落語「小間物屋政談」の舞台を歩く
   

 

 立川志の輔の噺、「小間物屋政談」(こまものやせいだん)別名『万両婿』によると。
 

 京橋の相生屋小四郎は小間物を背負(しょ)って売り歩いている。小金も出来たので上方に行ってこちらの物を売り、上方で仕入れたものを江戸で売ってみたいので、上方に仕入れの旅に出るという。女房”おときさん”を大家さんに頼んで出掛けた。

 箱根の山にさしかかり、大のものがしたいので、道を外れて山肌に降りると襦袢一枚の男が木に縛られていた。聞くと、湯治の途中追い剥ぎに遇ったので、助けてくれと言う。江戸一番の小間物屋、芝神谷町の若狭屋甚兵衛で、全て持ち去られてしまった。小四郎は自分の着替えの着物一式に一両を貸し与え、住所と名前を書いて渡し、別れた。

 小四郎は上方へ。若狭屋は江戸への帰路小田原の宿に入るが、小田原の宿・布袋屋で客死する。持っていた書付から小四郎の留守宅へ知らせが入った。知らせを受けて小田原に向かった大家も、小四郎の着物を着た死体に疑いを持たないままその骨を持ち帰る。葬儀も終わって三五日目、大家が縁談を持ち込んだが、未亡人となったおときは、早いと断った。早いほうがイイと、大家の強引な勧めで断り切れず、小四郎のいとこの三五郎と夫婦になった。仲の良い夫婦が出来た。

 ところがある日、小四郎が突然帰って来たので、小四郎の幽霊が出たと二人は大家の家に逃げ込んだ。大家がおときの家に行くと、本物の小四郎がタバコを吸っていた。中に入って話をすると、小四郎と若狭屋を混同しているのが分かり、二人共納得はしたが、女房を頼むと出掛けたのに、おときは間男を作っているじゃないかと詰め寄った。間男ではない亭主だ、それも新しい亭主だと、小四郎には考えられない言葉が飛び出した。その決着は付けるので、ここで待っていろとおときさんに聞きに行くと、「小四郎さんは好きだが、小四郎さんと鞘が戻ってもこの話が出るであろうから、亭主は今の三五郎でいい。」と、おときは言う。
「おときは三五郎にやって、おまえ小四郎は何処かに行ってしまえ。」と、大家の一言。

 小四郎は南町奉行所へ訴え出た。大岡越前守は一同と若狭屋の女房を呼んでお裁きに。小四郎に、「覆水盆に返らず、と言うし、血のつながった者同士の争いも醜い。おときは三五郎に渡し、お前は死んでしまえ!」と、言い渡した。驚いた小四郎は捨て鉢になっていると、越前守は若狭屋の女房を呼び、箱根では若狭屋に情を掛け今は女房も家も無くなっている小四郎をどう思うか尋ねた。「小四郎様には大変迷惑を掛けたと思っております」。若狭屋の女房”よし”はまだ子供はいず、仲立ちを大岡越前守がするのに従うという。小四郎はふてくされていると、越前守はよしを見よという。イヤイヤ見ると、歳は26だと言う絶世の美人であり、3万両の財産と、店の奉公人は26人、その店の主人として迎えても良いという。小四郎思わず気を失ったが、越前守は相生屋小四郎死んで、今から若狭屋小四郎になれと言う。
 「若狭屋小四郎になるのですね。あんなお裁きを聞いて、この先、生きていけるかと真っ暗になりましたが、ありがとうございます。こんな綺麗な人と店をいただくなんて、大岡様の御恩、生涯背負いきれません」。
「若狭屋小四郎。もう旅回りの小間物屋ではない。もう背負うには及ばん」。
 


 この噺は円生が得意にしていた噺ですが、当代きっての勢いのある志の輔から概略を取りました。
 別名「万両婿」と呼ばれています。この題名ではオチが分かってしまいます。やはり「小間物屋政談」が良いでしょう。


 

