落語「くしゃみ講釈」の舞台を歩く
 

  
 柳家権太楼 の噺、「くしゃみ講釈」によると。 
 

 三十二になっても、一寸と頭の弱い江戸っ子君は町内の評判美人の小間物屋の”みー坊”を夜デイトに連れ出す。人気のない暗い風呂屋の路地で話をしていると、人が来るので壁にへばりついていると、犬の糞を踏んづけた一流斎低脳と言う講釈師が雪駄の裏の犬糞(けんふん)を彼の顔にこすりつけてしまう。それが元で彼女に振られたので、遺恨返しがしたいという。

 兄貴分は講釈場で仕返しをしようと、胡椒の粉を火にくべて高座に流し咳が出たところでイヤミを言って、恥さらしをしようと言う。買い物に行って胡椒の粉を忘れたら、八百屋お七の覗きからくりをすれば、小姓の吉三で、胡椒を思い出すだろと、知恵をつける。
 乾物屋に来てみると本当に忘れて思い出せない。野次馬を沢山集めて、八百屋お七を一段演じたあとにやっと胡椒を思い出したが、売り切れ。変わりに唐辛子を買って帰った。

 講釈場の一番前に陣取った。火鉢を借りて、唐辛子の粉をくべると講釈中咳き込み演じきれなくなって、話の途中で平謝り。半札でなく、丸札を出しますので、今日の所はご勘弁下さいと挨拶。二人はさんざん悪口を列べて言い立てるので、「みんなは心配しながら帰ったが、お二人はどうしてそんなにコショウを入れるのですか?」、「胡椒が無いので、唐辛子を入れた」。
 



1.吉祥寺とお七
吉祥寺(文京区本駒込3−19)で聞くと「当寺とは直接的な関係はないのですが、お芝居などで舞台になっているので、二人の比翼塚はありますが・・」との事。虚実いろいろな説がありますが、そこで、吉祥寺での説を。
『本郷森川宿の八百屋市左衛門の娘お七は、幼いころから利発で器量もよく、両親はお七が玉の輿に乗ることを夢見ていた。天和2年暮れの火事で家は類焼し、一家は駒込の正仙院(圓乗寺)へ一時立ち退いた。
 この寺に、生田庄之介という住持寵愛の十七才の美少年がいた。庄之介はお七に一目惚れし、恋文をお七の下女ゆきに託した。やがて二人は思い思われる仲になった。かくするうちに焼け跡の普請も出来上がり、天和3年正月25日、お七の一家は新しい我が家へ帰り住むことになった。
 恋しい庄之介から引き離されたお七は、食が進まずやせ衰えてしまったが、両親は恋患いと気が付かなかった。また焼け出されれば庄之介に会えると思い込んだお七は、3月2日夜、風が起きたのに乗じて我が家に火をつけたが、近所の人に発見され、捕らえられた。
 奉行はお七のあどけなさに言葉を和らげ、「放火の理由を正直に白状すれば命は助ける」といったが、罪が庄之介に及ぶことを恐れたお七は狂気をよそおい通し、火刑が決まった。3月18日から11日間、市中を引き回され、29日、鈴ヶ森で処刑された。この時お七は、下女ゆきと乳母の心尽くしで華やかな大振り袖に幅広の紫の帯という姿だった・・・。
 庄之介は自害しようとして果たせず、高野山に登って僧になり、お七の冥福を祈った。』

 お七と吉三が駒込の吉祥寺で出会ったという俗説は、お七処刑の3年後に発表された、井原西鶴の「好色五人女」から。
 芝居では15才と言えば許されたのに、16才と言って火刑になった。
 本郷森川宿は文京区本郷六丁目。東大正門前。

 

 八百屋お七宅付近図<東都古墳史>

 

 

2.ズバリ八百屋お七の噺がある。落語「お七の十」ですが、 先代柳亭痴楽がやっていました。概略を書きますと、
 本郷の八百屋のお七は、恋しい寺小姓の吉三に逢いたさに放火して、鈴が森で火あぶりの刑に処せられた。吉三は悲しみのあまり吾妻橋から身を投げて死んだ。地獄で会った二人が抱き合ったとたん、ジューという音がした。お七が火で死に、吉三が水で死んだから火と水でジュー! 又、七と三を足して十。 それでも浮かばれないお七の霊が、夜毎鈴ヶ森に幽霊となって現れる。ある夜、通りかかった武士に「うらめしや〜」。武士は「恨みを受ける因縁はない」と、お七の幽霊の片足を切り落とす。幽霊が片足で逃げ出したので、「一本足でいずこにまいる」と、訪ねると「片足や(わたしゃ)本郷へ行くわいな」。

