落語「備前徳利」の舞台を歩く
   

 

 柳家小三治の噺、「備前徳利」(びぜんどっくり)によると。
 

 備前の池田公が諸国の大名を呼んで宴会を開いた。その時酒豪の大名が居て、自分と飲み比べがしたいので、誰か酒が飲める者を同伴して欲しいと所望された。しかし、その様な酒豪は備前藩には居なかったが、それでは失礼になると、下役ではあったがお台所役の片山清左衛門と言う者を見付けた。衣服を整え、大名と差しで飲み比べをやった。清左衛門が勝ったが、その大名は機嫌良く帰っていった。これを喜んだ池田公は清左衛門に三百石を与えた。

 清左衛門の妻女はとうに亡くなり、子の清三郎と伴の家来の三人暮らし。夢のような、使い切れない大禄をいただいたので、裕福になって毎日好きな酒を好きなだけいただいて暮らしていた。
 風邪も引いた事がなかった清左衛門、病を得て床についてしまった。余命いくばくもないと感じた清左衛門は、酒は百薬の長だからと薬の代わりに好きな酒を飲んで過ごしたいという。医者に聞いたら余命は長くないので自由にさせてやるのが良いと言われた。酒をチビチビやりながら、病気療養という不思議な病人になった。
 臨終の間際に、「酒のために出世をした、備前徳利に自分の絵柄を残し、酒の側にいさせてくれ。それを殿様に願い出てくれ」と清三郎に望みを託した。それを聞いた殿様は快諾して絵柄入りの徳利が焼かれるようになった。

 清左衛門が亡くなると、せがれ清三郎も近習になり、参勤交代で江戸に出た。江戸に来てみると備前と違って見る物全て煌びやかで、特に吉原は華やかで、その中の佐野槌に上がり花魁に入れあげてしまった。三日にあげず通うようになって、諸先輩や周りから注意されたが聞く耳を持たなかった。
 ある晩、清三郎の枕元に清左衛門が立ち、吉原通いの意見をされる夢を見たが気にもならない。しかし、毎晩同じ夢を見るようになると、ハタと気が付き吉原通いをプッツリと止めてしまった。

 吉原通いを止めた晩、清三郎の枕元に父親が立って、ゆっくりと飲み明かしたいという。「今どこにいらっしゃるのですか、十万億土という遠方から来るのは大変でしょ」、「いや、両国の酒屋に買われてきて、毎日酒を入れられているんだ。こんな幸せはない」。毎晩清三郎のところに来て、親子で酒を酌み交わすようになった。清三郎もそれを楽しみに、待ちこがれるようになった。しかし、父親がプツリと来なくなってしまった。
 心配していると、力無く父親清左衛門が現れた。
「ご案じ申しておりました。お顔の色がすぐれませんがどうかなさいましたか」、
「いやぁ、えらいことになった。このところ口が欠けたので、とうとう醤油徳利にされてしまった」。

 



1.備前国
(びぜんのくに)
  山陽道に位置し、現在の岡山県の東南部に香川県小豆郡と直島諸島、兵庫県赤穂市の一部(福浦)を加えた地域にあたる。
 歴史の流れの中で江戸時代に高松藩の預かりとなった、宝永5年(1708)以降は事実上、讃岐国として扱われるようになった。そのような状態が300年余り続いたが、明治維新後の1871年8月29日(明治4年7月14日)、廃藩置県により旧高松藩の区域には香川県の前身である高松県が設置され、直前まで高松藩の実効支配を受けていた小豆郡と直島諸島はこの時から正式に香川県の所属となった。
 江戸時代、岡山城に入った小早川秀秋に後嗣がなく、幕府は備前国を池田輝政の次男忠継に与えた。後に岡山には池田の本家が入り、岡山藩は幕末まで備前国一円と周辺を領国とした。31万5千石の所領を得ていた。

 備前国は平安時代から、優れた刀工が集まり、長船派、一文字派など様々な流派が鍛えた刀は、備前物と呼ばれて重んじられた。同じく平安時代から始まって後々まで全国に流通した商品に、備前焼がある。また、塩田の歴史も古い。

