落語「ねぎまの殿様」の舞台を歩く

  
 

 古今亭今輔の噺、「ねぎまの殿様」によると。
 

  三太夫を連れて向島の雪見にお忍びで出掛けた。本郷三丁目から筑波おろしの北風の中、馬に乗って湯島切り通しを下って上野広小路に出てきた。ここにはバラック建ての煮売り屋が軒を連ねていた。冬の寒い最中でどの店も、”はま鍋”、”ねぎま”、”深川鍋”などの小鍋仕立ての料理がいい匂いを発していた。殿様 、その匂いにつられて、下々の料理屋だからと止めるのも聞かず、一軒の煮売り屋に入った。

 大神宮様の下に醤油樽を床几(しょうぎ)がわりに座ったが、何を注文して良いのか分からない。小僧の早口が殿様には分からず、隣の客が食べているものを見て聞くと”ねぎま”だと言うが、殿様には「にゃ〜」としか聞こえなかった。ねぎまが運ばれ見てみると、マグロ は骨や血合いが混ざってぶつ切りで、ネギも青いところも入った小鍋であった。三色で三毛猫の様に殿様には見えた。食べるとネギの芯が鉄砲のように口の中で飛んだ。酒を注文すると、並は36文、ダリは40文で、ダリは灘の生一本だからというので、ダリを頼んだ。
 向島には行かず、2本呑んで気持ちよく屋敷に戻ってしまった。
 その様な食べ物を食べたと分かると問題になるので、ご内聞にと言う事になったが、この味が忘れられなかった。

 昼の料理の一品だけは殿様の食べたいものを所望できた。役目の留太夫が聞きに行くと「にゃ〜」だと言う。聞き返す事も出来ず悩んでいると、三太夫に「ねぎまの事である」と教えられた。料理番も驚いたが気を遣って、マグロは賽の目に切って蒸かして脂ぬきし、ネギは茹でてしまった。それで作った”ねぎま”だから美味い訳はなかった。「灰色のこれは『にゃ〜』ではない」の一言で、ブツのマグロとネギの青いところと白いところの入った 本格的な三毛(ミケ)の”ねぎま”が出来てきた。満足ついでにダリを所望。三太夫に聞いて燗を持参。大変ご満足の殿様、
 「留太夫、座っていては面白くない。醤油樽をもて」。

 


 

1.ねぎまと鍋料理
ねぎまとは
、広辞苑から引くと、
 「葱と鮪(マグロ)の肉とを鍋で煮ながら食べる料理。ねぎまなべ。」と出ています。もう少し詳しくレシピを書くと、

■ねぎま  マグロの赤身ではなく”トロ”のぶつ切りと、同じくぶつ切りのネギと一緒に、薄醤油で煮込んだスープ状の飲み(食べ)物。 ネギは軽く焼いてから使う(今輔)やり方と生のネギを使う方法があります。

■マグロ   「延享(1744〜48)の頃は、さつまいも、かぼちゃ、マグロは甚だ下品にて、町人も表店(おもてだな)の者は食する事を恥じる躰なり」(寛保延享江府風俗志)とあり、江戸っ子はあまり口にしなかった。さがって、文政(1818〜30)ごろから、「塩マグロを止めて、すき身が売れる」と有ります。塩マグロは塩鮭のマグロ版です。安価な塩マグロも下すな魚で長屋などに持ち込まれた。その後天保 (1830〜1844)の頃、マグロが大漁に獲れ、捨てるような安値であった。目端の利く寿司屋があって、醤油に漬け込んだ赤身のマグロ(ズケ=保存が利く)を寿司に握ったところ、江戸っ子に好まれ、以後市中に流行った。この時代でもトロは食べられず、赤身だけであった。それが大正時代まで続きます。トロが旨いともてはやされるようになったのは、戦後の事です。
 トロは脂肪が多くて、しつこく下品な味として嫌われ、保存も利きにくく安価であった。ねぎまはこの捨てられるような部位を利用して作られた。今、ねぎまは”ヤンバルクイナ”の様に絶滅の危機に瀕しています。高価なトロをゲスな料理にしてしまうので、採算と人気が取れないのでしょう。
 最近ねぎまと言えば、焼き鳥の身と身の間にネギが交互に刺さったものを指す事が一般的になってきたようです。この噺だと、焼き鳥鍋(?)をつついているのではありません。

■はま鍋  浜の料理、寄せ鍋ではありません。ハマグリをネギと炊き込んだ鍋。

■深川鍋  むき身アサリとネギとを炊き込んだ鍋。深川は漁師町でそこで食べられていた漁師料理。絶滅し掛かったのが今では復活して郷土料理のようになっています。これを丼飯の上に掛けたのが深川丼です。