 

3.鈴ヶ森遺跡(品川区南大井2−5−6大経寺内、昭和29年11月都旧跡に指定)、
 『寛政11年(1799)の大井村「村方明細書上」の写しによると、慶安4年(1651)に開設された御仕置場で、東海道に面しており、規模は元禄8年(1695)に実施された検地では、間口四十間(74m)、奥行き九間(16.2m)であったという。
 歌舞伎の舞台でおなじみのひげ題目を刻んだ石碑は、元禄6年(1693)池上本門寺目頭の記した題目供養碑で、処刑者の供養のために建てられたものである。大経寺境内には火あぶりや、磔(はりつけ)に使用したという土台石が残っている。
 ここで処刑された者のうち、丸橋忠弥、天一坊、白井権八、八百屋お七、白木屋お駒などは演劇などによってよく知られている。
 江戸刑場史上、小塚原とともに重要な遺跡である。』(東京都教育委員会説明板より)

 

4.江戸の火事江戸っ子は妙な自慢をした「火事と喧嘩は江戸の華」。それほど火事が多かった。大火と言われるものだけで、90回以上あり、その中から大きいものをピックアップすると。

1.明暦の大火(明暦3年、1657) 1月、俗にいう振り袖火事。2日間3回にわたって出火し強風にあおられ燃え広がって江戸の姿を一変させた。江戸城本丸(以後再建されなかった)をはじめ、開府以来の桃山風の豪壮な武家屋敷があらかた焼けた。大名屋敷500家、旗本屋敷770家、神社仏閣300、橋61,町地1200町(町屋の3分の2が焼失)が燃え、死者10万7千人と言われる。江戸史上最大の火事。
 その上、翌日21日は大雪となって、凍死者まで出る大惨事となった。では、なぜ振り袖火事と言われたか。
 浅草の大増屋十右衛門の娘に、十六になるおきくがいた。上野へ花見に紫縮緬(ちりめん)の振り袖を着て出掛け、道で出会った若衆に一目惚れ。それが元で床に伏して病死した。 当時、若い娘が死んだときはその振り袖を寺へ納めるのが習慣だから、この紫縮緬も菩提寺の本郷丸山本妙寺に納められた。それが古物屋に出て別な十六才の娘が買い、程なく病死。 その後、また別な十六才の質屋の娘が質流れになった紫縮緬の振り袖を着たところこれも病死。3人とも、菩提寺は同じで、葬式も3年続いて正月16日。 不思議な運命を恐れた親たちが集まって、供養をして振り袖を焼き捨てようとすると、一陣の風が起こって、振り袖は天高く舞い上がり・・・。それが元で大火になった。
  
*本郷丸山本妙寺(現在は豊島区巣鴨5−35) 
この話も俗説で真実はこんな芝居がかった話ではなかったようです。
   
 2.天和(てんな)の大火(天和2年、1682) 12月28日お七火事とも言われる。これが元でお七の家族は焼け出される。駒込、大円寺から出火し、東は下谷、浅草、本所を焼き、南は本郷、神田、日本橋に及んだ。大名屋敷23、旗本屋敷30余、寺社24を焼失。
 翌正月21日、お七は放火し、これも大火になり、大名・旗本屋敷240余、寺社95を焼失。死者3500人を出した。
 3.元禄の大火(元禄16年、1703) 小石川の水戸屋敷から出火したので、水戸様火事と言われる。
 4.明和の大火(明和9年、1772) 目黒行人坂の大円寺より出火、強風にあおられ千住まで焼く。窃盗目的の放火と判明。以後、表通りの建物は土蔵造り、瓦葺きの屋根にさせた。年号から「めいわくの火事」と言われた。江戸史上2番目の火事。
 
5.文化の大火(文化3年、1806) 丙寅(へいいん)の火事。芝から浅草まで延焼。
 6.佐久間町火事
(文政12年、1829) 3月21日神田佐久間町から出火。
   
