落語「柳田格之進」の舞台を歩く

  
 古今亭志ん朝師が10月1日、志ん生、文楽、円生のいる地に旅立ってしまった。
すべての芸も江戸の粋さも落語界の明星が持っていってしまった。ご冥福を祈ります。享年63歳であった。合掌。
 私が落語研究会(第304回、平成5年10月14日・国立劇場にて)で聞いた最後の噺がこの「柳田格之進」であった。まだ元気で格調高い語り口で、柳田格之進を演じていた。テープ で改めて聞くとあの時の空気が今も伝わってくる。(45分の長演であった)

  古今亭志ん朝の噺、「柳田格之進」によると。
 

 彦根の城主井伊氏のご家来で柳田格之進という文武両道に優れ品性正しく潔癖な浪人がいた。 正直すぎて人に疎まれて浪人をしていた。浅草阿倍川町の裏長屋に娘”きぬ”と二人で住んでいた。 娘の助言で碁会所に顔を出すと、馬道一丁目に住んでいる質屋、万屋源兵衛と気が合っていつも二人で対局をしていた。それなら私の家でと言うことになり、万屋源兵衛の家のはなれで指すようになっていた。終わると二人は一献傾けて楽しんでいた。そのような毎日を過ごしていたが、8月15日、中秋の名月十五夜の晩に月見としゃれながら夢中で指して、一杯ご馳走になり帰ってきた。万屋源兵衛の店ではその晩に集金したばっかりの50両の金子が紛失した。二人が指している時に無くなったのだから、相手の柳田様が「もしかしたら・・」と番頭が言うのを振り切って話を納めた主人だが、収まらないのは番頭・徳兵衛。
 番頭の一心で、翌日柳田の長屋を訪ねて、事の次第を話し、「もしかしたら柳田様がご存じかと・・」「拙者が盗んだというのか」「思い違いではと・・」「私はどんなことがあっても、人の物を盗むという事はない!」「お上に届けて裁いてもらいますが・・」「それでは私が50両作りましょう。明日昼に来なさい」。番頭が帰った後、娘の忠告で「裁きになれば潔白は晴れるが、その汚名は拭えないので、腹を切る」と言うところ、「私が身を沈めてお金を作ります」。
 翌日番頭に50両を渡し「その金ではないので、後日金が出たらどうする」「そんなことはないが、その時は私と主人源兵衛の首を差し上げます」。その事を源兵衛に報告すると、源兵衛は謝りに番頭を連れて安倍川町の裏長屋に来てみると、すでに柳田は家を引き払った後であった。落胆して戻る源兵衛。
 店の者にも、出入りの者にも頼んで柳田を捜したが見つからなかった。
 煤払いの日、額縁の裏から50両が出てきた。「そうすると、あの柳田様の50両は・・・」。
どんなことがあってもと源兵衛は柳田様を捜させた。が、その年は見つからなかった。
 年が改まって、4日、山の手の年始挨拶に番頭は出入りの頭を連れての帰り道、雪が降り始めた湯島の切り通しにさしかかった。籠屋をいたわって歩いて坂を登ってくる侍がいた。蛇の目傘の内の贅沢なこしらえが目に止まって、見とれてやり過ごそうとした。その時、侍から声をかけられた。その侍が柳田格之進であった。今では300石に取り上がられている。「湯島の境内に良い店があるから」と連れて行くが番頭は閻魔様に連れて行かれるようで人心地もしない。店で50両が見つかったことを話し、許しを請うが、明日昼頃万屋に伺うので、体をよく洗って置けと言い残す。
 翌朝、源兵衛は番頭を使いに出して、柳田を迎え非礼を詫びたが、使いに出ないで待っていた番頭は「私がしたことだから」と主人をかばうが、娘の手前勘弁出来ないと二人を並べて切り捨てる。床の間の碁盤が真っ二つになって二人は一命を取り留めた。二人の主従の真心が心に響いて手元が狂った。
 さっそく、半蔵松葉から”きぬ”さんを身請けしてきて、娘に詫びたが、娘も父上の為ならと快く応じた。
 前よりも柳田と源兵衛は深い付き合いをするようになった。番頭の徳兵衛ときぬは夫婦となり万屋の夫婦養子になりめでたく収まったが、二人は仲が良くてまもなく男の子を産んだ。その男の子を柳田が引き取り、家名を継がせた。
 柳田の堪忍袋の一席でした。
 (完。  ・・追い出しの太鼓、)