備前岡山藩上屋敷;(千代田区丸の内二丁目3&4)東京駅の皇居側に出た丸の内で、丸ビル、およびその後ろの郵船ビル、三菱商事ビルがその跡です。ここら一帯を大名小路と言った。敷地8317坪(27,446平方m)を有していた。

 

2.備前焼(びぜんやき)
 良質の陶土で一点づつ成形し、乾燥させたのち、絵付けもせず釉薬も使わずそのまま焼いたもので、土味がよく表れている焼き物です。
  焼き味の景色は、胡麻・棧切り・緋襷・牡丹餅などの変化に富んでいますが、それらは作品の詰め方や燃料である松割木の焚き方などの工夫と、千数百度の炎の力によって完成されたものです。
 一点として同じ形も焼き味も同じものは無いと言えます。
 備前焼とは自然と人との共同作業であり、その素朴さが大きな魅力となって、華麗な装飾がないからこそ、雄弁に語りかけてくる味わいがある。(下図)
 清左衛門は備前徳利に自分の絵柄を残してほしいと遺言したので、焼かせたら古今亭志ん生だった。
志ん生;山藤章二「新イラスト紳士録」より

 江戸時代になると藩の保護・統制もあり小規模の窯が統合され、南・北・西に本格的大規模な共同窯(大窯)が築かれ、窯元六姓(木村・森・頓宮・寺見・大饗・金重)による製造体制が整いました。
 一方製品も、室町時代以降作られた茶陶器や日常雑器の他に置物なども作られるようになります。 これらの大窯による生産は以後江戸時代末期まで続くのですが、この頃京都・有田・瀬戸などで磁器の生産が盛んに行われるようになり、備前焼は次第に圧迫されるようになります。

■備前焼の七不思議
1. 投げても割れぬ、備前すり鉢
備前焼は、釉薬をかけず、裸のまま、約2週間前後1200度以上の高温で焼き締めるため、強度が他の焼き物に比べると高いレベルにあります。それがゆえに、「投げても割れぬ・・・」と言われるようになりました。
2. 冷たいビール、温かいお茶
備前焼は内部が緻密な組織をしているために比熱が大きくなります。そのため保温力が強く、熱しにくく冷めにくくなります。
3. きめ細かな泡で、うまいビール
備前焼には微細な凹凸があり発砲能力が高いことから、泡はきめ細かく泡の寿命が長いことから香りを逃がさないのでより美味しく飲むことができます。
4. 長時間おくと、うまい酒に
備前焼の内部に微細な気孔があるため、若干の微細な通気性が生じます。そのため酒の酵母菌の働き促進し(活発になり)熟成効果が期待されます。
これにより、酒、ウィスキー、ワインの香りが高くまろやかで、こくのある味に変身を促します。
5. 新鮮でうまい料理が食せる
備前焼は、他の焼き物に比べ表面の小さい凸凹が多いため、食物が皿肌に密着しないので取りやすく、又水分の蒸発力が弱いので乾燥を防ぎ、新鮮さを保ちます。
6. 花瓶の花が長もち
備前焼には微細な気孔と若干の通気性があるため、長時間生きた水の状態が保たれ花が長もちします。
7. 使うことで、落ち着いた肌ざわり
備前焼の表面の微細な凹凸が、より使い込むことにより角が段々と取れ、使えば使うほど落ちついた味わいを増します。

備前焼陶友会 http://www.touyuukai.jp/monosiri.html より


3.言葉
お台所役;この噺の中では、台所役で料理等を扱っていたのであろう。
 御台所(みだいどころ)と言うと違って、将軍の正妻。 御台様と呼びかけた。 三代将軍家光以降、歴代将軍夫人は宮家または上流公卿の姫を迎えた。

吉原の佐野槌(よしわらの さのづち);江戸から明治、昭和まで続いた政府公認の遊廓。浅草の北側、現・台東区千束四丁目に有って、最盛期には3〜4000人の遊女が吉原に居た。佐野槌は、ここの江戸町一丁目に入って左手に有った大見世。落語世界のフィクションかと思っていましたが実在の見世だったのです。これだけの大見世の女将ですから、言う事もハッキリ言いますが、出すものもしっかり出します。遊びの知らない(?)鼈甲問屋の番頭さんでも迷わずに直ぐに行けたのでしょう。
落語「文七元結」より
 

