落語「棒鱈」の舞台を歩く
   

 

 五代目柳家小さんの噺、「棒鱈」(ぼうだら)によると

 「酒飲みは奴豆腐にさも似たり、始め四角で末はグズグズ」なんて言うように、酒癖の悪い飲み方は多いようです。

 「お前が来いと言ったから来てやったのに、なんだよその機嫌の悪さは」、「おれの魚は骨ばかりで、お前のは丸まると身が付いている」、「お前が食べてしまったからだろ」、「その上この煮物は芋ばかりだ。お前のにはタコが入っている」、「タコだけよって食べてたからだ」、「お前のと取り替えようか」、「つまんない事言うな。新しく取ればいいだろ」、「ここの女中だってお酌もしないで、酒を置いていっただけだ。寅さん、隣の座敷には芸者が入っているよ」、「ははは、そうか、女が居ないので機嫌が悪いんだな。それだったら呼べばいいじゃないか」、「そんな金無いよ」、「俺が出すから呼びな」。
 それで、女中を呼んで、芸者は若くてはいけないが婆さんじゃダメだとか、芸が出来なければダメだとか、酒は飲みたがらない、料理は食べたがらない、祝儀は欲しがらない、そんな三十デコボコを生け捕ってこいと言いつけた。

 隣の座敷には芸者が入った。「どうしたの、鮫塚さん、お久しぶりね」、「傍輩を数人連れて、品川に行ってた。倉相模とか言う見世だった」、「・・・それは土蔵相模でしょ」、「で、相方は?」、「もぐらとか言っておった」、「え!・・・それは小倉さんでしょ」、「そう、モグラのような顔をしておった」、「拳でもしましょうか。藤八拳ですよ。まずは、一献差し上げましょう。お好きな料理は」、「『赤ベロベロの醤油漬け』と、『エボエボ坊主のスッパ漬け』だ。」、「?、『赤ベロベロの醤油漬け』って何」、「まぐろのさすむ」、「では『エボエボ坊主のスッパ漬け』は」、「タコの三べい酢」。

 「寅さん。隣の田舎侍、聞いてたかい。赤ベロベロの醤油漬けとかエボエボ坊主のスッパ漬け、なんて、間が抜けた事言ってるじゃねぇか」、「いいじゃないか」。

 「拙者の事をバカにしおって」、「違いますよ。隣の事なんか関係なしに、何か唄ってくださいな」、「そうか、『モズのクチバシ』を唄う。三味線はいらない。(だみ声で、節も何もない)♪モズのクツバス〜三郎兵衛の薙刀、差しや唐傘、わっきりチャッキリ、鍋のすぐがきタヌキャの腹づつみでポコポンのポン♪。どうだ」、「イヤですよ、そんな」。

 「聞いたかよ寅さん。なんだよ、あの唄は」、「いいだろ、隣は隣」、「あんな唄聴かされたら、酒がまずくならぁ。ポコポンのポン、だってよォ」。

 「旦那、もっと三味線に乗るような唄は・・・」、「しからば、『十二ヶ月』を唄おう。♪いちがちは松飾り、にがちはテンテコテン、さんがちは雛まちり」、「当たり前ですよ。1月はお正月、2月は初午、3月はお節句、でしょ」、「しがちはおしゃかさま」、「いやですよ、そんな」。

 「お、お、寅さん。ちゃんと聞いたぞ。いちがちはテンテコテン、にがちはお釈迦様、さんがちはテンテコテン」、「お前のはみんなテンテコテンだ」、「かわいそうだね、あの芸者。同じ唄うのだって、もっと色っぽいのがあるだろう、『四国西国島々までも都々逸は恋路の橋渡し』、『九尺二間に過ぎたる物は紅の着いてる火吹き竹』いいだろ。『雨戸叩いてもし酒屋さん、無理を言わぬお酒ちょうだいね』、ポンポコポンより良いだろ。『このままに見捨てられたらわしゃ三井(みい)寺の香の煙となるわいな』情があって良いな。たぬきゃ〜じゃないだろう。『お酒飲む人花ならツボミ、♪今日も酒(咲け)さけ明日も酒(咲け)』よ〜〜コリャコリャと来りゃ」。