1.小間物屋
 
芝の「若狭屋」と「かねやす」が、江戸では指折りの高級小間物店であった。
 
本郷三丁目の「かねやす」は、江戸時代からの小間物屋で、目貫(めぬき)、小刀や化粧品、口紅、白粉、かんざし等、こまごました物を売っている。それが小間物で、小間物を売る店が小間物屋、小間物店。 
 「かねやす」は、兼康祐悦という歯科医が乳香散なる歯磨き粉を売り出したところ、これが当たり、店を大きくした。芝神明前の「兼康」と本家争いがあり、 芝は漢字で、本郷は「かねやす」と仮名に改めた。75話落語「札所の霊験」、85話 落語「ねぎまの殿様」で訪れたところです。 
 享保十五年の大火で、大岡越前は防災上、江戸城から江戸市内、今の本郷三丁目にかけて、塗屋、土蔵造りを命じた。大きな土蔵のあった「かねやす」は目立ち、川柳が出来た。
 「本郷もかねやすまでは江戸の内」 
店の前に説明版があります。

 大岡越前守の業績は、町火消と小石川養生所の設立が知られているが、政談はほとんど創作。調べものをしている時は、毛抜きでヒゲを抜き、(複数の毛抜きが現存しています) 目が合うと情が移るというから、罪人と目を合わさないようにしていた。全ての美談が彼の元に集まるのは人徳でしょう。

 ■江戸京橋五郎兵衛町の小間物屋である相生屋小四郎、江戸一番の小間物屋、芝神谷町の若狭屋甚兵衛の両店は当然現代には実在しません。また芝神明前の「兼康」も現存しません。有るのは本郷の「かねやす」だけです。

 

2.諸国旅人供養碑と身元証明
 JR飯田橋下車・袋町の光照寺。境内を通り抜け本堂裏の墓地の奥に「諸国旅人供養碑」(1825)があります。これは神田松永町旅籠屋、紀伊国屋利八がその旅籠に逗留中に客死した人たちを弔った石碑で、当時の様子を物語る重要な資料です。文政2年(1819)から7年間に亡くなった6名を葬ったが、その後増えて 計49名が弔られた。新宿区登録有形文化財、歴史資料に指定。

往来切手 身元証明書と旅行許可証を兼ねたパスポートで、菩提寺の住職や名主が発行する。「この者は生国○○の○兵衛で○○へ参ります。万が一旅先で没するときは亡骸を国元に送り返してもらう必要はなく、宗門は代々○○宗であって、その地の礼法に従って、土地の寺に葬って下さい。」と書かれていました。住まいのある藩領を出ると他国は外国なので旅の必需品だった。往来切手が一人1通必要であるのに対して、 町役人、奉行所が発行する関所手形はグループ内で1通あればよかった。

■十返舎一九「東海道中膝栗毛」によると次のように序章で語られています。
 神田八丁堀に住む弥次郎兵衛と北八は伊勢参宮から大和、浪速へとの旅立ちに、
 「さりながら、旦那寺からお布施あつめのために時々送られてくる仏餉袋(ぶっしょうぶくろ=檀家から寺に供する米を入れる袋)に、つねづねケチケチして、米を少しばかりしか詰めなかったので、和尚さんに旅の往来切手を頼むのに気がひけて、銅銭百文自腹を切ってお寺に寄進して往来切手をもらい、また町役人の大家には、古い借金の家賃を払ったかわりに、なんとか御関所の手形を受け取った。」(意訳)
とあり、これで旅の出発となります。

 昔の旅は行楽でもありましたが、行き先や期間によっては命懸けの場合もあったようです。餞(はなむけ)は旅に出る人の道中の無事を祈って、馬の鼻を行く先の方角に向けてやるというのが語源(広辞苑)ですが、現代の旅行で餞別を渡すのよりは、ずっと厳粛な習慣だったのです。

 

3.芝神谷町(しば_かみやちょう。港区虎ノ門4&5)
 
若狭屋甚兵衛が店を開いていたところ。
 現在その町名はなく、地下鉄日比谷線の神谷町駅にその名を止めています。
 地下鉄神谷町のある、南北に走る桜田通りの左右に江戸時代、神谷町という名の町がありました。現在の住居表示変更までは、駅の西側に小さい町として残っていましたが、今は虎ノ門と名を変えています。