「明治吉原細見記」斉藤真一著 「新吉原細見全図」著者作図部分 明治10年5月の吉原 

両国江戸時代、大川(隅田川)に最初に架かった橋。現在、中央区東日本橋と墨田区両国を結び、京葉道路を渡す。橋の両側には火除け地があって、賑わっていた。
 最近の主な噺でも「佐野山」、「稲川」、「幸助餅」、「権助魚」、「蝦蟇の膏」、「十徳」等で、両国橋を紹介しています。

酒は百薬の長;適度な酒はどんな薬にもまさる効果があるという意。反対に、酒は寿命を削るかんな。

参勤交代(さんきんこうたい);江戸幕府が諸大名および交代寄合の旗本に課した義務の一。原則として隔年交代に石高に応じた人数を率いて出府し、江戸屋敷に居住して将軍の統帥下に入る制度。
 備前の殿様が諸国の殿様を招いて開かれた宴は、国では距離が有りすぎ、招待出来かねるので、江戸詰めの折りに近隣の大名にお起こし願ったのでしょう。江戸の各藩邸は江戸城を護るために、江戸城外郭に配置されたが、江戸後期になるとその役目より、国元の出先公邸の意味合いが強まった。

禄高300石;江戸で大人1人1日にお米5合(1年で1.8石。食べますね)を消費しました。3人で5.4石、残りは現金化して生活出来ますが、現実は300石に対応するだけの家来を抱えなくてはなりませんでしたし、服装から付き合い、屋敷までそれなりの事をしなければなりませんので、そんなに可処分所得は増えなかったと思われます。もう一度繰り返しますが、最低ランクの武士からは脱出できたでしょうが、300石全部を私的に使えた訳ではありません。
 江戸中期でも米相場は変動しますが、平均6〜70匁(上方銀相場、1石当問屋価格)金相場で1〜1.2両です。小売り価格、江戸で1石約2両です。単純に1割が使えたとして、1.2X300X0.1=36両。1両が8万円超として288〜300万円。吉原で豪遊するどころか、以外と使い道が少ないですね。家計的には、やはり父親と飲んでいる方が良いのでしょう。

近習(きんじゅ);主君の側近くに仕える者。きんじゅう。

三日にあげず;間をあけず。たびたび。しょっちゅう。

十万億土(じゅうまんおくど);娑婆世界から阿弥陀如来の極楽浄土に至る間にある仏国土の数。極楽浄土が遠いことをいう。
 
 


 舞台の両国を歩く

 
 父親の徳利があるという現在の両国を訪ねます。両国の何処に酒屋さんがあるのか、その欠けた徳利があるのか探し歩きます。

 江戸両国は明暦の大火の時隅田川を渡ることが出来ず2万数千人の犠牲者を出し、そのため、隅田川に初めての橋が架橋され大橋と命名されていました。下流の新大橋が出来るのと、橋名がかぶるので俗に武蔵の国と下総の国を繋いでいたので両国橋と呼ばれていたのが正式名称になりました。
 両国橋の西側、現在の東日本橋の橋際には両国西広小路という広大な火除け地がありましたが、何かの折りには直ぐ壊せる屋台や芝居小屋、水茶屋などが並んでいて、夏場には花火も揚がりその賑わいは大したものでした。吉原、日本橋の魚河岸、猿若町の芝居に並んで、俗に日に千両が落ちたと言われます。

 今回はその対岸墨田区両国です。ここにも規模は小さかったのですが東両国広小路があり、賑わっていました。橋を東に渡ると南側の小さな公園に大高源吾忠雄句碑が有ります。赤穂浪士のひとりであり、室井(榎本)其角の弟子と伝わる子葉こと大高源吾の「日の恩やたちまちくだく厚氷」の碑があります。
 表通りは京葉道路ですから、ゆるやかな坂を下って右側に回向院(落語「開帳の雪隠」)があります。ここは明暦の大火の横死者を埋葬供養したお寺で、小塚原で処刑された鼠小僧の墓もここにあります。回向院の直ぐ向こう隣のマンションが昭和20年頃まで国技館があった所で、当時米軍に接収されて、やむ終えず蔵前に移って興行していました。その先、右奥に入った所が忠臣蔵の吉良邸があった所で、現在は(墨田区両国3−13)本所松坂町公園として残っています。その先には幕末の立て役者、勝麟太郎の生地跡(両国公園)があり、江戸の歴史を感じさせる地が沢山残されています。

