落語「大工調べ」の舞台を歩く
   

 

 立川談志の噺、「大工調べ」(だいくしらべ)によると。
 

 頭(かしら)が与太さんの所に出掛け番町で長丁場の仕事だから道具箱の用意をしろと言ったが、道具箱が無いと言う。聞くと、昼間寝ているとそいつが入ってきて道具箱を持っていった。ここが我慢のしどころだと思い黙っていた。翌朝、そいつが井戸端にいたので後ろから「おはようございます」と、挨拶をした。聞いている頭はカリカリしてきて「後ろからはり倒してやれ」。そいつとは大家であった。店賃の抵当(かた)に道具箱を取られてしまった。

 1両2分と800の滞納で身動きできない与太さんに、頭は持ち合わせの金1両と2分を渡した。与太は「1両2分しかないが1両2分800は1両2分と同じなのか」、「1両2分800のところ、800持っていくのではなく1両2分持っていくのだから、800は御(おん)の字で”あたぼう”だ」と言う。あたぼうって何だというと、「『当たり前だべらぼうめ』をつめたもので、長く言っていたら温気(うんき)の時分に腐ってしまう。日の短い時分には日が暮れてしまう。商売物を持っていったのだから、いいずくによったら、ただでも取り返せるんだ。相手は町役だ、長い物には巻かれろで、後で犬の糞で敵を取られたらつまらない。だから少しでも金を持っていって詫びるんだぞ。1両2分800のところ、800持っていくのではなく1両2分持っていくのだから、800ばかりは”あたぼう”だ」。やっと与太さんにも解ってきた。「これから、みんな”あたぼう”ですまっしゃおう」。

 「大家いるか」。と挨拶もろくに出来ないで入っていった。「道具箱を返せェ」では大家もムッとくる。金は放り投げるは、足りない800はあたぼうで、頭の台詞をここで全部ご開帳になった。大家は怒って、800持ってくるまで道具箱は返さないし、1両2分は内金でもらっておく。と言うことで、与太さん「あたぼうは、効かない」と手ぶらで帰ってきた。

 帰って頭に話をすると、楽屋話まで言ってしまったのでは、しょうがないと頭が大家さんの所に出向いて頭を下げた。
 ハナは頭を持ち上げる大家であったが、与太の顔を見たトタンに与太の愚痴を言い始めた。頭は平身低頭詫びを入れた。「解ったから返すので後の800はどうする」、「たまたま800の持ち合わせがなかったので、こいつに働かして返します。たかが800なので、こいつに道具箱を渡してほしい」。「そーかい、気分悪いね。たかが800だと。大枚なおあしだよ」、「言葉がぞんざいでスイマセン。それでは若い者に800放り込ませますから」、「内は賽銭箱でないから、嫌だよ」。頭を下げて謝る頭に「800をここに置くか、今すぐここに持ってこない限りは渡さない」と言う因業大家であった。一文欠けても返さないと断り、なおも懇願する政五郎を、雪隠(せっちん)大工が町役人に逆らうなと罵る。
 「そんなら、いらね〜や」と切れて、風に吹かれてこの長屋に流れ込んで、先の大家さんが死んでその後家に取り入って今の大家になった汚い野郎で、その上さんざん回りを泣かして今の立場になったのではないかと、大家に毒付いて啖呵を切った。与太にも同じ事を言わせたが、かみ合わない。
こうなったら、お奉行さんに訴えて出てやる。

 頭の政五郎は奉行所に訴え出た。受理されて、お白州に全員が呼び出された。
 大岡越前が審理を開始した。「大家に道具箱を差し押さえられ、仕事が出来ず老母養い難しは本当か」と聞かれたので、「その通りです」と答えた。大家・源兵衛は「差し押さえれば、仕事をすると思ったが、せず。お金も入れず『あたぼう』だと言い張った」と抗弁した。「政五郎、あと800を与太郎に貸し与え、ここで返金できないか。そうか、出来るか」で道具は即刻返してもらうことになった。大家の大勝訴で終わった。
 「ところで、源兵衛、質の鑑札は持っているか? 持っていない? 無礼者。その為に老母が養えないではないか。政五郎、20日間の大工の手間賃はいかほどであるか?」、「日に1分ですから5両になります」。大家から5両を巻き上げる与太さんであった。
 またお白州に戻って、「受領したな。しからばこれでお終いである。立ちませ〜ぃ」。帰ろうとした政五郎を呼び止めた大岡越前は
「1両2分800のところ、5両金とは、ちと儲かったな。流石、大工は棟梁(細工は粒々)」、
「調べ(仕上げ)はごろうじろ」。

 


