罪地に首をさらした。首を晒す台を獄門台といい、高さ4尺 (1.2m)の台に五寸釘を二本下から打ち、ここに首を差し込んで周りを粘土で固める。夜は首が盗まれたり野犬の類が持っていかないよう桶を被せ、非人数名が火を焚いて寝ずの番をしたその生首。
 落語「ちきり伊勢屋」で刑罰のランクを解説しています。

二代目高尾お抱えの三浦屋(みうらや);歴代高尾太夫を出した京町1丁目にあった、大見世の三浦屋四郎左衛門方。落語「紺屋高尾」に歴代高尾太夫が詳しい。

花魁小紫(おいらんこむらさき);江戸吉原三浦屋の遊女。1679年(延宝7)情夫平井権八の刑死後、自害。



 

 舞台の川崎宿と鈴ヶ森を歩く

 

 川崎宿は東西に長く東海道の2番目の宿駅です。この地は湿地に有ったため、雨が降ればぬかるみの街になってしまう。その為に土を盛って周りより一段高い土手道のような作りになっていた。現在は多摩川の土手よりかなり低い街ですが、川の河口に出来た街ですから、どこも干潟が発達して人が住み始めたようなところが有ります。今はそんな説明があっても、街の賑わいに目を奪われて、足元まで感じることが出来ません。

  宝暦11年(1761)にこの川崎宿は徳川時代最大の火災に遭って、旅籠は勿論寺や神社も、川崎宿のほとんどを焼失してしまいました。その時の火災で街に残る資料も全て焼失してしまい、それ以前の歴史的な事は何も分からなくなっています。そこで、旅籠の「桜茶屋」を探そうと思っていましたが、全て灰の中。それが有ったのか、無かったのか、全てがナゾの中です。元来が講談、歌舞伎の世界で作られた話ですから、ムキになって探してもたどり着けないことも有ります。
  駅の周りは 商店がひしめき合って、活況を呈していますが、この旧東海道に入るとその喧騒は無くなりますが、シャッター通りになっていず、にぎやかさは十分有ります。旧東海道を六郷の渡し跡まで歩くのですが、大震災や戦災で焼けていますので、江戸の面影を残すモノは何も有りません。逆に旧東海道を引き立たせるように街造りがなされています。各所に旧東海道と記された石柱や、江戸時代の本陣跡、問屋(といや)場跡、助郷会所跡等の説明板が、次々と出てきます。見飽きず、多摩川の土手に到着です。
 土手に駆け上がると、多摩川とその向こうに河川敷がそこまで迫っています。川の流れの真ん中辺りを県境が走っていますが、日付変更線と同じように見えません(^。^) 。7~8km程下流が東京湾ですから、今の時間は川が逆流して海水が浸入しています。足元の水面には川ガニが動き回っていますし、フナのような川魚も見ることが出来ます。釣り人に聞くと、ハゼが大漁だと言います。そこにテナガエビが混じっているのもご愛敬です。

  六郷橋は中央が6車線の車道、その左右は歩道が設置されていて、安心して対岸に渡ることが出来ます。河川敷では野球、ゲートボール、サッカー、ゴルフなどを楽しんでいます。

 鈴ヶ森に向かいます。

 鈴ヶ森の刑場跡に保存されている磔の柱を立てる台石と火あぶりの台石です。

  第一京浜から首都高速のランプウエーが大きく右に曲がって鈴ヶ森料金所に繋がっています。その下の交差点の向こう側に鈴ヶ森の刑場跡が有ります。左側には太い第一京浜が走り、右側には一方通行出口の旧東海道がここで合流します。その二つの道に挟まれ三角地帯に刑場跡が有ります。本来はもっと大きかったのですが、左側の第一京浜に土地を削られ刀の刃の断面のような形になっています。
  小伝馬町の牢屋敷(ここでも処刑は行われていました)の跡は半分は公園になり、処刑が行われていた所には、その供養のためにお寺が建ちました。この鈴ヶ森も同じように、刑場の露と消えた霊の供養のため、大経寺さんが建てられ、処刑場跡を護っています。 東海道を下ってきた治安を乱す者達への見せしめと言うことも有って、街道に面し、公開処刑場となっている上、獄門台まで置かれ、そこで生首を晒したのです。家族や初めての人は気絶したことでしょう。ずいぶん野蛮なことが平然と行われていたのです。今の中国でも公開処刑は行われています。

 

地図


  地図をクリックすると大きな地図になります。 川崎宿の説明板より

写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

旧東海道 (川崎市砂子一丁目、砂子の里資料館前)
 京急またはJR川崎駅より東に進むと旧東海道と交差します。この道には旧東海道と記した石柱が建っていて、街道の諸処には説明板が建っています。砂子(いさご)には私費で運営されている資料館が有って、入場無料にしては、レベルの高い内容になっています。

旧東海道 (川崎市本町一丁目)
 上記から多摩川の渡し跡に向かうと中程にあたります。問屋場(といやば)や本陣跡が出てきます。

六郷橋 (川崎宿側)
 川崎宿が終わったところで多摩川の六郷橋に合流します。現在は第一京浜国道(国道15号線)を通し、東京都と川崎市を繋いでいます。

六郷の渡し跡 (川崎宿側)
 上記土手を下りると、多摩川の本流が見えます。左側の橋の下に木製の橋跡の杭が(都側に)残っていますが、この橋を利用する人達も橋下ですから気がつかないでしょう。釣りをしている人の前にボート用桟橋が有りましたが、現在は自然の形に戻っています。

鈴ヶ森刑場跡 (品川区南大井一丁目)
 鈴ヶ森刑場跡の全景で、大経寺さんの境内になっていて、管理もなさっています。刑場にすれば大きいような小さいような不思議な大きさです。写真の右側が旧東海道で、現在も品川宿まで繋がっていますし、左側は国道15号線の広い道が走っています。その拡幅工事のため敷地が狭められています。

鈴ヶ森刑場跡 (品川区南大井一丁目)
 池上本門寺の二五世日頭の筆でひげ題目の石碑は目を引きます。また、火あぶりや磔の時の基台が残されています。

花川戸 (浅草寺東側)
 助六や幡随院長兵衛が住んだという街です。浅草寺二天門を出た前の交差点から街を覗いています。

権八・小紫比翼塚 (目黒不動(瀧泉寺)参道、目黒区下目黒3-20)
  処刑された愛人白井権八と、彼の墓前で自害した遊女小紫。その悲話は後追い心中として歌舞伎などで有名。説明板より抜粋。

                                                              2013年10月記

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