落語「人情八百屋」の舞台を歩く
   

 

 立川談志の噺、「人情八百屋」(にんじょうやおや)より


 

 日本橋茅場町の八百屋の平助は、10日ほど前、霊岸島の裏長屋で、おかみさんが出てきて茄子を半分の五つだけ分けて欲しいという。渡していたら、子供が出てきてその茄子をムシャムシャかじりだした。聞くと、「亭主が3年越しの患いで、食べる物にも事欠くありさま。お恥ずかしい所をお見せしました」とポロリと涙を流した。売り上げの銭300文と弁当を上げて帰ってきたが、あの一件どうなっただろうと女房に話すと、「直ぐ行ってきな」と背中を押された。

 確かこの家だと思ったが、貸家札が貼ってある。近所の者に聞くと「源兵衛さん夫婦二人とも死んで、子供達は奥の鳶の鉄五郎の家に居る」という。訪ねると、奥さんが居てその時の八百屋だと分かると、会いたかったから上がれと勧められた。経緯を聞くと「その晩は久しぶりのお金で夕飯を食べようと喜んでいたが、そこに表通りで質屋をしている因業大家が現れ半分にしてくれと懇願したが、300文全部ひったくるようにして家賃だと持って行った。子供二人を表に遊びに出して、奥さんは梁に首を吊り、亭主は舌をかみ切って死んでしまった。
 長屋は大騒ぎ。そこに亭主の鉄五郎が帰ってきて、その話を聞くと鳶口持って大家の家をメチャメチャに壊した。長屋の連中も一緒になって暴れ、役人が飛んできたが、遠くで「ひかえろ、止めろ」と言うだけで手出しはしなかった。その後、大家が20両の金で詫びを入れたので、立派な葬儀が出せた。今も鉄五郎は子供二人を連れて墓参りに行っている。亭主も会いたがっていたから上がれ」という。「私の一寸した親切が二人を殺し・・・、奥さん、出刃包丁はありませんか。そんな血も涙も無い奴は生かしちゃおけねぇ」、「いやよ。出刃包丁なんか無い。そんな物、見たことも無い。そんな事したらアンタが駄目になってしまうから、お線香の1本でも上げて、念仏を唱えてあげてぇ~」、「そうですね、分かりました。私があんな事しなかったら、こんな形で仏壇には居なかったのに、子供二人を残して浮かばれないだろな。浮かばれね~、浮かばれね~」。

 「おっかぁ、今帰ったよ。子供は汁粉を食べてぇからというので、食べさせたが・・・。仏壇の前で『浮かばれねぇ』と言っている奴を上げるんじゃねぇ。それで無くても浮かばれない仏様なんだから」、「あんたが会いたがっていた八百屋さんだよ」、「そうか。こっちへ来てくれ。あんたが悪いんじゃねぇ。それで、話は聞いた?」、「全て聞きました」、「話すことは無いんだが、大家の家に飛んで行って、形のあるものは全て長屋の連中と壊して、壊し得くの壊され損になり、役人も事情を聞くと座り直して聞いてくれた。
 八百屋さん、気っ風が良いので、兄弟分になってくれないか」、「とんでもない。勇みの親分に、八百屋風情が」、「そんな事では無い。『ちょっと寄ったがご機嫌は』位の付き合いだ」、「それではお願いします。私を弟分として」、「平助さんは幾つ?五十二才、俺は二十七だよ。止めてくれよ年上の弟なんて」、「それでは、その様に」。
 「うれしいね。固めの盃だ。で、頼みがあるんだ兄貴。・・・源ちゃんにお多美ちゃん、ここに座(す)わんな。俺は貧乏で二人を食わしていくことが出来ないんだ。子供だって遠慮して不味い物、食わしても『姉ちゃん、旨いね』と言うんだ。俺は火事場で火に巻かれて死ぬかも知れない、一人なら何とかなるんだが・・・、一人、何とか面倒見てくれないか」、「そうさせていただきます」、「良かった。どちらを連れて行ってくれる」、「いえ、二人とも面倒見させて下い。兄弟は二人でいれば、嬉しいこと悲しいこと何でも話せて支え合って生きていけます。帰って婆さんに話して、改めて迎えに来ます」、「分かった。有り難うよ。仕立て下ろしの着物を着せて渡す」。
 「今聞いたとおりだ。分かったな。生みの親より育ての親という。これからのお父つぁんだ。可愛がってもらえよ」、親に早く別れる子はしっかりした利口者なのか「うん、お父つぁん」。言われた平助はたまらなくなった。

 家を後に、鉄五郎に「私ふぜいの八百屋に、子供を預かっても良いんでしょうか」、
「当たり前だろう。俺の商売は何だと思っている。火消しだよ。火付け(躾け)と思うだけでも恐ろしい」。

 


 

