落語「ねずみ穴」の舞台を歩く

  
 

 六代目 三遊亭円生の噺、「ねずみ穴」によると。
 

  竹次郎が江戸の兄のところに訪ねてきた。竹次郎は遺産の大部分を茶屋酒と遊びで使い果たしてしまった。だから、兄さんのところで働かせてくれと頼んだが、それよりは自分で商売をしたらと勧められた。資金を貸してもらって中を見ると、3文しか入っていなかった。3文では何も出来ないので俵のサンダラポッチを買ってきてサシを作り、売って儲けた金で又買ってと繰り返している内に小銭が貯まるようになってきた。その上、朝から納豆売り、豆腐屋、茹で小豆売り、うどん売り、いなり寿司売り・・・、一日中よく働いた。

 2年半も経つと10両という金が出来た。信用する者が間に立ち女房をもらい女の子も生まれた。裏にいられないので、表に出て10年が経った。深川蛤町に3戸前の蔵と間口5間半も有るような店を持つ大旦那になっていた。

 番頭に3文の銭と2両の金を包ませ、風が強いので万が一の時は蔵の壁の目塗りとねずみ穴を塞ぐようにと言付けして、兄の店にやってきた。借りていた3文の元をお礼を言いながら返し、利息分として2両の包みを渡した。
 兄は元金について、「見た時は怒ったであろう。3文しか貸さなかった理由は茶屋酒がまだ染みこんでいるので、何両貸してもまず半分は酒に化けてしまうだろう。元に手を付けるようでは商人にはなれない。きつい事をすれば立派な商人になるだろうと3文しか貸さなかった」 と言う。
 その夜は兄弟仲良く話し合っていたが、夜も深まり竹次郎は帰ると言い出した。家の蔵はねずみ穴が開いているので、心配でしょうがないというので、兄は「そんな事はないが、その時はわしの全財産をやるから泊まっていけ」と言う。
 兄弟仲良く枕を列べて寝ていると半鐘が鳴っている。聞くと深川蛤町方向だという。

 急いで駆けつけたが猛火の中、蔵が黒く浮き上がっていた。一番蔵から煙が出るとたちまち崩れ落ちてしまった。ねずみ穴が原因で二番、三番と焼け落ちてしまった。焼け跡に仮普請をして商売を始めたが上手くいかない。奉公人も去って親子3人になってしまい、奥さんも心労が重なり床につくようになってしまった。
 春の仕込みもあるので、8歳になる娘のヨシを連れて兄の家に借金をしに行った。

 裏から入ると、兄は喜んで迎えてくれた。借金は50両必要だと切り出したが、今のお前の力では2両が限度だという。財産の全部をやると言ったのは酒が言わせた事で、それを真に受けるとは世間知らずだという。そんな鬼のような事を・・・と言って喧嘩になってしまった。

 娘を連れて表に出ると、ヨシは自分で20両作るという。聞くと吉原に売れば出来るという。そのお金で儲けて迎えに来てくれればいいと言う。その話を汲んで20両懐に入れて大門を出た。見返り柳を後にして歩いていくと、「気を付けろ!馬鹿野郎!」。
 男に突き当たられた。痛い思いをして我に帰ってみると、懐の20両が無くなっていた。「もうだめだ〜」、帯を解いて木にかけて、足の下の石をぽーんと蹴ると「う〜ん」。

 「竹!起きろやうるさくて寝てられない」。「ここはどこだ?」、「ここは俺の家だ」。「火事があっただろ」、「そんなものはない」。「だったら・・・」、「何をそんなにキョトキョトしてるんだ。夢でも見たのか」。泊まったまでは本当で、火事も落ちぶれたのもみんな夢だと聞かされた。
「火事の夢は逆夢と言って縁起がいい、この春は身代が燃え盛るように大きくなるぞ」、
「あまりに、ねずみ穴が心配で・・・」、
「夢は五臓(土蔵)の疲れだ」。

 


 

1.この話「ねずみ穴」
 
この噺は戦後演る噺家がいなかった。円生がこの「ねずみ穴」を再構成し、昭和28年の秋にネタおろしをした。翌29年初めて放送の電波に乗った。その功績に対し、ラジオ東京(TBS)の局長賞を受賞し、円生として記念すべき作品となった噺です。
 演芸評論家の川戸貞吉氏は「初めてこの話を聞いた時のことは、はっきりと覚えている。兄(あに)さんと喧嘩になる、子供を吉原に売る、金を取られる、首をくくって『ウーン』と唸る・・・・、トントンとテンポ良くここまで噺を運んだ後、夢だと分かる。そのところで、客席から思わず安堵のどよめきが上がったほどだったのだ。円生も滅多にやらなかったので、この噺を知っている人がそれだけ少なかったのである。」 (CD古典落語の巨匠達  「三遊亭円生」ねずみ穴 解説より)
 

