落語「業平文治」の舞台を歩く
   

 

 五代目古今亭志ん生の噺、「業平文治」(なりひらぶんじ)によると。
 

 寛永の頃に本所の業平村に浪島文治郎という人がいた。この人の父親は堀丹波守の家来で380石を貰っていた。隠居をして業平に田地田畑を求めその上がりで裕福な暮らしをしていた。父親亡き後母親に孝行し、真影流の達人で、七人力という力持ちであった。義侠心が強く24歳になる美男だったので業平文治と呼ばれ、娘達にも評判であった。

 浮き草のお浪という美人ではあったがタチの悪い女に、杉の湯の混浴の洗い場で触られたと因縁を付けた。生薬屋の番頭が引きずり出され、脅されている所に文治が仲に入った。聞き分けがないので、殴って表に叩き出してしまった。亭主国蔵は金づるが出来たと、文治の家にケガした女を連れて仕返しに来た。50両で手を打つというので奥に連れて行き、逆に殴り殺してやると殴って出鼻をくじいた。改心するならと20両を渡してやるから正業に就けと諭した。

 神田には12人の乱暴者の悪がいた。豊島町の亥太郎という左官屋は背中にイノシシの彫り物をし酒乱で力も強く手に負えなかったが、飲み屋の支払はキレイであった。ある店で亥太郎は持ち合わせがないので、「アトで」と言ったが新しい番頭は分からなかったので、「飲み逃げになりますから」と返答した。何処でもOKを出してくれる上に泥棒呼ばわりされたので怒って、そこの番頭を殴りつけて店を壊してやると暴れ出した。
 そこに文治郎が出くわした。子分に飲み代を出して返してやれと言ったが、喧嘩慣れした子分でも殴り飛ばされてしまった。仲裁人に無礼をするなと言ったが、組み付かれ力で押し込まれてしまったが、真影流の使い手、逆にねじ伏せて投げ飛ばしてしまった。亥太郎は初めての敗北に「覚えていやがれ」と捨て台詞を残し走って行った。
 当時、浅草見附にある公儀の役人の見張り所に飾ってあった鉄砲をはぎ取って元の所に駆け戻ってきた。役人は驚いて追いかけ取り押さえ、牢屋送りとなってしまった。それを聞いた文治郎は病気持ちの老父もいることだし可哀相だと留守宅に10両持って見舞いに出掛けた。息子が出てくるまで、これでつないでくれと渡すと、涙ながらに感謝する老父であったが、1両有れば1年楽に暮らせたという10両、金額の多さに目を回す老親であった。

 12月26日に入牢したが鉄砲を持ち出しただけであったので、刑は軽く翌年2月26日に出てきた。出る時には100叩きという刑罰があった。普通は50も叩けば気絶するのに、亥太郎は平気で出てきた。彫り物が心配で彫り師に見てもらうと猪の顔が滅茶苦茶だと言うので、叩かれた直後であったが熊の顔を彫り足した。胴体は猪で顔が熊というへんてこな彫り物になった。人呼んで猪熊というあだ名になった。
 文治郎の土手っ腹をえぐってやろうと脇差しを買ったが、親の所にチョット顔を出した。老父に又喧嘩に行くと言い、相手は文治郎だと言う。「文治郎様は私の命の恩人だから、喧嘩しに行くなら、俺を殺してから行け」と言う。聞けば牢獄にいる時老父の面倒を見てくれたのは文治郎様だけだ、そのお見舞いがなかったら、死んでいただろうと言われ、脇差しは親に預け、鎌倉川岸の豊島屋へ行って銘酒を一樽買って、酒樽を担いで文治郎宅にお礼の挨拶に出掛けた。願って亥太郎は文治郎の子分になった。良い事はしておくものであった。
 そのお陰で、後日、文治郎は命がなくなるところを亥太郎のお陰で助かると言う事になります。

 



1.長い話の発端
 三遊亭圓朝が17話として創られた話ですが、その発端がこの噺です。この後は、
 眼病を得て暮らしに窮する浪人、小野庄左衛門の美しい娘、おまちと婚礼した文治は、悪行を重ね、おまちをつけねらったあげく、庄左衛門を殺した大伴蟠龍軒 (おおともばんりゅうけん)を討たんとする。義父の敵に迫る中、人を殺めた文治は、斬罪となるところを救われて遠島を申しつけられる。その船が漂流の後、小笠原に漂着。7年に渡って無人島に暮らした文治が、赦免を得て再び大伴蟠龍軒に迫るその後の経緯には、噺の最後でわずかな言及がある。
その後の噺は「後の業平文治」として話を書き進めていたが、圓朝が亡くなって、話が闇の中に埋められてしまった。