 先程の回向院前に戻り、その前に突き当たる広い通りを入ると、前方にJRのガードが現れ、その右側に両国駅があります。両国駅は千葉方面に向かう総武本線の始発駅でしたが、快速電車が東京駅まで開通すると、始発駅ではなくなり、極普通の駅に格下げになってしまいました。隅田川の花火でも賑わいましたが、今では上流の浅草に会場が移され、これも寂しいかぎりです。それでも、北側にある相撲の国技館の開催時には大勢の乗降客で賑わいますが、人気がイマイチ低迷しているのでどうでしょうか。相撲が無い時は国技館内の相撲博物館に無料で入れます。相撲に関しての資料は厚味があって、展示替えするたびに素晴らしい収蔵品を見ることが出来ます。

 東奥には江戸東京博物館があって、江戸と東京の歴史を見ることが出来ます。私はどれだけ資料集めで通ったことか、ずいぶんお世話になりました。
 JRの線路から南は町名で両国、北側を横網と言います。そうか、ここは相撲の街だから”よこづな”とは粋な町名だなと言う人が大勢います。ここは”よこあみ”と読み、横網。横綱ではありません。
 国技館の前を通り越して、その先の信号機のある交差点には安田庭園があります。江戸から明治にかけて大名の下屋敷でしたが、明治24年安田財閥の安田善治郎氏の庭園になりました。関東大震災で破壊され、東京都に寄付され都や区が手を入れ、寄付者の名前をとって安田庭園として無料公開されています。

 その奥に、震災記念堂があります。関東大震災の時、この地に多くの避難してきた人が火炎にまかれて亡くなりました。慰霊堂を建てその遺骨をそこに納めたのです。毎年9月の始め慰霊の行事が行われます。名前や身元が分かる遺骨は個別に管理されていて、訪ねてくる人には判別が出来るようになっています。戦災の東京大空襲の被害は、この墨田区を完全に焼け野原にしてしまいました。その横死者の遺骨もここに眠っています。

 あッ。そうでした。酒屋さんの徳利ですよね。未だ解らずに、両国近辺を探し歩いています。

 

地図


   地図をクリックすると大きな地図になります。 

JR両国駅前にあった案内図から。右側が北になっています。 

写真


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備前藩上屋敷跡(千代田区丸の内二丁目3&4)
 昼の情景。皇居内堀側から東京駅方向を見ています。手前角が郵船ビル、右隣が三菱商事ビル、左奥の高層ビルが丸ビルで、この3棟の敷地が上屋敷跡です。

備前藩上屋敷跡(千代田区丸の内二丁目3&4)
 夜の情景。上の写真とは逆に駅側から皇居方向を見ています。正面が丸ビル、右奥が郵船ビル、その奥の暗闇の中に皇居があります。

両国橋(隅田川に架かり京葉道路を渡す)
 北側から下流を見ています。正面両国橋に向かって遊覧船が抜けていきます。左側には東両国の火除け地、右側の西両国(現在は東日本橋)火除け地が有りました。江戸で最も栄えていた歓楽街の一つでした。

両国橋欄干
 両国は相撲と花火の街ですから、車道と歩道の境にある欄干にも、相撲の軍配と花火の意匠が施されています。

両国橋
 南側から上流を見ています。橋の上には完成間近なSkyTree、橋の下からは黄色い蔵前橋が見えます。

両国
 JR両国駅北側の国技館とその奥にある江戸東京博物館です。

吉原の佐野槌跡(吉原内江戸町一丁目)
 現在は当然佐野槌はありませんが、吉原はセックス産業のメッカ。この辺に佐野槌があったはずです。若い衆がおいでおいでするので、近寄れない根性無しの私です。
 

                                                       2012年1月記

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