2.吉原に身売り いくら若い女子だと言ってもヨシのような幼女は、まだ見世に出る事は出来ない。遊女見習いとして働き、その名を”禿(かむろ)”と言います。(ハゲとここでは読みません)禿(かむろ)は吉原のしきたり、行儀見習い、遊芸全般の手習い、太夫の付け人としてこまごまと働きます。
(右図;菱川師房作「太夫と禿図」)

 

3.深川蛤町(はまぐりちょう。江東区門前仲町南側、大横川までの一部)
 今、区内随一のにぎやかな商業地区です。門前仲町は、昭和6年、従来の黒江町・門前山本町と蛤町の一部を合併して誕生した。古くは深川永代寺門前仲町、富岡八幡宮の別当・永代寺の門前町屋として発展した所です。(注;別当=神仏習合説に基づいて神社に設けられた神宮寺のひとつ
 近くに、蛤町の家で没した間宮林蔵の墓(江東区平野2−7−7)が有ります。また、山本一力著  直木賞受賞作 「あかね空」 の舞台はここ門前仲町です。 
  富岡八幡宮、一の鳥居付近には、かつて紀伊国屋文左衛門隠居後の住居があった。また、奈良屋茂左衛門も近くに豪邸を持っていた。伊能忠敬も近くの黒江町に住み、ここを原点として日本全国の測量を行なった。
 17世紀中ごろから深川八幡宮の周辺には、花街が形成された。吉原の豪華絢爛に対し深川は気風と粋を重んじる「羽織芸者」としてもてはやされた。富裕な木場商人を抱えていたこともあり花街は繁盛したのに加え、釣りや磯遊びにきた町人の遊興地としても門前仲町は栄えた。

■深川八幡(富岡八幡宮。江東区富岡1-20-3 );菅原道真の子孫の京都の長盛上人が、霊夢のお告げにより、寛永4年(1627)永代島周辺の砂州一帯を埋め立て、社地と氏子の居住地を造り、応神天皇を御祭神として八幡宮およびその別当・永代寺を建立した。
 深川一帯は、明暦の大火のあと埋め立てが進み、市街地として繁栄した。
 門前仲町はこの永代寺の門前に町屋が形成されたことに由来する。深川不動は、成田山新勝寺が永代寺へ出開帳したことに始まるが、不動堂を建設したのは明治14年のことで、その建物の歴史は比較的最近の事です。
 深川八幡祭りは江戸三大祭り(別説有り)の一つと言われ、水掛祭りとしても有名です。次回本祭りは来年の2005年8月中旬。また、江戸の相撲興行が開かれた場所でもあり、相撲関連の碑がたくさん残っています。特に横綱力士碑は有名です。 伊能忠敬の碑もここにあります。

■深川不動堂成田不動尊江東区富岡1-17-13);大本山成田山新勝寺の別院。
 江戸時代、中でも元禄年間は江戸市民を中心として不動尊信仰が急激に広まっていった。江戸町人を中心に成田山のご本尊、不動明王を江戸で参拝したい、という気運が高まって、ついに元禄16年(1703)4月にはじめて江戸でのご本尊の出張開帳(江戸出開帳)が行なわれた。当時は犬公方と知られる五代将軍綱吉の世で、その母桂昌院が成田山の不動明王を江戸で参拝したいと言い出して、それが実現したという説もある。2ヶ月にわたるご開帳は、江戸市民に大きな人気を博したが、この開帳の場所が深川永代寺境内で現在の深川不動堂付近であり、これが深川不動堂の起りです。何回かの江戸出開帳の末、明治2年に現在の地に「深川不動堂」の正式名称が認められ、14年には本堂が完成し、現在地に定住した。

 ここには四国八十八ヶ所霊場があります。巡礼としてあまりにも有名な「四国霊場」。室内には各霊場より奉持した「お砂」を納め、1番〜88番・高野山奥の院までの霊場巡りを身近に行えます。

■永代寺;一説によると永代橋の名の由来がこの寺です。明治に入って神仏分離令によって、永代寺は廃寺になり境内は深川公園という庭園になった。現在深川不動堂を含む区立の深川公園がその跡です。 当然今は庭園はありませんし、公園はごく普通の児童公園のような状態です。
 明治29年3月子院のひとつ吉祥院を永代寺と改称して現在の地(江東区富岡1−15)に座しています。


4.俵
 
最近はとんと見かけなくなりましたが、穀類・芋類・食塩・石炭・木炭などを入れるのに用いる、わらなどで編んで造った袋。米俵は60kgあって今では持てない重さになってしまいました。スーパーでは10kg入り、5kg入りで売られるくらいですから。省力化で、コンバインで刈り取られるため、わらが激減していますから、俵も実用性より装飾的に使われるのが現実です。