図;「江戸見世屋図聚」 三谷一馬著 中央公論社より『小間物屋』 クリックすると大きくなります。表通りの大店はこの様な雰囲気だったのでしょう。背負い小間物屋とは雲泥の差です。

 落語「黄金餅」で、葬列が通った所でもあります。志ん生は「愛宕下へ出まして、天徳寺を抜けまして、西ノ久保から神谷町、飯倉(いいくら)六丁目へ出て、坂を上がって飯倉片町・・・、」と言っています。

 近くに芝公園があり、そこに増上寺東京タワー東京プリンスホテルがあります。また、東には小さな愛宕山(あたごやま)があり、愛宕神社と、頂上には日本で最初に放送電波が出た所としても有名な、NHK放送博物館があります。 オランダ大使館、スエーデン大使館も近くにあります。

京橋(中央区京橋)
 江戸京橋五郎兵衛町の小間物屋である相生屋小四郎が住んでいた長屋があった所。
 京橋から中央通りを北に進むと日本橋に出ます。南に行くと京橋を渡って銀座に入っていきます。
 ここも同じく、落語「黄金餅」で、葬列が通った所でもあります。志ん生は「日本橋を渡りまして、通(とおり)四丁目へ出まして、中橋、南伝馬町、あれから京橋を渡りましてまっつぐに尾張町(銀座)、新橋を・・・、」と言っています。

 京橋は今は高速道路が頭上を走っていて、そこが「銀座京橋」と表示されていますが、ここには京橋川を昭和34年(1959)に埋め立てられてそこに架かっていた京橋は撤去されてしまいました。

 

4.類似の話 「材木屋思はず隠居せし事」
 寛政年間(1789〜1801)の見聞巷談を筆録した『梅翁随筆』に次のような話が載っています。この事件も、寛政年間の出来事でしょう。とすると、午の年ですから、寛政10年(1798)にあたります。(原文は文語体ですから、現在の言葉に置き換えて、段落も付けています)

 深川の材木問屋のご主人が大和巡りをするので、奉公人1人連れて午の春なかば旅に出た。
 金沢八景より鎌倉、江ノ島を回って、箱根山中にかかった時、上品そうな男が素裸で石に腰をかけていた。不審に思い声を掛けると、江戸は芝の者で刻限を間違え、夜になってここに着いてしまった。山賊が出て、荷物衣類全て奪い取られてしまった。湯治に行くところであったが、この様になって、途方にくれていたところ声を掛けられた。
 材木屋、この話を聞いて、旅は相互い、人の災難を救うことも善行の一つだと、衣類一式に金子を渡し、湯治をしなさいと力づけた。この男、ご恩のお礼は必ずしたいので、お名前・住まいを教えて欲しいと懇願された。金を包んだ紙に書き残した。この御礼は江戸に帰ったら必ずいたしますと別た。この男は温泉場へ宿を取ったが、その夜客死してしまった。
 死体を改めると、懐中に住所姓名の書付が見付かった。それを元に江戸深川へ使者を立て知らせた。
  店中大騒動になった。特に奥様は思いも寄らない出来事に、ふさぎ込んでしまった。早速、手代を箱根に向かわせた。湯治場で様子を尋ねれば仮埋してあるという。遺体は日数が経ち、普段と変わって正視出来ないが、衣類は主人の品に間違いはなかった。供の者が居たはずだと聞いたら、供人はいないという。これは逃げてしまったのだと思い、我が主人に間違いはないと本葬をした。手代は形見の衣類を持て深川へ帰ってきた。
  手代からいきさつを聞き、とくに女房の悲しみはひとかたではなく、出家して尼になると言い出した。親族が集まって相談の結果、子供は七歳の娘をかしらに、男の子はまだ小さく、このままでは相続できず、家が絶えてしまうと心配した。
 幸い、筆頭手代は実体も良く分かっているので、手代を婿に入れて後見人とし、子供成長の後家督を継がせる。これによって、家は繁昌間違いないと女房を納得させ、町内にも披露をした。
 一方の亭主は大和巡りも済ませ、四国・中国まで足を延ばし見物三昧。百日あまりを経て深川へ帰ってくると、思いも寄らない出来事をまのあたりにした。女房は自分が死んだものと思って、手代のひとりと再婚しているではないか。その上、町内の披露も済んでいれば、いたしかたがない。これも因縁だと得心した。
 そして、すぐに隠居して別宅で暮らし始めた。