 「旦那、隣は粋な唄をうたってますよ。こちらも負けずに」、「そうか」と言って唄い出したが、無粋な地の唄のようでもあり無いようでもあり、意味不明な唄で最後にパ〜パァで締めくくった。

 「あの野郎、どんな面して唄っているのか見てこよう」、「止めろよ。りゃんこだぞ」、「違う違う小便だ」、と言いつつ廊下に出たが隣の座敷を覗き込んだが、酔っているので障子を押し倒して部屋に乱入してしまった。「お前だな、ポンポコポンて、言ってたのは。これか、さすむと言うのは」、「人の座敷に乱入して。その上、赤ベロベロを投げつけるとは・・・」、と言う事で大喧嘩になってしまった。
 それを聞きつけた寅さんは中に入ったが、「その方も含めて四つに切る」と収拾がつかない。そこに女中の「喧嘩ですよ〜」の金切り声。

 丁度、調理場では”鱈もどき”の料理を作って、胡椒の粉をチョイチョイチョイと気取っている時だったので、そのまま薬味を持ったまま客席に飛び込んだ。旦那さんチョット・・・まぁまぁま(胡椒をパッパパ)、「勘弁ならない。ハックション」。「そちらのお兄さん、まぁまぁま(胡椒をパッパパ)」、寅さんも芸者もクシャミが止まらず、大騒動。
 「どうしたぃ二階の喧嘩は」、「心配は無い。コショウが入った」。

 



 「居酒屋」三谷一馬画 なにかこの噺を彷彿させるような舞台です。

 1.土蔵相模
 品川は東海道最初の宿であった。品川の海を控え、風光明媚なところでも知られ、魚料理も旨かった。旅人だけではなく、江戸から近かったので遊び人がおおいに利用し栄えた。特に土蔵相模、島崎楼は落語の中でも取り上げられる有名妓楼であった。吉原は幕府公認の遊廓であったが、岡場所と言われた四宿(品川、新宿、板橋、千住)はお目こぼしにあずかり、吉原を”北”、品川を”南”といった遊所だった。土蔵相模の写真
 土蔵相模は品川新宿(しんしゅく)に江戸から入って直ぐの左手にありました。その手前には落語「品川心中」の舞台、島崎楼が有ります。

イギリス公使館放火事件;文久2年(1862)品川御殿山のイギリス公使館の建設に際し、攘夷論者の高杉晋作、久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、12月12日の夜半、公使館を全焼させた。その時、泊まったのがここ土蔵相模です。

天一坊事件;南品川宿にあったもう一つの話。天一坊 改行(てんいちぼう かいぎょう、元禄12年6月7日(1699年7月3日) - 享保14年4月21日(1729年5月18日))は江戸中期の山伏。源氏坊 天一(げんじぼう てんいち)とも。紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かでない。 母は「よし」といい、和歌山城に奉公に上がり妊娠して里へ帰され産まれたのが改行だという。十四歳のときに母が死に出家して山伏となり、改行と名乗った。八代将軍吉宗は紀州藩主から将軍になったので、周囲に自分は公方様(徳川吉宗)の御落胤(らくいん=おとしだね)だと言いふらしていたという。
 享保13年(1728)、南品川宿で改行は近々大名に取立てになると称して浪人を集めた。不審に思った関東郡代が取り調べ、翌享保14年(1729)、改行は捕らえられ死罪となり鈴ヶ森刑場で処刑され、獄門(晒し首)となった。
 この事件は大岡忠相の裁判を集めた講談『大岡政談』に収められ、「天一坊物」として歌舞伎、映画、小説の題材になったが、実際には大岡忠相は本件に関係していない。有名な事件は、みんな大岡忠相扱いとされてしまった典型。