■サンダラポッチさんだら‐ぼっち【桟俵法師】(「さんだらぼうし」とも) 桟俵(サンダワラ)に同じ。
さんだわら【桟俵】;米俵の両端にあてる、円いわら製のふた。さんだらぼうし。さんだらぼっち。内俵。
(広辞苑)

左写真;米俵。サイドの部分に蓋のように取り付けられているのが、さんだらぼっち。08年11月追記。

■サシ;さしとおすものから、 1.(「釵子」とも書く) かんざし。 2.(「刺」「指」とも書く) 米刺(コメサシ)。 3.(「緡」とも書く) 銭差(ゼニサシ)。(広辞苑) ここでは穴あき銭を通してまとめておく紐のこと。通常100文を一本にさしたところから転じて、「百文」のこと。江戸時代の言葉に「一貫文」などというのも出てきますが、これは緡に一文銭を千枚通したものです。ばらさずこのまま集計したり、使われました。商家には無くてはならない小物だったのです。小判などでも「包み金」といわれ、和紙でひとまとめに包んで封をしたものが、大口決済手段として利用されていました。金貨は小判五十両包みが一般的でした。
 落語「火焔太鼓」で、太鼓が売れて小判を受け取るシーンで、「50両、ほら100両、150両・・・」と確認しながら渡しているのは、バラバラになった小判ではなく、包み金50両の束だったのです。 「水を飲んだり、座りションベンをしないように」(志ん生話)渡していたのです。柱につかまりながら聞いてください。
 

5.蔵のねずみ穴 鼠のかじってあけた穴。 こんな穴は普段から塞いでおけよ、と言いたくなりますよね。全財産どころか命まで無くすぐらい大事な事なんですから。船の底に開いた穴なら直ぐに塞ぐのにね。

■目塗り;特に、火災などの時、土蔵の戸前を塗りふさぐこと。

■戸前(とまえ)
 
1.蔵の入口の戸の前。蔵前。
 2.土蔵の引戸の前に設ける観音開きのとびら。
 3.転じて、土蔵を数えるのにいう語。
(広辞苑)

 


 

  舞台の深川蛤町を歩く
 

  アニさんは夢の中に出てきたように、本当は”鬼のような人”なのかも知れません。お金がある時は肩を組んで一緒に歩きますが、金がなくなると、「金の切れ目が縁の切れ目」と冷酷に切り捨てる人なのかも知れません。本当は心で泣いて、鬼のように振る舞っていたのか、真実は分かりません。

 そんな、竹次郎が成功し蔵まで建てた所が、ここ蛤町。現在町名が変わって、門前仲町。下町深川の中心地です。神社仏閣と遊郭とは切っても切れない関係でした。根津神社と根津の遊郭。浅草寺と吉原。お祖師様の妙法寺と新宿の遊郭。お宮参りと言ってはお籠もりをしてくる善男(?)がどれだけいた事か。ここも八幡様とそれを取り巻くように深川の色街が形成されていました。共存共栄の関係にあり、共に栄えたのです。

 その影響を色濃く残した町のたたずまいが見えます。赤じょうちんの小さな店構え、細い路地裏の飲屋街、下町の肩肘張らずに楽しめる町になっています。
 八幡様は平日でも大勢の参拝客を集めています。相撲に関する碑が多いのでも有名です。3年に一度の大祭は表通りが御輿で埋まるほどの賑わいと人出です。

 

地図

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写真

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門前仲町の火の見櫓 (黒船橋脇)
黒船橋(江東区門前仲町と牡丹1とを結ぶ十間川に架かる橋) 脇にある、火の見櫓。高さ三丈(約9m)程の櫓で、上部に半鐘が取り付けられていた。元は富岡八幡宮の鳥居近くにあったものを復元したものです。深川には佐賀町下の橋(佐賀二)、富吉町(永代一)にもあった。

蛤町裏道(門前仲町の一部)
黒船橋際の元蛤町です。細い路地と当時を彷彿させる飲食店街が今に息づいています。
 

門前仲町(江東区門前仲町)
門前仲町交差点から深川八幡宮方向を望んでいます。八幡様も成田不動もこの道の直ぐ左側にありますが、写真では分かりません。

深川八幡(富岡八幡、江東区富岡1)
竹次郎が店を持った時には既にここに鎮座していました。歴史も古く深川祭りは山王祭り、神田祭りと列んで江戸三大祭りと言われるほどの賑わいです。
深川祭りについては落語「永代橋」に詳しくあります。

深川成田不動(江東区富岡1)
ご開帳が元でこの地に根付いたのに、ここから見てもご本尊が拝めない。

(江東区富岡1)
深川蛤町に3戸前の蔵と間口5間半も有るような店を持つ大旦那になっていた。」と言われる蔵と木造の家屋がありました。蔵は八幡様の収蔵庫、木造家屋は民家ですが、噺の舞台を彷彿させます。

                                                                                                              2004年2月記

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