落語「三人旅」の舞台を歩く
   

 

 五代目立川談志の噺、「三人旅」(さんにんたび)によると。
 

『発端』
 無尽に当たって20両が懐に入った。それを聞いた親父に、宵越しの金は持たないと言うのが江戸っ子だと、叱りつけられた。仲間と相談すると、油揚を全額買って、浅草寺に行って五重塔を借りてテッペンから撒くと江戸中のトンビが集まって空を真っ黒にする。全部撒いてしまうと、見ていた江戸っ子がスゴいと言って、祭りの山車に二人の人形が立つ。俺は上で油揚を撒いて、お前は下で油揚の入ったザルを持ち上げている図だ。やだ、そんなの。
 で、上方見物に旅立つことになったが、街道に明るいという源兵衛を誘い3日後に江戸を後にした。

『びっこ馬』
 戸塚泊まりはまだ陽が高い、駒を早めて藤沢へ。と言うのにまだ保土ヶ谷くんだりを歩いているんじゃダメだよ。その訳は品川に女が居て別れの挨拶をしてくると言ってみんなで泊まった。翌朝、雨が降っていたので、雨では旅立ちに縁起が悪いと言って、もう一晩泊まった。その翌朝は良く晴れて女が「洗濯物を干すから手伝って・・・」と言うから、も一日。それでは旅に出られないと出掛けてきたが、この遅足では何処まで行けるやら。精を出してドンドンドンドン歩いた。
 遠くに見える、あの高い山は何だ。箱根の山だ。箱根の道は8里あるのは分かったが、重さはどのくらいだ。もうここから帰ろうよ。帰ってどうする。山の上から西方を見て、あれが京大坂だと言えば、江戸の連中は分からないから納得してくれる。帰るのも大変だから、海に落ちて鮫に食べられて、重い鮫だからと江戸に送られて腹を割かれると俺が出てくる。と、バカなことを言っていると、仲間の一人が足を引きずっている。

 マメが出来て歩けないという。それでは、向こうにいる馬子に声かけさせて値切る算段をした。旅慣れていると馬子に宣言して、値段を聞くと符丁で3人で「ヤミ」と言う。高いなら「ジバ」にしておくと言う。高いから「モモヒキ」にしろと言ったが馬子には通じず。足が二本で、一本百だから二本で二百だ。負けた、と交渉成立。聞くとジバは二百だという、言い値で手を打ってしまった。

 馬が来たが、乗ってみると首がない。後ろ向きに乗ってしまった。尻持ち上げている間に馬を回せ。馬に大声で小言を言っている。「こらァ、長い面して・・・」、「馬はみんな長い顔をしているんだ。どうして馬の顔が長いか知っているか」、「そんなこと知らねェ」、「飼い馬桶が長いから、丸顔では食べられないので、みんな長くなった」、「馬より先に飼い馬桶があったんだナ」。
 お客を見れば仕事が分かる。「馬だって、お客がバカか利口か直ぐ分かるよ。あんたらの職業も私らは分かるよ」、「では何だと思う」、「アンタは分からないが、後ろの御仁は義太夫の三味線引きだ」、「その通り、良く分かったな」、「先程、松の根方で用を足しているとき、前を見たら太棹だった」。
 「我々は百姓で、手が空いているときは馬を出して、馬子をやっている。宿を聞かれるのは有り難い。世話になるので、お客を連れて行けば喜ばれるし、顔が立つ。鶴屋善兵衛が大きくはないが親切でおなごも綺麗で、江戸風呂と言って大きな風呂もある」。
 仲間の一人がまだ来ない。聞くとびっこ馬で長い短い足で歩くからそのたびに頭が下がる。すれ違う人に失礼はないが、くたびれてしょうが無い。「だから、大人しいだろ」、「それが、何かに驚くと思いっ切り駆け出すダ。こないだも客を乗せたまま走り出して、『きゃー』と言いながら駆けだして、谷底に落ちてしまった。仕方が無く仲間と一緒に馬はあげたが、客人はどうなったか」、「下ろしてくれ」、「おどけだおどけだ、そんな事無い。びっこのメッカチだから走れない」。
 道中、客人を口車に乗せて、飽きさせずに行くのも馬子の腕。

