落語「なめる」の舞台を歩く
三遊亭円生の噺、「なめる」によると。
芝居を見に来たが”八公”は満員で入れないが、無理を承知で入れてもらう。桟敷にお付きの女性と十八、九の素敵な女性が座っていた。その後ろに立って「音羽や!」と褒めていると、桟敷に一緒に入って褒めてくださいとなった。食事をご馳走になって、褒めていると歳を聞かれ 、二十二だと答える。お嬢さんの業平の寮なら送ってあげると答えて、業平まで来た。帰るというと泊まっていけと屋敷内に招き入れられる。お色直しをしてお嬢さんが出てきた時には抜ける様な美しさであった。酒、肴を勧められて飲み始めると・・・、酔いも回り二人っきりになった。お嬢さんが頼みたい事があると言う。 ゲスな事を考えながら、何でもしてあげますと言うと、モジモジと「乳の下のオデキを舐めて下さい」と思いも寄らない言葉がかえってきた。イヤな顔をしていると夫婦になっても良いと言うので、渋々OKすると、見せたオデキは大きくて異臭を放って、近寄れない。お嬢様がグッと力ずくで引き寄せてもろに舐めさせた。驚いて顔を拭くやらすすぐやら。急に態度が大きくなって「泊まっていく」と言いだした。良いですよ、と言われたとたん表戸がドンドンドンと激しく鳴って、酒乱の叔父さんが刀を持ってやって来たと言われ、ほうほうの体で逃げ出してきた。
翌日、八公は床屋とお風呂に行ってめかし込んで、友人と業平に出かけてきた。寮は空き家の様になっていたので、隣の主人に聞いてみると・・・。あまりにもオカシイ話なので朝から腹がよじれそうになっている。お嬢様のオデキはどの医者でも治らず、易者に視てもらうと四つ歳上の男に舐めてもらうと治ると言われた。二十二の男は屋敷にもいるがだれも返事はしない。そこで、街中でバカ男を生け捕る事にして、芝居などに行っていた。昨日そのバカを一匹生け捕ってきた。オデキを舐めさせると泊まるというので、私に何でも良いから表戸を叩いてくれと女中が言って来た。叩くと、男は逃げ出していった。翌日男が来るといけないので、その夜の内にお屋敷に引きはらってしまった。
お屋敷では全快すると大喜び、可哀想なのは舐めたバカ野郎だってねェ、全身に毒が回って七日とは持つめェと言う事だ。ショックで八公失神!ひっくりかえってしまった。連れの男が「八公ォ〜」と声を掛けると、やっと気が付いた。気付け薬の”宝丹”を舐めさせようとすると「もう、舐めるのは懲りた」。
1.宝丹(ほうたん)
文久2年ボードワン博士の処方からヒントを得て、九代目治兵衛が改良の結果商品化されたのが宝丹。日清戦争や日露戦争にも兵士の必携薬として活躍。また”万能薬”として牛馬、犬、金魚にまで効いたと言われる。現在は使用禁止の成分を取り除いて”胃腸薬”として愛用されている。
今は粉末ですが、当時は練り薬でなめて服用したものです。
この噺「なめる」は宝丹宣伝の為に創作された落語で、劇中、連れの友人に「池之端の守田で寶丹を買ってきたところだ」と、わざわざ言わせている。 今流に言えば”もろCM噺”です。私もこのCMの片棒を担いでいるとこです (^_^;
どこかで似た様な落語聞いた事がありませんか・・・。そうです、「転宅」という落語。
お妾さんの所に泥棒が入った。気丈なお妾さんが私も泥棒だから夫婦になっても良いと切り出し、泥棒を逆にだまし、小銭まで巻き上げてしまい、二階には武道家の書生が居るからと帰してしまう。翌日泥棒が妾宅に来てみると空き家の様で、隣のたばこ屋で話を聞くと、昨夜泥棒が入って仕返しをされると怖いというので、夜中の内に転宅してしまった。泥棒と夫婦になる様なバカはいないし、第一ここは平屋です
ョ。と、言われ始めて騙られた事が分かった。
落語「転宅」はこの「なめる」の改作です。