■賽の目  サイコロのように小さな四角に切った状態。マグロをそんなに小さく切ったら、美味くはないでしょう。

■小鍋仕立て  小鍋を火鉢にかけ、手軽に料理をつくり、つつき合うこと。宴会料理などの一人用鍋料理。

 

2.本郷三丁目、湯島切り通し、上野広小路
本郷三丁目  
享保15年に大火があり、防災上から町奉行大岡越前守は本郷三丁目(現在の住所)から江戸城にかけての家は塗屋・土蔵造りを奨励し、屋根は茅葺きを禁じて瓦で葺くことを許した。江戸の町並みは本郷まで瓦葺きが続き、ここから先は板葺き・茅葺きの家が続いた。「本郷もかねやすまでは江戸の内」 古川柳
その境目の大きな土蔵のある「かねやす」は目だっていた。落語「札所の霊験」に詳しい記述があります。
 この地名で有名な大名屋敷は誰でもご存じ、加賀百万石「前田家上屋敷」です。今の東京大学です。

■湯島切り通し  当時つづれ折りの細い急坂でした。落語「柳田格之進」で詳しく紹介しています。
 高台の本郷三丁目から湯島天神横の切り通しを降りると上野広小路。 今は下がった下の「天神下交差点」から道は真っ直ぐ続いていますが、当時は有りませんでした。左に曲がって不忍池伝いに広小路に出るか、その手前の仲町商店街通りを抜けるかして広小路に出ました。

■上野広小路  今はJR御徒町駅前の松坂屋デパート前の交差点が上野広小路となっています。当時はここから北に寄席の鈴本演芸場の先、現在では無くなった三橋 (みはし)、アブアブが有るところまでを上野広小路または下谷広小路と言いました。広小路は火伏地の役目があり、火災や将軍御成の時は取り壊された。そのため簡単なバラック建てになっていました。他に両国広小路、浅草広小路が有りました。どこも歓楽街の様相を呈していました。
(三橋については、台東区のホームページに写真と説明があります。 落語「黄金餅」で葬列が渡った橋です)

■向島の雪見  向島・隅田公園は雪見の名所とされていました。落語「和歌三神」で詳しく紹介しています。

 

3.煮売り屋
煮売り屋  
料理屋まで格の高くない、飯および魚・野菜・豆など極簡単な料理を出す食べ物屋。当時のメニューには、田楽やおすいもの、煮さかな、なべやき…と、いろいろ豊富で、その他に、たけのこめし、おでん、てんぷら、握りずし、うなぎの蒲焼きなどが、庶民の外食だった。「一膳飯屋」や「お茶漬け屋」、「どじょう汁屋」も登場して外食産業は、ますます活況を呈してくる。 酒も出したので、煮売り酒屋とも言われました。

■大神宮下  商売繁盛に客席の一角に祀ってあった、その下の席。殿様は深々と手を合わせて拝礼してしまった。金馬さんの「居酒屋」を彷彿させ、小僧さんの言動は同じ店であったのであろうか、また同じ小僧さんであったのでしょう か。早口で私も聞き取れないくらいですから、殿様は「ねぎま」の事を「にゃ〜」と聞き取っても無理はないでしょう。 ものすごく早口で言ってみてください、「ねぎま」・・・「にゃぎま」・・・「にゃ〜」と聞こえてきませんか。

■床几(しょうぎ)  腰掛の一種。長方形の枠2個を組み合せ、中央で打違えとして両枠の一方の端に革を張って尻の当る所とし、折りたたんで携帯に便利なように作る。( 文と絵;広辞苑)

■醤油樽  床几や椅子代わりに使われた醤油の入っていた空樽。空き樽の上に小さな座布団をひいて、椅子代わりとした。

 

4.灘の生一本
灘の生一本  
灘(神戸市灘区、東灘区)で出来たお酒で、他との混ぜものがないもの。現代では灘で出来た純米酒で他酒との混ぜものがないもの、を言います。

■ダリ  かごかきや馬方の隠語で、数字の”4”のこと。で、40文だからダリ。

 

5.「目黒のサンマ」とよく似た話になっています。
 季節は秋のサンマと冬のねぎまです。明治時代に出来た噺で、先々代立川談志の作。

 



  舞台の本郷三丁目から上野広小路まで歩く
 

  殿様のように馬にまたがって行けません。三太夫のように後から駆けていく事にしましょう。はあはぁ言いながら。
 本郷三丁目交差点。北に東大赤門、正門。南に神田明神から秋葉原電気街。西に後楽園、今はドームと言いまして、野球場、温泉、遊園地があります。本題の東側、湯島天神から池之端、上野広小路。本郷交差点に立っています。ここは江戸時代、江戸の境目で「本郷もかねやすまでは江戸の内」といわれ、その”かねやす”が今でも営業を続けています。

