落語「和歌三神」の舞台を歩く

  
 

 古今亭志ん生の噺、「和歌三神(わか さんじん)」によると。
 

  冬の朝、いつもと違って寒いので風流人のご主人が権助に聞くと雪だという。どのぐらい降ったと聞けば「そーだね、5寸(約15cm)も積もっているね。横幅は分からないが・・・」。自宅で観る雪もイイが、嫌がる権助を酒でつって向島に雪観と出掛けた。

 三囲(みめぐり)神社から観る、雪の積もった聖天(しょうでん)の森は素晴らしい。権助は早く酒を飲みたく場所探しに必死だが、風流人のご主人は土手下で酒を飲んでる3人の乞食も風流人だと酒を振る舞ってあげることにした。自分の飲み分が無くなると言う権助をなだめて、したみ酒が無くなった杯に継ぎ足して話を聞くと、

 最初の乞食は「名前は安(やす)と言ったがここでは秀(ひで)と名乗っている。そこで安秀と言い、お茶屋さんや料理屋さんの前にある犬の糞を片付けてお金をもらっています。だから糞屋の安秀と言います」、
 糞屋の安秀が詠んだ歌は”吹くからに 秋のくさやはさむしろの 肘を枕に 我は安秀”

 次の乞食は「日向で暖ったかな垣根の下で丸くなって寝ているばかりなので、垣根の本(もと)の人丸ってみんなは言います」、
 垣根の本の人丸は”ほのぼのと あかしかねたる 冬の夜に ちぢみちぢみて 人丸く寝る”と詠んだ。

 三人目の乞食は「癩坊(なりんぼう)の平吉と言いますが、平(へい)は”ひら”ですから癩平(なりひら=業平)と言います」、
 癩平は”千早ふる 神や仏に見離され かかる姿にわれは業平”と詠んだ。

 「ははぁ、なるほどね。おまえさんがたは実に雲の上人(うえびと)、和歌三神ですな」、
乞食達は「いえ、バカ三人でございます」。

 



1.雪見の名所
 
向島・隅田公園は雪見の名所とされていました。

  
 東都名所一覧「三囲雪景」 葛飾北斎画 国立国会図書館蔵 09.06追加
三囲神社前の土手に立つ二人、背景は隅田川越しに雪を被った待乳山聖天(しょうでん)が見えます。

三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2−5)は32話落語「野ざらし」に出てきた所です。 商売繁盛の神様として、恵比寿と大国天を祀っているが、鳥居と石碑の多い三囲神社です。特に墨堤沿いの鳥居は錦絵の題材として桜とともによく描かれています。
 文和年間(1352〜1356)、近江国三井寺の僧であった源慶が、巡礼中に牛島(現向島)で荒れ果てたほこらを見つけました。源慶は、その荒廃ぶりを悲しみ修復を始めたところ、土の中から白いきつねに乗った翁の像が出てきました。そしてその時、どこからともなく白ぎつねが現れて、翁の像の回りを三度まわって、またどこかに消えて行きました。この故事から「みめぐり」の名前が付いたといわれています。

長命寺(墨田区向島5−4)の境内には、芭蕉の「いざさらば 雪見に転ぶ 所まで」の句碑が有ります。
 この句を読んでだから何だ、と言ってしまえば身も蓋もありません。江戸時代の人達も同じ事を考えたのでしょう。この句をぶちかましてしまう様な川柳を創っています。二句とも川柳集「柳多留拾遺」より。

    いざさらば居酒屋のある所まで

    雪見には馬鹿と気がつく所まで

権助も言っています。「雪の積もった深さは5寸だが、横幅は分からない」。
 雪道で転んだ経験ありませんか? 若い人は無いでしょうが、”下駄”を履いてた年代の人は判ると思います。下駄の歯と歯の間に雪が詰まって、歯よりも雪の方がカチカチに大きくなって、スケート靴の様に滑ってしまうのです。歩きながら時々詰まった雪を取ってあげないと転ぶのです。