1.講談のあらすじ
 この噺が出来たのは、講談が早かったのか落語が早かったのか分からないが、その講談は、 

 享保の頃、霊岸島元浜町に近江屋七左衛門という、一代で財をなした強欲な質屋があって、家主もしていたのだが、いわゆる因業大家である。その店子に伊勢屋源兵衛という大工がいた。仕事は相当にできるのだが、不運な怪我で寝込み、女房のおあさ、娘のおたみ、その下に倅で源次郎という四人ぐらし。だが、おあさの針仕事程度ではこの一家を支えて源兵衛の介抱をするというのは容易でない。
  酷薄な家主の近江屋は少しもこの一家に情けをかけず、たまった店賃を容赦なく催促する。挙句の果てには、おたみを女郎に売って金を作れ、さもなくば出て行けとまで言うのだった。
 貧苦にあえぐ源兵衛の家の前を、茄子を売ろうと通りかかった棒手振り八百屋の平助は、様子をみかねて、腹をすかせた源次郎に自分の弁当を与え、売上から二貫を渡して去る。この情けがかえって仇となり、この銭はたちまち近江屋に奪い去られ、前途を悲観したおあさは首をくくり、寝たきりの源兵衛はそれを悟って自分も舌を噛みきって果てる。
  一挙に両親を失い、呆然とする子供たち。やはり近江屋の長屋に住む鳶の頭・鉄五郎は、近江屋を打擲して騒ぎを起こし、子供たちのために示談金を取ってやる。鉄五郎は子供たちを預かる。やがて、八百屋の平助がまた現れ、いきさつを聞いて激怒し、仇討ちをすると言って近江屋へ乗り込む。これに助太刀をと、鉄五郎は若いものを集めて近江屋へ討ち入り、店をめちゃめちゃに壊す。
  けれども、そうしたところで死んだ夫妻が生き返るものでもない。鉄五郎・平助は義兄弟となり、平助が子供二人を引き取ることになる。 (双龍斎貞鏡師口演速記「鰯屋騒動」朗月堂版より)

 落語「唐茄子屋政談」と酷似した内容ですが、談志の力で聞く者を噺の中に引き込む名演技です。

 

2.茅場町(かやばちょう)
 八百屋さんの住まい。現在の中央区日本橋茅場町。江戸城拡張工事の時神田橋付近の茅商人をここに移し、市街を開いたので、茅場町の名が生まれた。
霊岸島を日本橋方向に渡す、霊岸橋を渡るとそこが茅場町。茅場町は隣町の八丁堀と同じように町奉行所の与力、同心の屋敷が有り、両町合わせて与力50人、同心240人が住んでいた。俗にこの地に住む奉行所関係者のことを八丁堀の旦那と言った。しかし、彼らの中には、屋敷の一部を、医者、能楽師、具足師、儒者、学者、兵法家、歌人、絵師、検校に貸し、副収入としていた。川(日本橋川)の東側には落語「宮戸川」の小網町(こあみちょう)があります。川を遡ると、江戸橋、日本橋になります。ここは、落語の舞台に登場する多くの主人公達が駆け廻っています。
 野菜類の問屋は、神田のやっちゃ場です。神田多町、神田司町、神田須田町などの広域に野菜の取扱業者がありました。平助さんもここで仕入れたことでしょう。自宅を出て日本橋を渡り一本道で神田須田町ですから、好きな物を好きなだけ仕入れることが出来ます。落語「鶉衣」で神田の市場のことが分かります。

霊岸島(れいがんじま);自害をしてしまった徳兵衛さん夫婦が住まっていた裏長屋が有ったところ。現在の中央区新川。寛永元年(1624)下総国(千葉北部)生実の浄土宗善昌寺の僧霊巌が埋め立てて、霊巌寺を建立したことにより町名となる。また、新川の町名由来については定かではありませんが、万治年間(1658-1660)に霊岸島の東を開削して堀を流した。その名を新川と言い、そこから街の名もおこったと言われています。
 隅田川東の深川から永代橋を渡った地が新川。江戸時代には霊岸島と呼ばれた。名の起こりの霊巌寺は、隅田川の対岸・江東区白河一丁目に移った後もその様に呼ばれた。落語「宮戸川」の、早飲み込みの伯父さん家の2階で、お花半七はひと夜を過ごすことになったのも、ここ霊岸島です。関西からの下りものが霊岸島に集積され、現在でも日本酒メーカの東京代理店が多く集まっています。

 

3.八百屋と火消し
 八百屋も店(みせ)を持っている者と、天秤棒に野菜を積んで売り歩く棒手振りの二種類が有った。今回の主人公・平助は棒手振りであった。江戸時代の商人は、売り手が買い手の所まで出掛け、販売した。その為、顧客が付いて、決まった時間に伺った。コンビニが便利だと言うが、買いに出掛けなければならないが、江戸時代は向からやって来た。江戸中期には北部だけで5900人が50種類の業種に別れ、街を流していた。