 この道、春日通りを東に向かって歩き始めます。本郷消防署を左に見て、隣の元富士警察署を越えます。元富士とは富士神社がこの北、東大の校内、元、加賀百万石「前田家上屋敷」に有りましたが、駒込に引越しましたので、その後地名を元富士と言いました。その先の交差点は左に曲がると東大構内に入っていきます。真っ直ぐ進んで、左側、「麟祥院」(文京区湯島4−1)という禅寺があります。ここには”春日の局”の墓があります。右に湯島天神が見えてきます。大きな鳥居がある交差点から道は下り坂になります。ここが、つづら折りになった急坂だったところです。右手に湯島天神の神殿を見ながら坂を下り、天神下の交差点に着きます。今は真っ直ぐ上野広小路交差点、JR御徒町に出ますが、江戸時代は左に曲がり、不忍池に突き当たり右に折れます。ここが池之端と呼ばれたところです。
 または、その手前の平行した小径「仲町通り商店街」通りを抜けても上野広小路に出ます。この小径の左側には落語「なめる」の宝丹が有ります。小径を出た所が上野広小路で、左側には大きな交差点があり、不忍池の終端になり、今は有りませんが、ここから 忍川(しのぶがわ)が流れ出て三橋が架かっていました。 出た所を右に曲がった所が「鈴本演芸場」が有ります。今は正月興行ですから人気者が勢揃いしています。昼の部のトリが小朝師匠、夜の部のトリは柳家小三治師匠で、豪華絢爛、入りたかったが時間が中途半端で入れません。この辺りから松坂屋デパートの先までが上野広小路と言われた広小路です。

 ここに噺の舞台の煮売り屋が列んでいたのでしょう。
 今は道幅の広さと繁華街は同じですが、当然バラックの家はどこにもありません。
 この一角に「黒門町」という町があって、八代目桂文楽が住んでいました。文楽さんに敬意を持って”黒門町”と地名で呼んだものです。

 

地図

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写真

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本郷三丁目
かねやす”(文京区本郷2-40-11) がある交差点、本郷3丁目です。

禅寺
「麟祥院」(文京区湯島4−1)という禅寺があります。ここには”春日の局”の墓がある事で有名です。

湯島切り通し
湯島天神から御徒町に下る坂が切り通しに平行して二本あります。男坂に女坂。男坂は急坂(階段)で、女坂は緩い階段になっています。女坂を下った所は表通りと違った往時の面影を残しています。路地から出た小料理屋さんもひと味違った江戸情緒を醸しています。

不忍池(しのばずのいけ)
天正18年(1590) 徳川家康が江戸城に入城。天海(てんかい)僧正の助言を取り入れた家康は、徳川家の強固な守りと、天下が永く続くことを祈願して「守り固め」として江戸城の表鬼門(東北方向)にあたる上野の山を比叡山に見立てて東叡山寛永寺(天台宗)を創建した。不忍池を琵琶湖に見立て建成し池の中に琵琶湖の竹生島より大弁財天を勧請して弁天島を築いた。以来、不忍池は寛永寺の管轄する聖地であるとともに江戸第一の蓮池として賛美され名所となった。

 湖畔で鳩にエサやりしていると、池のカモまで足元まで上がってきて、おねだりしています。天然のカモなのに慣れすぎています。これでは買ってあるネギでカ○鍋が出来そうです。

池之端仲町通り
「仲町通り商店街」がこの道です。落語「なめる」で紹介した「守田寶丹」が有るのもこの道です。
 この前が「アブアブ」という総合ファッションビルがあります。ここに江戸時代”三橋”という橋が架かっていましたが、今はありません。ここから松坂屋百貨店にかけて上野広小路と言われた所です。

鈴本演芸場
東京に残った、新宿末広亭、浅草演芸ホール、池袋演芸場と列んで4カ所の内の一つです。
 今は正月公演ですから、有名ドコロがずらっと並んでいます。お客の入りも一年で一番多い時で、入り口前でお客さんがたむろしています。

 

上野広小路
正面の道路が上野広小路です。右側に松坂屋デパート。横断歩道の書かれた交差点が「上野広小路交差点」右に行くとJR御徒町駅。左角に「お江戸広小路亭」という寄席があり 、その先が湯島天神の切り通しです。正面その先鈴本演芸場、正面のこんもりした木立が「上野公園」です。突き当たった右側がJR上野駅になります。

ねぎま
 スープはマグロのアラで充分ダシをとっておき、調味料は使わず、お酒を入れて味を調え、マグロの脂身(トロ)を入れます、煮立ったところにこんがり焼き目を入れた長ネギを入れ、暖まったところでいただきます。さっぱりとした上品な味わいのマグロとネギ。スープの旨さには心までとろけますが、ネギの旨さはマグロのダシで(マグロ身はダシです?)旨さ百倍。鉄砲ネギの熱さ旨さは堪えられません。残りでうどんとお餅でお腹満腹。ダリが入って屋敷に早期ご帰還。

                                                                                                               2004年1月記

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