全17話の速記」は青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で公開されているものです。

 「後の業平文治」は『業平文治漂流奇談』の続編。前編において、希代の悪党、大伴蟠龍軒を討ち逃した業平文治が、三宅島への流刑、小笠原への漂流など、艱難辛苦の末に仇敵に迫る。花見客の蝟集する向島にて、父の敵、蟠龍軒についに対峙した文治とその妻お町による、仇討ちの首尾や如何。本編、冒頭の演者による紹介にあるとおり、この作は圓朝の噺を速記に起こしたものではない。前編の最後で概略のみ示した後段を、圓朝は公にせぬままに終わる。師没後の明治36(1903)年、弟子の圓橘は、圓朝遺稿として後編を演じる。これが速記に起こされ、時事新報に連載されて、本作となった。圓橘は、生前師匠が語る「後の文治の筋々を親しく小耳に挟んで居」たという。その記憶に基づき、師の残した粗筋の要所要所を繋いだ本作の展開は、実にめまぐるしく、いささか構成に破調をきたしているところも見られる。お町の窮地を救う熊の、いかにも都合のよい出現。海賊の頭目を討った後、代わりに首領の座におさまったのか否か、はっきりとしない蟠龍軒。かつてはぐるとなって悪事を働いた、蟠龍軒とお瀧のそらぞらしい再会。二度の大嵐を経るとはいえ、新潟沖から出て小笠原諸島に漂着するというのも、尋常ではない。後に全集が編まれるなどつゆ知らぬ圓朝が、前編の最後に示した概略からも、後段の展開は大きく外れている。だがともかくも、本編を得て、文治、お町の昔年の恨みは晴される。
青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)より引用


2.
本所の業平村(墨田区業平)
  主人公浪島文治郎が住んでいたところ。 志ん生が一時住んでいたナメクジ長屋もここにありました。

  志ん生の「びんぼう自慢」からナメクジ長屋」や業平橋の様子と当時の長屋地図を載せました。
その場所は当時、本所區業平橋一丁目十二(現・墨田区 業平1−7辺り)です。 

  「私の中の志ん生」 小島貞二氏 http://www.deston.net/rakugo/korega/04.html より

■業平橋この由来として在原業平を主人公とした『伊勢物語』の中にこの付近を舞台とした「都鳥」がありました。そこからこの橋名を業平橋となりました。
「名にしおはばいざ事とはむ宮こどりわが思ふ人はありやなしやと」 (古今集)
左写真;業平橋をクリックすると大きな写真になります。
風俗画報臨時増刊「新選東京名所図絵」第61編明治41年12月20日発行、睦書房刊行。墨田区みどり図書館所蔵。

豊島町;(千代田区神田豊島町=現・東神田の西側半分)亥太郎という左官屋が住んでいたところ。
 JR浅草橋と秋葉原の中程で、靖国通り東神田交差点とその北に流れる神田川に架かる美倉橋にかけての一帯です。その東側に下記の浅草見附がありました。

浅草見附;(千代田区日本橋馬喰町浅草橋南詰め。浅草御門)
 浅草見附にある公儀の役人の見張り所 。明暦の大火のおり、この門を閉鎖した為多数の死傷者を出したところ。
 神田川にかかる浅草橋は、江戸三十六門の一つ浅草御門で見附門といわれ寛永13年(1636)にできた。江戸幕府は、主要交通路の重要な拠点に櫓、橋、門などを築き江戸城の警護をした。奥州 、日光街道(現在の江戸通り)が通るこの地は、浅草観音への道筋にあたることから門は浅草御門と呼ばれた。また川の南側の大番所に警護の役人を配置したことから浅草見附と言われた。 神田川は江戸城の外堀を形成していて浅草御門のほかに筋違橋門、小石川門、牛込門、市ヶ谷門、四谷門、赤坂門、虎ノ門等36ケ所の見附があり江戸城の警護をした。
 明暦の大火後、浅草の奥に新吉原が出来てからは、観音参りに加え吉原通いの遊客達でこの往還はさらに賑わった。吉原が盛んになると、この辺りから柳橋にかけては船宿が 出来、吉原通いの基地となり、 落語「船徳」の船宿の舞台でもありました。
 右絵図をクリックすると大きな写真になります。明暦の大火の浅草御門《むさしあぶみ》より。役人の勘違いで浅草御門が閉じられ、大群衆が逃げ場を失い、堀(神田川)は人であふれ2万3千が焼け死んだ。