 長命寺は、弁財天を本尊に祀っています。天台宗延暦寺の末寺といわれ、いつ建設されたかは不明ですが、古くは宝寿山・長命寺という名前だったと伝えられています。この名の由来は、三代将軍徳川家光が鷹狩にて急病になり、近くにあったこの寺の井戸の水で薬を服用したらすぐに治癒したことからと伝えられています。
 裏に長命寺桜餅・山本や(墨田区向島5丁目1−14。右写真)が有ります。人の出入りはこちらの方が勝っています。

 ここで乞食が飲んでる”したみ酒”とは、枡(ます)などからしたたって、たまった酒。昔、樽酒から量り売りをしていたとき、呑口(酒の取出し口)や枡から垂れてこぼれた酒を集めたもの。

原話
 「小蔵(小僧)よ。庭の雪はどれほど積もりしぞ。物差しでな、指してこい」。小蔵、口小言を言い言い指して来る。「どふだ、知れたか」、「アイ、深さは一尺と五寸、幅は知れませぬ」。
 「おとしばなし菊寿盃(きくじゅのさかずき)」より”雪”。天明元年(1781)刊。 北尾政美画。
2012.10.追記
 マクラで使われている小咄の出典がここです。

お菰さんが飲んでいる酒で、『植半、八百松の燗冷ましの酒』とありますが、植半とか八百松というのは料理屋の名前ですか」と読者からの質問に。

「八百松」のことが話題になっていましたが、私は、その八百松の子孫です。八百松は江戸以来の料亭で、隅田川に面した2店がありました。枕橋の八百松(隅田川と北十間川の両方に面した角。浅草の対岸)、水神の八百松(現在の隅田川神社のところ。枕橋より上流)です。
「和歌三神」はじめ、さまざまな落語だけでなく、歌舞伎、明治期の錦絵、絵葉書等にも登場します。小説も『金色夜叉』、司馬遼太郎『竜馬がゆく』や永井荷風ほか多数。各種歴史的事件、小唄等にも登場します。
 酒との関係で言えば……水戸藩は藩主徳川斉昭が幕末の政争で謹慎処分となりましたが、そのとき、重臣の藤田東湖(西郷隆盛に豪傑と畏怖された)も水戸藩の江戸下屋敷の一角に蟄居を命じられ、唯一の楽しみは浅草の四方酒店から取り寄せる酒『隅田川』を呑むことだったそうですが、その下屋敷の跡地に、明治維新直後にできたのが、枕橋の八百松です。
 銘酒『隅田川』を東湖は漢語風に『墨水春』と名付けて詩に詠み込んでいたそうです。

ハンドルネーム
八百松さんからの解答です。 (03.12月追記)

写真;枕橋の八百松楼。現在はありません。 風俗画報臨時増刊「新選東京名所図絵」第61編明治41年12月20日発行、睦書房刊行。墨田区みどり図書館所蔵。
写真をクリックすると大きな写真になります。

 右図;絵図右側の料亭は屋号を「植半」といい、植木屋から始まったのでこの屋号があります。魚や蜆(シジミ)料理が有名で、当時は大いに繁盛した。広重「名所江戸百景」より木母寺境内の植半。
版画をクリックすると大きな写真になります。

 

2.待乳山聖天・本龍院(まつちやま・しょうでん、台東区浅草7−4−1)
 
ここも雪見の名所とされていました。隅田公園から見ると対岸の山谷堀の河口にある小高い山(海抜9.5m、千坪弱の丼を伏せた様な丘陵)が待乳山です。今は山谷堀も埋め立てられて河口の跡に水門が建っているだけです。しかし、聖天は昔ながらの面影を残しています。ここは大根を納めるのでも有名です。願掛けに大根をお供えして厄よけ夫婦円満を祈願します。

 三囲神社から見た隅田川越しの聖天の森。中央赤茶けた木の向こうに待乳山聖天の
赤い屋根がかろうじて見えます。その右、吉原に通う山谷堀が埋め立てられて、水門が見
えます(隅田川水面に四角い黒い口が開いています)。隅田川にはカヌーで川下りを楽しむ
グループ が見えます。下の広重・浮世絵と対比しています。角度をずらすとよく見えます。