絵図;「湯しま天神坂上眺望」 広重画 名所江戸百景より



1.馬道一丁目 

  
「馬道」という町名は相当古くからあり、すでに江戸時代初期には南馬道町、北馬道町の名があった。ちょうど浅草寺境内から二天門を通り抜けた左手に南馬道町、その北隣にあったのが北馬道町である。享保15年(1730)には二天門の右手に南馬道町ができるなどして浅草寺の東側一帯に浅草寺 門前街として発展したが、明治10年(1877)この付近が整理統合され浅草馬道町ができた。 そして昭和9年(1934)さらに浅草馬道町は隣接するいくつかの町を合併して町域を広げるとともに、町名を浅草馬道に改めた。
 町名の由来は諸説あるが、むかし浅草寺に馬場があり、僧が馬術を練るためその馬場へ行くおりこの付近を通ったところ、その通路を馬道というようになったと言われている。( 以上台東区の案内板より)

 質屋、万屋源兵衛の店が有った馬道一丁目は昭和9年以降の呼び名で、馬道通りに面した地名で二天門を出た辺りを一丁目、その北側言問通りを渡った所を二丁目、その先が三丁目となっていた。
 吉原通いの通り道の一つがこの「馬道」です。落語「付き馬」でも説明されているとおり、浅草寺の角で馬子さんが客待ちしていて、ここから吉原まで遊客を送り届けた。そこからこの道を馬道というようになった、と言われるが、まえの説明にもあるとおり、吉原が出来るずーっと以前からこの名称はあった。落語家の言うことは真に受けてはいけない。
 

2.浅草阿倍川町(台東区元浅草3.4丁目東半分)
 
落語「富久」に出てくる幇間の久蔵が住んでいた所。主人公柳田格之進もここに住んでいた。久蔵と同じようなみすぼらしい裏長屋に住んでいたという。
 今は北側に合羽橋商店街があり、ここは厨房機器、及びレストラン食堂関係の商品なら何でも揃うと言う所で、いつも人出と活気が満ちあふれています。南隣の蔵前は元蔵前国技館があったり、 玩具、雑貨類の問屋さんがあったりしてそれなりに町も活気があります。その間に挟まれたここ元浅草3.4丁目は 元気と特徴のない静かな町です。

 ここの前の町名は”浅草菊屋橋”といった。江戸後期から明治にかけては”阿倍川町”と言った。と言うことは町名の時代設定がずれている。 上記の馬道一丁目と言わず馬道町と言っていれば、時代感覚がぴたりと符合したのだが・・・。
 

3.吉原・半蔵松葉
 大正、昭和の一時期には”松葉”という見世は有ったが、江戸の後期には本当にあったのであろうか。楼名はフィクションの世界であったのであろう。
  半蔵松葉の半蔵は同名の店が有るとそれを区別するために頭に主人等の名前をかぶして、区別した。地方に行くと同じ名字の人が村を作っていることがある。個々を区別するのに名前で呼んでなおかつ、橋上のじろちゃんとか、宮下のたろちゃんとか 三本松の花ちゃんと言う、言い方に似ている。


4.煤払いから切り通し
 
スス払いは、商家では1年の行事として毎年12月28日と決まっていた。今の大掃除です。それも最近ではしなくなりましたようです。
 50両の金子が無くなったのが旧暦8月15日、中秋の名月十五夜の晩です。 その年の暮れに50両が額縁の裏から出てきました。明けて新年4日、新年の挨拶回りの途中で番頭と柳田格之進は雪の降る湯島切り通しで 偶然再会するのです。
 当時の切り通しは狭くて急な坂であったのでしょう。今でもかなりきつい上り坂です。雪が降り始めて下から登ってくる柳田格之進をかわすのに体を寄せて途中で待っていたのでしょう。姿作りの良い武士をぼんやり眺めながら感心しているとその武士が、”柳田格之進”だったとは、番頭も驚いたことでしょう。