2.棒鱈(ぼうだら)
 乾鱈の一種。真鱈を3枚におろし、頭を取って腹側も取ったズボッとした形状で、日光に乾かしたもの。干鱈(ひだら。右写真)。完全に乾燥したものは極端に身が硬くなり文字通り棒状になる。乾物で日持ちが良く酒の肴にもなる。
 鱈といえばマダラを指し、生でも食べるが、保存法がない時代は塩をふった塩鮭ならぬ塩ダラ、また、上記のように干物にするしか方法が無かった。冬の魚で、生身は白く淡泊で旨く、内臓も白子は菊子とも呼ばれ、ポン酢で食べたり鍋料理には欠かせません。また、肝臓はすりつぶして身と一緒に食べます。肝臓は肝油の元でビタミンAとDの宝庫。魚には珍しく雌よりも、白子を持つ雄の方が高く取り引きされます。「スケトウダラ」のタラコはあまりにも有名。

  棒鱈には裏の意味もあり、酒に酔った人。酔客。なまよい。役に立たない者。でくのぼう。あほう。あほだら。あほんだら。 あっ、私の事だ。
 題名の棒鱈も食べ物の鱈だけでなく、田舎出のヤボな侍を”あほだら、役立たず、酔っぱらい”と裏であざけっているのです。

タラもどき;鱈の吸い物を作った時に仕上げにコショウを振り込む事はありますが、もどきとは似ているという意味でその物ではありません。例えば、ガンモドキは雁肉の味がするというので付けられた名前で、雁肉ではありません。銀ダラの事を鱈もどきと呼ぶ事はありますが、料理とは違います。
 結論を先に言うと、鱈もどきはレシピ等、料理内容は不明です。しかし、落語事典増補改訂新版・東大落語会編によると、「棒鱈から鱈もどきをつくる」と出ていますが、本当でしょうか。また、落語の鑑賞201・二村文人著でも、同じ解説が出ています。字句も同じで落語事典から採ったものと思われます。料理データベース(収録料理数5万2千点)の中にもありません。また、江戸の食文化に関する資料にも目を通しましたが「鱈もどき」が掲載された資料は見つかりませんでした。
 題名の棒鱈と関連づけるために、鱈もどきという料理名を創作したものと思われます。前にも言いましたように棒鱈の裏の意味として、役立たず、でくのぼうの意味がありますから、その様な客に出すにはうって付けの料理名です。

 

3.言葉
■薙刀(なぎなた。長刀);刀剣の一。刃先が広く反りかえった刀で、中心(ナカゴ)を長くして、長い柄をつけたもの。柄は銅・鉄などを蛭巻にしたものが多い。平安時代の末頃から歩兵・僧兵が人馬を薙ぎ払うのに用いたが、戦国時代には衰え、江戸時代には鞘や柄を金銀蒔絵で飾って飾り道具としたほか、武家の女子の武道として発展し、現代に及ぶ。

 「薙刀 備州長船盛景・至徳三年六月銘」 東京国立博物館蔵

藤八拳(とうはちけん);狐拳に同じ。幕末、嘉永・安政の頃、二人一組の藤八五文薬の「藤八、五文、奇妙」と交互にいう売り声を狐拳の掛け声に用いたといい、一説には吉原の幇間藤八より起るともいう。
狐拳=拳の一種。二人相対し、両手を開いて両耳のあたりに挙げるのを狐、膝の上に両手を置くのを庄屋、左手の拳を握って前に出すのを鉄砲(狩人)といい、狐は庄屋に勝ち、庄屋は鉄砲に勝ち、鉄砲は狐に勝つとする。

勤番侍(きんばんざむらい);田舎侍。1年交代で地元と江戸の藩邸に勤務する侍。ヤボな人種として江戸っ子は徹底的にバカにした。
 また、浅葱(あさぎ)色というのは、緑がかった薄い藍色(バックの色)。浅葱裏というのは、この色で染め付けた木綿を裏地に用いた着物で、丈夫で実用的一点張りであった。江戸で流行が終わっても、ずっと愛用していたのが勤番の下級武士、つまり田舎侍たち。そのため浅葱裏といえば、無粋な田舎侍が着る着物となって、下級武士をバカにした隠語となった。 江戸吉原遊郭などで田舎武士をあざけっていった語となった。

