五代目柳家小さんの噺、「棒鱈」(ぼうだら)によると
「居酒屋」三谷一馬画 なにかこの噺を彷彿させるような舞台です。
1.土蔵相模
■イギリス公使館放火事件;文久2年(1862)品川御殿山のイギリス公使館の建設に際し、攘夷論者の高杉晋作、久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、12月12日の夜半、公使館を全焼させた。その時、泊まったのがここ土蔵相模です。
■天一坊事件;南品川宿にあったもう一つの話。天一坊 改行(てんいちぼう かいぎょう、元禄12年6月7日(1699年7月3日) - 享保14年4月21日(1729年5月18日))は江戸中期の山伏。源氏坊 天一(げんじぼう てんいち)とも。紀州田辺の生まれで、幼名は半之助というが真偽は定かでない。
母は「よし」といい、和歌山城に奉公に上がり妊娠して里へ帰され産まれたのが改行だという。十四歳のときに母が死に出家して山伏となり、改行と名乗った。八代将軍吉宗は紀州藩主から将軍になったので、周囲に自分は公方様(徳川吉宗)の御落胤(らくいん=おとしだね)だと言いふらしていたという。
2.棒鱈(ぼうだら)
棒鱈には裏の意味もあり、酒に酔った人。酔客。なまよい。役に立たない者。でくのぼう。あほう。あほだら。あほんだら。 あっ、私の事だ。
■タラもどき;鱈の吸い物を作った時に仕上げにコショウを振り込む事はありますが、もどきとは似ているという意味でその物ではありません。例えば、ガンモドキは雁肉の味がするというので付けられた名前で、雁肉ではありません。銀ダラの事を鱈もどきと呼ぶ事はありますが、料理とは違います。 3.言葉
「薙刀 備州長船盛景・至徳三年六月銘」 東京国立博物館蔵
■藤八拳(とうはちけん);狐拳に同じ。幕末、嘉永・安政の頃、二人一組の藤八五文薬の「藤八、五文、奇妙」と交互にいう売り声を狐拳の掛け声に用いたといい、一説には吉原の幇間藤八より起るともいう。
■勤番侍(きんばんざむらい);田舎侍。1年交代で地元と江戸の藩邸に勤務する侍。ヤボな人種として江戸っ子は徹底的にバカにした。
■傍輩(ほうばい);同じ主人や師に仕える同僚。転じて、仲間。友達。
■赤ベロベロの醤油づけ;江戸っ子は詰めて”ヅケ”と言った。赤身のマグロを醤油につけて日持ちが良くなった刺身。江戸時代マグロはゲスな魚であったが、ある時大漁に捕れて保存方法がなかったため、醤油につけて日持ちを延ばしたが、その旨味に魅了され、寿司に使われたり、刺身のように使われて、人気が出た。終戦後までマグロはヅケが一番旨いとされ、今でもトロよりヅケを喜ぶ人が多くいます。
■『九尺二間に過ぎたる物は紅の着いてる火吹き竹』;九尺二間=最少間取りの裏長屋の定型寸法。間口が九尺(2.7m)、奥行き2間(12尺。3.6m)入口を入ると3尺の土間を取っていますから、座敷は9X9尺四畳半一間です。
■りゃんこ;りゃんとは2のことで、(両刀を差した)
武士をあざけっていう語。りゃん。
品川は東海道五十三次の最初の宿場。品川新宿(しんしゅく)は第一京浜から八ツ山橋を渡り、旧東海道を下ると、歩行新宿(かちしんしゅく、北品川一丁目)、北品川宿(北品川二丁目)、目黒川を渡って南品川宿(南品川一丁目)の三区画に分かれていて、約1.5kmの長さがあった。板橋、千住、内藤新宿(しんじゅく)とあわせて四宿のひとつで、官許の吉原の”北里”または”北国”と対抗し”南郭”または”南国”、単に”南”と称して、幹線街道の東海道の最初の宿駅は多いに栄えた。
新幹線も止まるJRの品川駅を西口(高輪口)に降りると、その前を走るのが国道15号線、第一京浜国道です。この品川駅を基点に京浜急行が三浦半島三崎を目指して走っていますが、現在は蒲田立体交差の工事も完成近く、羽田空港に直行便が出て、浜松町から出るモノレールを圧倒しています。
これから歩く方向に一方通行の道ですから、後ろから来る車には気をつけてください。この道を北品川本通り商店会と言い、この道巾は当時の巾そのものです。数十メートル行った左側に落語「品川心中」の舞台だった島崎楼跡の大沢ビルがあります。同じくその先にファミリーマートがあり、その手前隣のローヤルガーデン品川・マンションが土蔵相模の跡です。区で建てた案内地図にも載っていますので、当時から有名な貸座敷だったのでしょう。
品川宿の詳しい説明は第5話落語「居残り佐平次」に詳しい。鈴が森刑場跡の写真は「くしゃみ講釈」のここにあります。
地図をクリックすると大きな地図になります。 旧東海道入口看板より それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2011年12月記
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