 
1.大工調べについて
 
三代目小さん流を継承した七代目三笑亭可楽(昭和19年没)から習った(人間国宝)五代目小さん(平成14年没)が、師の四代目小さん(昭和22年没)の指導も受け、自分の工夫も加えて、落ちまで通して演じ、十八番としていた。
 同じく得意にしていた五代目古今亭志ん生(昭和48年没)は、傾倒した四代目圓喬の運びを踏まえたものと思われるが、三代目小さんの流儀にも学んでか、棟梁の乗り込みから与太郎のおうむ返しまで演じた。
 志ん朝は、マクラで無筆連中のやりとり、棟梁の質問に与太郎が、体は悪くなくて飯はいくらでも食える、「どうしてこう食えるかと思って、おれァ手前ェで考えちゃう」と答えるところ、「銭は取り上げ婆(産婆)か?」「それが爺なんだ」のギャグなど、大筋は志ん生流を踏襲しているが、それよりずっと詳しい。

 他では、与太郎が一人暮らしのように思えるほど、おふくろの存在にふれていないが、ちゃんと老母を養いかねるという訴状に合わせて、おふくろが留守であることをうたっておくなど、 五代目小さん流のすぐれた布石も大いに採り入れている。弟子だった談志もその流れの中にある。
 その上に、自分の工夫も十分加えてあることはいうまでもない。与太郎が家主に、「あたぼう」の意味を、「かんでふくめるように教(おせ)えてやった」というのも可笑しいが、政五郎の悪態をなぞるくだりで、「一生懸命お金を貯めちゃって、今じゃこんな立派な大家さんになっちゃって、どうもおめでとう」と祝ってしまうなどは、 談志も志ん朝も力があり、与太郎の人柄のかわいらしさに、快く笑える。
 政五郎が与太郎に教える「あたぼう」の語義のなめらかさも、この楽屋話を先方でしてしまう与太郎の舌ったるさを、よく浮かび上がらせているが、流れ者だった源兵衛が定番 (じょうばん。自身番屋に常時詰めている番人)にしてもらい、ついに家主・町役人にまでなったいきさつを洗い上げる悪態のあざやかさに至っては、まさしく当代無比である。

 卑劣な手段で復讐する例えの「犬の糞で仇をとる」の犬の糞を「いんのくそ」と江戸なまりで発音していること、家主が係争に習熟しているのを自慢するのに、「公事(くじ)馴れがしている」といっていることなど、相変わらず古典の教養の深さが見られる。
新選独演会』 http://www.deston.net/rakugo/sinsen/sinsen19.htmlより部分引用 加筆


2.店賃
(たなちん 。=家賃)
 与太さんが滞た店賃は1両2分800文です(志ん朝は1両800でした)。1両は1分金4枚で、1両2分は1分金で6枚になります。大家さんところで、金を放り投げたのでバラバラに飛んでいって、大家さんは回収するのに探し回って、金は6枚あるが800足りないといったのです。800とは銭(ぜに)800文で、1両が江戸前期で4,000文中期で5,000文、後期ではインフレで10,000文でした。大岡越前の時代ですから、江戸中期で、800文は・・・。

 長屋の店賃は、500文から1000文、二間続きや二階付ともなれば1分2朱まであった。
 職人の手間賃は、文政年間(1820年頃)で1日4〜500文です。幕末には上昇したし、大火や地震の後などにも一時高騰したが、1分(1両=6000文として1500文)は 通常の約3倍で吹っかけたものであった。

 

3.番町(ばんちょう。千代田区一番町〜六番町)
 番町は東京の中心にある皇居の西側に接して外堀の四谷まであります。一番町から六番町まであります。
 
この街は、城下町特有のお城に向かう真直ぐの道を作らず、敵に攻められた時のことを考えてジグザグに道を作った名残りでしょう。特にこの番町は道(ブロック)に関係なく12町(丁)名が入り乱れ、当時屋敷には表札は掛かっていませんので、不案内でした。その為江戸切り絵図(地図)の発生もここに起因していました。
 落語「皿屋敷」で有名なところです。
 あっ、落語協会
最高顧問の三遊亭圓歌師匠(中沢信夫)が住んでいます(六番町3−4) 。平成18年6月、三遊亭圓歌が10年間勤めた会長職を勇退し、鈴々舎馬風が会長に就任していますので、今は会長でなく最高顧問です。