鎌倉川岸(河岸);(千代田区内神田1−6および2−2、3鎌倉橋脇)江戸城に使う大石や用材などの荷揚げ場で、鎌倉出身者の人夫が多かったからだと。また、家康が江戸城改修の時、鎌倉から持ってきた石をこの河岸から陸揚げしたからだとも言う。白酒で有名な 豊島屋十右衛門の酒屋はここにありました。 

白酒;もち米を蒸して麹を入れ、みりんに仕込むため、みりんの甘さが一層糖化して、ものすごく甘くなります。さらに出来上がった醪(もろみ)を、昔ながらに石臼できめ細かくすりつぶして白酒にします。アルコール度は10%前後で、現在の酒税法上ではリキュールに該当します。ひな祭りに合わせて売り出されました。

現在も千代田区猿楽町 1−5−1で、株式会社豊島屋本店として成業しています。


図版;長谷川雪旦が描いた江戸名所図絵「鎌倉町豊島屋酒店白酒を商ふ図」

 

3.在原業平(ありわら の なりひら)朝臣(あそん)
 天長 2年(825年)〜元慶4年5月28日(880年7月9日)平安初期の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材ともなった。(広辞苑)

 臣籍降下して兄行平らとともに在原氏を名乗る。仁明天皇の蔵人となり、849年(嘉祥2年)従五位下に進むが、文徳天皇の代になると13年に渡って昇進がとまり不遇な時期を過ごした。清和天皇のもとで再び昇進し、従五位上に序せられ、右馬頭、右近衛権中将、蔵人頭に進んだ。文徳天皇の皇子惟喬親王に仕え、和歌を奉りなどした。鷹狩に執着した桓武天皇の子孫だけあり、兄行平ともども鷹狩の名手であったと伝えられる。
 紀有常女(惟喬親王の従姉にあたる)を妻とし、紀氏と交流があった。子に棟梁、滋春、孫に棟梁の子・元方があり、みな歌人として知られる。業平は『日本三代実録』に「体貌閑麗、放縦不拘」と記され、美男の代名詞のようにいわれる。早くから『伊勢物語』の主人公と同一視され、伊勢物語では、二条后こと藤原高子や惟喬親王の妹である伊勢斎・宮恬子内親王などとの禁忌の恋が語られている。
 歌人としては『古今和歌集』に30首が入集している。

出典: 文;フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』。肖像;別冊太陽「百人一首」より狩野探幽画。写真をクリックすると大きくなります。

■百人一首に彼の有名な歌があります。
ちはやぶる神代もきかず龍田川からくれなゐに水くくるとは」  業平

  落語国の知らないと言えない、物知り隠居によるこの歌の解釈は、
 相撲取り”龍田川”は立派になるまで女断ちをしていたが、出世してタニマチから吉原へお誘いがあった。指名した花魁”千早”に「わちきは嫌でありんす」と振られてしまった。それではと妹・神代に話を付けると「姉さんが嫌な事はわちきも嫌でありんす」とまたまた簡単に振られてしまった。龍田川はガッカリして相撲を廃業して国に帰り家業の豆腐屋を継いだ。ある時、うらぶれた女乞食が店先に立ち、「何も食べていないのでオカラを恵んで欲しい」と言うので分けてやろうとして顔を見るとなんと、あの千早であった。お前にやるものはないと軽く千早の肩を突いたが、なにせ元は相撲取り、ぶ〜〜んと飛んでいって井戸に落ちて水にくぐってしまった。
 その話を聞いていた八つあんは「え!おどろいたなぁ、これがあの歌の解釈ですか?だとしたら最後の『とは』は何ですか」、「そのぐらい負けとけよ」、「いえ、それは出来ません」、「う〜ん、それは千早の本名だ」。

素敵な解釈でしょ。私なんぞはいまだ、この解釈を正論だと信じています。(落語「千早振る」より)
 


 

  舞台の業平を歩く

 

 浅草橋北側には浅草御門の石柱と浅草橋の由来が建っています。それによると「江戸幕府は、主要交通路の重要な地点に櫓、門、橋などを築き江戸城の警護をした。奥州街道が通るこの地点は、浅草観音への道筋にあたることから築かれた門は浅草御門と呼ばれた。また警護の役人を配した事から浅草見附といわれた。ここ神田川にはじめて橋が架かったのは寛永13年(1636)のことであった。浅草御門前にあったことから浅草御門橋と呼ばれたがいつしか「浅草橋」になった」。町名も「浅草橋」です。 浅草橋を南に下る(日本橋方向)と馬喰町、江戸時代には宿屋が集中していたところです。今は衣料問屋が多い街になっています。

 約500mほど神田川に沿って西に行くと美倉橋があります。その南西側が当時豊島町と呼ばれたところです。もう少し西に行くと秋葉原。言わずと知れた電気街があるので有名です。