 


  舞台の湯島切り通しを歩く
 

 八代目桂文楽が住んでいた所”黒門町”の近所で表通りから中に入ると、落ち着いた風情が漂う良い町です。ここでは表通り”春日通り”で、JR御徒町駅から松坂屋角の上野広小路に出 ます。左手向こうには「永谷寄席」があるし、右に曲がれば「上野鈴本演芸場」があります。落語の似合う素敵な下町です。残念ながら、ここでは寄り道せずに真っ直ぐに湯島に向かって歩き始め ましょう。飲み屋、食べ物屋、スナックや男の (?)歓楽街を抜けて、次の交差点”天神下”を越えて坂を登り始める。旧町名で右側は”切通町”と言ったが、今は文京区湯島4−6で、大きなマンションが建っている。左手にすぐ湯島天神の石垣が見えてくる。境内の手前に 湯島天神・本堂に入っていく参道の石段に出る。閻魔様に入っていくような入り口と見えた番頭の気持ちとは裏腹に、整備されて新しくなった急な階段が気持ちがいい。階段を登らず、天神の石垣に沿って坂を上がっていくと湯島天神に入って 行く交差点に出る。落語「初天神」で紹介した湯島天神がそこにあ ります。その先左側が旧町名で”切通坂町”と言った。その角を右に入れば、有名な東京大学、俗に”東大”の校内に入って行く道があり、この辺りが坂の頂上付近です。この辺りは東大病院があるせいか、薬局、医療機器屋や、 学校の怪談で必ず主人公になる骸骨の標本を作る店や義手や義足屋さんが多く見られます。

 場所が変わって、浅草。 浅草・浅草寺東側に面した道が馬道通り。旧町名ではその道に面してあった町が”浅草馬道”町で、浅草「二天門」辺りから日本堤にかけての町であった。江戸時代は 町がもう少し短くて浅草寺の北角までであった。その名を南馬道町と北馬道町と言った。
 ここは浅草寺のすぐ東側なのに意外と静かな所です。50mも入れば浅草寺の境内で二天門から浅草神社(通称三社様)本堂と続く横からの入り口になります。浅草寺は東側より西側の方が賑やかです。
 二天門は重要文化財で浅草寺に元和4年(1618)に「東照宮」が建立された際、その「随身門」として建てられたもので、「増長天」「持国天」の二天をまつるためこの名があります。
 ここに、質屋、万屋源兵衛の店が有った?

 

地図

  地図をクリックすると大きな地図になります。 

写真

それぞれの写真をクリックすると大きなカラー写真になります。

切り通しから入る天神参道
 番頭徳兵衛が柳田格之進と再会し、彼の薦めで天神境内の茶店に向かう時に通った参道階段。閻魔堂に向かう心境であったと言う所。
すごい急な階段の入り口である。

天神参道下の切り通し
 天神参道の入り口。柳田格之進をやり過ごそうと待ち受けていた坂の途中。

切り通し坂上から坂下を見る
 雪が降り始めて坂も白くなってきた切り通し。今は秋で雪はないが・・。柳田格之進も難儀をしながら登ってきたのであろう。

切り通し坂下から坂上を見る
 正面湯島天神。右手坂上、左手坂下。画面左側に湯島天神に登る階段が見える。

浅草阿倍川町
 柳田格之進が住んでいた裏長屋がここに有った。
今は極ありふれた特徴の言えない町です。写真に撮るのに苦労する所です。

馬道一丁目
 
質屋、万屋源兵衛の店が有った、と言われる街並み。浅草安倍川町とは直線で1km程の距離です。散歩がてらいつでも行ける距離です。

                                                       2001年10月記

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