『鶴屋善兵衛』
 「ここから下ると宿に入りますので、私らの村はここから曲がったところです。ここでお別れと言うことにさせて下さい。指し宿していますので宿は安心です。明日また御用が出来るのであればお時間お知らせ下されば宿までお迎えに伺います。びっこ馬でなく元気な馬で行きますので、よろしく」と言うことで3人で宿場に入っていった。

 鶴屋善兵衛に泊まるのだが、提灯に宿名が書いてあるが、その字が3人共読めない。
 「私は全部の字は読めないが、四角い字は読める。まずは口、それから田、国なら分かるが、鶴屋善兵衛はこの中にあるか」。
 「大声で誉めながら宿場通ったら、当方が鶴屋善兵衛ですと、声を掛けてくれるよ」、「ではその方法で・・・」、「鶴屋源兵衛は良い宿だったな。そこの女中も親切だったよな。オイ、何とかお前も言えよ」、「女将も綺麗だったよな」、「そうだ、俺は寝たことがある」、「オイ、バカ、冗談は言うなよ」、「今のは嘘」、「早く泊まりたい」、「宿場の外に出てしまった。お地蔵様と棒鼻があるだけだ」。
 「今度は、宿場の真ん中で腹痛を起こし、鶴屋善兵衛が指し宿だから連れて行ってくれと頼んだら誰か連れて行ってくれるだろう」、宿場に戻って腹痛だと仮病を使った。そこに助っ人が現れ、「手前が鶴屋善兵衛です」、「定宿だから」、「お見受けしない顔です」、「お前は番頭かなんかでも、新しいのだろ」、「いえ、私が主人の鶴屋善兵衛です」、
「あ、いけねェ〜、鶴屋善兵衛の真ん前で倒れちゃった」。

 

 この後、「おしくら」に入って行く噺家もあります。最後は「祇園祭」になります。元来は各宿場ごとの噺が有ったのですが、廃れてしまった。淡々と話していく落語なので、先代正蔵師匠は上手かった。寄席で次の演者が来ないときは高座から下りられないので、この様な噺はつないでいけるので便利な落語です。(談志談)


 
1.旅

  「日本で、もっとも往来の激しい街道は、東海道ですが、日毎に信じられぬほどの人々で埋め尽くされていた。ある季節にはヨーロッパの大都市より賑わっている。その理由は、自ら好んですると、必要に迫られてするとを問わず、異国民と異なり、日本人は数多く旅を試みるからである」。オランダ人医師、ケンペルが元禄(1688-1704)初期に記した「江戸参府紀行」に書きとめている。
 この手記より40年近く前、慶安3年(1650)全国から伊勢参りの群衆が、旅という形で街道を往来していた。60年ごとに伊勢参りの大群衆が伊勢を目指して旅をした。

 江戸中期以降、参勤交代という公的な旅の他、一般庶民が社寺参拝という名目で旅に出た。江戸っ子からすると、大山詣り、富士詣り、成田詣り、箱根の湯治、江ノ島見物、金沢八景めぐり、伊勢詣り、上方見物などの目的で旅に出た。

旅の出発点は日本橋

  

 東海道五十三次細見図絵「日本橋」部分 広重画 
 図中、日本橋は中央下にあり、道中は「田町」に出て、「三田八まん」(御田八幡)を右に見て、「大木戸」を過ぎ、海岸沿いに「高輪」に出ます。赤穂浪士四十七士の墓がある「泉岳寺」と、左に「大仏」(おおぼとけ)とあるのは如来寺で現在は西大井五丁目に移っています。 図、中央にある「増上寺」、その右に「あたご」(愛宕山)が記されています。左の上部外側に品川があります。