傍輩(ほうばい);同じ主人や師に仕える同僚。転じて、仲間。友達。

赤ベロベロの醤油づけ;江戸っ子は詰めて”ヅケ”と言った。赤身のマグロを醤油につけて日持ちが良くなった刺身。江戸時代マグロはゲスな魚であったが、ある時大漁に捕れて保存方法がなかったため、醤油につけて日持ちを延ばしたが、その旨味に魅了され、寿司に使われたり、刺身のように使われて、人気が出た。終戦後までマグロはヅケが一番旨いとされ、今でもトロよりヅケを喜ぶ人が多くいます。

九尺二間に過ぎたる物は紅の着いてる火吹き竹』;九尺二間=最少間取りの裏長屋の定型寸法。間口が九尺(2.7m)、奥行き2間(12尺。3.6m)入口を入ると3尺の土間を取っていますから、座敷は9X9尺四畳半一間です。
 江戸時代、男の人口が女性の倍有った、そんな時代、長屋住まいの男のところに来てくれる嫁さんがあるなんて、それは上吉の吉。
 火吹き竹は図の女性が左手に持っている竹。火元には節があり小さな穴が開いています。口元は節を抜いて息が入るようになっていた、吹いて火をおこすのに用いる竹筒。その竹筒に口紅が着いているなんて、なんて色っぽく幸せ者なのでしょう。
 右図;「江戸じまん名物くらべ・亀井戸のふぢ」国芳画

りゃんこ;りゃんとは2のことで、(両刀を差した) 武士をあざけっていう語。りゃん。




  舞台の品川を歩く


 土蔵相模と言葉を訂正出来る芸者がいる、ここは品川宿か品川に近い庶民的な居酒屋が舞台です。

 品川は東海道五十三次の最初の宿場。品川新宿(しんしゅく)は第一京浜から八ツ山橋を渡り、旧東海道を下ると、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川一丁目)、北品川宿(北品川二丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川一丁目)の三区画に分かれていて、約1.5kmの長さがあった。板橋、千住、内藤新宿(しんじゅく)とあわせて四宿のひとつで、官許の吉原の”北里”または”北国”と対抗し”南郭”または”南国”、単に”南”と称して、幹線街道の東海道の最初の宿駅は多いに栄えた。
 遊女屋は旅籠屋、遊女は飯盛り女として届けられていた。江戸時代末の最盛期には約90軒の貸座敷があり、千人以上の飯盛り女が居た。関東大震災の時も被害が出ず盛況でしたし、昭和の初めには貸座敷は43軒あった。戦後も八ツ山橋よりが一部被災したが復興し面影を残したが、しかし、残念ながら(?)昭和33年3月に売春禁止法が施行されてから、この遊里も消滅した。  

 新幹線も止まるJRの品川駅を西口(高輪口)に降りると、その前を走るのが国道15号線、第一京浜国道です。この品川駅を基点に京浜急行が三浦半島三崎を目指して走っていますが、現在は蒲田立体交差の工事も完成近く、羽田空港に直行便が出て、浜松町から出るモノレールを圧倒しています。
 左側の京浜急行高架下を利用して、有名ラーメン店が並んでいます。ここに来れば関東近辺の旨いもの店のラーメンが食べられますが、やはり、人気の店には行列が出来ています。周りを見回しても品川駅周辺は大きなビルやホテルが林立していて、噺の中のような料理屋さんは何処にもありません。品川駅周辺は整備が進みすぎて人間的な味わいのある店は淘汰されたのか、割り込むスペースはありません。
 その先の陸橋の下にはJRの新幹線を始め東海道線や山手線などの線路が川のように流れています。この橋を八ッ山橋といい、欄干には旧東海道のプレートがはめ込まれています。もう一本南側の道を入りますが、入口の石畳の公園(休憩スポット?)には旧東海道の案内地図やトイレ、ここにゴジラが上陸した所だという案内板が建っています。先程から左手に走っていた京浜急行を、ここの踏切で電車をやり過ごしますが、右手に元終点だった小さな北品川駅が見えます。踏切を渡って、ここからが旧東海道品川宿の始まります。カラー舗装された道は、「さあ、どうぞ」と言いたげです。