■三番町(さんばんちょう) 江戸城に入った徳川家康は、城の西側の守りを固めるために、この一帯に「大番組(おおばんぐみ)」と呼ばれる旗本(はたもと)たちを住まわせました。ここから、「番町(ばんちょう)」という地名が生まれました。
 江戸時代、この界隈には武家屋敷が建ち並んでいました。また、御厩谷坂から西に延びる谷筋には、かって幕府の厩(うまや)があったと伝えられ、江戸城のお堀端近くの警備を武士達がしっかり固めていた様子が想像出来ます。
 寛政5年(1793)、塙(はなわ)保己一(ほきいち、
)が、この地に幕府の許可を得て和学講談所を開きました。保己一は我が国の古文献を集めた「群書類従」正編670巻の編纂で知られる大学者です。幕末の兵学者・村田蔵六(のちの大村益次郎)もこの地に蘭学の鳩居堂を開きました。さらに明治10年(1877)には、漢学者三島中洲が二松学舎(のちの二松学舎大学)を開くなど、文教の気風が受け継がれます。
 江戸時代は城を守る人々が起居した番町ですが、明治期には華族や官吏が住む町へと移り変わっていきます。
日露戦争のおり、日本海海戦で連合艦隊を率いた東郷平八郎も明治14年(1881)から昭和9年(1934)までの53年間をここで過ごしています。邸宅跡は東郷元帥記念公園になり、四番町との境(公園となり)には東郷坂があります。
 また、「墨東奇譚」で有名な永井荷風や「武蔵野」の国木田独歩などの文学者も三番町に住んでいました。与謝野晶子の夫、与謝野鉄幹も一時この地に住み、雑誌「明星」を創刊しました。 

三番町東郷元帥記念公園内<千代田区町名由来の板>三番町町会より 
注;塙保己一:「目あき盲目に物を聞き」とは検校の彼の事を言った言葉です。


4.棟梁

  棟梁(とうりょう)=頭(かしら);大工さんの総責任者でトップの者。

神田竪大工町
 大工の棟梁・政五郎や大工・与太郎さんの住まいは言わなくても、神田竪大工町で決まりです。
 落語「子別れ」の”熊さん”は、吉原で「俺は神田竪大工町にいる大工の熊五郎てぇ堅気の職人だぁ・・・」と言って啖呵を切っていました。神田竪大工町は、今の、内神田(うちかんだ)三丁目でJR神田駅西側の街になります。
 「三方一両損」で登場の大工の”吉五郎”が住んでいたのも神田竪大工町で、この「大工調べ」の棟梁”政五郎”もここに住んでいた。落語の中の大工さん達は皆ここに住んでいました。

 東京落語会による志ん生口演では、家主源六は神田小柳町に住んでいました。と言う事は、与太さんも当然ここに住んでいた事になります。
 神田小柳町は現在の千代田区神田須田町1丁目にあたります。どちらにしても神田竪大工町とは目と鼻の先です。第147話落語「浜野矩随」の浜野矩随が住んでいたところでもあり、「千両みかん」の舞台でもあります。

写真をクリックすると大きな写真になります。
 

5.奉行所と大岡越前守
 
江戸の奉行所は南と北の二つの町奉行があった。交代で月番制をとり、月番の町奉行は午前10時に登城し午後2時頃退出してから町奉行所で訴訟・請願その他の仕事をしたまた内寄合(ないよりあい)という月番奉行所の役宅内での両奉行の協議を月に3回ほど行い連絡を密にしていた非番の町奉行所は正門(大門)を閉ざしてその月は新たな訴訟や請願を受け付けないしかし仕事そのものは継続して行っていた
 南町奉行所は今の有楽町マリオンの北側。北町奉行所は東京駅八重洲口北側高層ビルのところに有りました。

 大岡越前守は大岡忠相(おおおか ただすけ)のことで、延宝5年(1677)大岡忠高の三男に生まれ、享保2年(1717)、41歳の若さで江戸の花形奉行といわれる町奉行に抜擢された。晩年、60才の時に外桜田に屋敷を与えられ、寺社奉行を勤める。八代将軍徳川吉宗に登用されて裁断公正、名判官と称せられた。「大岡裁き」は、裁判に取材した小説・講談・落語・脚本などで、和漢の裁判説話によって作られたものが非常に多いのが特徴で、これも名奉行だったので、いいものは皆彼の手柄になってしまった。越前守は72才で三河国西大平藩(現岡崎市内)に任じられ一万石の大名になる。
 大岡政談を扱った落語には、この「大工調べ」や「城木屋」、「五貫裁き」、「小間物屋政談」、「唐茄子屋(唐茄子屋政談)」、「三方一両損」 、「髪結新三」などが有ります。
この項、落語144話「城木屋」より転載

 実際に大岡越前守忠相が審理決裁した事件は、城木屋(白木屋)お駒ともなっている白木屋お熊一件しかありません。話は次回の落語「髪結新三」で歩きます。
 他は過去の名裁判官の伝説や、内外の係争の説話の流用・翻訳・脚色です。この『大工調べ』もむろんその一つで、講釈の大岡政談の落語化です。
 