右図;「熈代照覧」より 日本橋室町一丁目を歩く菜売り

 【文政年間漫録】から八百屋の棒手振りを見てみましょう。
 夜明けと共に出掛け、市場で用意の仕入銭600~700文で、カブ、大根、レンコン、イモ、茄子、葉もの、季節の物などを仕入れて売り歩きます。売り上げは1200~1300文、元を引いたら残り600文。贅沢しなければ親子4人が十分暮らしていける勘定です。ただ、職種が違っても徳兵衛さんのように、稼げる内は良いのですが、怪我や病気に見舞われると、一変して生活が困窮することになります。

■火消しについて、

 「火事場に急ぐ町火消し」 明和9年(1772)目黒行人坂火事絵  消防博物館蔵
 纏(まとい)やハシゴ、鳶口を持って、火事場に急いでいます。手前の屋根の上では火元を見ていますし、右奥では畳を担いで避難を始めています。

 享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。そして、いろは48組を編成した。
 町火消には、はじめ町の住民があたり、これを「店(たな)人足」といいました。当時は破壊消防が中心でしたから、これに慣れない素人があたるのでは効果もあがらず、怪我人も少なくありませんでした。また、町民はそれぞれ生業を持っていましたし、自己の財産を守らなければなりませんでしたので、店人足に出るのを避けるようになりました。このため町では、破壊消防に慣れた鳶職人を雇って店人足に混ぜて使うようになりました。のちにはこの鳶職人が町火消の主体となっていき、町では鳶職人を町抱え、または組抱えにして常備するようになりました。
 町火消の装備や鳶職人の賃銭は、地主が所持家屋敷の規模に応じて負担する町入用から支出されました。町火消が江戸の消防組織の中心となっていくにしたがい、その費用も増大していきました。
落語「火事息子」より孫引き

 火消しには3種類の組織形態があって、大名火消し、定火消し、町火消しがありました。大名火消しは、大名屋敷を主に担当して、自分の屋敷は自分で護る体制をとっていました。定火消しは、江戸城の周りを10ヶ所の火消し屋敷で護っていて、火消し人足を臥煙(がえん)と言いました。町人のための防火組織が上記の町火消しです。でも大きい火災では縄張りなんて言っていられませんから、各組織が総出で消火に当たりました。
 落語「二番煎じ」に行人坂の火事について説明しています。
 勇みの鳶の鉄五郎は、町火消しの火消しでもあった。自分が元気な内は良いが、一つ間違って怪我や死ぬことがあれば、奥さんどころか子供二人も路頭に迷わせてしまう。当時の火消しは補償も何も無い世界で、そんな世界でも好きだから出来た。

 

4.言葉
銭300文(ぜに300もん);この時代、1両が5貫目=5000文(江戸中期)。1両が8万円とすると1文は16円。300文は4800~5000円。茄子を一山の半分しか買えない人が、5000円ももらったら、夕飯に期待するのは当然のこと。

20両(20りょう);約160万円。豪儀な和解金です。

貸家札(かしやふだ);空き店(だな)に張られた貸しますよと言う札。

(とび);土木・建築工事に出る仕事師で、特に、高い足場の上で仕事をする人。鳶の者。身が軽く建築に精通しているので、鳶は火消しを兼ねていた。建築現場で歩き方の一番上手いのは鳶さんです。それもそのはず、高所を平気で歩くのは、平衡感覚だけで無く、普段から歩き方が猫のように上手い。

鳶口(とびくち);1.5m位の棒の端にトビのくちばしのような鉄製の鉤(カギ)をつけたもの。消防士や火消し、川波(イカダ師)、人足が物をひっかけて運んだり壊したりするのに用いる具。

 右写真;現在使われる消防用鳶口の先端。

大家(おおや);長屋を管理する人。管理人。通常、長屋のオーナーが大家を雇い長屋の管理を任す。今回の因業大家はケチだから管理人を置かず、自分で大家も兼ねていた。

兄弟分(きょうだいぶん);血縁の兄弟ではないが、兄弟同様の親しい間柄にある人。義兄弟。

仕立て下ろし;着物は反物から仕立てられます。仕立てられたばかりで、まだ一度も手を通していない新品の着物。

 


 

 舞台の霊岸島から茅場町、日本橋を歩く

 

 隅田川の河口近くに架かる現在の永代橋(右写真)を西に渡ると、そこが新川(町)です。周りを川で囲まれ島になっていた霊岸島でした。霊岸島には今の永代通りの南側に並行して新川という堀があり、埋め立てられた後に、その名前が変わって新川(町)と呼ばれるようになりました。この地は落語「宮戸川」でも取材した、早飲み込みの伯父さん家が有る妖艶(?)な地であり、上方からの下りものが集積された地でも有りました。船便の利便性が良かったため、現在でも関西の有名処の酒屋の東京支店が集まっています。商業地としての街並みを供えています。
 なので、どこを探しても裏長屋は何処にも有りません。