 これから歩く方向に一方通行の道ですから、後ろから来る車には気をつけてください。この道を北品川本通り商店会と言い、この道巾は当時の巾そのものです。数十メートル行った左側に落語「品川心中」の舞台だった島崎楼跡の大沢ビルがあります。同じくその先にファミリーマートがあり、その手前隣のローヤルガーデン品川・マンションが土蔵相模の跡です。区で建てた案内地図にも載っていますので、当時から有名な貸座敷だったのでしょう。
 この道は現在生活道路と言うより商店街ですが、旧東海道の宿場という観光道路も併せ持っています。その為、案内標識が沢山あり、下調べがないとその意味は充分にこなせないほど親切です。また、お休み所や案内所が多く設置されていて、観光客を飽きさせません。つい、新しく出来た古本屋さんで買い物をしてしまいました。店主は東海道を京都まで数回歩いたというヘビーマニアだけあって、それらに関する本や江戸に関するものは沢山ありますが、売りたくない本は飾ってあるだけという変わった本屋さんです。
 北品川二丁目には本陣があり、その跡を聖蹟公園として残されています。目黒川に出て、品川橋を渡り南品川宿に入って行きます。目黒川の直ぐ上流(右側)には落語「高野違い」で訪れた荏原神社があります。
 この街道は品川宿を抜けて、南大井の鈴が森で第一京浜と合流しますが、鈴が森で何か思い出しませんか。そうです、鈴が森処刑場があった地です。現在もその地は遺跡として残り、その供養として建てられた大経寺さんが遺跡を護っています。

 品川宿の詳しい説明は第5話落語「居残り佐平次」に詳しい。鈴が森刑場跡の写真は「くしゃみ講釈」のここにあります。


地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 旧東海道入口看板より

写真

 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

品川駅(港区港南)
 品川駅東側の高層ビル街です。新幹線が停車するようになってから町の利便性が向上し、大きく発展を遂げていますが、ビル街を抜けると旧来の町が広がり、その格差は大きいものです。

旧東海道入口(品川区北品川)
  第一京浜から別れて、品川宿に入って行くところに京浜急行の踏切が関所のように立ちふさがっています。
 中央の道が旧東海道。その右側が北品川駅。これから奥に入っていきます。

島崎楼跡(品川区北品川一丁目3)
 踏切を渡ってまもなく、落語「品川心中」の舞台、島崎楼が現れます。
 車が止まっている左側のベージュの建物が島崎楼跡です。

土蔵相模跡(品川区北品川一丁目22)
 同じく左側に土蔵相模跡のファミリーマート手前のマンション・ローヤルガーデン品川がその跡だと言われます。

海岸への坂道
 島崎楼も土蔵相模も左側裏は品川の海でした。旧東海道からダラダラッと下ると海岸でしたが、現在は埋め立てられて見渡す限り海は見えません。

船溜まり
 その坂を下って、元、海があった所には船溜まりがあって、わずかながらに過去の海の姿を見る思いがします。
 背景の高層ビル群は品川駅東口です。

遊女屋跡(黒門横町入口)
 旧東海道を歩くと、明らかに昔は貸座敷であったであろうと思われる建物が残っています。どうして派手やかな外壁に塗りたくるのでしょうか。地元の人に聞くと、まだ何軒かは残っていると言います。また、部屋が細かく仕切られているので、使いにくいと言います。

昭和の建物
 木造の店舗が何軒か散見されますが、ここのように並んでいるのも珍しい。数年後にはどちらか新しい建物になっている事でしょう。

南品川宿跡(南品川)
 目黒川に架かる品川橋を渡ると、今までの街道と同じように、京都に向かって延びていきます。
 天一坊事件が有った所です。

                                                                  2011年12月記

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