 大工調べの舞台を歩く

 番町は落語「皿屋敷」で歩いたところですが、皿屋敷の時は帯坂だけで したが、今回は1年以上かかるという普請場を探して番町中を歩きましたが、どこにもその様なお屋敷はありません。当然です。マンションや事務所や大使館、学校が混在していて、既にその様なお屋敷が新しく普請する訳でもなく、マンションの建築現場ではクレーンが動いているだけです。落ち着いた街並みが住み良さそうな環境を提供しています。それもそのはず、東京の都心皇居の直ぐ西側なんですから。大学で言えば大妻大学、二松学舎大学があり、イギリス大使館やローマ法王庁大使館などがあります。 交通の便も良く、職住近接で最高の住み心地でしょうが、残念ながら私には敷居が高すぎます。

 神田竪大工町は大工さんが出てくるたびに歩いた内神田三丁目です。 大工さんの街とは言いますが、それは江戸時代の事。今はJR神田駅西側の企業戦士の集まる戦場になっています。その仕事という戦争が終わって開放感を味わう夕まぐれ、赤提灯が並び一時の安住の地に遊ぶオアシスがなんと多い事でしょう。ここで明日への活力を補給しているのでしょう。素敵なサラリーマンの街に変身しています。

 上記JR神田駅から南に東京、有楽町と二つ目の駅前が舞台。
 大岡様の職場、南町奉行所があったJR有楽町駅東側は数年前は二階建ての店舗が密集した、お世辞にも素敵な街だとは言えない、雑多な駅前の街でした。それが再開発されて一軒残らず撤去されて、高層ビルを含む”有楽町イトシア”(2007年開業)に姿を変えてしまいました。高層棟には丸井が入って女性専科の店に変身、低層棟には地権者が入って、今まで通りに駅前雑踏の雰囲気の店舗軍団が営業を始めています。
 あの雑多で猥雑な街が無くなって淋しい思いしているのはそこで営業をしていた店主達だけではなく、そこに通ってきた企業戦士達なのかもしれません。古き良き時代の街がだんだんと都心から消えていきます。

 大岡越前が住んでいた、そー、私邸があったところは今は法曹界のビルが林立している霞が関にあります。ありますと言うより、霞が関に変わってしまったのです。そこの1丁目1番地に建つ高層ビルが”弁護士会館”です。日比谷公園の西側、国会議事堂側・・・、だんだん分かりずらくなってきました。早い話が、遅く言っても日比谷公園の西隣りに有ります。
 日比谷公園を中心に紹介すると、北側は皇居に面しています。東側は帝国ホテルや映画館街が有って、その先がJR有楽町です。南側は落語の会場、東京落語会が行われる イイノホールがあります。次の西側に、この弁護士会館と法務省関係のビルが建ち並んでいます。硬いかたい街という一角になっています。

クリックすると大きな地図になります。 弁護士会館の前にあった案内図より

 

地図

 

 

  南町奉行所のあった有楽町東側。マリオン北側です。

 地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

番町(ばんちょう。千代田区一番町〜六番町)
三番町にある「東郷元帥記念公園」。東郷平八郎が居住していた跡を記念して公園になっています。子供が元気に走り回っています。
   三番町の階段坂
番町にはたくさんの坂があって、上記公園の隣にも東郷坂がありますし、人が通るだけの坂と言うより階段もあります。
神田竪大工町(内神田三丁目)
大工の棟梁・政五郎や大工・与太郎さんが住んでいました。
今はJR神田駅西側がその地で、サラリーマンの街と言われ平日は勤め人で混み合っていますが休みとなるとゴーストタウン化してしまいます。

神田竪大工町(内神田三丁目)
その裏道です。駅に通じる小径には飲み屋さんが列をなしています。
いいですね、こんな環境って。

神田の不動産屋
この神田には純粋な住宅は何処にも見当たりません。政五郎や
与太郎さんが住んでいた、その様な長屋も棟梁の家もありません。あるのはビルと、そこに入っている会社だけで、不動産屋の看板にも店舗や事務所の広告だけです。与太郎さんの家賃は如何ほどだったのでしょう。
有楽町マリオン(千代田区有楽町2−6)
南町奉行所は今の有楽町マリオンがある所の裏(北側)です。ここに、あのお白州と奉行の大岡越前がいたとは、お釈迦様でも気が付くめぇ〜。

 
有楽町マリオン裏
JR有楽町駅側から見たマリオンです。右には新幹線と在来線が走っています。 新幹線とマリオンと左・交通会館に囲まれたこの場所が南町奉行所跡です。
見えませんが左手方向が商店街のメッカ銀座になります。
弁護士会館(千代田区霞が関1−1)
法務関係の施設というかビルがかたまっています。その一角の弁護士会館(正面のビル)が、大岡越前の私邸、上屋敷があったところです。
大岡越前は何階で執務しているのでしょう。

                                                        2008年3月記

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