品川宿(しながわしゅく);東海道五十三次の第一宿であり、中山道の板橋宿、甲州街道の内藤新宿、日光街道・奥州街道の千住宿と並んで江戸四宿と呼ばれた。 慶長6年(1601)に中世以来の港町、品川湊の近くに設置され、南宿、北宿、新宿(しんしゅく)にわかれていた。場所は、現在の東京都品川区内で、京急本線の北品川駅から青物横丁駅周辺にかけて広がっていた。目黒川を境に、それより北が北品川と歩行新宿(かち_しんしゅく)、南が南品川とされた。
 古典落語の廓噺(居残り佐平次、品川心中)及び「棒鱈」の舞台となっていて、他の宿場がそうであったように岡場所(色町、飯盛旅籠)としても賑わっていた。安永元年(1772)、幕府は飯盛女の数を500人と定めたが実効性がないまま増加。弘化元年(1844)1月に道中奉行が摘発を行なった際には、1348人の飯盛女を検挙している。江戸時代末の最盛期には約90軒の貸座敷があり、千人以上の飯盛り女が居た。その後も岡場所としての賑わいは、昭和33年(1958)の売春防止法施行まで続いた。

 

 東海道五十三次「品川」広重画 東海道最初の宿場。風光明媚で魚が旨く、飯盛女も多く四宿の一つとして、宿場の性格より岡場所の性格の方が強く大いに栄えた。宿場の境界を表した棒鼻(榜示杭)が手前に見える。

 この噺にあるように、品川で遊ぶと、懐は暖かいのでついつい遊びすぎて路銀が不足して、ここから江戸に逆戻りと言うこともあったようです。

川崎宿;江戸に幕府が開かれたあと、東海道の開設とそれによる交通量の増大のため、重要な要衝になった。当初は品川から神奈川までの間5里(20km)に宿場はなかったが、寛永4年(1627)に中間の川崎が宿駅となった。 元禄3年(1690)版の地図によると、六郷橋が描かれ108間(196.6m)有ったと記されています。日本橋から東海道の最初の宿が品川宿で、次が川崎宿で、東海道五十三次の2番目の宿駅です。天保14年(1843)には、人口2433人、住戸541軒、宿屋72軒、全長1800mの川崎宿を形成していました。
  庶民の行楽の地、平間寺(川崎大師)には六郷の渡しを渡り左に曲がって、楽しみに行っていた。落語「蜘蛛駕籠」より

神奈川宿;東海道の、品川、川崎、そして3番目の宿場で、現在の横浜市神奈川区新町から同青木町にかけて広がっていました。江戸から約7里(28km)です。ゆっくり行けば、ほぼ最初の泊まりはここになりますが、もう少し距離を稼いでおかないと2日目がキツくなります。神奈川宿の詳細は落語「宿屋の仇討ち」にあります。

 

 東海道図屏風「神奈川宿」部分 紙本着色 江戸時代 横浜市歴史博物館蔵

棒鼻(ぼうばな);榜示杭(ぼうじくい)という。宿場の入り口と出口に建てられた境界標。
右図:東海道五十三次「平塚・縄手道」部分 広重画 
中央に建っている棒杭が平塚宿に入る境界標柱、棒鼻(榜示杭)。同じく、先程の品川宿の入口にも見える。

飯盛女(めしもりおんな);表向きは宿屋の女中が、半ば公然と夜のお相手をしていた宿場女郎。幕府公認の吉原以外は、遊女屋の看板は上げられないが、街道筋の宿屋は2名だけ飯盛女を置くことが許された。 しかし、大勢の旅人相手には2名では当然足りず、女中や下女が女郎の役を果たした。
 宿場の衰退は幕府の宿駅制度を危うくさせることも有り、飯盛女を容認せざるを得なかった。宿場の繁栄は彼女たちの双肩にかかっていて、留女(とめおんな=女客引き)としても活躍した。

 

 岐阻(きそ)街道 「深谷之駅」 英泉画 夕刻飯盛女の様子が読み取れます。

宿駅;神奈川の宿を出ると、保土ヶ谷(第四宿、以下同じ)、戸塚(五)、藤沢(六)、平塚(七)、大磯(八)、そして箱根越えの玄関口、小田原(九)となります。

 

 冨嶽三十六景「東海道程ヶ谷(保土ヶ谷)」葛飾北斎画 馬に乗った旅人がこの噺の主人公のようです。

 