 内神田の鎌倉橋には「日本本土市街地への空襲が始まる」の案内板が建っています。それによると、1944年(昭和19年)鎌倉橋欄干には、1944年11月の米軍による爆撃と機銃掃射の際に受けた銃弾の後が大小30ヶ所ほどあり、戦争の恐ろしさを今日に伝えてい ます。(下の写真参照)

 『鎌倉町は現在の内神田1丁目6番および2丁目2・3番にあたります。
 天正18年(1590)家康入国頃の初期、この河岸は魚、青物のような生鮮食品をはじめ材木、茅などの物資の集まる所でありました。江戸城築城の時、鎌倉から石材を荷揚げしたので、この名が付いたとも言われます。江戸中期以後も水上交通のターミナルとして重きをなし、木材、竹,炭薪などが多く荷揚げされ、昭和になっても建築資材の荷揚げが行われていました。

鎌倉橋たもとに教育委員会が設置した「鎌倉河岸跡」の説明版から抜粋。
その最後に「豊島屋」の説明がありますが、今でも近所で成業しています。行ってきましたが、当日は祭日でお休み。残念ながら閉じたシャッターの前で見上げるのみ。

 業平橋に立つと、その下を流れる川は埋め立てられて、「大横川親水河川公園」になっています。橋の北側は船の舳先を模した建物になっていて、子供たちのあこがれの基地になっています。南側には遊歩道と花壇、釣り堀などが繋がっています。
 同じ名前の「業平橋駅」は東武の駅ですが、急行も止まらない小さな駅で、駅前広場も有りません。しかし、ここに東武鉄道の本社があり、東武の中心地です。その地に610m(のち634mに設計変更)の新東京タワーがデジタル元年に向けて建設される予定になっていますが、部外者の私にしてみれば工事が一向に進んでいませんので、間に合うのか心配になります。
 この近くに古今亭志ん生が一時住んでいました。有名な貧乏暮らしでも最貧の時代をここで過ごしたのです。「びんぼう自慢」の中で語られていますが、大きなナメクジや、蚊柱の大群が押し寄せたり、雨が降れば沼地のようになったと言います。

「本所に蚊がいなくなり大晦日」 江戸川柳

しかし、家賃タダでは致し方がなかったでしょう。
 現在はその様な状況は何処を探しても見つかりません。

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

業平村(墨田区業平)
当時小梅村と呼ばれ、主人公・浪島文治郎が住んでいたところ。

写真はその中心地、東武業平橋駅です。新東京タワーはこの奥に建ちます。

業平橋(墨田区業平1、大横川に架かり浅草通りを渡す橋)
業平橋の上から見た舟形の建物がある公園。川は埋め立てられて、子供に人気の公園ですが、連休の最中遊び手が居ません。

新東京タワー;(墨田区押上)
数年後には完成すると言われる土地です。610mの新東京タワーと関連施設、商業施設が建設されます。
クリックすると再開発の現状が見られます。

豊島町;(神田豊島町=千代田区東神田の西側半分)
亥太郎という左官屋が住んでいたところ。
清洲橋通りの美倉橋を背に靖国通り方向(南)を見ています。右側一帯が豊島町と呼ばれたところです。
この写真の左手に浅草橋(浅草見附跡)があります。

浅草(千代田区日本橋馬喰町 と台東区浅草橋を渡す)
神田川に架かる左衛門橋から見る青い浅草橋。その先(下流)が柳橋と隅田川です。ご記憶の良い方はお分かりのように「船徳」の舞台、徳さんが寝泊まりしていた船宿があったところです。
 

浅草見附跡(浅草御門。千代田区日本橋馬喰町浅草橋北詰め)
ここにある公儀の役人の見張り所があった。
前方が浅草橋です。

鎌倉(千代田区内神田 と大手町を渡す橋)
有名な日本橋と同じように、頭の上に高速道路が走り雰囲気は台無しです。この橋も東京大空襲で被弾しその痕跡が今も残っています。 写真右端の欄干角が欠けているのが被弾跡です。

鎌倉河岸(千代田区内神田1−6、2−2、3鎌倉橋脇)
白酒で有名な豊島屋という店があった。
鎌倉橋交差点から鎌倉橋を見ています。その橋は高速道路の高架橋の真下に有ります。この交差点の左右が鎌倉河岸と呼ばれたところです。

豊島屋(千代田区猿楽町 1−5−1)
鎌倉河岸から移り住んで、現在は千代田区猿楽町で盛業しています。例の白酒も販売していますよ。

                                                        2008年5月記

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