落語「人情八百屋」の舞台を歩く 立川談志の噺、「人情八百屋」(にんじょうやおや)より
1.講談のあらすじ
享保の頃、霊岸島元浜町に近江屋七左衛門という、一代で財をなした強欲な質屋があって、家主もしていたのだが、いわゆる因業大家である。その店子に伊勢屋源兵衛という大工がいた。仕事は相当にできるのだが、不運な怪我で寝込み、女房のおあさ、娘のおたみ、その下に倅で源次郎という四人ぐらし。だが、おあさの針仕事程度ではこの一家を支えて源兵衛の介抱をするというのは容易でない。 落語「唐茄子屋政談」と酷似した内容ですが、談志の力で聞く者を噺の中に引き込む名演技です。
2.茅場町(かやばちょう)
■霊岸島(れいがんじま);自害をしてしまった徳兵衛さん夫婦が住まっていた裏長屋が有ったところ。現在の中央区新川。寛永元年(1624)下総国(千葉北部)生実の浄土宗善昌寺の僧霊巌が埋め立てて、霊巌寺を建立したことにより町名となる。また、新川の町名由来については定かではありませんが、万治年間(1658-1660)に霊岸島の東を開削して堀を流した。その名を新川と言い、そこから街の名もおこったと言われています。
3.八百屋と火消し
右図;「熈代照覧」より 日本橋室町一丁目を歩く菜売り
【文政年間漫録】から八百屋の棒手振りを見てみましょう。
■火消しについて、
「火事場に急ぐ町火消し」 明和9年(1772)目黒行人坂火事絵
消防博物館蔵
享保3年(1718)10月に、町奉行大岡忠相は、火災のときは火元から風上二町、風脇左右二町ずつ、計六町が一町に30人ずつ出して消火するようにと命じています。そして、いろは48組を編成した。
火消しには3種類の組織形態があって、大名火消し、定火消し、町火消しがありました。大名火消しは、大名屋敷を主に担当して、自分の屋敷は自分で護る体制をとっていました。定火消しは、江戸城の周りを10ヶ所の火消し屋敷で護っていて、火消し人足を臥煙(がえん)と言いました。町人のための防火組織が上記の町火消しです。でも大きい火災では縄張りなんて言っていられませんから、各組織が総出で消火に当たりました。
4.言葉
■20両(20りょう);約160万円。豪儀な和解金です。
■貸家札(かしやふだ);空き店(だな)に張られた貸しますよと言う札。
■鳶(とび);土木・建築工事に出る仕事師で、特に、高い足場の上で仕事をする人。鳶の者。身が軽く建築に精通しているので、鳶は火消しを兼ねていた。建築現場で歩き方の一番上手いのは鳶さんです。それもそのはず、高所を平気で歩くのは、平衡感覚だけで無く、普段から歩き方が猫のように上手い。
■鳶口(とびくち);1.5m位の棒の端にトビのくちばしのような鉄製の鉤(カギ)をつけたもの。消防士や火消し、川波(イカダ師)、人足が物をひっかけて運んだり壊したりするのに用いる具。
右写真;現在使われる消防用鳶口の先端。
■大家(おおや);長屋を管理する人。管理人。通常、長屋のオーナーが大家を雇い長屋の管理を任す。今回の因業大家はケチだから管理人を置かず、自分で大家も兼ねていた。
■兄弟分(きょうだいぶん);血縁の兄弟ではないが、兄弟同様の親しい間柄にある人。義兄弟。
■仕立て下ろし;着物は反物から仕立てられます。仕立てられたばかりで、まだ一度も手を通していない新品の着物。
舞台の霊岸島から茅場町、日本橋を歩く
隅田川の河口近くに架かる現在の永代橋(右写真)を西に渡ると、そこが新川(町)です。周りを川で囲まれ島になっていた霊岸島でした。霊岸島には今の永代通りの南側に並行して新川という堀があり、埋め立てられた後に、その名前が変わって新川(町)と呼ばれるようになりました。この地は落語「宮戸川」でも取材した、早飲み込みの伯父さん家が有る妖艶(?)な地であり、上方からの下りものが集積された地でも有りました。船便の利便性が良かったため、現在でも関西の有名処の酒屋の東京支店が集まっています。商業地としての街並みを供えています。
新川を後に、霊岸橋を渡って西側の日本橋茅場町に行きます。町の真ん中を東西に永代通りが走り、それと交差するように南北に新大橋通りが抜けていきます。丁度、贈り物の箱にリボンを掛けたようになっています。街の南側は、その先に八丁堀が有り、奉行所関係者が住んでいたことから八丁堀の旦那と呼ばれ、現在でも十手を腰に差した旦那が多く見られます。ウソ、ウソですよ。明治に入ってその屋敷は無くなり、町屋になって現在の商業地になっています。
日本橋川の上空には首都高速の高架橋が延々と延びて、川面には太陽が差さないのかと思うほど、川の蓋状態になっています。この下に既存の橋が今まで通り架かっていますがその風情は台無しです。茅場橋を西にさかのぼると、証券取引所の前に鎧(よろい)橋、その上に昭和通りを渡す江戸橋、道路基点の日本橋が架かっています。
時代の流れは速いもので、神田多町のやっちゃ場跡を取材してたその中で、須田町交差点に建つ「万惣」(左写真)が平成24年3月に閉店してしまったことです。靖国通りに面しているので、耐震強度を測定したら強度不足で、建て直さなくてはならないことになりましたが、その資金と現在の営業内容からして不可能なことが分かり、閉店を決定したとのことです。
茅場町交差点にあった案内地図より それぞれの写真をクリックすると大きな写真になります。 2013年10月記 |
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