この噺「なめる」は元来バレ話で、「乳の下のオデキを舐めて下さい」ではなくて、もっと下の方だったようです。私は聞いた事がありませんが、聞き手はさぞドキドキした事でしょう。お乳では週刊誌では当たり前、下もフサフサが写真で認められ、ドキドキが減少してしまった? 貴方がお願いされたらどうします? 見ただけで帰ってきたら怒りますよ。(怒ってど〜する)
2.ボードワン博士(Dr.A.F.Bauduwin)
オランダの一等軍医で、幕府に乞われて医学講師として文久2年(1862)から明治3年(1871)まで在日した。上野の山は上野戦争で荒廃していたのを機に大学
(東大)付属病院を建てる計画が有った。優れた自然が失われるのを惜しんで政府に公園を作る事を提案。明治5年(1873)日本最初の公園が出来た。上野公園生みの親。
文久2年ボードワン博士の処方からヒントを得て改良の結果販売されたのが宝丹。 宝丹生みの親。
3.猿若三座(台東区浅草6丁目の一部)
猿若町はその昔、丹波国(京都府)園部藩主小出氏の下屋敷であった。天保12年(1841)徳川幕府は天保改革の一環として、この屋敷を公収しその跡地に境町、葦屋(あしや)町、木挽町(いずれも中央区)にあった芝居小屋の移転を命じた。芝居小屋は天保13年から14年にかけて当地に移り
、芝居小屋猿若町が出来た。猿若町1丁目は中村座及び薩摩座、2丁目には市村座および結城座、3丁目には河原崎座(のちの守田座)が移転してきた。このうち中村座、市村座、河原崎座が世に言う猿若三座です。この移転を勧めたのは、”遠山の金さん”こと北町奉行の遠山左衛門尉景元です。江戸のはずれに移転させたのですが、近くに吉原があって益々盛況になって一大繁華街に成長しました。
写真;江戸東京博物館、中村座復元より。 写真をクリックすると大きなカラー写真になります。
観る(目、猿若)、食う(口、日本橋・魚河岸)、そしてず〜っと下の・・(Y、吉原)に毎日、壱千両一箱が落ちたと言われます。
” 日に三箱鼻の上下へその下
”
4.業平の寮
寮とは別荘。業平は、”名にしおはばいざ言問はん都鳥 我が思ふ人はありやなしやと”と、詠んだ在原業平から取った町名です。
志ん生が貧乏時代、住んでいた”なめくじ長屋”がやはりここです。猿若町から隅田川に架かった吾妻橋を渡ってその先が業平(墨田区)です。猿若から約2km弱です。東武鉄道の浅草駅の次の駅が業平橋です。
舞台の猿若を歩く
猿若町は今の台東区浅草6丁目の一部です。篤志家の厚意で建てられた「市村座跡の碑」、「守田座跡の碑」、「浅草猿若町碑」が建っているだけで、昔の面影は全くありません。言問通りの入り口に、 台東区が建てた「浅草猿若町説明板」(浅草6−5)が有ります。 この説明板によって始めて、ここがどのような所だったかが分かるくらいです。
守田治兵衛商店(台東区上野2−12−11)は上野・池之端にあり、落語界のメッカ上野鈴本演芸場の脇の道「仲町通り商店街」を入り、ギラギラの大人の歓楽街を横目で見ながら行くと右側に8階建ての素敵なビルが「守田寶丹」の看板をあげた店です。胃腸薬の「宝丹」、のど薬「立効丸」、風邪引き、冷え性の薬「守妙」が三本柱です。店はごく普通の薬局の様に 、薬なら何でも売っています。「宝丹」は二日酔い、飲みすぎ、悪酔いのむかつきに効くと出ています。酒好きの常備薬になるかも。
| 地図 |
| 写真 |
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2002年6月記
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