 

3.和歌三題
吹くからに 秋のくさやはさむしろの 肘を枕に 我は安秀」、犬の糞掃除屋”糞屋の安秀”
本歌(もとうた) 「ふくからに秋の草木のしをるればむべ山風を嵐といふらむ」”文屋康秀”(ふんやの やすひで、
百人一首より)

ほのぼのと あかしかねたる 冬の夜に ちぢみちぢみて 人丸く寝る」、垣根の下で丸くなって寝ている”垣根の 本の人丸”
本歌 「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船をしぞおもふ」”柿本人麻呂”(古今集巻九・き旅歌より)

千早ふる 神や仏に見離され かかる姿にわれは業平」、なりんぼうの平吉で”なりひら”
本歌 「ちはやぶる神代もきかず竜田川からくれないに水くゝるとは」”在原業平”(百人一首より)
落語「千早振る」に迷解説があります。


 ■文屋康秀(ふんやの やすひで) 平安前期の歌人で六歌仙の一人。清和・陽成両天皇に歴仕。是貞親王家歌合の作者。その歌は古今集・後撰集にあります。

 ■在原業平(ありわらの なりひら) 平安初期の歌人で六歌仙・三十六歌仙の一人。阿保親王の第5子。世に在五中将・在中将という。「伊勢物語」の主人公と混同され、伝説化して、容姿端麗、放縦不羈、情熱的な和歌の名手、色好みの典型的美男とされ、能楽や歌舞伎・浄瑠璃の題材ともなった。(825〜880)。

 なりんぼう」は、癩坊。癩病(らいびょう)、俗に、ハンセン病の人。

 火事喧嘩、伊勢屋稲荷に犬の糞』と江戸では言われた様に犬の糞は多かった。しかし、犬の糞掃除屋なんて、そんな仕事があったのでしょうか。あったとしたら、掃除をして綺麗にするのが目的であったのか、それとも糞を何かに利用したのでしょうか。

 

4.和歌三神
 以下広辞苑から引くと、
■和歌・倭歌(わか)

 イ.漢詩に対して、上代から日本に行われた定型の歌。長歌・短歌・旋頭歌(セドウカ)・片歌などの総称。狭義には31音を定型とする短歌。奈良時代には「倭歌」と書き、また「倭詩」といった。うた。やまとうた。みそひともじ。
 ロ.和する歌。かえしうた。奈良時代に「和歌」と書くのはすべてこの意。

■和歌三神(わか‐さんしん)
 歌道を守護する三柱の神。流派により組み合わせがいろいろあって異なるが、柿本人麻呂・山部赤人・衣通姫(ソトオリヒメ)や、住吉神・玉津島神・人麻呂など。または住吉神・玉津島神・天満天神(菅原道真)。それから住吉神の三神をいう事もある。

 柿本人麻呂(かきのもと‐の‐ひとまろ)
  万葉歌人。三十六歌仙の一。天武・持統・文武朝に仕え、六位以下で舎人として出仕、石見国の役人にもなり讃岐国などへも往復、旅先(石見国か)で没。序詞・枕詞・押韻などを駆使、想・詞豊かに、長歌を中心とする沈痛・荘重、格調高い作風において集中第一の抒情歌人。後世、山部赤人とともに歌聖と称された。「人丸」と書いて「ひとまる」ともいう。生没年未詳。
 「足引の山鳥の尾のしだり尾のながながし夜を獨かも寝ん」(百人一首より)

 山部赤人(やまべ‐の‐あかひと)
奈良初期の万葉歌人。三十六歌仙の一。古来、柿本人麻呂とともに歌聖と称。下級官吏として宮廷に仕えていたらしく、行幸供奉の作が多い。優美・清澄な自然を詠んだ代表的自然詩人。「田児の浦ゆ」の歌は有名。作歌年次736年(天平8)まで。後世、「山辺赤人」とも書く。
 「田子の浦にうち出てみれば白妙の富士のたかねに雪はふりつゝ」(百人一首より)