江戸史上3番目の火事。
 
7.安政の大地震(安政2年、1855) 地震による火事。30ヶ所から同時出火。

   *1.4.6.の赤太字が江戸三大火事です。 三番目の火事については順位に諸説あります。江戸の三大大火については、落語「二番煎じ」に詳しく書いています。

 現代社会も出火原因のトップは放火(40.8%。2位たばこ8.7%、平成11年)です。当時の江戸でも統計は出ていませんが、放火は非常に多かったと言われています。

 

5.のぞきからくり【覗機関】
 箱の中に、物語の筋に応じた幾枚かの絵を入れておき、これを順次に転換さ せ、箱の手前の眼鏡を通して覗かせる装置。のぞきめがね。からくりめがね。(広辞苑)

  紙芝居の大掛かりなもので、それを見るのには、お金を払って手前の覗き穴から中を覗き、物語のストーリーを追うものです。縁日やイベント会場などで盛んに催された。

 右図;「からくり」大阪天満宮 1957 写真家・木村伊兵衛撮影 
別冊太陽189平凡社。「木村伊兵衛」人間を写しとった写真家より
 クリックすると大きくなります    2012.12追記

 

6.半札と丸札、興行の世界では出演者が出られないときや、何かのトラブルで最後まで演じきれない時はお客に非礼を詫びて、入場料の払い戻しをしたり半金を返したりした。その時は現金を返さず、次回以降の入場券を渡した。それが”丸札”。半金分を返したのが”半札”。
 


  吉祥寺、鈴が森刑場遺跡と墓所を歩く
 

 駒込の禅宗(曹洞宗)、諏訪山・吉祥寺、戦災にも免れた今の山門があります。歴史を感じさせる造りと風格を感じさせます。くぐると広い参道と本郷通りの雑踏が無くなります。左手に「吉三・お七、比翼塚」が立っています。大きな石造りの塚というより碑です。お七生誕300年の昭和41年に、日本紀行文学会が建てたものです。また、ここには二宮尊徳の墓があります。墓には、小学校の校庭に立っていた、たき木を背負って読書をしている、あの有名な少年の頃の二宮金次郎像が立っていました。境内は広く、本堂も戦後再建された立派なものです。また、「栴檀林(せんだんりん)」が有って、常時千人をくだらない禅僧が勉強していました。これが発展して今の駒沢大学になります。
お七が焼け出されて一時避難していたお寺は各説有ります。ただ、ここ吉祥寺は演劇の中で創作されたもので、違うことがハッキリしています。残念ながら。

 鈴が森刑場遺跡、第一京浜国道に旧東海道が合流する鈴ヶ森交差点の角に、三角形のくさび形の土地にあります。今は大経寺さんの境内になっており、ここが管理しています。千住の小塚原の刑場と並んで歴史上重要な所です。公開処刑場の為、どちらも街道筋の人目の多いところに作られています。ここには、火あぶりにする時に立てる柱の台石があります。その隣に、張り付けの刑をする時の同じく穴の開いた台石もあります。他に慰霊碑や説明板が沢山立っています。その中の説明板に、ここに来た人は見物するのではなく、ここ鈴ヶ森で露と消えた人達の冥福を祈れとあります。その通りだと思います。合掌。
 脇を通る第一京浜国道の交通量は大変なものですが、こちらの側道(歩道)を通る人影は極くわずかでしかありません。歴史の彼方に行ってしまったのでしょうか。それとも”今の生活”だけなのでしょうか。