 新川を後に、霊岸橋を渡って西側の日本橋茅場町に行きます。町の真ん中を東西に永代通りが走り、それと交差するように南北に新大橋通りが抜けていきます。丁度、贈り物の箱にリボンを掛けたようになっています。街の南側は、その先に八丁堀が有り、奉行所関係者が住んでいたことから八丁堀の旦那と呼ばれ、現在でも十手を腰に差した旦那が多く見られます。ウソ、ウソですよ。明治に入ってその屋敷は無くなり、町屋になって現在の商業地になっています。
 北側半分は西側の東京証券取引所(右写真)がある関係で証券会社が多く見受けられます。日本橋川に架かる茅場橋を渡ると「宮戸川」の舞台、日本橋小網町になります。

  日本橋川の上空には首都高速の高架橋が延々と延びて、川面には太陽が差さないのかと思うほど、川の蓋状態になっています。この下に既存の橋が今まで通り架かっていますがその風情は台無しです。茅場橋を西にさかのぼると、証券取引所の前に鎧(よろい)橋、その上に昭和通りを渡す江戸橋、道路基点の日本橋が架かっています。
 日本橋の橋詰めから不定期ですが、日本橋川を通る遊覧船(右写真、日本橋)が出ています。高速道路の橋脚が林のように建ち並び土手はコンクリートで垂直にそそり立ち、その間から眺める都市は景観も情緒も有りません。隅田川に出て、始めて船で来た喜びを感じるのは私だけでは無いようです。

 時代の流れは速いもので、神田多町のやっちゃ場跡を取材してたその中で、須田町交差点に建つ「万惣」(左写真)が平成24年3月に閉店してしまったことです。靖国通りに面しているので、耐震強度を測定したら強度不足で、建て直さなくてはならないことになりましたが、その資金と現在の営業内容からして不可能なことが分かり、閉店を決定したとのことです。
 落語「千両みかん」や、「黄金餅」、「反対車」等で歩いて紹介してきた店なので残念です。

 

地図


  地図をクリックすると大きな地図になります。 

 茅場町交差点にあった案内地図より

写真


 それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。

霊岸島 (中央区新川)
 新亀島橋東詰交差点に「霊岸橋」の名が付いています。どこを歩いても新川だけの表示ですが、この交差点に来てホッと一息が漏れてきます。落語「宮戸川」の伯父さんが住んでいたところです。この噺では、裏長屋が有ったと言います。永代通り方向を見ています。

霊岸橋 (中央区新川と茅場町を渡す橋)
 東京駅北側と永代橋を渡り深川から江東区南部を繋ぐ永代通りを渡しています。霊岸島から霊岸橋の名が伝承されたのでしょう。素敵な名前の伝承です。茅場町方向を見ています。

亀島川 (中央区新川と日本橋茅場町との境の川)
 新亀島橋上から見る、亀島川。正面に見えるのが霊岸橋とその先に見える防潮水門。写真の右側が新川(霊岸島)。左側が日本橋茅場町。両町は川一つ隔てたお隣同士なのです。

茅場町 (中央区日本橋茅場町)
 茅場町には、隣町に証券取引所が在る関係で証券会社が多く存在しています。北側には落語「宮戸川」のもう一つの舞台、日本橋小網町があります。南には八丁堀が在って、ここと、その両町に住む奉行所関係者・八丁堀の旦那が住んでいました。

茅場町一丁目交差点(永代通りと新大橋通りの交差点)
 上記地下鉄入口を越えた交差点。写真、茅場町の街並みと、奥が八丁堀になります。手前方向が新大橋。右方向が日本橋。

江戸橋(日本橋川に架かり昭和通りを渡す)
 日本橋の東側(下流)に位置し、橋長63.4m、幅44.0m 。それまでの橋はもっと下流にあった。日本橋と江戸橋の間には魚市場が江戸時代から伝わっていましたが、関東大震災で築地に移転していきました。

日本橋(日本橋川に架かり、ご存じ五街道の起点)
 現在でも道路距離ポイントとなっています。長さ49m、幅27m。この橋上を無粋な首都高速道路が昭和38年から走っています。建設後50年が経っていますので、建て直しか撤去か議論百出しています。

神田多町(千代田区神田多町)
  江戸時代からやっちゃ場の有ったところ。関東大震災で壊滅的打撃を受け秋葉原北側に昭和3年に移転しました。街中にはまだまだ多くの昭和初期の建物が残っています。

                                                              2013年10月記

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