柳家小三治の噺、「備前徳利」(びぜんどっくり)によると。
備前国は平安時代から、優れた刀工が集まり、長船派、一文字派など様々な流派が鍛えた刀は、備前物と呼ばれて重んじられた。同じく平安時代から始まって後々まで全国に流通した商品に、備前焼がある。また、塩田の歴史も古い。 ■備前岡山藩上屋敷;(千代田区丸の内二丁目3&4)東京駅の皇居側に出た丸の内で、丸ビル、およびその後ろの郵船ビル、三菱商事ビルがその跡です。ここら一帯を大名小路と言った。敷地8317坪(27,446平方m)を有していた。
2.備前焼(びぜんやき)
江戸時代になると藩の保護・統制もあり小規模の窯が統合され、南・北・西に本格的大規模な共同窯(大窯)が築かれ、窯元六姓(木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による製造体制が整いました。 ■備前焼の七不思議
備前焼陶友会 http://www.touyuukai.jp/monosiri.html より
3.言葉
■吉原の佐野槌(よしわらの
さのづち);江戸から明治、昭和まで続いた政府公認の遊廓。浅草の北側、現・台東区千束四丁目に有って、最盛期には3〜4000人の遊女が吉原に居た。佐野槌は、ここの江戸町一丁目に入って左手に有った大見世。落語世界のフィクションかと思っていましたが実在の見世だったのです。これだけの大見世の女将ですから、言う事もハッキリ言いますが、出すものもしっかり出します。遊びの知らない(?)鼈甲問屋の番頭さんでも迷わずに直ぐに行けたのでしょう。 「明治吉原細見記」斉藤真一著 「新吉原細見全図」著者作図部分 明治10年5月の吉原
■両国;江戸時代、大川(隅田川)に最初に架かった橋。現在、中央区東日本橋と墨田区両国を結び、京葉道路を渡す。橋の両側には火除け地があって、賑わっていた。
■酒は百薬の長;適度な酒はどんな薬にもまさる効果があるという意。反対に、酒は寿命を削るかんな。
■参勤交代(さんきんこうたい);江戸幕府が諸大名および交代寄合の旗本に課した義務の一。原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る制度。
■禄高300石;江戸で大人1人1日にお米5合(1年で1.8石。食べますね)を消費しました。3人で5.4石、残りは現金化して生活出来ますが、現実は300石に対応するだけの家来を抱えなくてはなりませんでしたし、服装から付き合い、屋敷までそれなりの事をしなければなりませんので、そんなに可処分所得は増えなかったと思われます。もう一度繰り返しますが、最低ランクの武士からは脱出できたでしょうが、300石全部を私的に使えた訳ではありません。
■近習(きんじゅ);主君の側近くに仕える者。きんじゅう。
■三日にあげず;間をあけず。たびたび。しょっちゅう。
■十万億土(じゅうまんおくど);娑婆世界から阿弥陀如来の極楽浄土に至る間にある仏国土の数。極楽浄土が遠いことをいう。 舞台の両国を歩く
江戸両国は明暦の大火の時隅田川を渡ることが出来ず2万数千人の犠牲者を出し、そのため、隅田川に初めての橋が架橋され大橋と命名されていました。下流の新大橋が出来るのと、橋名がかぶるので俗に武蔵の国と下総の国を繋いでいたので両国橋と呼ばれていたのが正式名称になりました。
今回はその対岸墨田区両国です。ここにも規模は小さかったのですが東両国広小路があり、賑わっていました。橋を東に渡ると南側の小さな公園に大高源吾忠雄句碑が有ります。赤穂浪士のひとりであり、室井(榎本)其角の弟子と伝わる子葉こと大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑があります。
先程の回向院前に戻り、その前に突き当たる広い通りを入ると、前方にJRのガードが現れ、その右側に両国駅があります。両国駅は千葉方面に向かう総武本線の始発駅でしたが、快速電車が東京駅まで開通すると、始発駅ではなくなり、極普通の駅に格下げになってしまいました。隅田川の花火でも賑わいましたが、今では上流の浅草に会場が移され、これも寂しいかぎりです。それでも、北側にある相撲の国技館の開催時には大勢の乗降客で賑わいますが、人気がイマイチ低迷しているのでどうでしょうか。相撲が無い時は国技館内の相撲博物館に無料で入れます。相撲に関しての資料は厚味があって、展示替えするたびに素晴らしい収蔵品を見ることが出来ます。
東奥には江戸東京博物館があって、江戸と東京の歴史を見ることが出来ます。私はどれだけ資料集めで通ったことか、ずいぶんお世話になりました。
その奥に、震災記念堂があります。関東大震災の時、この地に多くの避難してきた人が火炎にまかれて亡くなりました。慰霊堂を建てその遺骨をそこに納めたのです。毎年9月の始め慰霊の行事が行われます。名前や身元が分かる遺骨は個別に管理されていて、訪ねてくる人には判別が出来るようになっています。戦災の東京大空襲の被害は、この墨田区を完全に焼け野原にしてしまいました。その横死者の遺骨もここに眠っています。
あッ。そうでした。酒屋さんの徳利ですよね。未だ解らずに、両国近辺を探し歩いています。
JR両国駅前にあった案内図から。右側が北になっています。
それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
備前藩上屋敷跡(千代田区丸の内二丁目3&4)
備前藩上屋敷跡(千代田区丸の内二丁目3&4)
両国橋(隅田川に架かり京葉道路を渡す) 両国橋欄干
両国橋 両国
吉原の佐野槌跡(吉原内江戸町一丁目) 2012年1月記 |
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