 衣通姫 (そとおり‐ひめ、そとおしひめ)
(美しい肌の色が衣を通して照り輝いたという) 日本書紀で允恭天皇の妃、弟姫(オトヒメ)のこと。姉の皇后忍坂大中姫(オシサカノオオナカツヒメ)の嫉みを受け、河内国茅渟(チヌ)に身を隠した。後世、和歌の浦の玉津島神社に祀る。和歌三神の一。古事記では天皇の女(ムスメ)の名とする。
 美人で名が通っていたので、今でも桜、ラン、薔薇などにその名を残しています。
 
「わが夫子(せこ)が来べき宵なり 小竹(ささ)が根の蜘蛛の行ひ 今宵しるしも」
 (蜘蛛が巣をつくっているように、あの方もここへ愛の巣を営みにくるはず)
「常
(とこ)しえに 君に遇えやも いなさとり 海の浜藻の寄る時々を」

 
住吉神(すみのえ‐の‐かみ、すみよしのかみ、又は墨江神)
大阪の住吉(スミヨシ)神社の祭神である表筒男命(ウワヅツノオノミコト)・中筒男命(ナカヅツノオノミコト)・底筒男命(ソコヅツノオノミコト)の三神。伊弉諾尊(イザナキノミコト)が筑紫の檍原(アハキハラ)で、禊(ミソギ)をした時に生れたという。航海の神、また和歌の神とされる。

 玉津島神(たまつしま‐の‐かみ)
和歌山市和歌の浦にある玉津島神社の祭神(衣通姫が祀られている)。

■和歌四天王(わか‐してんのう)
和歌の上手四人。
1. 南北朝時代の、頓阿・慶運・浄弁・兼好。
   
頓阿(とんあ、とんな)
鎌倉・南北朝時代の歌僧。俗名、二階堂貞宗。京都の人。出家後、二条家の嫡流藤原為世に師事、二条家歌学を再興。為世門の四天王の一。晩年、西行の旧地双林寺に草庵を結んだ。歌風は典雅端正。二条良基の師範。二条為明のあとを継いで新拾遺集を完成。著「愚問賢注」「井蛙抄」、家集「草庵集」など。(1289〜1372)
   
慶運(けいうん、きょううん)
南北朝時代の歌僧。法印。祇園目代3度に及ぶ。父の浄弁および頓阿・兼好とともに二条為世門の四天王。作「慶運法師百首」「慶運法印集」。1369年(応安2)70歳頃まで存命。
   
浄弁(じょうべん)
南北朝時代の歌僧。慶運ケイウンの父。京都の人。法印。二条為世門四天王の最年長。今日残る歌は少ないが、深い幽玄味のあるのが特色。蘆の葉の浄弁。88、9歳位まで生存。生没年未詳。
   
兼好(けんこう)
鎌倉末期の歌人。俗名、卜部兼好(ウラベノカネヨシ)。先祖が京都吉田神社の社家であったから、後世、吉田兼好ともいう。初め堀川家の家司、のち後二条天皇に仕えて左兵衛佐に至る。天皇崩後、出家・遁世。歌道に志して二条為世の門に入り、その四天王の一とされた。「徒然草」のほか自撰家集がある。(1283 〜1352)

2. 江戸時代に京都に住んだ、澄月・慈延・小沢蘆庵・伴蒿蹊。
   
澄月(ちょうげつ)
江戸中期の歌僧。垂雲軒・酔夢庵と号す。備中玉島の人。京都岡崎に住む。二条派の和歌を学び、平安の和歌四天王の一人。著「澄月法師千首」「垂雲和歌集」など。(1714〜1798)
   
慈延(慈円、じえん)
平安末期〜鎌倉初期の僧。藤原忠通の子。前後4度、天台座主。天王寺別当。勅諡号は慈鎮。和歌にすぐれ、即吟、修辞の練達、表出の流麗が特色。家集「拾玉集」のほか、独特の歴史観を示した史論「愚管抄」がある。(1155〜1225)
   