 東海道五十三次之内「小田原」部分 広重画  小田原に入る手前に流れる酒匂川、対岸に小田原城と小田原宿、その先に天下の嶮、箱根の連山が見えます。小田原は城下町でもあり、蒲鉾の名産地でもあります。ですから、蒲鉾の材料、鮫に食われて、腹の中で江戸までと言っています。



2.言葉の解説
 
仲間と涙の水杯を交わして、めでたく東海道を西に上ることとなる。品川宿を過ぎて、鈴が森の刑場、和中散で名高い大森を馬鹿話をしながら通り過ぎ、六郷の渡しを越え、川崎で茶屋の女をからかったりしながら、ようやく神奈川宿の棒鼻に着いたころには、そろそろ夕暮れも近くなっている」。(四代目橘家円喬の速記より)
 談志は3人を品川で2泊させてから出発し、神奈川宿では泊まらずに、小田原の鶴屋善兵衛まで足を引きずりながら歩を延ばした。

和中散(わちゅうさん);創業は慶長年間と言われる。 近江国(滋賀県)栗太郡梅の木村に本舗があり、関東では大森に三軒の支店を出していたので、「大森の和中散」として名高い。

  

  『江戸名所図絵』より「大森和中散」店舗。江戸時代、東海道の大森付近には『食あたり、暑気あたり』に効く漢方薬『和中散』を売る店が三軒あった。絵の屋号『梅木堂』店は、三軒の中の一店舗。大森村南原にあった。

 「和中散」は、食あたり・暑気あたり等に効く、道中常備薬としてつくられ、旅人に珍重された。元禄から正徳にかけて(1688〜1716)大森村中原、谷戸、南原に三店が開業した。 このうち南原に有った店が、のちに北蒲田村の忠左衛門に譲られ、この地に移転したという。
 文政年間(1818〜1830)の初め、忠左衛門の子久三郎の代に、庭園に梅の名木を集めて、休み茶屋を開いた。
 亀戸の梅林とともに梅の名所として有名になり、広重の浮世絵にも描かれた。
 「梅屋敷と和中散売薬所跡」(大田区蒲田三丁目25−6)梅屋敷公園、大田区教育委員会の案内板より

水杯(みずさかずき);酒ではなく、水を互いに入れ合って飲む別れの杯。再会を予期できない時などにする。昔の旅ってもしかすると、帰ってこれないかも知れない、そんな苛酷で楽しい旅だったのです。品川まで送っていった人もいるでしょうが、通常は品川の手前高輪の大木戸で見送り人とは別れました。

 「大山詣りで高輪の図」(富士登山諸講中の図とも)国芳画 国立国会図書館蔵
 手前の白装束の一団は富士講のグループ、他の人達は大山講の人々。江戸湾が見える高輪の茶店で一休みして、江戸との別れを告げているところ。左手に高輪大木戸の石垣が見えます。

鈴が森の刑場;(品川区南大井2−5−6大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
 『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺目頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には火あぶりや、はりつけに使用したという岩石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。 江戸刑場史上、小塚原とともに重要な遺跡である。』
(東京都教育委員会説明板より) 落語「くしゃみ講釈」より

六郷の渡し;現在の東京都と神奈川県の境を流れる多摩川を、渡し船で東海道を渡していた。江戸から渡ると着いたところに、当時万年(屋)と言う奈良茶飯しで有名な茶屋が有った。その先、川崎の宿駅でした。

 江戸名所図絵 「六郷渡場」 1834年 長谷川雪旦画  手前が江戸、渡ると川崎です。落語「蜘蛛駕籠」より

符丁ヤミ=3、(闇とも)陰暦の月の三十日は闇夜なので、3・30・300などの数。
     ジバ=2、かごかき、馬方の符牒で、2をいう。20、200などの数。
 では、1〜10までを馬方は、1=おじ、2=じば、3=やみ、4=だり、5=げんこ、6=ろんじ、7=せえなん、8=ばんどお、9=きわ、10=どて。業界隠語ですが、地方によっても変わってきます。