 お七のその後、お墓はあるのでしょうか。あるとすれば、何処にあるのでしょうか。
 お七の墓は南縁山・圓乗寺(えんじょうじ、文京区白山1−34−6)山門をくぐると本堂手前左手に有ります。当時の住職が当地区には沢山の大名屋敷があり、そこのコネで遺骨を引き取らせてもらい安置していたが、ほとぼりの冷めた頃墓を建てて菩提をともらった。その墓石が今に伝わっています。戒名「妙栄禅定尼霊位」(みょうえいぜんじょうにれいい)。 お七は地蔵になって極楽浄土に往生したと伝わっています。ですから、お七地蔵を祀っています。その名を「南無六道能化(のうけ)八百屋於七(おしち)地蔵尊」と言います。 ご家族のその後の消息は本郷から出て、分からなくなっています。お七一家が火事で焼け出され、お寺さんに一時避難したのもこの円乗寺です。
 円乗寺でのお七伝説。お七の家族は焼け出されて円乗寺で世話になっていた。そこのお小姓と切れない仲になったが自宅の普請が出来上がり、引越。彼を忘れられずにいたが、盗みや火事場泥棒の吉三と言う悪党に「火事になればまた会える」とそそのかされて、うぶなお七は自宅に火を着けた。お七と吉三は捕らえられ、火刑になった。その時の火事はボヤ程度だという。お七は悪党に騙された、可哀想な小娘であったという。(住職談)

 お七さんについて『曳屋庵我衣』は、「一体ふとり肉(じし)にて少し痘痕(あばた)のあともありしといえり。色は白かりけれどもよき女にてはなかりし」と記述されています。
イメージを崩して申し訳有りません。お芝居と違って現実は・・・。

 お七の墓は、文京区白山の円乗寺(天台宗)のほか、千葉県八千代市萱田町・長妙寺(日蓮宗)にもあります。鈴が森近くの密厳院(真言宗)にはお七地蔵があり、また、目黒区の大圓寺(天台宗)にもお七地蔵があります。
 長妙寺のそれは、お七は八千代生まれで本郷の八百屋に養女として入った。処刑後、悲しんだ実母が刑場から遺骨を貰い受け、この長妙寺に埋葬したと言われる。

 

地図

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写真

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吉祥寺(=きちじょうじ。文京区本駒込3−19−17)
 演劇などで舞台になった吉祥寺正面山門。ここを入り、左側に吉三・お七の比翼塚が有る。これはお七生誕300年の昭和41年に、日本紀行文学会が建てたもの。
 中央線吉祥寺駅名(町名)は往年開拓地であり、当寺の別墅地(分家地)であったために吉祥寺の名称が残った。
鈴が森刑場遺跡(品川区南大井2−5−6大経寺内)
 八百屋お七がここで火あぶりの刑で処刑された。その火あぶりの刑に使われた、台座の石が置かれている。
直径4〜50cm位の丸石で中央に穴が開けてある(一見、穴あき貨幣のよう)。この穴に処刑者が張り付けられた柱を立てて、下にたき木を沢山積んで火を付けた。その石には小さな花が添えられていた。石を触るとザラッとした感触が伝わってきた。
八百屋お七の図(芳年画)
 
実在の人物であったが、そのいきさつなどは演劇などで脚色されているので、実説は違ったものである可能性が大きい。火付けをして処刑されたのは事実であるが・・・。
纏(まとい)
 
当時の火消しの組を表すシンボル。いろは四十八組あったといわれるが、”ん”、”ひ”、”へ”、”ら”は無かった。
 以降読者の市川良章氏からの資料を紹介します。
 江戸時代”五番組し組”は存在し、麻布谷町辺り十六ヶ町を担当した組合です。実際は『ら』が欠番になっていました。いろは四十八組の中に ”ん”、”ひ”、”へ”、”ら” を抜いた代わりに、百、千、万、本組を入れた。
 私感ですが、何故これらを抜いたか?という疑問に関して、単に語呂が悪かったり、火が入ると縁起が悪いと言うようなものだと思います。ただ ”ら” については昔、火事場で屋根に纏をあげていた頃、ま組の纏の次にら組の纏があがると ”ま・ら” の纏が、と不謹慎と思ったのか?具合が悪いので、と言う話もあります。笑い話ですが。
以上の様に追加します。プロの頭・市川さんありがとう。(03年2月.メールより追記)
天台宗 南縁山・圓乗寺(えんじょうじ、文京区白山1−34−6)
八百屋お七の墓所であり、お七が成仏してお地蔵さんになったという話しから、山門入り口左に「八百屋於七地蔵尊」を祀った社が建っている。
目黒行人坂大円寺(目黒区下目黒1-8-5)
大円寺でのお七とその後の吉三の話があります。吉三は名を「西運」と改め、お七の供養と社会事業を成し遂げました。
お七地蔵尊、西運上人像などがあります。
クリックすると、詳細があります。

                                                                 2001年7月記

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