小沢蘆庵(おざわ‐ろあん)
江戸中期の歌人・歌学者。名は玄仲(ハルナカ)、別号観荷堂。難波生れ。京都に住み、冷泉為村に学ぶ。思いのままを自由な言葉で表現する「ただこと歌」を提唱。平安の和歌四天王の一。歌論「ちりひぢ」、家集「六帖詠草」など。(1723〜1801)
   
伴蒿蹊 (ばん‐こうけい)
江戸後期の国学者・歌人。閑田子と号、剃髪して蒿蹊。京都生れ。古学を修めて一家をなし、和歌に長じ平安四天王の一。著「国文(クニツフミ)世々の跡」「閑田耕筆」「近世畸人伝」など。(1733〜1806)
 


 

  舞台の隅田公園を歩く
 

  雪々と思いながら下原稿を書いていましたが、毎日晴天が続き降れば雨、快晴の暖かな日が続いています。舞台の雪景色は写真に撮れませんでしたが、取材には格好な日和です。

  三囲神社には 白狐の故事が有りますが、境内の奥に老夫婦の石像が祀られています。そのお婆さんが呼ぶと、どこからともなく白狐が現れ近くに来てまた姿を消すというのです。他の誰が呼んでも現れないのに、お婆さんが呼ぶと必ず現れるのです。と言う事で、お地蔵さんの様なこの老夫婦の石像が建っています。
 また、雪の舞台にふさわしい句碑、「広重の雪に山谷は暮れがかり」もあります。 隅田川堤に通り抜ける事は出来ませんが隅田川堤に出るための小径に素敵な石の鳥居が建っています。土手より低い位置に建っていますから、上部だけが土手から見えます。浮世絵にも描かれていると説明されています。その鳥居を背に隅田川を見渡すと広重の浮世絵「雪景色の聖天の森」と同じです。ただ、周りにビルが建ち並び聖天の森が谷底のようです。ビルや手前の公園の立木を除いて見直すと往時の情感がよみがえります。

 数十m先の人道橋”桜橋”を渡ると対岸の隅田公園。山谷堀は埋め立てられて公園のグラウンドになってしまいましたが、その下の下水管の出口には水門があります。そこから目線を移動させると通りの向こうに細長い公園になった山谷堀跡が見て取れます。その山谷堀の左側(南側)の小高い丘の上にあるのが待乳山聖天です。
 ちょっと寄り道して、隅田公園の出口左側に「♪春のうららの隅田川 のぼり下りの・・・」で有名な、唱歌”花”の大きな碑が有ります。その左側に子規の 「雪の日の 隅田は青く 都鳥」の碑が建っています。通りを渡ると目の前が”待乳山聖天”です。ここから見える聖天本堂は右側面で、公園の立木がなければ三囲神社側から見える景色になります。東側にある、本堂に上がって行く急な階段が”天狗坂”で、江戸時代は木立がうっそうとして昼なお暗く、天狗が出てもおかしくなかったと言われる坂です。今は左側に回って、緩やかな参道の階段を上がり、正面から参拝する事にします。

 浅草神社は推古天皇36年(628)早朝、宮戸川(隅田川)で、檜前浜成(ひのくまはまなり)・竹成(たけなり)兄弟の漁師が漁労中網に観音像を掛けて引き上げ郷司土師中知(はじのなかとも)に見せる。土師は自宅を寺とし出家して礼拝した。後、本尊を秘仏とし 浅草寺に発展しました。その浜成・竹成・土師の三人を祀るのが、三社様と呼ばれ親しまれる浅草神社。浅草寺境内に並んであります。
  浅草神社(三社さま)の鳥居横には(よそおい)太夫歌碑が有ります。その隣に久保田万太郎の、「竹馬やいろはにほへとちりゞゝに」や、川口松太郎の、「生きるということむずかしき夜寒かな」の碑があります。 この二つの碑はひらがなが主体で読みやすく、理解しやすいのですが、粧太夫の歌碑は万葉仮名で記された、古くて漢字ばかりなので読みづらく、この碑をパスする見学者が大部分です。