駄賃(だちん);江戸時代に刊行された「道中記」によると、神奈川(横浜)を過ぎると、1里九町で保土ヶ谷、
 保土ヶ谷→戸塚間は、二里九町、駄賃71文(一人、以下同じ)。
 戸塚→藤沢間は、二里、駄賃69文。
 藤沢→平塚間は、三里、駄賃110文。
 平塚→大磯間は、二十町、駄賃23文。
 大磯→小田原間は、四里、駄賃140文。
 距離によって駄賃が変わってくることが良く分かります。彼ら3人組は街道の途中から馬子さんに声を掛けられたので、宿駅間の駄賃ではなく、自由交渉の駄賃になったのです。でも、200文と300文では大違い。噺では保土ヶ谷は過ぎていたのですが、何処から小田原宿までの駄賃だったのでしょうか。

 この駄賃から派生した言葉で、空荷で帰ることを「無駄」と言い、無報酬または無益の働きを現在も無駄といいます。また、子供達がお手伝いをして小遣いをもらうことを「お駄賃」をもらうといいます。

距離;1里(3927.27m、約4km)=36町、1町(109.09m)=60間、1間(1.818m)=6尺、1尺は
(10/33m)。逆に1里は12960尺×(10/33m)=約3927.2727mとなります。
 日本橋から小田原まで20里27町(81.5km)。談志が言う3人組は品川からだと18里27町(73.6km)。馬に揺られたとしても、ずいぶん歩きました。よっぽど慣れた豪脚でなければ小田原までは無理でしょう。初日は戸塚、藤沢あたりが無難なところです。

客引き;街道では客の奪い合いは日常茶飯事です。留め女と言います。
  ちゃや女「お休みなさいヤアし。酔わない酒もござりやアす。ばりばりする強飯をあがりやアし。」
  馬方「だんな生きた馬はどふだ。やすくやりませう。馬は達者だ。はねることはうけ合いだ。」
 かごかき「かごよしかの。だんな戻り駕籠だ。やすくいきましやう。」
東海道中膝栗毛より
右図;人物東海道五十三次「御油」部分 広重画
御油、赤坂間わずか16町(約1.7km)しかなかったので、両宿とも留め女が大活躍。

メッカチ;片方の目が見えないこと。両目の大きさが違うこと。

指し宿(さしやど);宿泊の旅客にその行先の旅館を指定して紹介すること。また、紹介された旅館。
 毎回同じ宿屋に泊まること、また、その宿屋を定宿(じょうやど)といいます。

 

3.浅草寺五重塔(台東区浅草二丁目3番)
 浅草寺本堂の南西に建つ、昭和の五重塔。
 五重塔とは、お釈迦さまのご遺骨を奉安する仏塔の形式の一つ。
 浅草寺の五重塔は、天慶5年(942)平公雅(たいらのきんまさ)が本堂と共に建立したのを初めとして、その後数度倒壊、炎上に遭ったが、その都度再建された。
 徳川三代将軍家光により本堂・仁王門などと共に建立された国宝五重塔は、太平洋戦争の戦火により、昭和20年(1945)3月10日、他の伽藍とともに焼失した。戦後、浅草寺は十方ご信徒各位のご信助を得て、本堂、雷門、宝蔵門と伽藍復興に邁進し、牌殿・書院・他付属施設を備えた新様式の五重塔院を再建するに至った。
浅草寺ホームページより

 

 焼失する前は絵図でも分かるように、現在とは反対側の本堂の東南に建っていた。国宝の五重塔であったが、現在の塔と比べると一回り小さかった。そして現在の塔は昭和48年(1973)11月1日完成、33.18mの旧塔は 48.32m(地上高、53.32m)の新塔に生まれ変わった。

 


 舞台の高輪から六郷の渡しまで歩く

 第一京浜国道(国道15号線)は旧東海道の一部バイパスで、旧東海道とは一部並行し、また、拡幅されて走っています。また京浜急行の電車もこれに並行し、交わりながら南下しています。今回は京浜急行(京急)を乗り継いで多摩川の渡しまで行きます。