 落語と違って、隠居してしまうのでは悲しいが、争ってドロドロになるより綺麗かも知れない。10年4月追記



 

 舞台の神谷町、京橋を訪ね歩く

 神谷町。ここには神谷町の名前の町は現在ありません。昭和の町名変更までは下記地図の「地下鉄神谷町駅」の書かれている辺りに 小さな神谷町がありました。江戸の時代には南北に走る道路の両側に存在した町です。地下鉄の駅がなかったら、神谷町も幻となっていた事でしょう。
 表通りはビルが連なり、往時を偲ぶ事も出来ませんが、一歩裏にはいると木造の2階建ての住宅を諸処に見る事が出来ます(右写真)。生活が出ている残った家屋のなんて粋なたたずまいなのでしょう。人と文化の香りが感じられるのはなぜでしょう。
 ここに、江戸一番の小間物屋があったと言われますが、納得してしまいます。

 京橋。日本橋と並んで名橋誉れ高い橋でした。今はその名橋も川も無くなって上空に高速道路が走り、その下にはショッピング街がお客を誘い込んでいます。銀座は日本の中心的商店街で、○○銀座が日本中にある事でも有名ですが、その本家本元です。その南側は新橋で、北側はここ京橋です。
 京橋は橋の名前でもあり、町の名前でもあります。相生屋小四郎が住んでいた長屋があったと言いますが、今は長屋などは何処にもなく、多くのビジネスビルが林立しています。人が住めないビジネス地というか商業地になってしまいました。隣の銀座にしても、落語「佐々木政談」に出てくる長屋の悪ガキ達が闊歩していた町だとは誰も想像する事は出来ません。過日の面影を探そうとするのが間違っているのかもしれません。
 この街で有名なのは、江戸で最初に歌舞伎座が出来た事です。寛永元年(1624)2月中村勘三郎が中村座という芝居小屋を作った事でも名を残しています。橋の際にその記念碑が建っています。

 

地図

 

 

 神谷町にあった道路案内図です。北が下になっています。

地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

かねやす(文京区本郷2丁目40)
江戸からの小物屋の老舗かねやすです。本郷3丁目の交差点角で営業しています。
「本郷も かねやすまでは 江戸の内」で有名な店。

 

京橋(中央区京橋と銀座の境、中央通りに架かっていた橋)
明治時代の親柱。明治8年(1875)に架けられた橋で石橋ですが江戸時代の伝統を引き継ぎ、擬宝珠型の柱になっています。書体は詩人の佐々木支陰の「京橋」、「きやうはし」 。

  

京橋
大正時代の親柱。大正11年(1922)に架けられたもので、照明が入っています。どちらも日本橋と並んで有名な橋です。
京橋川に架かっていた橋ですが、埋め立てられて、川はなくなり橋は空中に架かってしまいました。
この近所に相生屋小四郎は住んでいたのでしょう。

芝神谷町(港区虎ノ門4&5)
若狭屋甚兵衛が店を開いていたところですが、表通りはご覧のように高層ビルが建ち並び、江戸の面影は何処にも見当たりません。

袋町の光照寺(新宿区袋町15)
「諸国旅人供養碑」 。神田松永町の旅籠屋主人紀伊国屋利八が、旅籠屋での病死者の菩提をともらうため、文政8年(1825)に建立した供養碑。上野、下野、美濃、甲斐、越後、三河など全国の旅人が江戸に来ていた事が分かります。

南町奉行所跡(千代田区有楽町2−6)
有楽町マリオン北側に南町奉行所がありました。左の写真は銀座から眺めているマリオンです。中央の高速道路に架かった橋が新数寄屋橋。
写真をクリックした大きな写真は、有楽町駅側から裏側を見ています。

                                                       2007年6月記

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