 粧太夫は、吉原角町半蔵松葉屋抱えの花魁で、吉原一の美貌と才能に恵まれ、人気も一番だったと伝わっています。寛政五年(1793)に生まれ、文化三年(1806)春に十四歳で突き出された。二十七の秋文政2年(1819)27歳で浅草鳥越の糸問屋「嶋屋長右衛門」に身請けされ、女房となっています。嶋屋長右衛門は、文政七年(1824)に刊行された『江戸買物独案内』に店名が見つけられます。その後、夫長右衛門病死して家も人にゆづり、剃髪して岡田屋孝助より扶持をもらひ、出見世二軒よりも月々のものを送りもらひ、新鳥越に閑居して居た。安政三年丙辰(1856)にまだ六十四歳(数え年)であり、幼い頃から松葉屋にいて実の娘のように育てられた。没した時期は不明です。
 酒井抱一や亀田鵬斎からもその才能を見込まれていた、優れた女性であった。

 

地図

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写真

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三囲(みめぐり)神社 (墨田区向島2−5)
雨乞いの碑」 。元禄6年(1693)は大変な干ばつで雨がなかった。三囲神社に集まった近隣の氏子達が雨乞いのお祈りをしていた。たまたま、そこに芭蕉の弟子で其角(きかく 、1661〜1707)が通りかかり一句詠んだ。
遊(ゆ)うた地や田を見めぐりの神ならば
翌日、久々の雨が降った。

長命寺 (墨田区向島5−4−4)
境内の芭蕉句碑。「いざさらば 雪見に転ぶ 所まで
 芭蕉の句碑は全国に1500余りを数えるが、その中でも最も優れたものの一つと言われる。芭蕉は江戸深川六間堀に芭蕉庵を構え”さび”、”しおり”の境地を”かるみ”にまで高め、俳諧を不動なものにした。元禄7年(1694)大阪で客死したが、其角などの多くの弟子を残した。(墨田区の説明板より)
こんなにも有名な句がここに有ったとは・・・。

待乳山聖天・本龍院(まつちやま・しょうでん・ほんりゅういん、台東区浅草7−4−1)
クリックした写真は本堂正面。
 こちらをクリックすると”天狗坂”下から見た小高い丘の上の本堂です。隅田川から見るとこの様に見えます。その隅田川には”竹屋の渡し”があった。久保田万太郎の句、「天狗坂 夕木枯(こがらし)の おもいでに

広重描く「待乳山聖天・雪景之図」 
左図雪景色の聖天の森 (聖天パンフレットから)
クリックした浮世絵は広重描く「東都八景・真乳夜景」です。どちらも同じ所からの描写です。真乳山聖天の森の右側には山谷堀の河口が見えます。橋は「今戸橋」で、手前は隅田川です。左が川下で、浅草方向、山谷堀を上れば歓楽街の吉原です。 本文中の写真と見比べてください。

    

子規の句
隅田公園西側、真乳山聖天入り口近くにある碑
雪の日の 隅田は青く 都鳥」 正岡子規
隅田川の両岸にある隅田公園。どちら岸の公園で観る雪も素晴らしいのでしょう。いろいろな歌人が競って詠んでいます。それも名作揃いです。 

 

(よそおい)太夫歌碑(台東区浅草2−3、 浅草寺内・浅草神社境内鳥居脇)
「ほのぼのと明石の浦の朝霧に島かくれ行く船をしぞおもふ」を骨太の字で「保農々々登明石能浦廼朝霧迩・・・」と彫られた碑が建っています。
蕋雲(ずいうん)女史の万葉仮名で書かれた柿本人麻呂の歌で、女史は文化年間(1804−17)吉原・半松楼(半蔵松葉)の遊女で粧太夫といいました。ありあまる才能に恵まれ、特に歌、書には秀でたものがあり、蕋雲の号を贈られた程の人物です。女史は人麻呂を慕い文化13年(1816)8月献納したものです。説明板より

                                                                                                     2003年2月記

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