 京急の東京側の始発駅「泉岳寺駅」(港区高輪二丁目)から出発です。この駅は赤穂浪士が眠る寺として有名な泉岳寺からつけられた地下駅。この駅の上部は第一京浜(旧東海道)で、ここに高輪の大木戸跡(港区高輪二丁目19)の土塁が有ります。通常、東海道の旅に出ると近隣の者や、仲間や家族が見送りに来ましたが、ここで一服後、お別れとなります。丁度、江戸との境になってキリの良さもあり、風光明媚で、月見の名所で茶屋やヨシズ張りの茶店が多く並んでいました。
 現在は、海寄りに土塁が一ヶ所残され、史跡に指定されています。周りを石垣で囲まれ巾5.4m、長さ7.3m、高さ3.6mの遺構で、大木戸跡は都内では、ここだけにしか残っていません。海寄りと書きましたが、江戸時代海岸線だったJR線路の手前は真後ろにありますが、その向こうは海どころか1〜2km以上先まで埋め立てられて東京湾を望むことは出来ません。

 京急は次の「品川駅」(港区高輪三丁目26)でJRと接しています。新幹線もここに停車するようになって、利便性がすこぶる高い駅になりました。
 その次が「北品川駅」(品川区北品川一丁目1)、京急の元始発駅でここから南の三浦半島に路線が延びています。また、ここの駅は旧東海道の品川宿のとば口にありました。この駅の右側(西)は表通りの第一京浜、左側(東)は品川から表通りと別れた旧東海道です。過日、京急を使った乗客はここから品川まで歩いたのです。その為不便ではあったが、遊ぶ所が多く、品川宿は大いに栄えたが、品川駅まで線路が伸延されると、客足が激減した。
 この品川宿は落語「居残り佐平次、品川心中」、「棒鱈」で歩いた所です。今回も3人は宿場の入り口近くの飯盛女が多い歩行新宿の宿に入って、馴染みの女と別れを惜しんだのでしょう。

 京急「大森海岸駅」(品川区南大井三丁目32)で降りて、真っ下の第一京浜(東海道)に出ます。品川に戻るように歩き始めると、通りの右側に平成3年にオープンした「しながわ水族館」入口が見えます。家族連れで賑わう平和の象徴的水族館とその先500m位の所に有る刑場跡の対比は大きいものです。京急を挟んで第一京浜と品川から来た旧東海道が鈴ヶ森交差点で合流します。その合流点の北側に鈴ヶ森刑場遺跡(品川区南大井二丁目5大経寺内)が有ります。東海道を旅していると品川を抜けて右側にこの公開処刑場があったのです。江戸の北側、日光街道千住宿の入口にあった小塚原と並んで重要な遺構です。現在は大経寺の管理になっていて境内になっています。そこには火あぶりの刑の台石や磔刑の台石も残っていますし、多くの石碑や供養塔が林立しています。

 続いて、各駅停車の京急「梅屋敷駅」(大田区蒲田二丁目28)で下車します。直ぐ隣の第一京浜に出て南に、駅名の元になった梅屋敷公園(大田区蒲田三丁目25)に向かいます。梅屋敷は”大森の和中散”の店舗を構えていた山本屋が開いた梅園で、明治天皇も梅を楽しみに来たと言うほどの、名園であり茶店も開かれ、和中散共々繁昌した。現在は大田区の管理で、国道と京急に挟まれた狭い敷地に梅木を中心に庭が造られています。管理が悪いせいか、廃園寸前の悲しい状態です。丁度この地が江戸から三里十八丁だという、石碑が山本屋の店先に建っていたという。

 現在京急は高架化工事の終盤を迎えています。その説明ジオラマの六郷土手駅付近の様子。手前の道路が第一京浜国道(旧東海道)、緑色の土手と河川敷を越えると多摩川の本流があって、川崎に入ります。

 最後の目的地、京急「六郷土手」(大田区仲六郷四丁目27)で下車して、隣の六郷橋に出ます。この橋は東京都と神奈川県の県境を流れる多摩川(六郷川)に架かる橋です。六郷川の河川敷は八割方江戸(東京)側に有り、土手を下って橋の終点近くまで行かないと、川面が見えません。河川敷は野球場であったり、ゴルフ練習場、テニス場、ゲートボール場などのスポーツ・グラウンドとして活用されています。川面が見えたその先は手が届きそうなくらい近くに高い土手があり、そこが神奈川県川崎です。この狭い川幅を渡し船で渡していたのです。現在は上部の六郷橋で雨、風、増水に関係なく、ゆうゆうと対岸に渡ることが出来ます。
 橋を渡って右に入っていく道が、旧東海道で、川崎宿に入って行きます。川崎宿も品川宿と同じように男の人が遊べる宿が沢山あり、その跡が堀ノ内の歓楽街として、東京の吉原、千葉の栄町と並び過日ほどではないと言われますが繁栄しています。

 

地図

 

 地図をクリックすると大きな川崎までの地図になります。 東海道分間延絵図より「品川」。

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

札の辻(港区芝五丁目と三田三丁目の境にある第一京浜の交差点)
 この高札場は、日本橋南詰め、常盤橋外、浅草橋内、筋違い橋内、半蔵門外、とここ札の辻が、江戸の六大高札場で有った。しかし、天保2年(1831)下記の大木戸に移された。
 写真歩道橋の下が第一京浜で、奥に入っていく道が桜田通り、正面に見えるのが東京タワーです。

高輪大木戸跡(港区高輪二丁目19)
 江戸の南の入口で、当時道幅6間(約10m)の旧東海道左右に石垣を築き夜間大木戸を閉めて治安維持に努めた。現在は道路が広がり、海寄りが歩道の一角に残されています。江戸の後期には大木戸は廃止され、自由に行き来が出来るようになった。

大木戸横は海だった(大木戸跡の東)
 
江戸期には旅人の送迎もここで行われ、茶屋などもあって海岸沿いの景色も良く、月見の名所でもあった。
 写真は背中を上記土塁に接し、その南側からの東風景です。街道沿いに駐車場、その奥に品川に向かうJRの電車が走っています。線路から先は海だった所ですが、ご覧のように海は見えません。

品川宿(品川区北品川)
 旧東海道初めの宿駅、品川宿の様子です。左のコンビニ手前マンションが有名な「土蔵相模」が有ったとこです。飯盛女で賑わっていたのはここら辺りです。この街道の左側は下り坂になっていて、海だった所ですが、大木戸同様、海は彼方のまたその奥で、見ることは出来ませんが、海からの掘り割りは近くまで来ています。と言うより残っています。

鈴ヶ森刑場跡(品川区南大井二丁目5大経寺内)
 写真左側が刑場跡で、ここで処刑された、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などが有名です。
 写真の道路が旧東海道で、北(前方)に向かうと品川宿に出ます。右側は海で、海岸は大森海岸でしたが、数km先まで陸になってしまいました。

梅屋敷公園(大田区蒲田三丁目25)
 梅屋敷は山本忠左衛門が和中散売薬所を開いた三千坪の敷地に、その子久三郎が文政(1818-1829)の頃、梅の木百本をはじめとして、カキツバタなどの花々を植え、東海道の休み茶屋を開いたのが始まりという。
十二代将軍家慶や明治天皇も足を延ばした、亀戸梅屋敷に並ぶ名園であった。

六郷橋(東京都と神奈川県境の多摩川に架かる橋)
 江戸時代は主に渡船で東海道を結んでいた。現在は船乗り場の上に六郷橋が出来て自由に対岸の川崎に出ることが出来ます。奥のビル群が川崎で、その手前に本流が流れています。その手前は広大な河川敷でグラウンドとして活用されています。右側が上流で京急の鉄橋、続いてJR京浜東北線、東海道線が多摩川を鉄橋で渡っていきます。

浅草寺五重塔(台東区浅草二丁目)
 談志が浅草寺の五重塔から油揚げをまけばイイと言ったのですが、写真は昭和の五重塔で、戦災で焼けてしまった木造五重塔は有りません。
正面が本堂その奥に五重塔が見えます。見える塔が昭和に建設された現在の五重塔。

                                                 2012年10月記

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